【中学生編】拝啓、何者にもなれなかった僕へ
その日は朝から雨だった。
珍しく家を出るが遅くなった僕は、傘を片手に通学路を走る。遅れた理由は明白で、考えごとをしていたら就寝するのが遅くなった。気付けば窓の外は明るくなっていて、少し仮眠したらこの有り様だ。
地面を弾いて舞い上がった水飛沫が、ズボンを濡らす。こんな日に限って、激しく地を打つ雨音に苛立ちが募る。
自業自得なのは分かっていた。誰かに自分の失態を押し付け、気分を晴らすのは間違っている。それでも嘆かずにはいられない。車道を走る車が、嘲笑うように水を跳ねて僕を追い越した。
「おはよう」
傘を廊下にある傘立てに置いてから教室に入ると、疎らに挨拶が帰ってくる。雨のせいか、教室内は静かだった。入り口に立ち尽くし、無意識に僕の目は不和君の姿を捜していた。
ぐるりと教室中を見渡すも、彼の姿は何処にもない。
彼もまた、遅刻だろうか。
僕でさえ学校に辿り着いたのが数十分前だ。もしや、何かに巻き込まれたのではないか。募る不安を抑えながら、教室のドアを眺める。
「――ぁ」
居なかった生徒がちらほらと席についた頃、教室のドアが開いた。ガラリ、と開いたドアの音に反応してクラスに居た生徒が一斉に入り口に注目する。そこに居たのは、僕の不安の渦の中心にいた不和君だった。
最初に目に留まったのは、蜂蜜色の髪だ。普段から癖のある不和君の髪が、今日は控えめに毛先が跳ねている。静寂した教室に、不和君の髪からポタリと、雫が滴り落ちる。
「…不、和君」
「おはようございま、」
最初に動いたのは誰だっただろうか。あちらこちらから、勢い良く席を立つ音がする。考えるよりも先に僕は、体育で使う予定だったタオルを鞄から取り出して、不和君の前に立つ。
近くで見ると、酷い有り様だった。前髪は額に張り付き、ポタポタ毛先から流れる水滴が肩を濡らす。
雨で濡れたズボンは、藍色から黒へ変色していた。 どうしたら、こんなことになる。傘を差していたにしては、不自然な濡れ方だ。
――まさか。
「傘はどうしたんだ。また、無くしたのか?」
「いいえ、今日はぬれたい気分だったんです。雨は、ねつを冷ましてくれるので」
「…そうか」
正直、何を言っているのか分からなかった。それなのに、彼が言うとそう言うものか、と納得出来てしまうのが不思議だ。取り敢えず、予鈴が鳴る前にタオルを広げて、彼の髪を拭う。
濡れた髪は、琥珀のように艶があった。水気を含んだ髪の水分を吸って、重くなるタオル。風邪を引かないように入念に拭いていると、僕の顔を覗きこむように不和君は目を細めて笑った。
「くすぐったいです」
それぐらい、我慢して欲しい。この惨劇を招いたのは、君なのだから。その意を込めて軽く彼を睨む。
それと同時に不和君の前髪から水滴が落ち、丁度瞼の上に落ちる。そして、瞬きをした瞬間に紫紺の瞳から、一つの雫がゆっくりと頬を伝った。
それがまるで、涙のようで息を呑む。
不自然に手を止めた僕を見て、彼は首を傾げた。それでも、相変わらず彼は笑っていて、その雫はそのまま白い喉元を降りていき、シャツの中に滑り落ちて、やがて消えた。
泣いていた、ワケでは無いようだ。
しかしそれでも、胸が妙にざわついた。ある程度服の上から拭い、最後に頬に張り付いた一本の髪の毛を指の先で払うと、ひんやりとした指に腕を掴まれる。
「君のぬくもりは、きらいじゃないです」
春の穏やかな風のような、柔らかい声だった。
朝から苛立っていた気持ちが、その声を聞いて、最初からなかったかのように、どうでもよくなる。不和君は、まるで春風のようだ。
荒立つ心を、穏やかにしてくれる。
「今日は教室なんだな」
「はい」
弁当が入った鞄を片手に、不和君の席の前に立つ。昼になる頃には、肌に吸い付くように引っ付いていた、白のワイシャツは乾いていた。それでも外から聞こえる、激しく地を打つ雨音に、今朝の彼のずぶ濡れになった姿を思い出して頭痛を憶える。
聞こえないよう溜息を吐いて、僕はいつものように昼ご飯に誘う。
いいですよ、と帰ってきた言葉に、別のクラスに移動したであろう、彼の前の席を借りる。初めて誘った日は、少し考えた後、了承する不和君だったが、今ではこう即答してくれるようになった。その度に、僕は嬉しさを感じている。
「…食べないのか?」
「はい」
流石に、箸で口の中に弁当の中身を運ぶ様子をじっと見られ続けて、居心地の悪さを感じた僕は口を開いた。いつもなら、不和君はおにぎりやパンを持ってきていた。だから今日も、何かしら持ってきているであろうと思っていたが、それは違うようだった。
これもまた、ネクタイをなくした時のように、なくしたと言うのだろうか。
「ふふ。ちがいますよ。今日はおなかが空かない気分だったんです」
何故、と顔に出ていたのだろう。そんな僕の心の中を見通したかのように、不和君は何でもないように答えた。濡れたい気分だった、の次は、お腹が空かない気分だった、か。気分屋の彼が正直、何を考えているのか分からない。
分かろうとして、考えて、考えれば考える程、振り回されるだけだ。
「むぐっ」
「僕が作った卵焼きだ」
卵焼きを掴んだ箸を、無理やり不和君の口に突っ込み、肉団子を掴み、また突っ込む。ただ目をパチクリと瞬かせて、不和君は口をもごもごと動かす。
それでも、何故だか彼を放っておくことは出来なかった。
大袈裟だと思うが、本気で彼を放っておくと、いつかシャボン玉のようにふわふわと宙を浮いて、あっという間にぱちん、と割れてしまう。
「美味しいだろう」
「少し、しょっぱいです」
「…わざとだ」
誤魔化すように、ゴホン、と咳払いして、中身の無くなった弁当の蓋を閉める。お節介でもなんでもいい。それで彼を、この地に繋ぎとめることが出来るのならば。