【中学生編】拝啓、何者にもなれなかった僕へ
昼休憩が終わる頃、僕達は教室に戻って、互いに自分の席に座った。あれから、彼との会話はそれっきりだ。教室に先生が入って授業が始まっても、ずっと、「そのあとは、どこにいくんでしょうね」と呟いた不和君の憂いを帯びた表情が頭から離れない。
冗談で言っているにしては、誰かに向けられた想いが感じ取れ、胸が締め付けれれるのと同時に、一歩でも踏み込んでしまえば淡く消えてしまいそうな彼への強い不安で埋められていく。
たった一言だ。どういう意味だ、と聞いてしまえばいい。
しかし、せっかく友達とまでは言えないものの、話せる仲まで縮まった。
その一線を超えてしまえば、振り出しに戻りそうで、
「……飯田!この問題を解いてみろ」
「――え?あ、はい!」
後頭部に軽い衝撃が走って、席を立ちあがる。真横に立つ先生は、訝し気に僕を見ていた。いけない。きっと何回も名前を呼んでいたのだろう。考えごとに没頭しすぎて、先生に当てられたのに気付かなかった。少しずれた眼鏡を掛け直し、問題が綴られた黒板の元へ向かう。
その途中、背中から控え目な笑い声が聞こえて、耳が熱を持つ。
チョークに触れる指先が熱い。
穴があったら入りたいとは、こういうことだろう。早くこの場を立ち去りたい一心で、問題の下にチョークを走らせて解答を書き終える。
「よし、正解だ。先生は無視されると傷付くぞぉ」
「……はい」
先生の言葉で教室内に、どっ、と笑いが起きる。和やかな雰囲気に包まれた中、羞恥心を抱きながら座席に戻る。黒板から振り返った時に、穏やかな微笑を湛えている不和君が視界に映って、じわじわと頬が赤く染まるのを感じた。
向けられた視線に気付いたのか、紫紺の双眸がきょとん、と僕を見つめる。
まるで、入学式の時のようだった。あの日も、僕は彼と目が合った。
ただ、あの日と違うことが一つあった。
「…―――」
ふ、と目を細めた後、パクパク、と不和君の薄い唇が上下に動く。あの日は彼にとっても僕はただの生徒の一人で、言葉を少しの間止めただけだった。
それが、今ではこうして悪戯気に笑うのだ。
届きそうで、届かない。
この距離が酷くもどかしい。
ぼんやりとした頭で、鞄に教科書を纏めていると、机に影が出来る。誰だろうか、と顔を上げると、そこに居たのは不和君だった。驚いてずれた眼鏡を掛け直し、動かしていた手を止める。何か僕に用だろうか。授業のこともあったから、少し今彼と話すのは気恥ずかしい。
「飯田くん」
「ん、ああ……どうした?」
ちょっとだけ上擦る声を、咳払いをして誤魔化す。バレてなければいいが。そんな想いが伝わったのか、彼は特に気にした様子もなく笑みを浮かべながら口を開いた。
思えば、彼から僕に話し掛けてくるのは、これで二回目かもしれない。そう考えると、少しだけ距離が縮まった気がして嬉しくなる。
「今日のきみは、心ここにあらずといった感じですね」
「…少し、考えごとをしていたんだ」
正直に君のことで頭を悩ませていた、何てことを言えるはずも無く、言葉を濁して返事を返すと、彼はただ一言「そうですか」と返した。この時ばかり、彼が深く詮索をしない人で良かったと胸を撫で下ろす。
余計なことを口走っていれば、今頃、彼はこの場に居ないだろう。
ああ、駄目だ。自分の醜態を思い出して、恥ずかしくなって来た。熱を持った顔が見えないよう、教科書を纏める作業を再開するために視線を下に向ける。そして、下を向いた途端、僕は固まった。
がた、と物音がしたかと思うと、先程まで距離があった彼との距離が、縮まっていた。身を乗り出しているのか、数個開けたシャツから白い肌が覗く。
「っな、」
反射的に目を瞑り、身を引こうとすると、甘い香りが鼻腔を掠める。またしても、身体が固まった。香水は校則で禁止されている。彼がわざわざ校則を破るような真似はしない。
そう考えると、この香りは彼本来のもので――。
「……安心しました。腫れてはないみたいです」
「え、あ」
呆然として顔を上げると、真剣な眼差しで僕を覗き込む不和君の顔が目前に広がっていた。うっ、と呻き声を上げそうになるのを堪える。そんな顔、初めて見た。隠しようが無いくらい、顔に熱が集まっていく。
彼の言葉からして、授業中に教科書で軽く叩かれた、頭部を心配しての行動だったのだろう。それだというのに、僕は何を思った。いい香りがしただの、どうだの。これでは、まるで僕が変態みたいだ。
「それだけです」
お大事に、と告げて彼は出口に向かう。無意識のうちに彼を引き留めようと伸ばした手が、宙を彷徨う。出口に向かう背中が、慌てて声を掛けたあの日と重なり合う。本当に、これでいいのか。
このままでは、まるであの日と同じだ。何かを変えたくば、自分から動き出せ。
「不和君!」
「…、なんです――」
「い、一緒に帰らないかい!」
振り返った彼の瞳に、耳まで赤く染まった僕の顔が映り込む。余りにも情けない姿に、口元を手で覆い隠したくなる。窓から差す夕日で誤魔化されてはいないものか。