【中学生編】拝啓、何者にもなれなかった僕へ
四月ももう時期を終え、五月へと移り変わる。
空には雲一つない青空が広がり、ジリジリと焦げそうなほど暑い中、蝉が煩く鳴いている。茹だるような炎天下の中、自分の出る競技を終えた僕は、組み分けされた「白組」のテントの中へ戻る。
ふらふらと自分の席に戻ると、暑そうに半袖の体操着を掴み、扇ぐ不和君の姿があった。快晴の今日はまさしく、絶好の運動会日和。
「水分はとったのか」
「…はい。おかえりなさい、飯田くん」
声を掛けると僕に気付いたのか、額に汗を浮かべた不和君が顔を上げる。その衝動で、額の汗が首筋を伝い、体操着に僅かに染みを作る。
その汗の量は、素人の僕から見ても異常だと感じた。
行儀が悪いが、席に置いていた運動会のプログラムを手に持ち、隣の席の不和君を扇ぐ。薄っぺらい紙一枚だが、何もないよりはマシだろう。
「すずしいです」
目を細めた不和君が、ありがとうございます、と笑う。その間にも、グラウンドでは次の競技が進められていた。運動会は、全体競技や学年競技など全員参加型の競技以外の種目に、それぞれ各2回参加しなければならない。
出たい競技はある程度、数が溢れない限り自分達で決められたが、僕は不和君が何を選んだのか知らない。
『―――次の競技はプログラム――番、借り物競争です』
グラウンドに放送部のアナウンスが流れ、参加者が疎らに入場を開始する。小学校の運動会に"借り物競争"という種目がなかった僕は、ひっそりとこの競技を楽しみにしていた。
借り物競争は、通常の徒競走と同じようにスタートし、コースの途中に置かれた箱から紙を引き、そこに指示された品物を借りてくる。その"引くまで"何が入っているのか分からない、はらはらした状況が面白い。
最初の走者が紙を引き、保護者席に向かう。どうやらお題は「家族」だったようで、走者は親の名前を叫びながら探し回っていた。観戦していたご家族の方々は、楽しそうに笑っていた。
『――ー、選手のお呼び出しです。一年一組、不和君。グラウンドに集合してください』
「…?」
「呼ばれているぞ、不和君」
自分の組の選手を応援していると、不意に不和君の名前がアナウンスで呼ばれる。呼ばれた本人は、ぼーっとグラウンドを眺めて、首を傾げていた。察するに、彼は余りものを適当に選んだのだろうが、自分が出る競技を知らないのはどうだろうか。
背中を押すように席を立たせると、不和君は日陰から出るのを嫌がるように、顔を顰めてテントから出て行った。
不和君がスタート地点に並ぶと、観客席の所々から黄色い歓声が沸き起こった。入学式で新入生代表の挨拶をした時点で名前は全校生徒に広まっていたし、人目を引く整った容姿から注目を集めるのは自然だったのかもしれない。
スタートの合図がされ、走者は走り出す。箱がある地点まで走った走者は箱に手を入れ、取り出した紙の中身を確認する。
「ね、ねえ…!不和君こっちに来てない?」
「ホントだ…!」
少し遅れて紙を引き、それを見た瞬間、白組の観客席に向かう不和君の姿が見える。前の方に座る女子生徒が言うのだから間違いない。不和君のお題が、白組にあるのだろうと思うと、少しわくわくした。
お題は、先程出たような「人」もあれば「物」もある。白組にあるものを考えると、思い浮かぶものはかなり少ない。
彼のお題は何だろうか、と考えていると、目の前に影が出来る。
「飯田くん」
――僕についてきて。
走って来たからだろうか。いつになく真剣な表情で、ほんのりと赤く色付いた頬に、周囲の女子は色めきだった。まさか、選ばれるのが僕だと思っていなかった僕は、ポカンと口を開ける。そんな僕を一見して、有無を言わさず、不和君は僕の腕を掴み椅子から立たせる。
そのまま腕を引かれながら、ゴールに向かって二人で走る。肩で息をしながら、ただついて行く。ゴールの白いテープは伸びたままで、僕達が一番のようだ。
「聞いてもいいか、不和君」
「はい」
「借り物は何だったんだ?」
そうだ、僕が一番気になっているのは、不和君の借り物だ。不和君は半ズボンのポケットに手を入れ、これですよ、と半分に折りたたまれた一枚の紙を広げ、それを見た僕は大きく目を見開いた。
「友達」
その紙に書かれていたお題は「友達」だった。勝手に僕だけがそうだと思っていた――はずだった。嬉しさのあまり、青空に向かって笑う。そうか、友達か。ただのクラスメイトから、友達になれたのか。たった二つのその言葉に、笑みが溢れて止まらない。
「不和君」
「なんですか」
「その、名前で呼んでもいいだろうか」
隣を歩く不和君が一度、足を止める。風が吹いて、生温かい夏風が蜂蜜色の柔らかい髪を揺らす。
「天哉くん」
「あ…」
「ふふ。呼んだだけです」
固まる僕を置いて、不和君は歩き出す。――今、彼は僕の名前を呼んだのか。遅れて理解して、僕は慌ててその後を追った。
「待ってくれ――楓汰君!」
捕まれていた腕が、やけに熱く感じた。