2期
そんな立っているだけで汗ばむ様な屋外に対し、とあるアパートの一室はエアコンによって快適な室温に保たれていた。
その寝室のベッドの上では1人の少女が心地良さそうに寝息をたてている。
背中に掛かるくらいにまで伸びた緋色の髪、透き通る様な白い肌、長い睫毛……5歳児でありながら容貌端麗という言葉がぴったり当てはまる。
少女は夢地を辿りながら、時折その小さな体で寝返りをうつ。
そんな空間に響くエレベーターが起動する音。
昇ってきた人物はベッドへと近づき、眠る少女の体を揺すり優しく声を掛ける。
「イヴ、朝よ。起きて一緒に朝ご飯食べましょ」
ルナの声によって覚醒したイヴは、眠たい目を擦りながらのそりと上半身を起き上がらせた。
「おはようイヴ」
ルナはニコリと微笑んでイヴに朝の挨拶をする。
「ふぁ……おはよぉ」
眠そうにあくびをしながらも、ルナの笑顔につられるかの様にイヴも笑顔で挨拶を返した。
第 13 話 『真夏の夜の夢②』
ルナがイヴを引き取ってから1週間が経過したが、いまだイヴの所在を求める届出は無い。
当初はイヴがホームシックになるのではないかと不安に思っていたが、今のところその様な素振りは見られない。
むしろルナとチャコとの共同生活にすっかり馴染んでいるようであった。
「いただきまーす!」
手を合わせて食事の挨拶をし、イヴは食卓に並べられたトーストとスープを食べ始めた。
「ほぉら、そんな慌てないの。口の周りについてるわよ」
イヴの愛くるしい仕草にクスッと微笑みながら、ルナはハンカチでイヴの口まわりに付いた食べカスを拭いた。
口元をグシグシと拭かれながら「ふぁーい」と喋りづらそうにイヴが答える。
「何ちゅーか、ホンマの親子みたいやな」
2人のやり取りをジュースを飲みながらジーッと観察していたチャコがおもむろに口を開いた。
「もうすっかりルナもイヴの母親になっとるしな」
「そ、そうかな?」
チャコの言葉に、ルナは少し照れた様子を見せる。
しかしそこで終わらないのが、さすがチャコとでも言うべきか。
「さぁて、そうなるとイヴのおとーちゃんは誰になるんやろーかなぁ?」
チャコが「ひっひっひ」と意地悪そうな笑い声を出しながら言う。
「なっ……!?」
チャコの言葉の真意を瞬時に察知し、ルナは顔を赤くして言葉を詰まらせた。
チャコがその人物の名を挙げずとも、ルナの脳内に浮かぶのは唯一人。
その相手と将来そうなりたいという願望が自分の中にある事に気付かされ、ルナは更に顔を赤らめるのであった。
「ほぉれ、イヴもルナの事『ママ』って呼んでええんやで?」
「チャコ!!」
イヴまで巻き込もうと目論むチャコに、ルナは顔を赤くしたまま怒鳴った。
「呼んで……いいの?」
「「……へ?」」
ポツリと洩らした言葉に、不意に2人の動きがピタリと止まり、イヴへと視線を向けた。
そのイヴの表情は真剣そのもの。
間違いなくチャコの冗談を真に受けてしまっていた。
ルナはチャコの首根っこを引っ掴むと、部屋の隅へ連れていき、イヴには聞こえないよう小声でチャコへと訴えた。
「ちょ、ちょっと!イヴが本気にしちゃったじゃない!!どうするのよ!?」
「いや……まさか本気にするとは思わんかったんや。でもええやん、呼ばしてやっても」
チャコは「なはは~」と誤魔化す様に愛想笑いをした。
「あのねぇ……」
ルナが呆れたようにチャコを睨む。
「ゴメンなさい……」
ふと耳に入った謝罪の言葉に、ルナとチャコが再度イヴへと視線を向けた。
2人の目には哀しげな表情を浮かべたイヴの姿。
「ど、どうしてイヴが謝るの!?」
ルナは慌てた様子でイヴに尋ねる。
「だって……困らせる様な事言っちゃったから……」
イヴの瞳には涙が溜まって潤んでおり、その目で見つめられたルナとチャコは何故か罪悪感に見舞われた様な感情を抱いてしまった。
「う……」
チャコにはこれと似たような感覚に憶えがあった。
それはルナと初めて出会ったあの日、新しくエレガントな名前を付けてくれとリクエストした結果、『チャコ』と命名され、それを断った時ルナは泣き出しそうな表情を向けてきた。
今のイヴは、当時のルナの表情によく似ていた。
チャコが最も苦手とする表情であった。
こんな顔をされたら、もはや対抗する術は無い。
「ルナ……呼ばしたり」
先程とは変わり、チャコが真剣な口調でルナへ囁く。
「え……でも……」
「何だかんだ言うてイヴはまだ5歳や。母親恋しい時期やろうし、きっとルナをおかーちゃんと重ね合わせとるんや」
両親がいない寂しさはルナには痛い程よく分かる。
表に出さないが、本当はイヴも両親に会えなくて寂しい思いをしているのかもしれない。
だからそれでイヴが安心するのなら……
自分を母親と重ねる事でまた太陽のような笑顔を見せてくれるのなら……
本当の母親と会える時まで今は『ママ』ぐらい呼ばせてあげてもいいだろう。
「……そうね」
チャコの提案にルナは頷いた。
そしてチャコを床へと降ろすと、イヴと向き合った。
「イヴは本当にいいの?私なんかがお母さんの代わりで……」
ルナの質問にイヴは大きくコクリと頷いた。
「そっか!」
イヴの意志を再度確認し、ルナは笑顔を向けた。
「呼んで……いいの?」
イヴの口からは先程と同じ質問。
しかし今度はしっかりと返事が返ってきた。
「いいよ!」
その言葉を聞くと、イヴは「ママ!」と呼んでルナの胸に飛び込み抱きついた。
ルナもそれを優しく抱き留める。
「えへへ♪」
抱きつくイヴの表情は今までで最も幸せそうにルナには見えた。
その顔を見ているだけで、不思議と心が暖かくなっていくようであった。
「あー……お取り込み中で悪いんやけど、ルナは学校行かんでええんか?」
コホンとわざとらしく咳払いをするチャコに言われ、ルナは視線を時計へと向けた。
「あ……あああああ!?」
ルナは現在の時刻を見て叫び声をあげると、慌てて身支度を始めるのであった。
玄関までイヴとチャコが見送りをする。
「イヴ、チャコと仲良くお留守番しててね?」
ルナがイヴの頭を撫でながら言葉をかける。
「うん!」
イヴはルナにギュッと抱きつき、顔を上げると、満面の笑みを向けた。
「ママ、行ってらっしゃい!」
それは間違いなく、他の誰でもない、ルナにのみ向けられた笑顔であった。
(か……可愛い!!)
その天使の様な笑顔は、ルナの中に眠る母性本能を強く刺激した。
「行ってきます!」
ルナも幸せそうな笑顔をイヴに向け、手を振りながら学校へと向かっていった。
(ルナは完全にイヴにメロメロやな……)
玄関を飛び出していったルナを見て、チャコは心の中でそんな感想を述べた。
チャコがボーッと玄関の扉を眺めていると、イヴがチャコの腕に自分の腕を絡ませてギュッとしがみついてきた。
「ん……?どうしたんや、イヴ?」
「チャコ、遊ぼ!」
イヴが屈托の無い笑顔でチャコを誘う。
自分に向けられるその笑顔に、チャコは思わずドキリとした。
(な……なんちゅう笑顔で言ってくんねん!ごっつ可愛いやんけ!!)
「……ダメ?」
「そ、そんな訳ないやん!モチロンええで!!」
イヴの不安げな声を聞き、チャコが慌てて了承の意思を伝える。
するとイヴはパァッと笑顔になり、チャコの腕を引いてダイニングへと歩き出した。
(ダメや……ウチもイヴには勝てる気がせんわ……)
前言撤回、チャコもイヴにメロメロであった。
「で、何して遊ぶん?ここにあるのは確か……トランプとリバーシとチェスくらいやな」
「じゃあチェスやろ!」
「ほぉ、イヴはチェスできるんか。ええで」
感心した様子でチャコはいそいそとチェスボードをクローゼットの奥から取り出し、卓上に置いた。
「しかしウチにチェスで勝負挑むとは、イヴも運が無いなぁ」
駒を並べながらチャコが不敵な笑みを浮かべる。
「チャコ得意なの~?」
「ウチはロボットやで?演算の速さで人間に負ける訳がないやん」
「ふぅん……よし、準備いいよ」
チャコの挑発にも特に動じる事もなく、イヴは盤上の駒を並べ終えた。
「じゃあ始めよか。よろしくお願いします」
「お願いしま~す」
お互いお辞儀をして駒を動かし始めた。
時刻は正午。
本来ならば昼休みとなる時間であるが、今日に限ってソリア学園の生徒等は午前の部をもって下校を始めている。
今日は1年の前半を締めくくる終業式。
明日からは待ちに待った夏休みが始まる。
「夏休みだー!!!」
終業式が終了したと同時にハワードが歓喜の声をあげた。
「やかましい!!少しは落ち着け!!」
はしゃぐハワードにメノリの叱声が飛ぶ。
「これが落ち着いてられるかよ!夏休みだぞ?夏休み!!海水浴にキャンプに、楽しいイベント目白押しなんだぜ!?」
ハワードの凄みに押され、メノリは思わず身を引いた。
遊びが絡むとハワードは目の色が変わる。
やる気・積極性が普段と比べるとまるで変わるのである。
そのエネルギーをもっと別の事に注げないものか、とメノリは心の中で溜息をついた。
「遊びばかりに
「あー!!何でお前はそう楽しい気持ちに水を差す事ばかり言うんだよ!!」
例によってメノリとハワードの口喧嘩が始まった。
「帰るか」
2人をそっちのけにして、帰り支度を始めたカオルに残りの面々は苦笑いを浮かべた。
下校の道中、シャアラがルナとメノリに話し掛ける。
「そういえば、2人は臨海学校の時に使う水着って持ってる?」
「ある事はあるが……サイズはどうだろう?」
「私も同じ。水着なんて最後に着たの3、4年くらい前だしね」
シャアラの質問にメノリとルナは苦笑いして答えた。
「ねぇ、これから買いに行かない?」
シャアラの提案にルナとメノリは少し考えた後、首を縦に振った。
「そうだな、どうせ買う事になるんだから今日買いに行くのもいいかもしれないな」
「うん!」
2人の返事を聞き、シャアラの表情がぱぁっと明るくなる。
「何だ?お前達水着買いに行くのか?」
3人の会話に口を挟んできたのはハワード。
「ハワード聞いてたの?」
「この距離なら聞こえるに決まってるだろ!」
まるで盗み聞きしていたかのような言われ様にハワードがムッとしてシャアラに言い返した。
「でも確かに僕も去年より背も伸びてるはずたし、必要かもしれないな。……よし!僕も一緒に水着買いに行く!」
「「は?」」
ハワードの提案に、男女両者から怪訝な声があがる。
「ハワード……あのさぁ」
シンゴが呆れた様子でハワードに話し掛ける。
「何だよ?」
「もう少し考えて発言した方がいいと思うよ……」
「は?」
シンゴの言葉の意味が分からず、ハワードは首を傾げつつ、女子へと視線を向けた。
ルナは苦笑い、メノリは呆れ顔、そしてシャアラは顔を赤くしていた。
「ハワードのえっち……」
「は?何で!?」
顔を赤くしたシャアラにバッサリと言われ、ハワードは意味も分からず狼狽した。
「お前はもっとデリカシーという言葉について学べ」
後ろからポツリとカオルの囁く声が聞こえた。
「え?おい、カオル!?どーいう意味だよ!?」
カオルはそれに返答する事なくスタスタと早足で歩き出した。
ハワードは混乱した様子でカオルを追い掛けた。
そんな2人のやり取りをベルはクスッと微笑んで眺めていた。
時刻は回って夕方。
お店のロゴの入った紙袋を携え、ルナは帰宅した。
扉を開け「ただいまぁ」と呼び掛けると、ダイニングからイヴが笑顔で駆け寄って来た。
「お帰りママ~!」
そのままルナへギュッと抱きつく。
そんなイヴの行動にキュンとしながら、ルナは微笑んでイヴの頭を優しく撫でた。
「おぉ……ルナか……お帰りぃ……」
イヴに続いて出迎えてきたチャコにルナはビクッとした。
いつものやかましいくらい元気の良いチャコが、何故かテンションが低かった。
少なくとも朝は元気があったはずである。
一体チャコの身に何があったのだろう。
「ど、どうしたのチャコ?」
ルナが恐る恐る尋ねる。
「……イヴとは、もう二度とチェスはやらん……」
「……はい?」
話を要約すると、チャコは得意だと自負していたチェスでイヴに負けたらしい。
しかも10連敗。
チャコ曰く「イヴの頭はロボットの演算力を超越しとる……」との事。
色々言い訳しているが、要は5歳児に負けた事がショックだったらしい。
「へぇ、イヴ凄いわね!チャコに勝っちゃうなんて」
「えへへ♪」
ルナに褒められ、イヴは幸せそうな笑みを浮かべた。
「イヴ!明日は神経衰弱で勝負や!」
余程悔しかったのだろう、チャコは5歳児に対し宣戦布告をした。
しかも今度は記憶力の試される神経衰弱をチョイスした。
イヴとしては、明日も遊ぶ約束をしてくれた、と受け取っているようであるが。
無邪気に笑うイヴと唇を噛み締めて悔しがるチャコ。
血の繋がりは無いはずなのに一緒にいて楽しい。
そんな新しい家族の形に、ルナは幸せを感じるのであった。
つづく