4期
「あの人は……リン・フェイロンは生まれた時から絶対的な存在でした……」
そんな冒頭から、シャオメイの母は過去を追憶しながら叙述した。
「宇宙的大企業『レイズ・カンパニー』の御曹司である上に、権威主義のコロニーであるジオC8では、大人であろうと彼に逆らえる者は誰もいませんでした。
彼自身、それが当たり前だという価値観を持って生きてきたんです……。
疑問など持つはずもありません。
その後、大学生になった彼は、ジオC8から離れたコロニーの大学へと進学しました。
とは言っても、理事長は当時のレイズ・カンパニーの社長……彼の父です。
彼を取り巻く環境が変わるはずもありません。
後ろには取り巻きが付いて回り、大学の教授達ですら、彼に強く意見を言える人はいませんでした。
そんな彼と初めて出会ったのは、私が入学して1ヶ月が過ぎた頃……彼は大学3年生の時でした……」
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
推薦をパスし、第1志望の大学への入学を果たしてから早1ヶ月。
仲の良い友人も出来、大学生活にも大分慣れてきた頃、その日、シャオメイの母──ティアは大学の友人達と共にカフェテリアへ向かっていた。
「次の履修科目、かったるいなぁ~。あの教授の解説、難しすぎて眠くなるんだよね~」
「分かる分かる。必須科目じゃなかったら、絶対取らないよね」
両隣の友人の会話を聞き、ティアは「あはは」と楽しげに笑った。
「あ、そういえばさ、あの話知ってる?」
「あの話?」
不意に話題を変えてきた友人の言葉に、ティアともう1人の友人が首を傾げた。
「2つ上の学年に、レイズ・カンパニーの御曹司がいるじゃない?」
「ああ、いつも子分を引き連れて、好き放題してるって有名な」
「そうそう。何でも、気に入った女子を見つけると、自分の権力を傘にして、手込めにしちゃうって噂よ」
友人の話を聞いた2人の顔が、嫌悪感で引きつった。
「ま、私らみたいにあまり目立たない女子大生はひっそりしてればやり過ごせるけど、ティアは特に気を付けなよ?」
「え!?何で私っ!?」
「そりゃあ美人だし、推薦組で頭もいいし。知ってる?あんた、ウチの学年で結構有名なのよ?」
「ええっ!!?」
自覚が無かったのか、身を乗り出して驚くティアの姿に友人は呆れ顔だ。
「でもまぁ、関わらない様にするのが一番よね……あっ」
会話に夢中になっていた為か、友人は前方の人に気がつかず、肩が当たってしまった。
「ごめんなさ……い……」
謝罪の言葉を言いながら、ぶつかった人物の顔を見上げた友人が固まる。
その人物は、まさに今、話題の渦中にあった、若きリン・フェイロンと、その取り巻き達であった。
「……ってぇな」
ぶつかったと思われる箇所を、フェイロンはまるで汚れたかの様に手で払った。
見下す様な、彼の鋭い眼光に睨まれ、友人達の顔が青ざめていく。
「おい、ぶつかってんじゃねーよ!フェイロン様が怪我でもしたらどうするんだ?」
「あ……あの……ご、ごめんなさい……」
「ああ?謝って済むとでも思ってんのかぁ?」
狼の威を借りた狐、とはまさにこの事である。
粋がった取り巻きが、屈服させようと更に凄んできた。
「いい加減にしなさい」
その場にいた全員がティアへと視線を向ける。
その声は、いつもより低く、怒気を混じらせている様に感じられた。
凛とした瞳は、真っ直ぐとフェイロンへと向けられている。
「女の子にぶつかったくらいでいちいち騒いで。みっともないと思わないんですか?」
「ち……ちょっと、ティア!?」
フェイロンに対し物申すティアに、友人達の顔が更に真っ青になった。
「ああ?お前、誰に向かって口利いて……」
「腰巾着は黙ってなさい!」
その威圧感を帯びた声色に、今さっきまで凄みを利かせていた取り巻きも、思わずビクリと体を震わせた。
外野が大人しくなった所で、改めてフェイロンと向き合う。
「先にぶつかってきたはそっちだろう」
「彼女は謝りました。にもかかわらず因縁をつけてくるなんて、器が狭すぎるんじゃありません?」
「おい、口には気を付けろ。俺はレイズ・カンパニーの御曹司だぞ。その気になれば、今すぐお前を退学にする事だってできるんだぞ?」
フェイロンは口許を小さく上げて、にやりと笑った。
今まで、この一言で屈服しないものはいなかったからだ。
しかし、フェイロンの思惑と反し、ティアからは返ってきた言葉は彼が予想だにしないものであった。
「あなたって、からっぽな人ですね」
「は……?」
「今までもそうやって多くの人を屈服させてきたんですか?だけど、あなたが振りかざしているのは、あなたのお父様の権力じゃないですか。彼らが畏れていたのはあなたのお父様であって、あなたじゃない。もし、レイズ・カンパニーの後ろ楯を失ったら、一体あなたには何が残りますか?」
「……っ!てめぇ……!!」
フェイロンは、わなわなと拳を握りしめていた。
(何なんだ、この女……!?退学にするっつってんだぞ!?怖くねぇのかよ……!?何で折れねぇ!?)
「私を退学にするならお好きにどうぞ。でも、その代わりに認める事になりますよ?あなたはレイズ・カンパニーの後ろ楯が無ければ、何も出来ない、何も残らない『からっぽ』な人間だと……」
「こ……この俺を脅すつもりか……!?」
「何でもかんでも、自分の思い通りになると思ったら大間違いです。私は決してあなたに屈しません」
ティアは腕時計へ視線を移すと、友人へ「行きましょう」と促し、呆然としている彼女達の手を引いて立ち去った。
もはや取り巻き達の誰も、彼女達を引き止めようとはしなかった。
今まで、リン・フェイロンに口答え出来た者がいただろうか?
しかも、それが自分より年下の清楚な雰囲気を漂わせる女子がである。
だが、そのオーラはまるで『女王の資質』を思わせるかの様な威圧感を感じてしまう。
フェイロンは奥歯を噛み締める。
自分が『からっぽ』な人間だと自覚させられ、プライドはズタズタである。
だが、不思議と彼女に対する怒りや憎悪は無かった。
自分の上には父。
自分の下にはその他大勢。
そんなカーストが知らぬ間に出来上がっていた。
しかし今日、その階級のどの位置にも属さない人物と出会った。
プライドを傷つけられながらも、初めて出会った、自分と対等に接してきた少女。
その凛とした瞳、声、立ち姿……全てがフェイロンの脳裏に深く焼き付けられていた。
「はー……怖かった……」
先の出来事に疲弊した様子で、友人は深い溜息をついた。
「大丈夫?」
「半分はあんたのせいだっての」
呆れた様子の友人に額を指で小突かれ、ティアは「痛っ」と声をあげて額を押さえた。
「ティアって怖い物知らずっていうか……時々無茶苦茶な事をするよね」
「そ、そんな事ないわよ!」
「いやいや、入学式の時だって、しつこい勧誘をしてたサークルの部室に乗り込んで、暴れたりしてたじゃん」
「あ、暴れてないよ!あれは、明らかな迷惑行為だったから、お説教をしただけで……」
不本意そうに言い分を述べるティアの姿が何だか可笑しく、友人達はクスッと小さく笑った。
「でも、ま……さっきは助かったわ。ありがとね、ティア」
ティアが無茶苦茶とも言える行動をする時は、決まって誰かの為だと分かっている。
だからこそ、自分達はこうして友達になれたのだ。
友人からのお礼の言葉にティアは一瞬キョトンとするも、すぐに柔らかい笑顔を彼女たちに向けた。
かのリン・フェイロンを言い負かしてから1ヶ月、ティアは今までと変わらぬ大学生活を過ごしていた。
始めのうちは、フェイロンから何かしらの報復があるのでは、と少し身構えもしたが、意外にも彼からのアクションは無かった。
次第にフェイロンとのいざこざの記憶も薄れていき、いつしか思い出す事すらなくなっていった。
そうしてすっかり気を緩めてしまっていたある日の事、午前の講義が終了し、友人と共に講堂を出たティアの前に、再びフェイロンと取り巻き達が現れたのである。
「よぉ、久しぶりだな」
馴れ馴れしく声をかけてくるフェイロン。
彼らの出現に、周囲にどよめきが広がる。
友人達も「げっ」という表情を浮かべ、強い警戒心を露にした。
しかし、一方のティアは、そんな彼らにまるで気付いていないかの様に、「お昼食べに行きましょ」と友人を促し、カフェの方向へ歩き出していた。
「おい、待てよ!!無視してんじゃねぇ!!」
完全に無視された事に憤慨し、フェイロンが叫ぶ。
周囲の生徒達が注目する中、ティアはようやく立ち止まり、振り返る。
「あら、騒々しいと思ったら、リン先輩じゃないですか。私に何かご用ですか?」
わざとらしく、かつ妖艶な笑みを浮かべ、ティアは皮肉交じりの言葉を投げかけた。
売り言葉に買い言葉、反発してくる事を予想していたティアであったが、意外にもフェイロンはおとなしかった。
感情をグッと堪えている様な、そんな違和感を感じさせた。
「……お前に話がある。少し顔を貸せ」
「お断りします」
「俺が『ある』と言ってるんだ!拒否権はない!」
思い通りにならない事に対し、ややイラついたのか、フェイロンの口調が次第に高圧的な物言いになっていく。
それに怯む訳でもなく、ティアは真っ直ぐな瞳で見つめ返し、凛とした態度で向き合った。
「その上からの発言をやめてもらえませんか?私はあなたの手下でも使用人でもありません」
「っ!」
「それに、話があるのはあなた1人のはずでしょう?なのに、何故彼らがいるんですか?」
ティアの視線はフェイロンの後ろに屯(たむ)ろする取り巻き達へ向けられる。
「こいつらは……」
「大昔の大名行列じゃあるまいし、故意に権力を誇示しているあなたのそういう所が嫌いです」
「……!!」
黙りこくるフェイロンから視線を外し、ティアは「行きましょう」と友人を促し歩き出す。
去り際に、「それと……」と補足を加えて。
「話があるというなら、あなた1人で来てください。そしたら、ちゃんと話を聞きます」
その場に残されたフェイロンは、その背中を追いかける事もなく、呆然と立ち尽くしていた。
しかし、その翌日……
「またあなたですか?」
履修科目の講義を終え、教室を出たティアの前に再びフェイロンが現れた。
「話があると言っただろ」
プライドを傷つけられて逆恨みされているのか、はたまた、ただ単に負けず嫌いなだけか。
どちらにせよ、毎回このように付きまとわれるのでは、堪ったものではない。
と、ティアがとある事に気づき、キョロキョロと周囲を見回した。
「ところで、お連れの方は一緒じゃないんですか?」
「あいつらには『もう付いて来るな』って言ってきた」
あっさりと言い放たれた言葉に、ティアは驚いた。
昨日の今日で、彼に一体どのような心境の変化があったのだろうか?
「今日はちゃんと1人で来たぞ。これならちゃんと話を聞いてくれるんだろ?」
(まさか……昨日の言葉を真に受けて……?)
意外であった。
あれほどまでに自己中心的かつ傍若無人な振る舞いをしてきた男が、自分のたった一言で忠実に従った事に。
「……それで、お話というのは?」
「ようやく聞く気になったんだな?」
「別に私は、ちゃんとした対応さえしてくれれば、話くらい聞きますよ」
まるで自分が全く話を聞かない人間と言わんばかりに、勝ち誇った様に嬉しそうな顔をするフェイロンに、ティアは少しムッとした表情を浮かべた。
「それで、お話とは?」
「あ、ああ……」
いざ本題に入る、となった所で、フェイロンの顔から余裕が消える。
「えっとだな……その…………お、お前……」
「お前はやめてください。私にはティアというちゃんとした名前があるんですから」
「あ、ああ……」
妙に素直なのが引っ掛かり、ティアは首を傾げながら次の言葉を待った。
「……ティア」
「はい?」
「今日……ディナーでもどうだ……?」
予想外の発言にティアは目を丸くした。
会えば言い合いしかした記憶がない相手から、まさかの食事の誘いである。
この時、ティアは少なからず警戒していた。
『リン・フェイロンは気に入った女子を、権力を使って手籠めにする』という、友人が言っていた噂を思い出す。
「……それは、デートのお誘いですか?」
「でっ……!?そ、そんなんじゃねぇよ!!」
何気ない言葉に、フェイロンは顔を赤くして狼狽えた。
「ぷっ……あははは!」
その様子に、ティアは思わず笑い出した。
「な、何故笑う!?」
今の反応で確信した。
もし彼が噂通りのジゴロならば、今程度の事で狼狽えるはずがない。
噂は所詮、噂に過ぎなかったようだ。
ティアは気づく。
リン・フェイロンという青年は、本当はただ単に純粋なだけなのかも知れない、と。
純粋すぎるが故に、環境に染まりやすい。
権力主義という環境が、透明だった彼の心を黒く染めてしまったのだろう。
何がきっかけかは分からないが、彼は今、ようやく変わり始めている。
その変わっていく姿を見届けてみたい、という気持ちが、ティアの心に芽生えて始めていた。
「ふふっ、ごめんなさい。今日は特に予定もありませんから構いませんけど、1つ条件があります」
「条件?」
「高級なお店はやめてください。肩が凝りそうな所は苦手なんです」
ティアの提示した条件にフェイロンはきょとんとするも、すぐに小さく笑い、「分かった」と頷いた。
この日、わずかではあるが、2人の距離が初めて縮まった日となったのである。
それから幾度もティアと接していくうちに、フェイロンは少しずつ変わっていった。
かつての高圧的な振る舞いをしていた彼の面影は消えていき、彼女と共に大学生活を楽しむその姿は、一般の大学生と相違ないものであった。
2人は少しずつ惹かれ合っていくも、想いを伝えるには至らず、友達以上恋人未満の関係が続いた。
それから1年が経ち、フェイロンは卒業を迎える。
卒業式が終わり、ティアはフェイロンに呼び出され、敷地内にある教会へとやって来た。
特に信仰心が強い訳では無い為、ここへ足を踏み入れるのは入学式以来の事である。
それでも肌に感じる事が出来るほどに、教会内は神聖な雰囲気で満たされていた。
その中央に、正面の巨大なステンドグラスを見上げている彼の姿があった。
フェイロンは、ティアの気配に気付き、振り返る。
「ティア……」
「フェイロンさん、卒業おめでとうございます」
「あ、ああ……」
「それで、大切なお話とは?」
心なしか、元気の無いフェイロンに首を傾げつつ、ティアは本題を切り出す。
「……ティアには感謝している。ティアに会わなければ、俺はずっと傲慢でからっぽな人間のままだったと思うから……。この1年間は、今まで生きてきた中で一番充実した時間だった。……だけど、今日で俺は卒業してしまう。ティアともなかなか会えなくなってしまう……」
「フェイロンさん……」
「俺は嫌だ……!もっとティアと一緒にいたい!だから……俺と結婚してほしい……!」
「ティア……?何で泣いてるんだよ?」
フェイロンに指摘されて気がつく。
自分の瞳から、大粒の涙が溢れ出ている事に。
「あ……れ……?ごめんなさい……」
ティアは慌てて涙を拭った。
そんなティアの様子を見て、フェイロンは愕然とした。
「……そんなに嫌なのか?」
「ち、違います!すごく嬉しいんです!」
「嬉しい……?嬉しくても、涙って出るものなのか……?」
「当たり前じゃないですかっ!少しは空気を読んでください!」
「わ、悪い……。でも、じゃあ……それってつまり……」
泣きながら怒るティアに圧され、思わず謝りながら、彼女が嬉し泣きをする理由をようやく理解した。
そしてそれは、次のティアの行動によって確信へと変わったのである。
「私もあなたが好きです!ずっとあなたの側に居たいです……!」
ティアがフェイロンの胸に飛び込み、背中に手を回して抱き締める。
フェイロンも恐る恐るティアの背中に手を回した。
初めて触れるティアの体は、自分が思っていた以上に細くて華奢である事を知った。
不意に腕の中のティアが「ふふっ」と小さく笑った。
「どうした?」
「まさか、正式にお付き合いもしていないのに、プロポーズされるとは思っていませんでした」
「ティアへの気持ちを考えたら、『恋人』なんて枠にはとても収まりきらなかった。俺が求めていた関係は、ティアと一生一緒にいられるような関係……それ以外に考えられなかった」
フェイロンの強い思いを聞き、ティアは紅くなった顔色を隠すように、彼の胸に顔を埋めた。
「……ホント、我儘ですね。……だけど、そういう我儘はキライじゃありません」
そう囁く声は、とても幸せに満ちている様に聞こえた。
ティアと婚約を交わしたフェイロンは、その旨の報告を、父である当時のリン社長へ伝えた。
厳格な人であった為、反対されるかと覚悟もしていたが、意外にも父はすんなりと承諾してくれた。
しかし、そこにはフェイロンも知らなかった打算的理由があったのである。
ティアの父は宇宙警察のトップ、警視総監だった。
フェイロンの父にとって、ティアとの結婚は政略結婚と同等の意味を持つものであったのだ。
2人がその事実を知る事になるのは、その後フェイロンを豹変させた『とある事件』が起きた後の事であった。
大学を卒業したフェイロンは、レイズ・カンパニーの系列に位置する、宇宙船の技術開発を主とした子会社へと就職した。
フェイロンはジオC8にある実家から、ティアは今まで通りの賃貸アパートからの通学としており、これはティアの希望でもあった。
不満は当然あったが、「大学に在学中は勉学に専念して卒業したいから」と言われては、フェイロンも同意しない訳にはいかなかった。
就職してから半年、フェイロンの元へ研修留学の話が持ち上がった。
これは親会社の社長である父の差し金であり、ゆくゆくはレイズ・カンパニーの社長の座に着くフェイロンの為に、彼の宇宙工学に関する知識と技術能力の向上を目的としたものである。
研修期間は1ヶ月、その間ティアに会えなくなるのは不本意だが、他ならぬ父からの命令であれば従わざるを得ない。
渋々ながら、フェイロンは1ヶ月間の研修留学へと向かった。
それから1ヶ月後、研修を終えコロニーへと帰ってきたフェイロンは、すぐにティアへ連絡を取り、大学近くのカフェで待ち合わせの約束を取り付けた。
久しぶりの再会に、フェイロンは衝動的にティアを抱き締めた。
ティアも苦笑いしながら、その行為に応える様に優しく腕を回した。
「お帰りなさい。研修お疲れ様」
「ああ……ただいま」
「あの……嬉しい事は嬉しいんですけど……そろそろ離れてくれないと、その……恥ずかしいです……」
ティアに指摘され、フェイロンはハッと我に返り、周囲を見渡した。
立ち止まり、こちらへ視線を受けている通行人が目に入り、慌てて抱擁を解き、フェイロンはティアの手を引いてカフェの中へと入って行った。
注文を済ませた所で、ティアが研修の話題を振る。
「研修はどうでした?身になりましたか?」
「ああ!スゴく勉強になったよ。新しい技術とか、コンピュータプログラムとかを知れたし」
どうやら予想以上に良い研修だったようだ。
出発前の、あの嫌そうな顔が嘘の様である。
「それに、研修の途中で凄い人に会ってさ」
「凄い人?有名な研究者とか開発者とか?」
「そうじゃない。腕が、っていうのかな?小型シャトルのメインコンピュータが起動しないっていう事例があったんだけどさ、その場にいる誰もがその原因を突き止められなかったんだ。終いには丸ごと機材を交換するしかない、なんて意見も出るくらいにさ」
その光景を思い出したのか、フェイロンは呆れた、という様に深い溜め息をついた。
「だけど、そんな時だった。たまたま他の所へ修理の出張に出ていたっていうその人が、騒ぎを聞きつけてやって来たんだ。そしたらどうだよ!?少し弄っただけで、メインコンピュータが起動し始めたんだ!その場にいた誰もが驚いてたよ」
「ふぇ~、凄いですね!」
「俺も思わず震えたよ。宇宙にはこんな凄い技術者がいるんだって。だから俺、研修が終わった後に、その人の工場 に行って、色々と教えて欲しいって頼んだんだ。そしたら快く指導してくれたよ。しかも、その人に『素質がある』って誉められてさ!」
まるで子供の様に興奮気味に話すフェイロンを見て、ティアも自然と笑顔で話を聞いていた。
「あの人は間違いなく宇宙一のメカニックだよ!俺もあんな凄いメカニックになりたい……!本気でそう思った……!」
フェイロンの口から出た彼の『夢』を聞き、ティアは目を見開いた。
今までレイズ・カンパニーを継ぐ事が自分の将来と思っていた彼が、初めて自分から『なりたい』と言った。
彼がようやく一所懸命になれるものに出会えた事で、嬉しさのあまり涙がこぼれそうになる。
それを必死に堪えながらティアは笑顔でフェイロンへ答えた。
「その情熱を忘れない限り、あなたならきっとなれますよ」
ティアの言葉に、フェイロンは嬉しそうに頷くのであった。
それから2年後、大学を無事卒業したティアは、ついにフェイロンと入籍し、晴れて夫婦となった。
この2年間で、フェイロンの宇宙工学に関する才能は開花し、今までに無い新型の宇宙船の開発に成功したりといった数々の成果をあげてきた。
その成果が認められ、フェイロンは『宇宙工学の新星』とまで呼ばれる程に至った。
そんな公私共に順風満帆であった日々に、とある事件が舞い込む。
その日、ティアは付き添いの使用人と共に買い物に出掛けていた。
本当は1人で来たかったのだが、フェイロンが何か遭ったら大変だと言って、お供同伴を強いられたのである。
心配してくれるのはありがたいが、少しは自由な時間が欲しい、というのが本音である。
社長婦人(予定)になったからといって、自分は料理も作りたいし、家事だってやりたい。
全てを使用人に押し付けて、自分は堕落した生活を送るなんて耐えられない。
だから、ティアは止める使用人を押し切って、自ら炊事に買って出ている。
使用人を『使う』のではなく、共に協力するその姿勢が、使用人達から多大な支持を得ている、という事に本人は気づいていない。
「うん!今日の晩御飯の材料はこれで揃ったわ」
「最近野菜が高騰してますからね。より安いお店を見つけられて良かったですね」
「ええ。だけど、それでもキュウリ1本が1ダールだなんて信じられないわ」
とても富豪の会話には聞こえないが、今ではこれが当たり前のやり取りと化している。
これがティアにとっての日常なのだ。
いくら玉の輿に乗ろうが、この価値観を変えるつもりはティアには更々無かった。
高級な食材を使わずとも、美味しい料理はいくらでもある、という事を証明したい、という思いもあるが、何も知らないリン一族が安い食材で作った料理を美味しそうに召し上がる様を見て、使用人と共に心の中でガッツポーズを取ったりする悪戯心があったりもする。
買い物を終え、屋敷までの帰路を使用人と共に並んで歩いていると、ティアはふと嗅覚に刺激を感じ取った。
「ん……?ねぇ、何だか焦げ臭くない?」
「そう言われてみればそうですね……」
ティアはその臭いの原因を解明するべく、鼻をクンクンさせながら、臭いを追った。
「ちょっ……奥様!?」
勝手に行動し始めたティアの後を、使用人が慌てて追いかける。
しかし、進んで数メートルの所で、その原因はすぐに判明した。
目の前で赤々と燃え上がる炎。
その火は次第に燃え広がり大きくなっていく。
燃えているものは、一軒の家屋であった。
「か……火事よ!!!」
ティアが大声で叫ぶ。
その声に反応し、次々に人が集まってくる。
「は、早く消防車を呼んで!!」
「は、はい!!」
ティアに言われ、使用人は慌てて携帯を取り出し、消防隊へ連絡を始めた。
ティアがジッと燃える家屋の中を見つめる。
その様子に気づいた使用人が不審に思い、声を掛ける。
「……奥様?」
「中に……人が……いる……!」
「えっ!?」
『もしもし、どうされました!?』
「あっ、火事です!場所は……」
携帯から聞こえてきた消防隊の応答に、使用人は再度視線を画面に移し、状況の説明を始めた。
「助けなきゃ……」
微かに聞こえたティアの呟きに、使用人が視線を上げた時には、そこにティアの姿は無かった。
「大変だ!!女の人が家の中に飛び込んで行ったぞ!!」
「な!?お、奥様!!!」
(な……何よ、これ……)
煙を吸わないよう、手で口を塞ぎながら室内に飛び込んだティアは、その光景に戦慄した。
床に倒れている大人の男女2人と1人の子供。
腹部からは大量の血が溢れ、その近くには紅く刃が染まった包丁が落ちている。
(し……死ん……でる……の?)
「う……」
微かに聞こえた呻き声。
ティアは視線を向ける。
子供がわずかに身じろぎするのが見えた。
(まだ生きてる……!助けなきゃ!!)
ティアは倒れる子供を背負い、急いで火の海になり始めている家屋を駆け抜けた。
「うっ……」
意識が浮上し、ティアはゆっくりと目蓋を上げた。
一番に視界に入ってきたのは、白い天井であった。
そこで初めて自分がベッドに横たわっている事に気がつく。
顔を横に向けると、そこには心配そうな表情で顔を覗かせているフェイロンの姿があった。
「フェイロンさん……」
「ティア!!大丈夫か!?」
「ここは……?」
「病院だよ」
「病院……そっか……私あの後……気を失っちゃって……」
ティアはゆっくりと上体を起こした。
フェイロンは無事であった事にホッとするも、すぐに眉間に皺を寄せて怒鳴った。
「このバカ!!!何であんな危険な事をしたんだ!!」
久しぶりに聞く彼の怒号。
しかし、今回は何も言い返す事が出来なかった。
明らかに自分に非があるからである。
「下手したら死んでたんだぞ!!?」
「……ごめんなさい」
謝るティアをフェイロンが力強く抱き締める。
「……無事でよかった」
その泣きそうな声を聞き、自分はとても愛されているんだ、と不謹慎ながらも嬉しい思いで満たされた。
「もう二度とするなよ」
自分を案じてくれるその言葉にティアは小さく頷き「ごめんなさい」と再び謝罪の言葉を述べた。
それからしばらくして、フェイロンはようやくティアを解放した。
「そうだ!あの子は?」
「あの子?」
「私が背負ってた……」
「ああ、無事だよ。腹を刺されてたみたいだけど、運良く急所は外れてたお陰で命に別状はないってよ」
「よかった……」
その回答に、ティアは安堵した様子でベッドへと倒れた。
しかし、あの時の光景を思い出し、表情が再び暗くなる。
「だけど……あの子の両親は……」
そこまで言いかけ口を閉ざしたティアの気持ちを、フェイロンは何となく悟った。
「さっき、チラッと聞いた話なんだけど、無理心中だったみたいだな。理由までは分からないけどな」
フェイロンの話に、ティアはやはりと納得した。
急所を外したのは、わずかに残っていた親心が、我が子を死なせたくない、と無意識の行動からなのかもしれない。
だが、あの子はこれから、親に殺されかけたという心の傷を背負いながら、たった1人で生きていかなければいけないのだ。
それはどれだけ苦痛な事だろう。
自分に何か出来る事は無いか、そう考え、ふと1つの提案を思い付く。
「ねぇ、フェイロンさん。1つ、お願いがあるんですけど……聞いてくれます?」
フェイロンに支えられ、ティアは助けた子供が療養している病室を訪れた。
扉をノックすると、中から「はい」という可愛らしい声が聞こえてきた。
室内に入ると、ベッドには10歳前後の女の子がこちらに視線を向けていた。
「お姉さん……誰ですか?」
「私はティア。元気そうで良かったわ」
「もしかして、私を助けてくれたの、お姉さんですか?」
「まぁ、助けたっていうか、外に運んだだけなんだけどね」
少し照れ臭かったのか、ティアはあまり自己主張しない。
「……どうして助けたんですか」
「え……?」
「私なんて、生きてる意味なんて無いのに……」
「そんなこと……」
「じゃあ!どうしてお父さんとお母さんは私を刺したの!?っ痛ぅ……」
感情的になり、少女は声を荒げた。
その反動で、まだ治っていない腹部の傷が痛み、苦悶の表情を浮かべている
ティアは返す言葉が無かった。
何故、と問われても、その心中は少女の両親のみが知り得る事である。
これほどに深い傷を負った少女に、どう接すればいいのか、ティアには分からなかった。
「私なんて……生まれて来なきゃ良かったんだ……!こんなに苦しいのに生きなきゃいけないなら、あのまま死んじゃった方が良かった!!」
「っこのガキ!!!いい加減にしろよ!!」
自暴自棄な少女の発言に耐えかね、フェイロンは怒りに満ちた形相で少女の胸ぐらをつかんだ。
「死んだ方が良かっただと!?ふざけんな!!ティアはなぁ、自分の命も顧みないで、あの火の中に飛び込んでお前を助けたんだぞ!?その本人を目の前にして、よくそんな口を叩けたな!?」
「ちょっと、フェイロンさん!」
ティアが止めようとするも、フェイロンは止まらない。
「だっで……わだじにも……わがらないんだもん……!どうしだら……いいのか……わがらないんだもん!!」
少女は顔を歪ませ泣き出した。
構わずフェイロンは続ける。
「過去にどんな辛い事があろうとなぁ、今ある命はティアに守られた命だ!だったらその命、ティアの為に尽くすくらいの事言ってみやがれ!!」
「……お姉さんの……ために……つくす……?」
「帰る所が無いなら、うちに来ればいい。3食ベッド付きだ。その代わり、お前はこれからティアに救われたその命の恩を返せ。ティアに全てを捧げろ!勝手に死ぬ事は許さねぇぞ!」
フェイロンの言葉に少女はすっかり泣き止み、キョトンとしてしまった。
かなり理不尽な理屈ではあるが、不思議とそこには優しさが込められている様に感じた。
ティアもクスッと小さく笑い、少女に近寄るとその小さな肩を抱いた。
「彼の言ってる事はかなり大袈裟だけど、私も賛成よ」
「え……?」
「今は凄く辛いだろうけど、その命を蔑 ろにしないで?別に尽くして欲しいなんて思ってない。あなたが幸せになること……それが一番の恩返しだから」
少女の瞳から、再び大粒の涙がこぼれ落ちる。
今度は辛い涙などではない。
ここまで自分の事を思ってくれていると知り、嬉しくて堪らないのだ。
目一杯泣き、ようやく治まった所で、少女は改めて2人へ視線を向けた。
「えっと……さっきはごめんなさい。それと、助けてくれてありがとうございます」
「で、どうすんだ?うちに来るのか?来ないのか?」
「もう、急かさないでください!」
結論を急ぐフェイロンをティアが叱責する。
「ごめんなさいね。でも、あなたさえ良かったら、私たちは大歓迎よ」
「あの……それじゃあ、お世話になっていいですか……?」
おずおずと尋ねる少女にティアは笑顔で頷いた。
「まずは使用人見習いからだからな」
「フェイロンさん!!」
不躾な態度のフェイロンに再び叱責するティア。
そんなやり取りが可笑しかったのか、少女はクスッと初めて笑った。
「居候よりも、その方が私も気が楽です。家事もよくお手伝いしてたから、嫌いじゃないので」
少女がそこまで言うならば、ティアも引かざるを得なかった。
「じゃあ、改めてよろしくね。えーっと……」
「セイランです。ふつつかものですが、よろしくお願いします」
そんな冒頭から、シャオメイの母は過去を追憶しながら叙述した。
「宇宙的大企業『レイズ・カンパニー』の御曹司である上に、権威主義のコロニーであるジオC8では、大人であろうと彼に逆らえる者は誰もいませんでした。
彼自身、それが当たり前だという価値観を持って生きてきたんです……。
疑問など持つはずもありません。
その後、大学生になった彼は、ジオC8から離れたコロニーの大学へと進学しました。
とは言っても、理事長は当時のレイズ・カンパニーの社長……彼の父です。
彼を取り巻く環境が変わるはずもありません。
後ろには取り巻きが付いて回り、大学の教授達ですら、彼に強く意見を言える人はいませんでした。
そんな彼と初めて出会ったのは、私が入学して1ヶ月が過ぎた頃……彼は大学3年生の時でした……」
第 9 話 『カゴの鳥⑤』
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
推薦をパスし、第1志望の大学への入学を果たしてから早1ヶ月。
仲の良い友人も出来、大学生活にも大分慣れてきた頃、その日、シャオメイの母──ティアは大学の友人達と共にカフェテリアへ向かっていた。
「次の履修科目、かったるいなぁ~。あの教授の解説、難しすぎて眠くなるんだよね~」
「分かる分かる。必須科目じゃなかったら、絶対取らないよね」
両隣の友人の会話を聞き、ティアは「あはは」と楽しげに笑った。
「あ、そういえばさ、あの話知ってる?」
「あの話?」
不意に話題を変えてきた友人の言葉に、ティアともう1人の友人が首を傾げた。
「2つ上の学年に、レイズ・カンパニーの御曹司がいるじゃない?」
「ああ、いつも子分を引き連れて、好き放題してるって有名な」
「そうそう。何でも、気に入った女子を見つけると、自分の権力を傘にして、手込めにしちゃうって噂よ」
友人の話を聞いた2人の顔が、嫌悪感で引きつった。
「ま、私らみたいにあまり目立たない女子大生はひっそりしてればやり過ごせるけど、ティアは特に気を付けなよ?」
「え!?何で私っ!?」
「そりゃあ美人だし、推薦組で頭もいいし。知ってる?あんた、ウチの学年で結構有名なのよ?」
「ええっ!!?」
自覚が無かったのか、身を乗り出して驚くティアの姿に友人は呆れ顔だ。
「でもまぁ、関わらない様にするのが一番よね……あっ」
会話に夢中になっていた為か、友人は前方の人に気がつかず、肩が当たってしまった。
「ごめんなさ……い……」
謝罪の言葉を言いながら、ぶつかった人物の顔を見上げた友人が固まる。
その人物は、まさに今、話題の渦中にあった、若きリン・フェイロンと、その取り巻き達であった。
「……ってぇな」
ぶつかったと思われる箇所を、フェイロンはまるで汚れたかの様に手で払った。
見下す様な、彼の鋭い眼光に睨まれ、友人達の顔が青ざめていく。
「おい、ぶつかってんじゃねーよ!フェイロン様が怪我でもしたらどうするんだ?」
「あ……あの……ご、ごめんなさい……」
「ああ?謝って済むとでも思ってんのかぁ?」
狼の威を借りた狐、とはまさにこの事である。
粋がった取り巻きが、屈服させようと更に凄んできた。
「いい加減にしなさい」
その場にいた全員がティアへと視線を向ける。
その声は、いつもより低く、怒気を混じらせている様に感じられた。
凛とした瞳は、真っ直ぐとフェイロンへと向けられている。
「女の子にぶつかったくらいでいちいち騒いで。みっともないと思わないんですか?」
「ち……ちょっと、ティア!?」
フェイロンに対し物申すティアに、友人達の顔が更に真っ青になった。
「ああ?お前、誰に向かって口利いて……」
「腰巾着は黙ってなさい!」
その威圧感を帯びた声色に、今さっきまで凄みを利かせていた取り巻きも、思わずビクリと体を震わせた。
外野が大人しくなった所で、改めてフェイロンと向き合う。
「先にぶつかってきたはそっちだろう」
「彼女は謝りました。にもかかわらず因縁をつけてくるなんて、器が狭すぎるんじゃありません?」
「おい、口には気を付けろ。俺はレイズ・カンパニーの御曹司だぞ。その気になれば、今すぐお前を退学にする事だってできるんだぞ?」
フェイロンは口許を小さく上げて、にやりと笑った。
今まで、この一言で屈服しないものはいなかったからだ。
しかし、フェイロンの思惑と反し、ティアからは返ってきた言葉は彼が予想だにしないものであった。
「あなたって、からっぽな人ですね」
「は……?」
「今までもそうやって多くの人を屈服させてきたんですか?だけど、あなたが振りかざしているのは、あなたのお父様の権力じゃないですか。彼らが畏れていたのはあなたのお父様であって、あなたじゃない。もし、レイズ・カンパニーの後ろ楯を失ったら、一体あなたには何が残りますか?」
「……っ!てめぇ……!!」
フェイロンは、わなわなと拳を握りしめていた。
(何なんだ、この女……!?退学にするっつってんだぞ!?怖くねぇのかよ……!?何で折れねぇ!?)
「私を退学にするならお好きにどうぞ。でも、その代わりに認める事になりますよ?あなたはレイズ・カンパニーの後ろ楯が無ければ、何も出来ない、何も残らない『からっぽ』な人間だと……」
「こ……この俺を脅すつもりか……!?」
「何でもかんでも、自分の思い通りになると思ったら大間違いです。私は決してあなたに屈しません」
ティアは腕時計へ視線を移すと、友人へ「行きましょう」と促し、呆然としている彼女達の手を引いて立ち去った。
もはや取り巻き達の誰も、彼女達を引き止めようとはしなかった。
今まで、リン・フェイロンに口答え出来た者がいただろうか?
しかも、それが自分より年下の清楚な雰囲気を漂わせる女子がである。
だが、そのオーラはまるで『女王の資質』を思わせるかの様な威圧感を感じてしまう。
フェイロンは奥歯を噛み締める。
自分が『からっぽ』な人間だと自覚させられ、プライドはズタズタである。
だが、不思議と彼女に対する怒りや憎悪は無かった。
自分の上には父。
自分の下にはその他大勢。
そんなカーストが知らぬ間に出来上がっていた。
しかし今日、その階級のどの位置にも属さない人物と出会った。
プライドを傷つけられながらも、初めて出会った、自分と対等に接してきた少女。
その凛とした瞳、声、立ち姿……全てがフェイロンの脳裏に深く焼き付けられていた。
「はー……怖かった……」
先の出来事に疲弊した様子で、友人は深い溜息をついた。
「大丈夫?」
「半分はあんたのせいだっての」
呆れた様子の友人に額を指で小突かれ、ティアは「痛っ」と声をあげて額を押さえた。
「ティアって怖い物知らずっていうか……時々無茶苦茶な事をするよね」
「そ、そんな事ないわよ!」
「いやいや、入学式の時だって、しつこい勧誘をしてたサークルの部室に乗り込んで、暴れたりしてたじゃん」
「あ、暴れてないよ!あれは、明らかな迷惑行為だったから、お説教をしただけで……」
不本意そうに言い分を述べるティアの姿が何だか可笑しく、友人達はクスッと小さく笑った。
「でも、ま……さっきは助かったわ。ありがとね、ティア」
ティアが無茶苦茶とも言える行動をする時は、決まって誰かの為だと分かっている。
だからこそ、自分達はこうして友達になれたのだ。
友人からのお礼の言葉にティアは一瞬キョトンとするも、すぐに柔らかい笑顔を彼女たちに向けた。
かのリン・フェイロンを言い負かしてから1ヶ月、ティアは今までと変わらぬ大学生活を過ごしていた。
始めのうちは、フェイロンから何かしらの報復があるのでは、と少し身構えもしたが、意外にも彼からのアクションは無かった。
次第にフェイロンとのいざこざの記憶も薄れていき、いつしか思い出す事すらなくなっていった。
そうしてすっかり気を緩めてしまっていたある日の事、午前の講義が終了し、友人と共に講堂を出たティアの前に、再びフェイロンと取り巻き達が現れたのである。
「よぉ、久しぶりだな」
馴れ馴れしく声をかけてくるフェイロン。
彼らの出現に、周囲にどよめきが広がる。
友人達も「げっ」という表情を浮かべ、強い警戒心を露にした。
しかし、一方のティアは、そんな彼らにまるで気付いていないかの様に、「お昼食べに行きましょ」と友人を促し、カフェの方向へ歩き出していた。
「おい、待てよ!!無視してんじゃねぇ!!」
完全に無視された事に憤慨し、フェイロンが叫ぶ。
周囲の生徒達が注目する中、ティアはようやく立ち止まり、振り返る。
「あら、騒々しいと思ったら、リン先輩じゃないですか。私に何かご用ですか?」
わざとらしく、かつ妖艶な笑みを浮かべ、ティアは皮肉交じりの言葉を投げかけた。
売り言葉に買い言葉、反発してくる事を予想していたティアであったが、意外にもフェイロンはおとなしかった。
感情をグッと堪えている様な、そんな違和感を感じさせた。
「……お前に話がある。少し顔を貸せ」
「お断りします」
「俺が『ある』と言ってるんだ!拒否権はない!」
思い通りにならない事に対し、ややイラついたのか、フェイロンの口調が次第に高圧的な物言いになっていく。
それに怯む訳でもなく、ティアは真っ直ぐな瞳で見つめ返し、凛とした態度で向き合った。
「その上からの発言をやめてもらえませんか?私はあなたの手下でも使用人でもありません」
「っ!」
「それに、話があるのはあなた1人のはずでしょう?なのに、何故彼らがいるんですか?」
ティアの視線はフェイロンの後ろに屯(たむ)ろする取り巻き達へ向けられる。
「こいつらは……」
「大昔の大名行列じゃあるまいし、故意に権力を誇示しているあなたのそういう所が嫌いです」
「……!!」
黙りこくるフェイロンから視線を外し、ティアは「行きましょう」と友人を促し歩き出す。
去り際に、「それと……」と補足を加えて。
「話があるというなら、あなた1人で来てください。そしたら、ちゃんと話を聞きます」
その場に残されたフェイロンは、その背中を追いかける事もなく、呆然と立ち尽くしていた。
しかし、その翌日……
「またあなたですか?」
履修科目の講義を終え、教室を出たティアの前に再びフェイロンが現れた。
「話があると言っただろ」
プライドを傷つけられて逆恨みされているのか、はたまた、ただ単に負けず嫌いなだけか。
どちらにせよ、毎回このように付きまとわれるのでは、堪ったものではない。
と、ティアがとある事に気づき、キョロキョロと周囲を見回した。
「ところで、お連れの方は一緒じゃないんですか?」
「あいつらには『もう付いて来るな』って言ってきた」
あっさりと言い放たれた言葉に、ティアは驚いた。
昨日の今日で、彼に一体どのような心境の変化があったのだろうか?
「今日はちゃんと1人で来たぞ。これならちゃんと話を聞いてくれるんだろ?」
(まさか……昨日の言葉を真に受けて……?)
意外であった。
あれほどまでに自己中心的かつ傍若無人な振る舞いをしてきた男が、自分のたった一言で忠実に従った事に。
「……それで、お話というのは?」
「ようやく聞く気になったんだな?」
「別に私は、ちゃんとした対応さえしてくれれば、話くらい聞きますよ」
まるで自分が全く話を聞かない人間と言わんばかりに、勝ち誇った様に嬉しそうな顔をするフェイロンに、ティアは少しムッとした表情を浮かべた。
「それで、お話とは?」
「あ、ああ……」
いざ本題に入る、となった所で、フェイロンの顔から余裕が消える。
「えっとだな……その…………お、お前……」
「お前はやめてください。私にはティアというちゃんとした名前があるんですから」
「あ、ああ……」
妙に素直なのが引っ掛かり、ティアは首を傾げながら次の言葉を待った。
「……ティア」
「はい?」
「今日……ディナーでもどうだ……?」
予想外の発言にティアは目を丸くした。
会えば言い合いしかした記憶がない相手から、まさかの食事の誘いである。
この時、ティアは少なからず警戒していた。
『リン・フェイロンは気に入った女子を、権力を使って手籠めにする』という、友人が言っていた噂を思い出す。
「……それは、デートのお誘いですか?」
「でっ……!?そ、そんなんじゃねぇよ!!」
何気ない言葉に、フェイロンは顔を赤くして狼狽えた。
「ぷっ……あははは!」
その様子に、ティアは思わず笑い出した。
「な、何故笑う!?」
今の反応で確信した。
もし彼が噂通りのジゴロならば、今程度の事で狼狽えるはずがない。
噂は所詮、噂に過ぎなかったようだ。
ティアは気づく。
リン・フェイロンという青年は、本当はただ単に純粋なだけなのかも知れない、と。
純粋すぎるが故に、環境に染まりやすい。
権力主義という環境が、透明だった彼の心を黒く染めてしまったのだろう。
何がきっかけかは分からないが、彼は今、ようやく変わり始めている。
その変わっていく姿を見届けてみたい、という気持ちが、ティアの心に芽生えて始めていた。
「ふふっ、ごめんなさい。今日は特に予定もありませんから構いませんけど、1つ条件があります」
「条件?」
「高級なお店はやめてください。肩が凝りそうな所は苦手なんです」
ティアの提示した条件にフェイロンはきょとんとするも、すぐに小さく笑い、「分かった」と頷いた。
この日、わずかではあるが、2人の距離が初めて縮まった日となったのである。
それから幾度もティアと接していくうちに、フェイロンは少しずつ変わっていった。
かつての高圧的な振る舞いをしていた彼の面影は消えていき、彼女と共に大学生活を楽しむその姿は、一般の大学生と相違ないものであった。
2人は少しずつ惹かれ合っていくも、想いを伝えるには至らず、友達以上恋人未満の関係が続いた。
それから1年が経ち、フェイロンは卒業を迎える。
卒業式が終わり、ティアはフェイロンに呼び出され、敷地内にある教会へとやって来た。
特に信仰心が強い訳では無い為、ここへ足を踏み入れるのは入学式以来の事である。
それでも肌に感じる事が出来るほどに、教会内は神聖な雰囲気で満たされていた。
その中央に、正面の巨大なステンドグラスを見上げている彼の姿があった。
フェイロンは、ティアの気配に気付き、振り返る。
「ティア……」
「フェイロンさん、卒業おめでとうございます」
「あ、ああ……」
「それで、大切なお話とは?」
心なしか、元気の無いフェイロンに首を傾げつつ、ティアは本題を切り出す。
「……ティアには感謝している。ティアに会わなければ、俺はずっと傲慢でからっぽな人間のままだったと思うから……。この1年間は、今まで生きてきた中で一番充実した時間だった。……だけど、今日で俺は卒業してしまう。ティアともなかなか会えなくなってしまう……」
「フェイロンさん……」
「俺は嫌だ……!もっとティアと一緒にいたい!だから……俺と結婚してほしい……!」
「ティア……?何で泣いてるんだよ?」
フェイロンに指摘されて気がつく。
自分の瞳から、大粒の涙が溢れ出ている事に。
「あ……れ……?ごめんなさい……」
ティアは慌てて涙を拭った。
そんなティアの様子を見て、フェイロンは愕然とした。
「……そんなに嫌なのか?」
「ち、違います!すごく嬉しいんです!」
「嬉しい……?嬉しくても、涙って出るものなのか……?」
「当たり前じゃないですかっ!少しは空気を読んでください!」
「わ、悪い……。でも、じゃあ……それってつまり……」
泣きながら怒るティアに圧され、思わず謝りながら、彼女が嬉し泣きをする理由をようやく理解した。
そしてそれは、次のティアの行動によって確信へと変わったのである。
「私もあなたが好きです!ずっとあなたの側に居たいです……!」
ティアがフェイロンの胸に飛び込み、背中に手を回して抱き締める。
フェイロンも恐る恐るティアの背中に手を回した。
初めて触れるティアの体は、自分が思っていた以上に細くて華奢である事を知った。
不意に腕の中のティアが「ふふっ」と小さく笑った。
「どうした?」
「まさか、正式にお付き合いもしていないのに、プロポーズされるとは思っていませんでした」
「ティアへの気持ちを考えたら、『恋人』なんて枠にはとても収まりきらなかった。俺が求めていた関係は、ティアと一生一緒にいられるような関係……それ以外に考えられなかった」
フェイロンの強い思いを聞き、ティアは紅くなった顔色を隠すように、彼の胸に顔を埋めた。
「……ホント、我儘ですね。……だけど、そういう我儘はキライじゃありません」
そう囁く声は、とても幸せに満ちている様に聞こえた。
ティアと婚約を交わしたフェイロンは、その旨の報告を、父である当時のリン社長へ伝えた。
厳格な人であった為、反対されるかと覚悟もしていたが、意外にも父はすんなりと承諾してくれた。
しかし、そこにはフェイロンも知らなかった打算的理由があったのである。
ティアの父は宇宙警察のトップ、警視総監だった。
フェイロンの父にとって、ティアとの結婚は政略結婚と同等の意味を持つものであったのだ。
2人がその事実を知る事になるのは、その後フェイロンを豹変させた『とある事件』が起きた後の事であった。
大学を卒業したフェイロンは、レイズ・カンパニーの系列に位置する、宇宙船の技術開発を主とした子会社へと就職した。
フェイロンはジオC8にある実家から、ティアは今まで通りの賃貸アパートからの通学としており、これはティアの希望でもあった。
不満は当然あったが、「大学に在学中は勉学に専念して卒業したいから」と言われては、フェイロンも同意しない訳にはいかなかった。
就職してから半年、フェイロンの元へ研修留学の話が持ち上がった。
これは親会社の社長である父の差し金であり、ゆくゆくはレイズ・カンパニーの社長の座に着くフェイロンの為に、彼の宇宙工学に関する知識と技術能力の向上を目的としたものである。
研修期間は1ヶ月、その間ティアに会えなくなるのは不本意だが、他ならぬ父からの命令であれば従わざるを得ない。
渋々ながら、フェイロンは1ヶ月間の研修留学へと向かった。
それから1ヶ月後、研修を終えコロニーへと帰ってきたフェイロンは、すぐにティアへ連絡を取り、大学近くのカフェで待ち合わせの約束を取り付けた。
久しぶりの再会に、フェイロンは衝動的にティアを抱き締めた。
ティアも苦笑いしながら、その行為に応える様に優しく腕を回した。
「お帰りなさい。研修お疲れ様」
「ああ……ただいま」
「あの……嬉しい事は嬉しいんですけど……そろそろ離れてくれないと、その……恥ずかしいです……」
ティアに指摘され、フェイロンはハッと我に返り、周囲を見渡した。
立ち止まり、こちらへ視線を受けている通行人が目に入り、慌てて抱擁を解き、フェイロンはティアの手を引いてカフェの中へと入って行った。
注文を済ませた所で、ティアが研修の話題を振る。
「研修はどうでした?身になりましたか?」
「ああ!スゴく勉強になったよ。新しい技術とか、コンピュータプログラムとかを知れたし」
どうやら予想以上に良い研修だったようだ。
出発前の、あの嫌そうな顔が嘘の様である。
「それに、研修の途中で凄い人に会ってさ」
「凄い人?有名な研究者とか開発者とか?」
「そうじゃない。腕が、っていうのかな?小型シャトルのメインコンピュータが起動しないっていう事例があったんだけどさ、その場にいる誰もがその原因を突き止められなかったんだ。終いには丸ごと機材を交換するしかない、なんて意見も出るくらいにさ」
その光景を思い出したのか、フェイロンは呆れた、という様に深い溜め息をついた。
「だけど、そんな時だった。たまたま他の所へ修理の出張に出ていたっていうその人が、騒ぎを聞きつけてやって来たんだ。そしたらどうだよ!?少し弄っただけで、メインコンピュータが起動し始めたんだ!その場にいた誰もが驚いてたよ」
「ふぇ~、凄いですね!」
「俺も思わず震えたよ。宇宙にはこんな凄い技術者がいるんだって。だから俺、研修が終わった後に、その人の
まるで子供の様に興奮気味に話すフェイロンを見て、ティアも自然と笑顔で話を聞いていた。
「あの人は間違いなく宇宙一のメカニックだよ!俺もあんな凄いメカニックになりたい……!本気でそう思った……!」
フェイロンの口から出た彼の『夢』を聞き、ティアは目を見開いた。
今までレイズ・カンパニーを継ぐ事が自分の将来と思っていた彼が、初めて自分から『なりたい』と言った。
彼がようやく一所懸命になれるものに出会えた事で、嬉しさのあまり涙がこぼれそうになる。
それを必死に堪えながらティアは笑顔でフェイロンへ答えた。
「その情熱を忘れない限り、あなたならきっとなれますよ」
ティアの言葉に、フェイロンは嬉しそうに頷くのであった。
それから2年後、大学を無事卒業したティアは、ついにフェイロンと入籍し、晴れて夫婦となった。
この2年間で、フェイロンの宇宙工学に関する才能は開花し、今までに無い新型の宇宙船の開発に成功したりといった数々の成果をあげてきた。
その成果が認められ、フェイロンは『宇宙工学の新星』とまで呼ばれる程に至った。
そんな公私共に順風満帆であった日々に、とある事件が舞い込む。
その日、ティアは付き添いの使用人と共に買い物に出掛けていた。
本当は1人で来たかったのだが、フェイロンが何か遭ったら大変だと言って、お供同伴を強いられたのである。
心配してくれるのはありがたいが、少しは自由な時間が欲しい、というのが本音である。
社長婦人(予定)になったからといって、自分は料理も作りたいし、家事だってやりたい。
全てを使用人に押し付けて、自分は堕落した生活を送るなんて耐えられない。
だから、ティアは止める使用人を押し切って、自ら炊事に買って出ている。
使用人を『使う』のではなく、共に協力するその姿勢が、使用人達から多大な支持を得ている、という事に本人は気づいていない。
「うん!今日の晩御飯の材料はこれで揃ったわ」
「最近野菜が高騰してますからね。より安いお店を見つけられて良かったですね」
「ええ。だけど、それでもキュウリ1本が1ダールだなんて信じられないわ」
とても富豪の会話には聞こえないが、今ではこれが当たり前のやり取りと化している。
これがティアにとっての日常なのだ。
いくら玉の輿に乗ろうが、この価値観を変えるつもりはティアには更々無かった。
高級な食材を使わずとも、美味しい料理はいくらでもある、という事を証明したい、という思いもあるが、何も知らないリン一族が安い食材で作った料理を美味しそうに召し上がる様を見て、使用人と共に心の中でガッツポーズを取ったりする悪戯心があったりもする。
買い物を終え、屋敷までの帰路を使用人と共に並んで歩いていると、ティアはふと嗅覚に刺激を感じ取った。
「ん……?ねぇ、何だか焦げ臭くない?」
「そう言われてみればそうですね……」
ティアはその臭いの原因を解明するべく、鼻をクンクンさせながら、臭いを追った。
「ちょっ……奥様!?」
勝手に行動し始めたティアの後を、使用人が慌てて追いかける。
しかし、進んで数メートルの所で、その原因はすぐに判明した。
目の前で赤々と燃え上がる炎。
その火は次第に燃え広がり大きくなっていく。
燃えているものは、一軒の家屋であった。
「か……火事よ!!!」
ティアが大声で叫ぶ。
その声に反応し、次々に人が集まってくる。
「は、早く消防車を呼んで!!」
「は、はい!!」
ティアに言われ、使用人は慌てて携帯を取り出し、消防隊へ連絡を始めた。
ティアがジッと燃える家屋の中を見つめる。
その様子に気づいた使用人が不審に思い、声を掛ける。
「……奥様?」
「中に……人が……いる……!」
「えっ!?」
『もしもし、どうされました!?』
「あっ、火事です!場所は……」
携帯から聞こえてきた消防隊の応答に、使用人は再度視線を画面に移し、状況の説明を始めた。
「助けなきゃ……」
微かに聞こえたティアの呟きに、使用人が視線を上げた時には、そこにティアの姿は無かった。
「大変だ!!女の人が家の中に飛び込んで行ったぞ!!」
「な!?お、奥様!!!」
(な……何よ、これ……)
煙を吸わないよう、手で口を塞ぎながら室内に飛び込んだティアは、その光景に戦慄した。
床に倒れている大人の男女2人と1人の子供。
腹部からは大量の血が溢れ、その近くには紅く刃が染まった包丁が落ちている。
(し……死ん……でる……の?)
「う……」
微かに聞こえた呻き声。
ティアは視線を向ける。
子供がわずかに身じろぎするのが見えた。
(まだ生きてる……!助けなきゃ!!)
ティアは倒れる子供を背負い、急いで火の海になり始めている家屋を駆け抜けた。
「うっ……」
意識が浮上し、ティアはゆっくりと目蓋を上げた。
一番に視界に入ってきたのは、白い天井であった。
そこで初めて自分がベッドに横たわっている事に気がつく。
顔を横に向けると、そこには心配そうな表情で顔を覗かせているフェイロンの姿があった。
「フェイロンさん……」
「ティア!!大丈夫か!?」
「ここは……?」
「病院だよ」
「病院……そっか……私あの後……気を失っちゃって……」
ティアはゆっくりと上体を起こした。
フェイロンは無事であった事にホッとするも、すぐに眉間に皺を寄せて怒鳴った。
「このバカ!!!何であんな危険な事をしたんだ!!」
久しぶりに聞く彼の怒号。
しかし、今回は何も言い返す事が出来なかった。
明らかに自分に非があるからである。
「下手したら死んでたんだぞ!!?」
「……ごめんなさい」
謝るティアをフェイロンが力強く抱き締める。
「……無事でよかった」
その泣きそうな声を聞き、自分はとても愛されているんだ、と不謹慎ながらも嬉しい思いで満たされた。
「もう二度とするなよ」
自分を案じてくれるその言葉にティアは小さく頷き「ごめんなさい」と再び謝罪の言葉を述べた。
それからしばらくして、フェイロンはようやくティアを解放した。
「そうだ!あの子は?」
「あの子?」
「私が背負ってた……」
「ああ、無事だよ。腹を刺されてたみたいだけど、運良く急所は外れてたお陰で命に別状はないってよ」
「よかった……」
その回答に、ティアは安堵した様子でベッドへと倒れた。
しかし、あの時の光景を思い出し、表情が再び暗くなる。
「だけど……あの子の両親は……」
そこまで言いかけ口を閉ざしたティアの気持ちを、フェイロンは何となく悟った。
「さっき、チラッと聞いた話なんだけど、無理心中だったみたいだな。理由までは分からないけどな」
フェイロンの話に、ティアはやはりと納得した。
急所を外したのは、わずかに残っていた親心が、我が子を死なせたくない、と無意識の行動からなのかもしれない。
だが、あの子はこれから、親に殺されかけたという心の傷を背負いながら、たった1人で生きていかなければいけないのだ。
それはどれだけ苦痛な事だろう。
自分に何か出来る事は無いか、そう考え、ふと1つの提案を思い付く。
「ねぇ、フェイロンさん。1つ、お願いがあるんですけど……聞いてくれます?」
フェイロンに支えられ、ティアは助けた子供が療養している病室を訪れた。
扉をノックすると、中から「はい」という可愛らしい声が聞こえてきた。
室内に入ると、ベッドには10歳前後の女の子がこちらに視線を向けていた。
「お姉さん……誰ですか?」
「私はティア。元気そうで良かったわ」
「もしかして、私を助けてくれたの、お姉さんですか?」
「まぁ、助けたっていうか、外に運んだだけなんだけどね」
少し照れ臭かったのか、ティアはあまり自己主張しない。
「……どうして助けたんですか」
「え……?」
「私なんて、生きてる意味なんて無いのに……」
「そんなこと……」
「じゃあ!どうしてお父さんとお母さんは私を刺したの!?っ痛ぅ……」
感情的になり、少女は声を荒げた。
その反動で、まだ治っていない腹部の傷が痛み、苦悶の表情を浮かべている
ティアは返す言葉が無かった。
何故、と問われても、その心中は少女の両親のみが知り得る事である。
これほどに深い傷を負った少女に、どう接すればいいのか、ティアには分からなかった。
「私なんて……生まれて来なきゃ良かったんだ……!こんなに苦しいのに生きなきゃいけないなら、あのまま死んじゃった方が良かった!!」
「っこのガキ!!!いい加減にしろよ!!」
自暴自棄な少女の発言に耐えかね、フェイロンは怒りに満ちた形相で少女の胸ぐらをつかんだ。
「死んだ方が良かっただと!?ふざけんな!!ティアはなぁ、自分の命も顧みないで、あの火の中に飛び込んでお前を助けたんだぞ!?その本人を目の前にして、よくそんな口を叩けたな!?」
「ちょっと、フェイロンさん!」
ティアが止めようとするも、フェイロンは止まらない。
「だっで……わだじにも……わがらないんだもん……!どうしだら……いいのか……わがらないんだもん!!」
少女は顔を歪ませ泣き出した。
構わずフェイロンは続ける。
「過去にどんな辛い事があろうとなぁ、今ある命はティアに守られた命だ!だったらその命、ティアの為に尽くすくらいの事言ってみやがれ!!」
「……お姉さんの……ために……つくす……?」
「帰る所が無いなら、うちに来ればいい。3食ベッド付きだ。その代わり、お前はこれからティアに救われたその命の恩を返せ。ティアに全てを捧げろ!勝手に死ぬ事は許さねぇぞ!」
フェイロンの言葉に少女はすっかり泣き止み、キョトンとしてしまった。
かなり理不尽な理屈ではあるが、不思議とそこには優しさが込められている様に感じた。
ティアもクスッと小さく笑い、少女に近寄るとその小さな肩を抱いた。
「彼の言ってる事はかなり大袈裟だけど、私も賛成よ」
「え……?」
「今は凄く辛いだろうけど、その命を
少女の瞳から、再び大粒の涙がこぼれ落ちる。
今度は辛い涙などではない。
ここまで自分の事を思ってくれていると知り、嬉しくて堪らないのだ。
目一杯泣き、ようやく治まった所で、少女は改めて2人へ視線を向けた。
「えっと……さっきはごめんなさい。それと、助けてくれてありがとうございます」
「で、どうすんだ?うちに来るのか?来ないのか?」
「もう、急かさないでください!」
結論を急ぐフェイロンをティアが叱責する。
「ごめんなさいね。でも、あなたさえ良かったら、私たちは大歓迎よ」
「あの……それじゃあ、お世話になっていいですか……?」
おずおずと尋ねる少女にティアは笑顔で頷いた。
「まずは使用人見習いからだからな」
「フェイロンさん!!」
不躾な態度のフェイロンに再び叱責するティア。
そんなやり取りが可笑しかったのか、少女はクスッと初めて笑った。
「居候よりも、その方が私も気が楽です。家事もよくお手伝いしてたから、嫌いじゃないので」
少女がそこまで言うならば、ティアも引かざるを得なかった。
「じゃあ、改めてよろしくね。えーっと……」
「セイランです。ふつつかものですが、よろしくお願いします」
つづく