【中学生編】拝啓、何者にもなれなかった僕へ



「楓汰君、遠慮せずにたくさん食べてね」


 紙皿を両手で受け取って、おそるおそる皿の中身を眺める楓汰君を見て、母さんは「嫌いな食べ物があったらごめんなさいね」と声をかける。すぐに楓汰君は首を横に振って、唐揚げを箸でつまんで口の中に頬張った。
 もぐもぐと口を動かして、ごくり、と喉元が上下する。途端、紫紺の双眸がきらきらと輝いているのを見て、母さんと顔を見合わせて二人揃って笑った。

 楓汰君をお昼に誘ってよかった。

 運動会もお昼に差し掛かり、昼休憩に入った。殆どの生徒は保護者席に居る保護者の元へ行き、弁当を食べる。僕も母さんの元へ行こうとして、ぽつんと椅子に座ったままの楓汰君を見て動きを止める。
 時折、居るのだ。どうしてもご両親の都合が合わず、観客席で一人弁当を食べる生徒が。僕が小学校に通っていた間にも、何人かいた。そのたびに、僕は目を逸らしていた。

 今回は、気付けば動いていた。どうしても、入学式の時を思い出す。


「それにしても残念ね。天哉にこんなに素敵なお友達ができただなんて!天晴にも紹介したかったわ」

 空になった楓汰君の皿の上におかずを乗せながら、母さんが笑う。おにぎりを食べながら、僕も頷く。入学式の前、一人で佇む楓汰君を見掛けて、それを兄さんに伝えようとする前に、それが出来ずに終わって。
 今度は、僕の友人として、胸を張って楓汰君を兄さんに紹介したかった。
 残念なことに、ヒーロー活動で忙しい兄さんは今日これなかったが。まあ、チャンスがこれだけなわけではない。今回は残念だった。それだけだ。

「楓汰君、よかったらこれも食べてね」

 母さんが容器の蓋を開けると、ふわりと甘い匂いが漂う。中身は一口サイズのスイカだ。遠慮気味の楓汰君を見て、先に僕が食べると、続くようにひとくち食べて、ぽつり「お、いしい」と呟いた。別に僕が作ったわけでも、切り分けたわけでもないのに、美味しそうに食べる顔を見て嬉しくなる。


「そういえば!見てたよ、借り物競争!楓汰君、速かったね。一番でゴールしててかっこよかったね」
「…ぇ」

 それは、耳を澄まさないと聞き逃してしまいそうな、そんな声だった。少し遅れて、ありがとうございます、と楓汰君は俯き気味に御礼を口にする。俯いて表情は見えないが、髪の間からわずかに見える耳は真っ赤に染まっていた。

 母さんの言う通り、楓汰君はかっこよかった。
 楓汰君が白組の観客席に向かっていると思えば、気付けば僕の前に立っていて。呆然と口を開けていると、――僕についてきて。そう、楓汰君は口にして、白く綺麗な手で僕の腕を掴んだ。瞬きをして見えるのは、楓汰君の背中に隠れるように滲む太陽。
 降り注ぐような光を背中から浴びる楓汰君は、まるで窮地に訪れ、手を差し伸ばすヒーローのように見えた。

「そうだろう!」
「なんで貴方が言うの」
「あっ、いや」
「まあ、分かるよ。その気持ち」

 母さんと言いあっていると、ふっ、と吹き出す声が聞こえて、顔をそちらに向ける。楓汰君が、控え目に笑っていた。箸を止めてまじまじと見ていると、軽く後頭部に衝撃が走る。

「失礼よ」
「いや、僕は、ただ…」
「それでも」
「…うん」

 そんなやり取りも彼にとっては面白かったようで、今度は薄っすら目尻に涙を浮かべて笑っている。僕はまた、母さんと顔を見合わせる。それが何だかおかしくて、一緒になって笑った。
 友達と、こんなふうにするのは初めてだった。正直、小学生の頃の僕は友達と呼べる友がいなかった。僕の性格もあるだろうが、昔から僕は兄さんの背中を真っ直ぐ追い掛けていた。学校が終われば一直線に家に帰って兄さんと一緒に居たかったし、兄さんの話を聞くのが好きだった。

 そんな毎日を繰り返して居れば、おのずと仲間の輪から外れるし外される。兄さんが居るなら、僕はそれでも良かった。まあ、それは僕が高学年に上がる頃までの話だが。


「なあ、楓汰君。御家族は今日も来れないのか。その、実は入学式前にも君を見掛けたが――」
「来ませんよ」
「――え?」
「"来れない"じゃなくて、"来ない"んですよ」

 箸を握る指に力が入る。母さんが、心配そうに楓汰君を見ているのがわかる。一体、どういう意味だ。世の中、色々な家庭があるのは重々承知している。楓汰君の言い方では、これではまるで、自分の子供に無関心すぎる。よくよく考えれば、思い当たる節はいくつかあった。

「それは、」
「天哉くん」

 だいじょうぶですよ、と楓汰君は微かに微笑む。僕が何を言おうとしたのか分かったような遮り方だった。それは明らかな拒絶で、僕は口を噤むことを選んだ。思えば、僕のこの選択は間違いだったかもしれない。


『――次の競技はプログラム――番、全学年選抜リレーです。選手はグラウンドに集合してください』

「行くのか」
「はい」

 アナウンスの声に、楓汰君が立ち上がる。どうやら、楓汰君は代表選手に選抜されているようだった。選抜リレーに選ばれる選手は少ない。素直にすごいと称賛する。
 脱いだ靴を履くと、楓汰君は「ありがとうございました」と笑って振り返った。それから、僕を見ててくださいね、と言って走っていく。


「…楓汰君、大丈夫かしら」

 母さんの言いたいことも分かる。飯田家は代々ヒーローな家系だ。人救けは勿論、災害救助に向かう事も"ネグレクトそういう"問題に直面することも多々ある。それが簡単に解決できないことも。母さんの問いに、僕は何も言い返すことが出来なかった。

 ただ真っ直ぐ、グラウンドに向かう楓汰君の背中を眺める。

「母さん」
「うん」
「何があっても、僕は味方でありたい」
「…そうね」

 誰も傍に居ないのは、虚しいだけだ。彼が何かに困っているのなら、手を伸ばしてその手を掴み上げたい。ぼんやり快晴の空を見上げてから、母さんを見る。

 それに、今はただ楓汰君を応援したい。




「あ、天哉!楓汰君よ!」

 母さんが指差す方向に、同じ学年の選抜メンバーに混じって並ぶ楓汰君が居た。選抜リレーは単純に足の速い選手が選ばれる。その中でも、楓汰君は最終走者であるアンカーだった。アンカーだと遠くから見分けがつくように、楓汰君はタスキを付けている。
 
 パン、とピストルの音がして、走者はスタートを切った。全学年と言うだけあって、やはり三年生が一、二年生との差を開いている。三年生が次の走者にバトンを渡す頃には、一年生と二年生は接戦の状態で距離を縮めていた。

「…あちゃー」

 一年生が居る保護者席からどよめきが走る。無理もない。三年が一位を独走し、一年生と二年生の続いていた接戦の状態が経った今、ひっくり返った。一年生の走者が転んでしまったのだ。すぐに起き上がって走り出したが、一度遅れた分は中々に縮まらない。それどころか、差が開くばかりだった。
 正直、応援しながらも逆転することを諦めていた。それは僕だけではないようで、一年生側の活気は奪われ気分は沈んでいる。


「あ、不和君だ」
「頑張って!」

 いよいよ最終走者。借り物競争でさらに注目を集めた楓汰君が白線の上に立つと、黄色い歓声が巻き起こる。その中には、野太い声も混ざっていた。諦めたと言えど、期待していないわけではない。入学したばかりの一年生が、上学年に勝つ。
 誰だって、一度は憧れる下克上だ。

 三年、二年と前の走者がアンカーにバトンを渡す。プレッシャーも緊張感も凄まじいはずなのに、楓汰君は走る一年生の走者を真っすぐ見て、ぐっ、とハチマキを結び出した。

「――っ、悪い、不和!あと、頼む!」

 その時、息を切らしながら全速力で走っていた走者が、バトンを楓汰君へ渡す。しっかりとそのバトンを受け取ると、楓汰君は力強く頷いて――そして。もうダメだ、とみんな諦めモードだったグラウンドに一陣の風が吹く。
 半分以上は距離があったはずだ。それが今ではどうだ。
 開いていた二年生との距離が縮み出している。不和、と楓汰君の名前を叫ぶ歓声が、グラウンド中から沸き起こった。それから第2コーナーで二年生を一気に追い上げ、直線で三年生に追いつき並んでいる。まるで、夢を見ているようだった。

 気付けば僕は立ち上がっていた。身体中が、沸騰しているかのように熱い。
 周りのその歓声に負けないくらいの声で、僕は大きく叫んだ。


「楓汰君!!」

 身体の芯から湧き上がる歓喜を吐き出すように、がんばれ、と口から吐き出す。気のせいかもしれないが、名前で呼ばれて、一瞬だが楓汰君が顔をあげた気がした。
 そのまま楓汰君は第3コーナーで三年生を追い抜き、最後の直線で一気に離す。懸命に三年生も後を追うが、楓汰君がゴールテープを切った。

 あれだけ差があった中――一位でゴール。

 まさに、ヒーローだった。

 母さんと手を取り合って喜んでいると、頬を伝う汗をシャツの袖で拭う、楓汰君と視線が重なり合う。すぐさま身振り手振りで、どれだけ楓汰君がすごかったのか伝えていると、はくはくと「ありがとうございます」と楓汰君の口が動いた後、彼はふっ、と微笑んだ。

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