【中学生編】拝啓、何者にもなれなかった僕へ
「――続いて、新入生代表。不和楓汰さん。挨拶をお願いします」
「はい」
壇上に上って行く生徒のその姿に、周囲の視線が一瞬にして集まった。前の席に座っている僕と同じ新入生の背丈が高く良く見えなかったが、階段を上りきった代表の生徒を見て、僕は目を見開いた。
あの子は、桜の彼ではないか!
新入生代表だったのか。それなら、親御さんが居なかったのも理解できた。原稿を読む練習をする為に早く来ていたのだろう。
「あたたかな春のおとずれと共に、僕たちは聡明中学校の入学式をむかえることができました。咲きほこる桜の花々は―――」
優しく語りかけるような、心地よさを感じる彼の挨拶に、皆が口を閉ざして聞き入っている。彼の柔らかさを含んだ声は、その場にいた者すべての心を惹きつけた。
一種の才能だ。他者の関心を得るには苦労する。
―――あ。
ふと、視線を上げた彼と視線が絡み合う。
思わず僕は席を立ちそうになり、咳払いをして誤魔化す。
彼が言葉を止めたのはその一瞬のことで、すぐに何事もない様子で言葉を繋ぎ出した。
「――これから三年間、よろしくおねがいします」
新入生代表、不和 楓汰。
最後の名前までしっかりと聞き、羞恥で気がどうにかなりそうだったが、彼へ盛大な拍手を送った。
無事入学式を終えた後、己のクラスを確認するのと同時に配布するプリントがあるので、一旦紙に張り出された自分の教室へ向かうことになった。
だがその前に、休憩する時間が三十分設けられた。正直に言うと、ありがたい。
僕はその場所から立ち上がると、体育館から出て人が居なさそうなトイレへ向かう。便意を催してはいないが、一度顔を洗ってすっきりしたかった。
「ふう」
冷水が熱を持った顔を冷却してくれる。
顎まで滴り落ちてきた雫をハンカチで拭うと、眼鏡を掛け直す。
あの時、彼と目が合ったのは気のせいだったのだろうか。それにしては、彼は気にした様子もなかったし。
「……一度、このことは忘れよう」
遅れてしまう前に教室に行かなければ。そう思いトイレから出て、教室に繋がる階段へ向かう途中、廊下の窓の前にそんな彼はいた。
蜂蜜色、だろうか。緩やかな髪が、窓から入り込んだ桜と共に風になびく姿はまるで、一枚の絵画のように綺麗だ。
「君、こんなところでどうしたんだ?」
気付けば僕は、彼に声を掛けていた。
桜の木から視線を逸らし、彼はゆっくりと振り返る。少し長めの前髪から覗く藤色の瞳が僕の姿を捉え、控え目に微笑んだ。
「迷子になってしまいました」
「道に迷ったのか」
通りで教室から程遠い場所に彼がいた訳だ。僕が確認するように口に出すと、彼はもう一度窓の外を見る。
宙を舞う桜の花弁を眺める姿に、喪失感と似た何かを僕は抱いた。
「君、――いや、不和君。僕が案内するよ。教室はどこだ?」
「一年一組です」
なんだ、僕と同じじゃないか。
断りも無く、僕は不和君の腕を掴んで教室に向かう。不和君はされるがままに腕を引かれて、歩き出す。
彼を放っておいてはいけない。そんな気がした。