【中学生編】拝啓、何者にもなれなかった僕へ
楓汰君、プールに行こう!
――ぷーるですか
ああ!プールだ!
――はい、いいですよ
「…早く着きすぎたな」
夏祭りから数日が経った日、さっそく僕は楓汰君をプールへ誘った。
待ち合わせ場所の公園で、楓汰君とのやり取りをひとり眺める。昨晩に送ったメッセージから、集合時間の昼になるまで時間の経過がこんなに早いと感じたのは久しぶりだ。
彼と会うのが楽しみで、十五分も早く着いてしまった。
楽しみで夜に眠れぬ子供のように、楓汰君と遊びに行けるのが楽しみで、僕は待ちきれず家を飛び出した。我ながら子供じみている。額に浮かぶ汗を拭い、スマホの電源を切る。
まだまだ、夏の暑さは終わらない。少し太陽の下で座っているだけでこのありさまだ。ぱたぱたと、服の裾を扇ぎコンビニで涼んでいようか。
そんなことを思いながら、ベンチから立とうとしたら真上から声がした。
「天哉くん」
声のした方を見上げると、楓汰君は僕の顔を覗きこむようにして笑っていた。いつもと違い、少し長い前髪は上に結われ、隠されていた太めの眉が覗く。
夏祭りの時にも思ったが、毎日目にする制服と違った格好をした楓汰君の姿は新鮮だった。薄手のパーカーにTシャツ、サンダルを履いたシンプルな服装なのに、不思議とおしゃれに見えた。
「たのしみで、はやく来ちゃいました」
「ああ、僕もだ」
待ち合わせ場所の公園から、この時期に開放されている市民プールまでの距離は割と近い。夏休み真っ最中ということで、僕達と同じ目的地へ向かう親子連れや、子供達の後を追いながら、プールの更衣室に入る。
汗でぴったりと肌にくっついて、脱ぎにくい衣服を脱ぎ、バッグから取り出した競泳水着を履く。
「楓汰君、着替えおわ――」
水着に着替え終わり、後ろの方で着替えている楓汰君へ声を掛けるが、返事が無く、心配になった僕は振り向く。夏の熱い日差しに頭がやられたのか、顔に熱が溜まり、僕は勢いよく顔を元の位置に戻す。
見てはいけないものを見てしまった。そんな気持ちだった。
さっきまで前髪を結んでいた髪ゴムを、口にくわえ、首元まで伸びた蜂蜜色の髪を後ろ手に纏めていた。男子にしては珍しい白い肌。華奢だと思っていた身体にはうっすらと腹筋がついていて、髪から覗くうなじに僕は喉に溜まった生唾をごくりと呑みこむ。
「…?天哉くん、いきましょう」
「え、あ…ああ!」
ぐるぐると湧き上がる羞恥心に嫌悪していると声を掛けられ、ハッとして振り返るが、本人はきょとんとしている。先程とは違い、楓汰君は白い肌を隠すようにラッシュパーカーを着ていた。内心勿体ない気もするが、安堵の気持ちの方が大きい。
楓汰君の真っ白い肌を誰にも見せたくなかった。何よりも、思春期の男子には些か刺激が強かった。
どちらかと言えば、楓汰君の身長は一般的な男子中学生よりも大きい。がっしりとしているわけではないし、うすっぺらいわけでもない。それでも、見惚れてしまう身体つきをしていた。
その曖昧なアンバランスさが、返って危うさを引き立てている。
顔だってぱっちりした二重で、幼さは残るものの美人と評される顔立ちだ。愛想はあまり無いが、 誰彼構わず振りまく笑顔よりも、秘められている方が魅力的だ。なによりあの紫紺の瞳。前髪で少し隠れるのがもったいない。
プールの中に足を付け、とぷんと流水の中に身体を浸る。楓汰君は仰向けに倒れ、ぷかぷかと海月のように水面を漂っていた。その隣で僕は手を遠く前に置き、大きく水を漕ぐ。その作業を繰り返し、ただ前へ前へ泳いでいく。
水飛沫が飛び、楓汰君の頬に付いた滴は陽光を乱反射させ、硝子玉のように輝いていた。楓汰君の周りは重力が無いのだろうか。軽い衝撃を受けても、沈む様子は無い。寧ろ、気持ち良さそうに瞼を瞑って、揺らぐ水面に身を委ねている。
その様子を僕は、海を眺めるように横目に見つめていた。
自分からは声をかけない。
かけたくない。話しかけてしまえば、そのまま楓汰君が沈んで消えてしまうような気がした。
「どうしたんですか、そんなに見つめて」
「え、あ…いや、楓汰君が海月みたいだなと思って」
「ふふ。おかしなことを言いますね。手もあしも、ちゃんとついてますよ」
ほら、と楓汰君は空に向かって手を伸ばして笑う。
手からこぼれ落ちていく水に目を奪われ、楓汰君の動作すべてが目に焼き付けて離れない。くるりとその場で回転し、水面の中に潜った最後の足先が、ぽちゃんと音を立てて姿を消す。
本来なら気泡が浮いてくるはずなのに、見えない様子に焦り、慌てて顔を水面に付ける。
楓汰君はそんな僕を待っていたかのように、口元を綻ばせた。
「久し振りにこんなに泳いだ」
「あしたは、筋肉つうですね」
夕日に照らされ、オレンジ色に染まる地面を眺めながら、無邪気に楓汰君は微笑んだ。プールから家に帰る足取りはいつもよりもさらに遅かったが、楓汰君はそれに合わせてくれた。少し薄暗くなった道路を歩く二人の足音が、夏蝉の鳴き声にに静かに溶け込んでいく。
家に帰るのが惜しい。まだ、もう少しだけ、遊んでいたい。
「あ、あの楓汰君」
「はい」
「少し、寄り道をしないか」
空はもう日が沈み出している。それなのに僕は、楓汰君を夜遅くまで連れ歩こうとしていた。ヒーローを目指しているのに、いけないことだと分かっていながら僕は。ひたりと足を止めると、楓汰君は僕を見上げる。
「天哉くんは、わるい子ですね」
その声はどこか嬉しそうで、子供のようにあどけなく笑う。
「いいですよ、どこまでも」
君の気が済むまで。
僕はしばらく彼の横顔を見つめ、一瞬面喰らったような顔にすぐに笑顔を浮かべ、ありがとう、と告げる。楓汰君の瞳孔がほんの少しだけ見開いたのを、僕は見逃さなかった。その反応が意味するのは、寂しさからか、悲しさまでかは考えられなかったが、今はそれでいい。
近くのコンビニで二つに分かれるアイスを買い、公園のベンチに座って半分に割って口にくわえる。もう一つを楓汰君に渡し、くわえた瞬間、口の中に甘い風味が広がった。
アイスが楓汰君の口に含まれたと気付いたのと同時に、首筋にひんやりとした感触が広がる。
「おなじこと、考えていました」
「――ふ、はは」
楓汰君の手元に握られているのは、僕が買ったアイスと同じだった。
なんだ。これじゃあ、最初から二つで一つのアイスじゃないか。ぼうっと惚けている楓汰君を尻目に僕は、二つ目のアイスをありがたく受け取った。
暑さで溶け、楓汰君の手首を伝うアイスをじっと見つめる。
その白い腕に手を伸ばしかけて、思い止まる。この手で手折ってしまえれば、どれだけいいのだろう。
生まれてしまった、この心の憂いは一生晴れることは無い。薄い瞼を瞑り、永遠に呼吸が止まるまで。ぽた、ぽたと地面に落ち、黒い影を作る染みに視線を落とす。いつか、その日まで。もう少しこのままでいよう。
もうすぐ、夏が明ける。
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