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3期

第 3 話 『未来像』

この日の放課後、ハワードは担任のスペンサーに呼ばれ、進路指導室へと赴いた。

「進路……?」

「そうだ。ハワードはやっぱりお父さんの会社を継ぐ事になるのかな?」

「まぁ、そうなる……のかな」

「やっぱりそうだろうな。分かった、時間を取らせて悪かった」

進路指導は簡単に終わり、ハワードはスペンサーと共に教室を出た。

「じゃあ、気をつけて帰るんだぞ」

そう言ってスペンサーは職員室へと向かって行った。


教室へ戻る間、ハワードは考えていた。

今まで考えもしなかったが、将来自分は父の会社を継いで社長になる……のだろう。

しかし、将来の夢というのは、自分がやりたい職業を目指す事なのではないだろうか?

ハワード財閥を継いで社長になる事は、自分のやりたい事なのだろうか?

ハワードの中で、そんな疑問が浮かんでいた。


仲間の中で一番夢に向かって進んでいるのは、カオルだ。

カオルは宇宙飛行士になる為に、中等部を卒業すると共に養成学校へと行ってしまう。

それを決めたのはカオル自身だ。

ルナは惑星開拓技士になりたいと公言している。

その為にソリア学園の奨学金を勝ち取って転校までしてきた。

シンゴは機械ばっかりいじっているから、きっとメカニックか何かになりたいんだろう。

ベルは父親と同じ仕事がしたいとか言っていた。

という事は、ルナと同様に惑星開拓技士を目指しているんだろうか?

シャアラはよく物語を作ったり、メルヘンチックな事をしている。

将来の夢は絵本作家とか、そんなところだろうか?

メノリはどうなのだろう。

父親と同じ宇宙連邦議員を目指すのだろうか?

それともプロのバイオリニストになるのだろうか?


そう考えると、自分だけやりたい事がいまだ見つかっていない様に思えてきた。

(僕は一体、何がやりたいんだ……?どんな仕事がしたいんだ……?)

中学3年生の秋、ハワードが将来への不安を初めて抱いた日となった。




「あ、ハワード」

教室へ戻る途中、ハワードは工学室の前に立つシャオメイと出くわし、声を掛けられた。

「ん?……何だ、シャオメイか」

「何だとは何よ!私に声かけられるのがそんなに不満な訳!?」

ハワードの態度に、シャオメイがジロリと睨む。

「ひっ!?べ、別にそういう訳じゃ……!」

ハワードはビクッとして首をブンブンと振った。

ハワードに他意が無い事を何とか理解してもらえたのか、シャオメイは「全く……!」と言いながら怒りを静めた様である。

ハワードは、とばっちりを回避できた事に安堵の溜息をついた。

「ところで、お前はこんな所で何してたんだ?」

「あぁ、それは……」

シャオメイが理由を説明しようとするのと同じタイミングで、工学室の扉が開いた。

「シャオメイ、直ったよ!……って、ハワード?」

廊下にいたのがシャオメイ以外にもいた事に少し驚いた様子で、シンゴが工学室から出てきた。

「シンゴじゃないか。一体何やってたんだ?」

「シャオメイの腕時計を修理してたんだ」

そう答え、シンゴはシャオメイに腕時計を渡した。

「すごい……!ちゃんと動いてるわ!ありがとうシンゴ!!」

シャオメイは、起動している時計を受け取ると、やや興奮気味に笑顔で礼を言った。

「理由は分かったけど、何でシャオメイは廊下に立ってたんだ?中で修理してるとこ見てれば良かっただろ?」

「いや……ホラ、邪魔しちゃ悪いじゃない?」

ハワードの質問に、シャオメイは「あはは~」と誤魔化す様に笑った。

本当は、教室の中に2人きりという空間に居たたまれなくなったというのが真相であるが、それはシャオメイの胸の内に閉まわれる事となった。


「ハワードは進路指導だったんだっけ?何事も無く終わった?」

「あ、あぁ……まぁな」

シンゴの質問にハワードは歯切れ悪く答えた。

その様子を疑問に感じ、シンゴとシャオメイは顔を見合わせた。

「ハワード、何かあったの?」

「何か悩みがあるなら言ってみなさい。1人で考えるよりは、少しは楽になるわよ?」

シンゴとシャオメイの説得に促される様に、ハワードは口を開いた。

「……なぁ、シャオメイ」

「ん?」

「お前さ、やっぱり将来はレイズ・カンパニーを継ぐつもりなのか?」

ハワードの質問を聞き、途端にシャオメイの顔が険しくなる。

「冗談じゃないわ!アイツの会社を継ぐなんて、考えただけでも虫唾が走るわ!」

仮にも父親であるはずのレイズ・カンパニーの社長の事を、何故シャオメイはそこまで毛嫌いしているのか、ハワードは甚だ疑問に思った。

「じゃあさ、お前は将来の夢って何かあるのか?」

「ふぇ!?」

ハワードの質問に、シャオメイはふいうちを食らったかの様な声をあげた。

「何だ?無いのか?」

「あ、あるわよ!私にだって夢くらい……!」

「じゃあ何だよ?」

ハワードに押され、シャオメイは渋々ながら心中を暴露した。

「私……実は医者になりたいんだ」

「へぇ~、そうなんだ!シャオメイ頭良いし、きっとなれるよ!」

シンゴからの賛辞を受け、シャオメイは恥ずかしそうに頬を紅く染め「あ、ありがとう……」と小さく礼を言った。

「ハワードはどうなの?」

「ぼ、僕は……」

シンゴに問われるも、ハワードはその先の言葉を言えずにいた。

「あ!そういえば、今日はパパが早く帰ってくるから一緒に夕飯を食べる約束をしてたんだった!そ、それじゃあな!!」

結局出た言葉は、はぐらかす様な言い訳であった。

そう答え、ハワードは逃げる様にその場から走り去った。




ハワードが教室に戻ってきた頃には、ほとんどの生徒が帰宅や部活動ヘと赴いており、室内は閑散としていた。

そんな哀愁漂う放課後の教室に、いまだ残っているベルとシャアラの姿が目に入った。

ベルはイスに座り、電子ノートを真剣な表情で眺めている。

その隣の席には、シャアラがこちらもまた真剣な表情でベルを眺めていた。

「何やってるんだ?2人とも」

「あ、ハワード!」

「進路指導は終わったのかい?」

ハワードの存在に気付き、シャアラとベルが顔を向けた。

「ま、まーな。……ベルは何を見てるんだ?」

ベルの手中にあるものが気になり、ハワードが顔を覗かせながら尋ねる。

「これかい?シャアラが書いた物語だよ」

「ベルに率直な感想を言ってもらいたくて、無理言ってお願いしたの」

「小説って……メルヘンのか?」

シャアラの頼みとはいえ、メルヘンチックな物語を真剣に読むベルの図が、何となく痛々しく感じてしまい、ハワードは顔を引きつらせた。

「ううん。ファンタジーではあるけど、メルヘンチックな内容ではないよ」

「へ!?そうなのか!?」

意外だとでも言うように、ハワードが驚きの表情を見せると、シャアラは心外そうに頬を膨らませた。

「そんなに驚かなくてもいいじゃない」

「だって、シャアラといえばメルヘンちゃんだろ?それがメルヘンの無い物語だなんて、どんな心境の変化だよ!?」

「私だって、いつまでも現実から目を逸らして夢を見続ける訳にはいかないもの。私の中にある『ガラスの靴』をそろそろ置いていかなきゃ」

「ガラスの靴?何だそれ」

謎の単語が気になり、ハワードが首を傾げて尋ねる。

「女の子は、みんな心に『ガラスの靴』を持っているの。素敵な出来事に憧れたり、夢を見たり、ね」

「ふーん……空想みたいなもんか?」

「そうね。それって大人になるにつれて、消えていくものでしょ?でも……私は今でも『ガラスの靴』を心に持っているの」

「それは別に悪い事じゃないんじゃないかな?大人になっていくにつれて消えていくものだからこそ、大人になっても持ち続けていられるのは素敵な事だと俺は思うよ」

ベルの意見を聞き、シャアラは嬉しそうに小さく微笑んだ。

「ベルにそう言ってもらえて嬉しい。でもね、それは逃げていただけだったの。現実から顔を背けて空想の世界に逃げてただけ……。だから、私も大人にならなくちゃ!どんな厳しい現実もしっかり受け止めて、前を向いて歩くの!それがルナとサヴァイヴでの生活に教わった事だから……!」

「シャアラ……」

ハワードはシャアラの思いを聞き、圧倒された。

これが同い年の少女が考える事なのか、と。

シャアラの心の成長は、同時にハワードを焦らせた。

見知った仲間が、急に遠く感じたのだ。

まるで自分だけ置いていかれた様な、そんな気分であった。

「……シャアラは将来の夢とか、もう決まってるのか?」

聞くのが怖いが、ハワードはおずおずと尋ねた。

「将来の夢、かぁ……。正直私はルナやカオルみたいに立派な夢を持っているわけじゃないし、将来何になりたいとか、まだ決まってないかな?」

「そ、そっか……」

ハワードはホッと安堵の溜息をついた。

それは、将来の夢が決まっていないのは自分1人ではない、という思いからなのだろう。

「でも……」

「え……?」

続けて逆説の接続詞を言うシャアラの声に反応し、ハワードは顔を上げた。

「私ね、私達の事を物語にしてみたいな、って思ってるの」

「僕達の事?」

「えぇ。私達がサヴァイヴで経験した事、感じた事、その全てを本にして、みんなに読んでもらえたらなって。将来の夢って程じゃないけど、私の目標かな?だからベルに読んでもらってる物語は、その為の第一歩なの。私達の経験した物語にメルヘンなんて無かったしね!」

「そ、そっか……」

本当は仲間の目標を応援すべきなのだろう。

しかし、今のハワードにはそれが素直に出来なかった。

ハワードには、シャアラの言う様な『目標』すら無いのだ。

「じゃ、じゃあ僕は帰るから。今日はパパと夕飯で……」

ハワードは机の上に置きっぱなしのカバンを手に取ると、先程と同じ言い訳を口に出し、ぎこちない笑顔で教室を飛び出していった。




1人失意のもと廊下を歩くハワードの耳に、ふと柔らかに流れるメロディーが聞こえてきた。

ハワードは誘われる様にメロディーが流れている方へと足を運んだ。

ハワードが辿り着いたのは音楽室であった。

「この音は……ヴァイオリン……?」

ハワードは扉の窓からそっと室内を覗いた。

弾いていたのはメノリであった。

その音質は、何か心休まる様に感じられる。

小さい頃からパーティー等で生のオーケストラは何度も見てきたが、メノリが奏でる音は、今までに感じた事の無い不思議なメロディーであった。

──ウィーン

「うわっ!?」

突然扉が開き、体を寄せていたハワードは、教室内へ倒れ込んだ。

「ハワード……そこで何をしている?」

長年の付き合いからだろうか、声を聞くだけでメノリの今の表情が窺えた。

ハワードが恐る恐る顔を上げると、予想どおり眉間にシワを寄せたメノリの顔が目に入ってきた。

「い、いや……何か綺麗な音が聞こえたもんだから……」

「っ!?」

ハワードから出た意外な言葉に虚を衝かれ、メノリの中の怒りがどこかへと飛んでいってしまった。

「と、とにかく!盗み聞きなど悪趣味だ!聞く気があるならちゃんと入って聞け!」

照れ隠しなのか、メノリは目を逸らしてハワードに訴えた。

「あ、あぁ……」

ハワードも今日ばかりはメノリの悪態にも言い返す事無く、素直に従った。

その様子に気付いたメノリが、今度はハワードに視線を向けて話し掛ける。

「いつもの元気はどうしたハワード。覇気が無いぞ?何かあったのか?」

メノリが珍しく気に掛ける言葉を送るほど、現在のハワードは意気消沈していた。

しばしの沈黙の後、ハワードはゆっくりとメノリへ同じ質問を投じた。

「なぁ、メノリ」

「何だ?」

「お前の将来の夢って何だ?」

「どうした突然?」

「ちょっと気になってな」

「私は……父と同じ宇宙連邦議員を目指すつもりだ」

メノリの回答に、ハワードは目を丸くした。

自分以外で、初めて親の跡を継ぐと答えた者に出会えた事が、何故だか嬉しく感じられた。

「でも、そんなにヴァイオリンが上手いのに、プロとか目指そうとか思わないのか?」

「確かにヴァイオリンは好きだ。でもそれ以上に私はやりたい事を見つけたからな」

「……やりたい事?」

その言葉が再びハワードを不安にさせた。

自分にはやりたい事がない。

さっきまで同胞だと思っていたメノリが急に遠く感じられた。

「私は、サヴァイヴと外交を結びたい。そして、アダムと会うんだ」

それはサヴァイヴを離れる時に、メノリとアダムと約束した事であった。

その約束の為に、メノリは宝物であるヴァイオリンをアダムに渡したのだから。

「そういうお前はどうなんだ?」

不意に今度はメノリが質問をした。

またはぐらかそうとも考えたが、ハワードを見つめるメノリの目は、それをさせまいと言っている様であった。

ハワードは諦めた様に、自分の本心を話した。

「僕は……よく分からないんだ。今までずっと、将来はパパの会社を継ぐのが当たり前だと思ってた……。でも、それは僕が本当にやりたい事じゃないと思うんだ……。みんな自分のやりたい事や夢を持ってるのに、僕だけ何も見つかっていない……何か僕1人だけ置いてかれたみたいで不安なんだ……!」

「ハワード……」

ハワードの胸の内を聞き、メノリは掛ける言葉が見つからなかった。

ハワードの悩みは進路の事だ。

同じ一生徒である自分がアドバイスできる立場ではない。

2人の間にはしばしの沈黙が流れた。


「なぁ、ハワード」

その沈黙を破り、メノリが話し掛ける。

「お前の将来の事だから、私が言うべき立場ではないのかもしれないが……ハワードにも必ず転機は来る」

「転機……?」

「きっかけ、というか……今回だって、ハワードにとっては1つの転機だろう?ハワード財閥を継ぐ事は、自分が本当にやりたい事じゃないと分かっただろう?」

「でもそれだけじゃあ……」

「焦るなハワード。きっかけが訪れる早さは人によって違う。私達の中では、恐らくルナとカオルが最も早かったのだろう。だから先の事まで見据えているんだ」

「………」

「だが、むしろルナとカオルの様な奴らの方が少数である事も覚えておけ。少なくとも、ソリア学園の生徒の半数以上は自分の将来についてはっきりとした答えを出せないでいる」

「……何でそんな事分かるんだ?」

随分と事情に詳しいメノリに、ハワードは疑いの目を向けた。

「前に全校生徒を対象としたアンケート調査をやっただろう。あの集計は生徒会がやっていたからな」

メノリの説明に、ハワードは「なるほど」と納得した。

それと同時に、自分の様な境遇の生徒が過半数いるという事実を知り、少しだけ心が軽くなった気がした。

「……僕にも、そのうちやりたい事が見つかると思うか?」

「私は、きっかけというものが皆に平等にあるものだと考えている」

メノリの周りくどい肯定に、ハワードは「ははっ」と声を出して笑った。

「相変わらず面倒くさい言い回しするよな。ストレートに『見つかる!』って言えばいいのによ」

「大きなお世話だ」

ハワードの発言にムッとするも、いつもの調子に戻ったハワードに、メノリは内心安堵していた。

「そういえば、ルナとカオルだけ見てないけど、あいつらもう帰ったのか?」

放課後の学校をグルグルと回ったが、仲間の中でその2人にだけ遭遇していない事に気付く。

「カオルはカフェのアルバイトだ。ルナは今日傘を忘れたそうで、バイト先に置いてある傘を取りに行くとかで一緒に下校した」

「ふーん。相変わらず仲が良いよな、あの2人」

「……あぁ、そうだな」

ハワードは深い意味無しに言ったのだろうが、事情を知る者からすれば、意味合いが変わる。

ルナがカオルに好意を抱いているという事を、臨海学校の夜にメノリは知った。

これを知っているのは、仲間内では女子だけ。

驚きはしたが、不思議と納得できたのもまた事実であった。

それだけ、2人は『お似合い』だと思えた。

ただし、あくまで分かっているのはルナの気持ち。

カオルの気持ちはメノリもシャアラも分からない。

(カオルはルナをどう思っているんだろうな……感情の起伏が乏しい分、読み取りづらいしな)

そんな思いを抱きながら、メノリは雨降る窓の外へと視線を向けた。




『雨』が降りしきるカフェへ続く住宅街の道を、ルナとカオルは同じ傘に入りながら歩いていた。

「カオルは今日の進路指導でどんな事を話したの?」

「大した事は話してない。アマルテア学院の編入試験に関する事くらいだ」

「あ……そっか、もうそんな時期なのね。早いなぁ……」

カオルが養成学校への編入を先延ばしにしてからもう半年になる。

月日の流れる早さを、ルナは改めて実感した。

このスピードで残りの半年が経過してしまうと思うと、今この時間が止まってしまえばいいのに、とルナは考えてしまう。

その思いが少なからず表に出てしまい、カオルへ返答するルナの表情は少し寂しげであった。

カオルもそんなルナの心情に気付いてはいるものの、慰めるような行為をする訳でもなかった。

中途半端な慰めなど、何の意味も成さない。

逆にルナに悲しみを与えるだけである。

カオルは「あぁ、そうだな……」とだけ返した。

やや湿っぽくなった空気を変えようと、ルナが話題転換を講じる。

「ところで、カオルはどうして宇宙飛行士を目指そうと思ったの?」

「何だ突然」

「そういえば聞いてなかったなぁ、って思って。何かきっかけはあったんでしょ?」

ルナの質問に、カオルは苦笑いを浮かべ、視線を『曇り』の天球へと向けた。

「きっかけか……敢えて言うなら、あの頃の俺はただ、1人になりたかった……それだけだと思う」

「……え?どういう事?」

しかしカオルはそのまま口を閉ざした。

その表情は悲しみを帯びている様に見えた。

「カオル……」


パシャッ

カオルの表情に気を取られ、ルナは道に出来ていた小さな水溜まりを踏んでしまった。

しかし次の瞬間、ルナの頭の中に何かの映像が流れ込んできた。


★ ★ ★ ★ ★ ★ ★

リビングのソファーに座りグラスに入った酒を嗜む2人の男女。

そのリビングの入り口に立ち、中の様子を窺う幼い頃のカオルの姿。

男が入り口に立つカオルの存在に気付く。

男は、手に持っていたグラスをカオル目がけて投げつけた。

グラスは壁にぶつかり、ガラスの破片が飛び散る。

「遅ェんだよ!どこほっつき歩いてやがった!早く晩飯の用意をしろ!」

まるで召し使いに言うような台詞を、カオルに吐く。

「生意気な目をしてやがる……」

男は手に酒瓶を持ってカオルに近づくと、その瓶でカオルの頭を殴りつけた。

瓶はガシャーンと大きな音をたてて割れ、カオルは床へと倒れた。

今ので殴られた部分を切ったのか、カオルの額からタラリと血が流れる。

女の方はその様子を楽しんでいるかの様に、薄ら笑いを浮かべて眺めていた。

「テメェなんざ、生きてる価値もねぇ人間なんだよ!誰からも愛されねぇ!必要とされねぇ!知ってるか!?てめぇみたいなのを疫病神っていうんだよ!!」

そう言って男と女は高笑いした。

床にひれ伏したまま、カオルは虚ろな目で2人を見つめていた。

★ ★ ★ ★ ★ ★ ★


「ルナ……?どうした?」

カオルの呼び声が聞こえ、ルナは我に返った。

「え?あ……う、ううん!何でもない!」

首を振り、笑顔を繕いながら、ルナは先程頭に流れ込んできた映像を思い出していた。

(今のは……カオルの記憶……?)

それを認めるには、あまりにも恐ろしく、あまりにも悲しい内容であった。

「ルナ……顔色が悪いぞ?本当に大丈夫か?」

カオルが心配そうな表情で見つめながら、ルナの額に手を当てた。

「熱は……無いようだが、風邪の引き始めかも知れないな」

「ううん!本当に大丈夫だから気にしないで?」

余計な心配をさせてしまった、とルナは慌てて首を横に振った。

「無理するな。送ってく」

ルナに有無も言わさず、カオルはくるりと反転し、ルナのアパートの方へと歩き始めた。

1つの傘に入っている為、ルナも否応なしにカオルに従わざるを得なくなる。

「でも……そしたらカオルがバイト遅刻しちゃうわ」

「今はルナの方が最優先だ」

その言葉がルナの心に浸透する。

(どうしてカオルは、そんなに優しいの?あれがカオルの記憶なら、カオルはとても辛い目に遭ったはずなのに……)

ふとルナの足が止まった。

その視線はカオルを見据えたまま。

カオルも必然的に歩みを止めた。

「どうした?」

いつも気に掛けてくれるその優しさが、ルナの秘めたる想いを募らせる。

気が付くと、ルナの手がカオルの両頬にそっと触れていた。

「ル、ルナ……?」

ルナの不意な行動に、カオルはドギマギした。

それでもルナが雨に濡れないよう、ルナから距離をとる事はしなかった。

そんなカオルのさり気ない優しさに触れ、今までずっと押さえ込んでいたルナの理性がついに崩れ始める。


静寂な街路に響き渡るのは雨音だけ。

その空間は、もはや2人だけの世界となっていた。

カオルの頬に当てていた手は、滑るように動き、首に腕を回す姿勢となる。

2人の距離はほぼゼロ。

そこからさらに、ルナの顔がゆっくりとカオルの顔へと近づく。


プップー!!

その空気を破る様に耳に飛び込んできた車のクラクション。

その音に、ルナがハッと我に返り、慌ててカオルから離れる。

「あ……わ……私……い……今……」

自身の無意識の行動を振り返り、ルナの顔が耳まで真っ赤になった。

「あ……ご……ごめん!!!」

ルナはその場から逃げるように、バシャバシャと水を跳ねらせて走り去っていった。

その場にはカオルが唯1人呆然と立ち尽くしていた。

(……俺は今、何をしようとしてた……?)

カオルは先程の自分を罵倒した。

ルナの行動に硬直した、のではなく、動く気がなかったのだ。

雰囲気に飲み込まれたルナを制止する訳でも無く、あわよくば、その雰囲気に流されても構わないとさえ考えてしまっていた。

(運良く車が通ってくれたお陰で免れたが……危うくルナを傷つけてしまう所だった)

カオルは自身の理性の弱さに深い溜息をつくと、再び反転し、重い足どりでカフェへの道を歩き出した。

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