月神官の憂鬱
太陽が西へと傾き、うっすらと空がオレンジに染まっていく。幻想的に色を変えてゆく美しい空の下で、一人の女性が子どもたちに囲まれていた。
淡く輝く月の色をした長い髪が印象的な女性は、黒のキャソックに身を包み、慈愛を感じさせる微笑みを湛えながら、子どもたちの話に耳を傾けていた。
家族のこと、友達のことを口々に語る子どもたちの話には脈絡はないものの、それを嫌がる様子もなく、嬉しそうに聞き役に回っている。
彼女の元に子供たちが集まっても、大人たちは気にも留めない。安心して任せているのだ。子供だけではなく大人たちの信頼も厚い彼女の名は、アメリア。月教会に身を置く女性である。
「アメリア様、あのね──」
口々に喋る子供たちの中には、裕福な家の子供もいれば、貧しい家の子供もいるが、アメリアは分け隔てなく接している。神に仕える身といえ、一人の人間である。人によっては、貧富の差で扱い方を明らかに変えることもあるのだが、アメリアにはそのような気持ちはないようだ。
人に優劣はないと月教会では説いているが、それが実践できているのはごくわずかだろう。誰にでも平等に扱うアメリアを疎ましく思う者がいるのは、事実であった。
町の住人は、「アメリア様」と当たり前のように呼ぶほどに尊敬しており、そして、深く慕っている。それが一部の神官たちにはおもしろくない。しかし、その気持ちに反して、人々はアメリアの周りに集まっていた。
それはこの町――ファレンの日常の一部であり、陽が落ち切る前に子どもたちは帰ってゆく。特に漁師の住み暮らす地区は灯りが少ない。遅くなりすぎると危険なのである。
ファレンは南北に伸びる目抜き通りの中程に大きな広場がある。そこには、東に太陽神殿、西に月教会が建っていた。太陽神殿と月教会は、それぞれに生活に密接にかかわっており、大きな信仰を集めている。
世界的に見れば、古い町によくありがちな造りをしており、どちらかというと南北に長い。
ただし、周りが自然に囲まれており、近くの町へと移動する道はほとんど整備されていないのが現状である。戦士が依頼をこなす過程で、踏み固められて道のようになっている場所があるものの、それは獣道と大差ないものであった。
通常、ファレンへと訪ねてくる者は、東側の比較的穏やかな海から船に乗ってやってくる。ファレンの東側には、漁師として生計を立てるものが多く住んでおり、豊かな恵みがあることがうかがえる。
しかし、南側にある険しい山岳は、見ているだけなら美しい景色であるが、中に入るには危険が伴うため、ある程度腕に覚えのある者でなければ踏み込むことはない。そこには、薬草や豊かな木々の恵みもあるため、戦士たちが依頼を受けて、山に入ることはよくあることだ。
山岳の景観は非常に美しいため、名立たる芸術家がファレンに移住し、その技術を余すことなくつぎ込み、名画と呼ばれる作品を作り続けている。この地方を描いた作品は評価が高く、贋作もよく出回るのだが、独自の魔法技術を使い、芸術を守り続けていた。
芸術家の中には、戦士を兼任するものも多くいて、戦士が自然の驚異と戦う様を描いた絵画を世に送り出すこともある。その多くは、山岳ではなく、北側にある平原や西側の湖のものである。平原や湖には、山岳より大型で凶暴なモンスターが棲んでおり、時にファレンに脅威をもたらすのだ。ファレンに住む人々の生活を守るためにも、戦士たちは様々な事情を抱えて、戦いへと赴いている。
平穏な生活を過ごすためには、戦士の活躍が必要不可欠な状況にありながら、戦士たちは目抜き通りをほとんど歩かない。いくらか西側に寄った宿場通りを好んでいる。そこに、戦士たちの生活に必要な店が集約していることばかりが理由ではなかった。
目抜き通りを行き来するのは、芸術家や裕福な人々だ。戦士たちが歩けば、場違いな印象が強い。そのため、戦士たちの姿はほとんどなかった。
それは宿場通りも同じことで、芸術家や裕福な人々を見かけることはない。もっとも、戦士と兼業する芸術家はその中には含まれてはいないが。
それでも、この世の中には変わり者というものがいるのである。目抜き通りを堂々と歩く立場にある人間が宿場通りを歩くことは、珍しい。しかし、それを嫌とも思わない人間が時にいるのだ。
黒のキャソックに、同色の短いケープを羽織った一人の女性である。慈愛に満ちた優し気な表情、意志の強さを秘めた瞳、微笑みを湛えた口元。そして、空に淡く輝く月の色をした長い髪。月神殿の司祭であるアメリアその人であった。
目抜き通りが美しい白を基調にした建物が並んでいるなら、宿場通りの建物は、かつては白であったのだろうと推察できるくすんだ色の建物が並んでいる。それは、軒を連ねた店がギリギリの経営をしていることを物語っており、また戦士たちの懐が温かくないことを示しているのだ。戦士たちにとって、一攫千金が狙えるほどの依頼は、ほとんど舞い込んでこないのである。
上流階級に属する人間は、薄汚れたこの通りを区別し、近寄ることさえないのだが、人にも分け隔てなく接するアメリアは、この通りも区別することなく、いつもと同じ雰囲気で歩いていた。
戦士たちにもアメリアは有名なのだろう。すれ違う者が振り返り、その姿を目に捉える。時折顔見知りである戦士に話しかけられることがあるのだが、アメリアはそのたびに嫌な顔一つせず、にこやかに談笑するのであった。
そのため、アメリアが目的の場所に辿り着いたときには、すでに陽は落ちており、辺りは闇に染められていた。通りの途中にまばらに存在する粗末な明かりが、闇の中でほのかな光を放っている。
アメリアの目的の店は、一階がバーレストランとなっていて、その上が長期滞在を目的とした宿屋である。いろいろな種類があるが、ファレンでは移住しているといっても過言ではない長期滞在型の戦士が多く住んでいるため、それに合わせたプランのある宿屋が多く、ここもまたその一つであろう。
一階にあるバーレストランは、そこまで豪華なものではない。金のない戦士たちにとっては違うのかもしれないが、一般の水準で言えば、酒が飲める食堂と言ったところではないだろうか。
そこに足を踏み入れるとなると、他の司祭たちは嫌がるだろう。汚い場所には、加護がないといい、目抜き通りやそれに準ずる通りでなければ足を運ばない者がほとんどである。さらには、そういう場所にいたとしても、汚い格好をした戦士や漁師たちを相手にしない者がほとんどなのである。
だが、アメリアにとって、そんなことはどうでもよかった。外見だけ取り繕っていても、心が汚れていれば意味がないと思っているからである。
目的の店は、これ以上汚れることがあるのかと思われるほど、外壁が汚れており、白であった頃の面影はまったくない。いくつかの張り紙がしてあるが、風雨にさらされ、字がにじんで読めない上に、紙自体が古くくすんでいて、にじんでいなくても読めなかっただろう。
仮に読めたとしても「食事できます」「宿は長期プラン」「占いあります」といった内容であり、他の二つはともかく最後の張り紙の意味は、事情を知らない者には、意味が分からないものである。
『アメリア様が有名になることで、行く先に悩む時がきたら、汚い張り紙が三つ貼ってある店を訪ねるといい』
アメリアがファレンに来たばかりの頃、ある事情で関わった戦士の一人がそう言っていたことを思い出したのは最近のことだ。当時は、神に仕えることやファレンの発展に尽力することだけを考えていたため、「機会があれば」とだけ答えたことを覚えている。悩みや迷いはなく、ただ一本の道筋が見えていたからだ。
しかし、どれだけ規律に従い、神に仕えていたとしても、アメリアが人間であることには変わりがないのだ。人は変わり、時に迷うものである。
無名だった当時のことを思えば、有名になり、知り合う人も、しがらみも増えた。好奇な目に晒されることも、女だからこそ認められず妬まれることもある。その中で、アメリアは人知れず悩み、道に迷い、そして、かつて聞いた言葉を思い出したのであった。
その店はお世辞にもきれいと言える外観ではないものの、アメリアはためらうことなくドアを開いた。すると、その目に飛び込んできたのは、外装からは想像がつかないほど清潔感のある内装であった。
木目の美しさが映えるログハウス調の内装に、調和したインテリアが並べられている。テーブルセットはやや多いだろうか。少し雑多な印象があるが、ほとんど満席であることからも、人気であることが分かる。
『その店を訪ねたときには、店の奥の小さなテーブルにいる女の元に行くんだ。この辺りでは珍しいチロルドレスを着ているから、嫌でも目に入る』
かつて教えられた言葉を頼りに店の奥へと歩んでいく。アメリアは胸に込み上げる思いが期待なのか不安なのか、理解できないでいた。
不思議な能力を持つ女が、どういう人物であるのかは、噂程度に聞いたことがある。しかし、それがどれほど当てになるのかは知る由もなかった。
件の戦士の言葉は本当のようで、店の奥へと進むにつれ、女の姿がくっきりと浮かび上がるように見えてきた。
ある地方の民族衣装であるチロルドレスは、その女によく似合っている。キリッとつり上がった目付きをしており、通常であれば気風がいいと思われるのだろう。しかし、現実に存在しながら、虚空にある何かを見つめているような遠い瞳が、その印象をミステリアスなものへと変えていた。
頬杖をつく女の瞳は、「神に寵愛された者」だけが持つと言われる紫の色をしている。紫の瞳を持つ者は、異質と言われるほどの能力を秘めており、その瞳の色だけで、地位が高くなることもあるという。稀有な能力を持っているのは事実なのだろう。
「何か用かい?」
引き寄せられるように近づいていくと、声をかけられ、足を止めた。自分には視線を向けることはない。その瞳は相変わらず現実を見ていないままなのに、なぜアメリアの目的が分かったのだろうか。
「アタシを試したつもりなんだろうけど、足音もなく近づいてきたって誰かが来たことくらい分かるさ。これまで、占いだけしてきたわけじゃないからね」
厳しい言葉をかけてくるものの、アメリアはいやな印象を受けることはなく、「そのようですね、失礼しました」と非礼を詫び、女の向かいへと腰を下ろした。相変わらず視線を感じることはなかったが、声はしっかりとしており、気風のいい姉御肌な印象を抱いた。
「それにしても、アンタ、足音を殺すのがうまいじゃないか。熟練した戦士やアタシじゃなければ、後ろを取られても分かりゃしないよ」
「ありがとうございます」
しっかりと受け答えするアメリアは、高めのソプラノボイスでありながら、聖女と言われるのが分かるようなしっとりと落ち着いた響きをまとっている。二人の声はまるで正反対でありながら、自然と融け合うように重ねられてゆく。
いつの間にか、女の瞳は現実をしっかりと見つめている状態になっており、アメリアをまっすぐ見つめていた。
「私、アメリアと言います」
「ああ、月教会のアメリア様かい。アンタ、戦いの腕も相当なもんらしいじゃないか。足音を殺すのがうまいわけだよ」
アメリアと言えば、ファレンでは知らない者はいない。救世主と呼べる人物である。八年前、ファレンが滅亡するしかない状況に陥っていたとき、アメリアが現れたのだ。
周囲の自然環境がおかしくなったのか、生態系が狂ったのかは分からない。モンスターの大量繁殖が起こったのだ。食べるものが足りないモンスターたちは、ファレンまで現れては、人間を攫って行った。そのまま帰ってきた者は誰もいない。捕食されるしかなかったのだから。
戦い続けた戦士たちも次第に深い傷を負い、戦える者の数は減っていった。しかし、月教会の神官は彼らの治療を拒んだ。月教会がファレンを見捨てることを決めたのだ。
将来が有望視されている優秀な神官は、船に乗って別の地域へと避難しており、未熟な神官たちに命に係わる傷を治療できる者がいなかったのだ。拒むことしかできなかった彼らを責めることはできないだろう。未熟であるが故に、彼らもまた、月教会に見捨てられ、ファレンと共に死ぬことを望まれたのだから。
そんな中、月教会の若き女性神官であるアメリアは、月教会の決定に逆らって、ファレンを訪れたのだ。曲がったことが嫌いな彼女には、どんな理由があれ、見捨てることができなかったのだろう。
太陽神殿や月教会の神官たちは、サクラメントと呼ばれる紋章が彫られた状態で生まれてくる。子どもの頃にはうっすらとしていることが多く、力がつくほどにくっきりとした紋章になっていく。その形は決まっておらず、太陽や月を模したものである。その形で、太陽神殿に入るか、月教会に入るか決まるのだ。
生まれながらにくっきり刻まれている上に、月の満ち欠けを表す類稀なサクラメントを持っているアメリアであったから、非常に高い能力を持っていた。
さらに、剣を扱うことができたため、戦士たちと町の平和のために、モンスターと戦い続けたのである。その活躍もあって、ファレンは平和になったのだ。
しかし、そのことには、触れられたくないとアメリアは思っている。
「今はプライベートですので、様付けは止めてください。できれば、対等に扱っていただきたいのです」
特別扱いされるのは、苦手なのだ。「特別なこと」をしたと思っていないこともあって、本当は「アメリア様」と呼ばれることに抵抗があった。
「それはなかなか聞けない話だね。ファレンの住人にとってアンタは、救世主なんだ。あのとき、危険な山を越え、ボロボロになってまで駆けつけてくれなければ、ファレンに今はなかった」
懐かしむように語る女の声は、やはりアメリアを称える色を含んでいるようで、アメリアは居心地の悪さを感じていた。
それでも、アメリアというきっかけがなければ、ファレンが滅んでいたというのは紛れもなく事実であろう。場合によっては、戦闘もできる月教会の神官と違って、太陽神殿の神官たちは祈祷や舞しかできない。平和な世を祈って舞うことはできても、モンスターの脅威から人々を救うことはできないのである。
それでも、一縷の望みを信じて、祈り続けた太陽神殿の神官たちは、アメリアがやってきたとき、祈りが届いたのだと泣いて喜んでいたという。太陽神殿でも、月教会のアメリアの名は有名であった。生まれながらに完成形のサクラメントを持っている神官は、それだけで噂になるのだ。
「私だけの力ではありません。私に力を貸してくださったいろいろな方がいてこその今ですから、私だけが称えられるというのは、何かが違う気がします」
柔らかに謙遜しながらも、少しアメリアの表情は曇る。それを、女がしっかり見つめていることを、アメリアは気づくことはなかった。
「私だけが称えられるのが気に入らないと思っている方もいないわけではありません。私は称えられたいと思ってしていたわけではないものですから、できればそういういい方は遠慮したいと言いますか……」
その言葉がアメリアの全てを物語っている。当然のことをしただけだと思っているのだろう。
しかし、アメリアがしたことは、組織への反抗であり、死と隣り合わせの危険地帯に足を踏み入れることでもある。なかなかできることではない。
「そうかい? だけど、それは難しい話だね。ファレンの住民は、アンタのおかげで自分たちが生きていると思っているところがあるからね」
その言葉を聞いて、アメリアは微笑むだけであった。この言葉に無意味に反論しても、益がないことを知っているのだろう。
何度も同じやり取りを繰り返し、望む答えが得られないことが分かっているからこそ、防衛手段として微笑んでいるような態度であった。
それは女も理解しているため、そのことに関して何か言うわけではなく、教会の司祭であるアメリアがここに来た理由を後押しする一言をかけることにしたのだ。
「で、アタシのとこに来たってことは、悩みごとかい?」
女は有名な占い師である。ファレンでは評判の高く、場合によってはそこそこ地位の高い人間が、女を訪れることもあるという。アメリアのように。
身分の高さから女に出向いてくるように命令することもあるが、女はそれを拒み続けていた。普通であれば、それに対する答えは激怒するかなかったことにするかのどちらかである。だが、ごく稀に例外がいるのだ。よほどに切羽詰まっているか、少し感性が変わっているか――どちらかのタイプではあるけれど。
それでも、普通は身分を偽って訪れるものだ。アメリアのように、身分を偽らず、対等に接してくるものは少ない。それだけに覚悟ができており、大物になる者も多い。
アメリアは今のままの道を歩けば、間違えなく大物になると女は感じていた。いや、道を誤ったとしても、アメリアにとっては大した違いはないのかもしれない。どこかで有名になってしまうだろう。
ここにアメリアが来たことはある意味必然で、来ることが分かっていたからこそ、声をかけたのだ。アメリアにはやはり悩みがあるようで、女の質問に「はい」と答えた。
それに満足した女は、アメリアをじっと見つめ、観察をする。
「いい目をしている。いいだろう、アタシに分からないことはないよ」
それは普通の人間が言えば、頭がおかしいと言われるような言葉ではあったが、神の寵愛を受ける瞳を持つ能力者である女が言うと、不思議と説得力があった。
じっと見つめてる女に一瞬恐れを抱いたのだが、女の瞳の色を見て考えを改めた。神の寵愛がなくなったとき、瞳の色も変わると言われていることを思い出したのだ。
紫の瞳を持つ者が歩む道は、普通では考えられないくらいに両極端である。王室などに召し抱えられ、重要な役職に就く者もいれば、力を利用され、ボロボロになっていくものもいる。
女は後者なのかもしれない。苦労をした経験が、説得力となって滲み出ているのだろう。
「あなたは、相手の人生の分岐点とその未来が見えるそうですね」
「ああ。だが、確定した未来じゃない。相手の心がけ次第で変わることもある」
現段階で起こりうる未来が見えるのだろうと、アメリアは解釈した。それは概ね正しい理解であった。確定した未来の中で行っていた努力がなくなれば、実力が追い付かなくなり、未来が変わる可能性があるのは当然のことだろう。アメリアはそれを察したのだ。
「アタシが示した未来にすがり、道を踏み外して不幸になるヤツもいる。だから、アタシが相手を選ぶのさ」
「私は大丈夫だと思いますか」
「大丈夫だから、視るんだよ」
確信を持って、女は答える。アメリアはバカではない。努力の人間であることは、よく知っている。実物のアメリアを見たのは初めてだったが、噂に違わぬ聡明な人物であるのだろう。少し心は弱いようだが……。
いろいろな人間を見てきた。いい人間も、悪い人間も。
努力していても、甘い未来に負けて不幸になる人間も、未来を変えようと努力をして幸せになる人間も。
だから、何となくではあるが、女にはアメリアがどちらに属するのか分かるのだ。
「だが、これだけは視なくても断言できる。アンタは大物になるべくしてなっているんだってことはね」
「そんなこと、ありませんよ。私はただ運がよかっただけなのですから」
「そんなことはないさ。アンタはそうなるべくしてなったんだよ。運なんてものじゃない。アンタが持っている美徳や培ってきた努力がそういう道へと繋いでるんだよ」
女は、アメリアに笑いかける。それは美しい笑みであった。そして、安心を覚えるものでもあった。深い包容力を感じる女に、今までさらけ出せなかった思いを吐き出してみたいと思えた。
「アンタはどの道へ行っても、行きつく場所は同じだろう。立場の差はあるが、進みたい道へ進めばいい」
その答えに困惑の表情を浮かべるアメリアは、それでは困ると、必死で訴えかけた。
「どの道でもなんて、言わないでください。私はそれでは困るのです」
その答えを聞きながらも、これと言ってアドバイスをくれない女に、アメリアはまくしたてる。
「私は生きていく道に迷っています。このまま月教会で生きていくのか、それとも、別の道で生きていくのか。それでは答えが出せないのです」
不安を煽られた形となったアメリアは、堰が切れたかのように話し始める。不安があふれて止まらなくなってしまったのだろう。
司祭としてのアメリアしか知らない者なら、我が目を疑ってしまうかもしれない。的確な判断を即座に下し、悩むことなどないと思われるほどにしっかりしている人物だと思われているからだ。
実際に悩まない人間はいないが、それを立派な人間には当てはめられにくい。それはアメリアも同じであろう。それを自分で知っているから、誰にも打ち明けられないまま、糸口を求めてここまで来たのだ。人々の噂を聞き、戦士の言葉を思い出して。
それが、どの道でも構わないということになると、アメリアはどうしていいのか分からない。
「一人でずっと悩んできました。私は悩みがあるようには見えないようで、誰かの相談に乗ることはあっても、自分の悩みを相談する機会がなかったのです。本当は誰かに聞いて欲しかった。でも、誰もが私にはそんなものはないと思っているでしょう」
悲し気に瞳を揺らすアメリア。その表情は涙を流しているわけではないのに、まるで泣いているような印象を与える。今まで泣くことは許されなかったのだろう。
司祭となり、人々に慕われ、将来の展望も明るいアメリアに対して、悩むことや辛さを感じることを贅沢だという人間もいたのかもしれない。そのため、アメリアは自分の気持ちを封印して、感情を表に出すことを避けてきたのだろう。
羨望と嫉妬の先にあるものが孤独である場合があるが、それはアメリアも同様であるようだ。
「アタシは否定したりしないよ。言いたいだけ言って、吐き出したいだけ吐き出してしまえばいい。回りの人間はアンタに『立派な司祭』としての仮面をつけることを望むだろう。そうあるべきだと義務のように押しつけてくるかもしれないね。だけど、アタシには関係のないことだ。アンタは司祭でもあり、一人の悩みを抱える女でもある。どっちも同じ『アメリア』だろう? どっちのアンタが正しいなんてこと、考えたりしないよ」
強い自分を演出して、弱い心を閉じ込めてまで、周りの期待に応えようとするアメリアの心は、繊細すぎて、今にも割れてしまいそうだ。この問題は一人で解決はできないだろう。
「いいのですか、私が弱音を吐いたとしても」
「構わないと言っているだろう?」
ありがとう、ございます──アメリアの頬に涙が伝う。ただ一筋であったが、久しぶりに流れた涙は、アメリアにとってはとても苦く、それでいて優しいものであった。
アメリアはそれをきっかけに、心に澱のようにたまっていた思いを吐き出すように語り始めた。
「私は誰を信じていいのかもわからないのです。私の回りには常に誰かがいます。幸せな人間だと思われていることでしょう。それを否定するつもりはありません。そばにいてほしい人がいても、叶わない人だっているのですから。女でありながら司祭になれたということは、月教会においては出世しているのですから」
「事実が全て真実とは限らないさ。与えられていない者には分からないことだってある。アタシはそう思うけどね」
「あなたにそう言われると安心しますね」
「そうかい? でも、優しいだけではいられないかもしれないよ。肯定できることは肯定するし、怒らないといけないところではきちんと叱るからね」
「はい、お願いします。私が間違っていることがあれば、教えてください」
「それは話が終わってからだ。アンタが話しにくくなるだろう?」
「お心遣いに感謝します」
女の言葉に、自分にもよくない部分があるのだろうと察するアメリア。だけど、それは逆にありがたかった。月教会の中には、いや、自分の回りにいる人はアメリアに意見などしてくれないのだから。
「誰かを信用したいという気持ちはあるのです。ですが、あまりにも我欲で寄ってくる方が多すぎて、段々誰を信じていいのか分からなくなってきたと言いますか……」
「誰もがアンタを利用する目的で近づいてきてるような気がしてならないってことかい?」
「そうですね、そうかもしれません」
アメリアに取り入れば、出世が早くなると思っている人間がいるのだろう。
一昔前では、女であるだけで司祭にはなれなかったのだ。今でこそ門戸は狭いものの、努力次第ではなることが可能になった。しかし、まだ女性司教はいない。
「今までの状況を考えると、誰かから女性初の司教になれると言われても、難しいということは分かっています。男性よりも血の滲むような努力をして、数えきれないくらいの実績を重ねて、ようやく可能性が見える程度のものでしょう。ですから、それに踊らされることはありません。前例がないことを成すことが難しいものですから」
「司祭だって大したものだよ。一昔前まで月教会じゃ女の神官は、神官という扱いすらされなかったもんだよ。むしろ虐げられていた」
月教会は基本的に男社会である。力が強いのは男であり、女にはそこまでの加護は与えられていないと信じられていた。
中には司祭になってもおかしくない神官がいたこともあったが、そういう者は能力を見せることを禁じられ、サクラメントを焼かれて、教会から追い出されたという歴史がある。
しかし、近年は女性の活躍が目覚ましく、月教会にも明らかな男女差別を止めるようにという声が届くようになった。そのため、教皇が代替わりしたときに、性別だけで出世する今までの慣習を見直した。時代の流れに合わせて、教会が変わっていったのである。
「そのようですね。私は、どちらかというと月教会の中でも有名な血筋なのです。母はさほど高い地位ではありませんが、時代が違えば出世できたのではないかとも言われています。そして、父も兄も月教会ではかなり高い地位にいるのです。ファレンでの活躍が認められ、司祭になった私とその血筋を知っている者は、私の口添えで司教になれないか、司祭へなれないかと考えているようです」
ここで深いため息を落とした。人が人を評価する以上、上の者に好かれていれば、早く地位を手に入れることができる。そうやって、地位を手に入れている者もいるのだ。力がありながら、世渡りが苦手な者は、出世からは遠くなる。何かの機会に、大きな功績を上げない限りは評価の対象にならないのだ。
「ですから、私の近くにはいろいろな野心を持った方がいます。深読みしなくても、信頼に足る人物ではない方もいますし、心の中では何を考えているのか分からない人もいます。その中には、信頼に値すると評価していた人もいるはずなのに、今の私には何も分からないのです」
そんな自分がいやだというようにアメリアは首を振り、顔を歪めていく。だけど、その気持ちを振り払うこともできないようだ。
「その悩みが大きくなっていくにつれて、こんな私が司祭という地位にいてもいいのかと、神官として生きていてもいいのかと、思い悩むようになってきました。でも、私は今まで神官としての生き方しかしたことがありません。戦士の方とご一緒したこともありますが、私に務まるかどうかは分かりません。戦士の生活は、今の生活とは違います。月教会では衣食住は保証されている。それがすべてなくなってしまうわけですから、不安は尽きないのです」
「アタシも、元々は戦士に混じって仕事を受けていたから、言いたいことは分かるよ。でもね、アンタは剣を扱うこともできるし、戦士と共に戦いに出たこともある。だから、仕事に困ることはないだろう。だが、アンタの代わりに誰かの仕事がなくなるだろうね。今のまま戦士になったとしても、アンタは普通じゃないんだ。いろんな意味で、『普通』の扱いは受けないさ」
「そうでしょうか……」
一歩間違えば嫌味にも取れるアメリアの言葉に、女から苦笑が漏れる。本気なのだろう。
「全く困ったもんだねぇ。アンタは既に強い力を持っているし、自信だって持った方がいい。そこはアンタが自分で変わるしかない。後、信頼したいと思った相手がいるなら、きちんと向き合わなきゃだめだ。今のアンタは逃げてるだけだよ」
厳しい声が鼓膜の中で反響する。それでいてどこか温かみを感じるのは、女の人柄からだろう。
「アタシは、アンタが教会に残るべきだと思っているよ。教会を出れば、救われない人間だっている。アンタがいつも相手にしている子供たちはどうなる? 薬を買えない、他の神官には頼れない者たちに、無償で薬を提供しているんだろう。噂だが、間違えはないはずだ。その子たちがこれからどうなるか、アンタは考えているかい?」
毎日夕方になるとやってくる子供たちの声が頭の中を反響する。
あの子たちが夕方にしか姿を見せないのは、昼間には働いているからだ。家族総出で働いて、ギリギリの生活をしている漁師たち。家族が病気になったとしても、治療を頼むことも薬を買うこともできない。
それを憂い、話を聞いて薬を渡しているのはアメリアだった。子どもの他愛ない話を注意深く聞き、季節などを考慮し、答えを見つけるのは苦労するが、回復の知らせを聞くのは嬉しい。
「いえ、考えていませんでした。自分のことで頭がいっぱいで……」
もしアメリアがいなくなったときには、同じようなことは誰にもできないだろう。できるだけの力を持つ者がいても、貧しい者たちに施すということを嫌う。また、貧しいものを思いやれる者がいたとしても、同じことをするだけの人脈はなかった。
そうなると、薬が買えない貧しい住人たちは、病に倒れ次々と死んでいくだろう。
「悩んでいるときには、周りが見えないものさ。だが、アンタにしか頼れない人間もいるってこと、忘れるんじゃないよ」
そう言った女に、アメリアは優しく微笑んだ。少し吹っ切れたのだろうか。これからも悩むだろうが、葛藤が落ち着いているように見えた。
「それから、アンタが目をかけている三日月のサクラメントを持つ助祭の男がいるだろう。大切にするんだ。いつか、アンタと肩を並べるほど成長するだろう」
アメリアは、唯一自分が信じれるのではないかと思っていた少年を思い出した。名はマシュー。「神からの贈り物」という意味を持つ、素直で優しい子である。二の腕に三日月のサクラメントがぼんやりとあることを確認した両親が、その名をつけたという。
他の司祭には寄って行かないため、評価は真っ二つに分かれている。アメリアは才ある若者だと思っていたため、その力を伸ばしてあげたいと思っていた。
しかし、いろいろな思惑が見え隠れする生活の中で、マシューのことを疑り始めていたのは事実である。
「分かりました。その子は、私が信じたいと思っていた子なんです。もう一度信じてみます」
アメリアの口調はしっかりしており、少し晴れやかな顔をしているように見えた。
「相手のことをよく見るんだよ。人の言葉や噂なんかに真実はない。脚色された言葉を信じるより、アンタ自身の目を信じるんだ。アンタには人を見抜く力はあるんだからね」
最後に女がそうアドバイスをすると、「ありがとうございます」とアメリアは椅子から立ち、その場を後にしようとする。しかし、ふと思いついたように、女に声をかけた。
「数ある噂を聞いても、あなたの名前だけは分かりませんでした。その話題になると、はぐらかされるのです。名を教えていただけませんか」
「アタシの名が知りたいのかい?」
女はそう言い、少し考える仕草を見せたものの、ほどなくして答えた。
「アタシの名は、明かせない。だが、皆私のことは服にちなんで『ディアンドル』と呼ぶよ。気軽にディアと呼んでくれればいい」
名を聞いたアメリアは、優しく微笑み一礼をすると、女の前から姿を消した。女の占いの対価は、この店の飲食代や宿代の肩代わりで賄われている。相場は決まっておらず、相手が好きなように支払うようにしており、アメリアは噂でそのことは知っていたのだろう。アメリアが用意した対価は、一年分の宿代だった。
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月教会の前では、一人の少年がそわそわとアメリアを待ち続けていた。三日月のサクラメントを二の腕に持っており、治癒能力に長けている。将来司祭になるのは濃厚であった。
しかし、素直すぎる性格が災いして、好き嫌いをすぐ顔に出すため、一部の司教や司祭の間では嫌われており、助祭から上の地位に上がれずにいた。
権力を笠に着る司教や司祭たちが好きではなかった。困っていても貧しいと分かれば、教会から追い出し、暴言を吐く。人間として扱われない人々を見るたびに、少年の心は痛んだ。
しかし、アメリアは違う。裕福な人には寄付を募り、貧しい人には薬や食べ物を分け与える。誰でも平等に扱い、貧富の差で態度を変えたりしない。他の神官たちにはない美徳があるのだ。自分が目指すべきものは、「アメリア」であると確信していた。
だが、アメリアにも悩みがあるのだろう。それに少年は気づいていた。時々寂しそうな表情を浮かべ、物思いに耽るところを幾度となく目撃していたから。
今日はやけに思いつめていて、いつの間にか出かけていたものだから、帰ってくるかどうか心配でならない。
だけど、月教会にアメリアを心配する者はいない。いなくなった方が好都合なのだろう。心配しているのは、少年ただ一人である。
月教会の周りをぐるぐると回りながら、アメリアの姿を探していた。思えばもうずいぶん長い時間こうしているような気がする。
「マシュー、こんなところで何をしているのですか」
しっとり落ち着いたソプラノの声が後ろから聞こえると、少年は嬉しそうにその声の方に寄って行く。アメリアが帰ってきたのだ。
「アメリア様! どこに行ってたんですか? 心配しましたよ」
「心配しなくても、私は帰ってきますよ」
「そんなことありません! 最近悩んでいたから、もう帰ってこないのかと、出て行ってしまうのかと思ったんです」
感情に素直なマシューは、やや不機嫌な態度を隠すこともなく、アメリアに言った。そして、アメリアはマシューの頭をなで、優しく微笑む。こんなに素直に心配を示すマシューの裏の思いを疑ってしまったことを申し訳なく思ったのだ。
(ディア様、私、もう少し頑張ってみようと思います)
決意を胸に秘めたアメリアは、空に浮かぶ美しい月を見上げる。マシューの二の腕のサクラメントと同じ三日月がそこには浮かんでいた。これは何かの運命だろうか。月神がアメリアに信じなさいと導いてくれているのだろうか。
それはアメリアには分からなかったが、マシューの成長を見守り、手助けしようとそれだけを思う。共に月教会へと帰る道を選んだのだ。
そのとき、アメリアの二の腕にある月の満ち欠けを表すサクラメントの三日月が呼応するように淡く輝いたことは誰も知ることはないだろう。キャソックの下で、ひっそりと月は輝いていた。アメリアの未来を応援するかのように。
淡く輝く月の色をした長い髪が印象的な女性は、黒のキャソックに身を包み、慈愛を感じさせる微笑みを湛えながら、子どもたちの話に耳を傾けていた。
家族のこと、友達のことを口々に語る子どもたちの話には脈絡はないものの、それを嫌がる様子もなく、嬉しそうに聞き役に回っている。
彼女の元に子供たちが集まっても、大人たちは気にも留めない。安心して任せているのだ。子供だけではなく大人たちの信頼も厚い彼女の名は、アメリア。月教会に身を置く女性である。
「アメリア様、あのね──」
口々に喋る子供たちの中には、裕福な家の子供もいれば、貧しい家の子供もいるが、アメリアは分け隔てなく接している。神に仕える身といえ、一人の人間である。人によっては、貧富の差で扱い方を明らかに変えることもあるのだが、アメリアにはそのような気持ちはないようだ。
人に優劣はないと月教会では説いているが、それが実践できているのはごくわずかだろう。誰にでも平等に扱うアメリアを疎ましく思う者がいるのは、事実であった。
町の住人は、「アメリア様」と当たり前のように呼ぶほどに尊敬しており、そして、深く慕っている。それが一部の神官たちにはおもしろくない。しかし、その気持ちに反して、人々はアメリアの周りに集まっていた。
それはこの町――ファレンの日常の一部であり、陽が落ち切る前に子どもたちは帰ってゆく。特に漁師の住み暮らす地区は灯りが少ない。遅くなりすぎると危険なのである。
ファレンは南北に伸びる目抜き通りの中程に大きな広場がある。そこには、東に太陽神殿、西に月教会が建っていた。太陽神殿と月教会は、それぞれに生活に密接にかかわっており、大きな信仰を集めている。
世界的に見れば、古い町によくありがちな造りをしており、どちらかというと南北に長い。
ただし、周りが自然に囲まれており、近くの町へと移動する道はほとんど整備されていないのが現状である。戦士が依頼をこなす過程で、踏み固められて道のようになっている場所があるものの、それは獣道と大差ないものであった。
通常、ファレンへと訪ねてくる者は、東側の比較的穏やかな海から船に乗ってやってくる。ファレンの東側には、漁師として生計を立てるものが多く住んでおり、豊かな恵みがあることがうかがえる。
しかし、南側にある険しい山岳は、見ているだけなら美しい景色であるが、中に入るには危険が伴うため、ある程度腕に覚えのある者でなければ踏み込むことはない。そこには、薬草や豊かな木々の恵みもあるため、戦士たちが依頼を受けて、山に入ることはよくあることだ。
山岳の景観は非常に美しいため、名立たる芸術家がファレンに移住し、その技術を余すことなくつぎ込み、名画と呼ばれる作品を作り続けている。この地方を描いた作品は評価が高く、贋作もよく出回るのだが、独自の魔法技術を使い、芸術を守り続けていた。
芸術家の中には、戦士を兼任するものも多くいて、戦士が自然の驚異と戦う様を描いた絵画を世に送り出すこともある。その多くは、山岳ではなく、北側にある平原や西側の湖のものである。平原や湖には、山岳より大型で凶暴なモンスターが棲んでおり、時にファレンに脅威をもたらすのだ。ファレンに住む人々の生活を守るためにも、戦士たちは様々な事情を抱えて、戦いへと赴いている。
平穏な生活を過ごすためには、戦士の活躍が必要不可欠な状況にありながら、戦士たちは目抜き通りをほとんど歩かない。いくらか西側に寄った宿場通りを好んでいる。そこに、戦士たちの生活に必要な店が集約していることばかりが理由ではなかった。
目抜き通りを行き来するのは、芸術家や裕福な人々だ。戦士たちが歩けば、場違いな印象が強い。そのため、戦士たちの姿はほとんどなかった。
それは宿場通りも同じことで、芸術家や裕福な人々を見かけることはない。もっとも、戦士と兼業する芸術家はその中には含まれてはいないが。
それでも、この世の中には変わり者というものがいるのである。目抜き通りを堂々と歩く立場にある人間が宿場通りを歩くことは、珍しい。しかし、それを嫌とも思わない人間が時にいるのだ。
黒のキャソックに、同色の短いケープを羽織った一人の女性である。慈愛に満ちた優し気な表情、意志の強さを秘めた瞳、微笑みを湛えた口元。そして、空に淡く輝く月の色をした長い髪。月神殿の司祭であるアメリアその人であった。
目抜き通りが美しい白を基調にした建物が並んでいるなら、宿場通りの建物は、かつては白であったのだろうと推察できるくすんだ色の建物が並んでいる。それは、軒を連ねた店がギリギリの経営をしていることを物語っており、また戦士たちの懐が温かくないことを示しているのだ。戦士たちにとって、一攫千金が狙えるほどの依頼は、ほとんど舞い込んでこないのである。
上流階級に属する人間は、薄汚れたこの通りを区別し、近寄ることさえないのだが、人にも分け隔てなく接するアメリアは、この通りも区別することなく、いつもと同じ雰囲気で歩いていた。
戦士たちにもアメリアは有名なのだろう。すれ違う者が振り返り、その姿を目に捉える。時折顔見知りである戦士に話しかけられることがあるのだが、アメリアはそのたびに嫌な顔一つせず、にこやかに談笑するのであった。
そのため、アメリアが目的の場所に辿り着いたときには、すでに陽は落ちており、辺りは闇に染められていた。通りの途中にまばらに存在する粗末な明かりが、闇の中でほのかな光を放っている。
アメリアの目的の店は、一階がバーレストランとなっていて、その上が長期滞在を目的とした宿屋である。いろいろな種類があるが、ファレンでは移住しているといっても過言ではない長期滞在型の戦士が多く住んでいるため、それに合わせたプランのある宿屋が多く、ここもまたその一つであろう。
一階にあるバーレストランは、そこまで豪華なものではない。金のない戦士たちにとっては違うのかもしれないが、一般の水準で言えば、酒が飲める食堂と言ったところではないだろうか。
そこに足を踏み入れるとなると、他の司祭たちは嫌がるだろう。汚い場所には、加護がないといい、目抜き通りやそれに準ずる通りでなければ足を運ばない者がほとんどである。さらには、そういう場所にいたとしても、汚い格好をした戦士や漁師たちを相手にしない者がほとんどなのである。
だが、アメリアにとって、そんなことはどうでもよかった。外見だけ取り繕っていても、心が汚れていれば意味がないと思っているからである。
目的の店は、これ以上汚れることがあるのかと思われるほど、外壁が汚れており、白であった頃の面影はまったくない。いくつかの張り紙がしてあるが、風雨にさらされ、字がにじんで読めない上に、紙自体が古くくすんでいて、にじんでいなくても読めなかっただろう。
仮に読めたとしても「食事できます」「宿は長期プラン」「占いあります」といった内容であり、他の二つはともかく最後の張り紙の意味は、事情を知らない者には、意味が分からないものである。
『アメリア様が有名になることで、行く先に悩む時がきたら、汚い張り紙が三つ貼ってある店を訪ねるといい』
アメリアがファレンに来たばかりの頃、ある事情で関わった戦士の一人がそう言っていたことを思い出したのは最近のことだ。当時は、神に仕えることやファレンの発展に尽力することだけを考えていたため、「機会があれば」とだけ答えたことを覚えている。悩みや迷いはなく、ただ一本の道筋が見えていたからだ。
しかし、どれだけ規律に従い、神に仕えていたとしても、アメリアが人間であることには変わりがないのだ。人は変わり、時に迷うものである。
無名だった当時のことを思えば、有名になり、知り合う人も、しがらみも増えた。好奇な目に晒されることも、女だからこそ認められず妬まれることもある。その中で、アメリアは人知れず悩み、道に迷い、そして、かつて聞いた言葉を思い出したのであった。
その店はお世辞にもきれいと言える外観ではないものの、アメリアはためらうことなくドアを開いた。すると、その目に飛び込んできたのは、外装からは想像がつかないほど清潔感のある内装であった。
木目の美しさが映えるログハウス調の内装に、調和したインテリアが並べられている。テーブルセットはやや多いだろうか。少し雑多な印象があるが、ほとんど満席であることからも、人気であることが分かる。
『その店を訪ねたときには、店の奥の小さなテーブルにいる女の元に行くんだ。この辺りでは珍しいチロルドレスを着ているから、嫌でも目に入る』
かつて教えられた言葉を頼りに店の奥へと歩んでいく。アメリアは胸に込み上げる思いが期待なのか不安なのか、理解できないでいた。
不思議な能力を持つ女が、どういう人物であるのかは、噂程度に聞いたことがある。しかし、それがどれほど当てになるのかは知る由もなかった。
件の戦士の言葉は本当のようで、店の奥へと進むにつれ、女の姿がくっきりと浮かび上がるように見えてきた。
ある地方の民族衣装であるチロルドレスは、その女によく似合っている。キリッとつり上がった目付きをしており、通常であれば気風がいいと思われるのだろう。しかし、現実に存在しながら、虚空にある何かを見つめているような遠い瞳が、その印象をミステリアスなものへと変えていた。
頬杖をつく女の瞳は、「神に寵愛された者」だけが持つと言われる紫の色をしている。紫の瞳を持つ者は、異質と言われるほどの能力を秘めており、その瞳の色だけで、地位が高くなることもあるという。稀有な能力を持っているのは事実なのだろう。
「何か用かい?」
引き寄せられるように近づいていくと、声をかけられ、足を止めた。自分には視線を向けることはない。その瞳は相変わらず現実を見ていないままなのに、なぜアメリアの目的が分かったのだろうか。
「アタシを試したつもりなんだろうけど、足音もなく近づいてきたって誰かが来たことくらい分かるさ。これまで、占いだけしてきたわけじゃないからね」
厳しい言葉をかけてくるものの、アメリアはいやな印象を受けることはなく、「そのようですね、失礼しました」と非礼を詫び、女の向かいへと腰を下ろした。相変わらず視線を感じることはなかったが、声はしっかりとしており、気風のいい姉御肌な印象を抱いた。
「それにしても、アンタ、足音を殺すのがうまいじゃないか。熟練した戦士やアタシじゃなければ、後ろを取られても分かりゃしないよ」
「ありがとうございます」
しっかりと受け答えするアメリアは、高めのソプラノボイスでありながら、聖女と言われるのが分かるようなしっとりと落ち着いた響きをまとっている。二人の声はまるで正反対でありながら、自然と融け合うように重ねられてゆく。
いつの間にか、女の瞳は現実をしっかりと見つめている状態になっており、アメリアをまっすぐ見つめていた。
「私、アメリアと言います」
「ああ、月教会のアメリア様かい。アンタ、戦いの腕も相当なもんらしいじゃないか。足音を殺すのがうまいわけだよ」
アメリアと言えば、ファレンでは知らない者はいない。救世主と呼べる人物である。八年前、ファレンが滅亡するしかない状況に陥っていたとき、アメリアが現れたのだ。
周囲の自然環境がおかしくなったのか、生態系が狂ったのかは分からない。モンスターの大量繁殖が起こったのだ。食べるものが足りないモンスターたちは、ファレンまで現れては、人間を攫って行った。そのまま帰ってきた者は誰もいない。捕食されるしかなかったのだから。
戦い続けた戦士たちも次第に深い傷を負い、戦える者の数は減っていった。しかし、月教会の神官は彼らの治療を拒んだ。月教会がファレンを見捨てることを決めたのだ。
将来が有望視されている優秀な神官は、船に乗って別の地域へと避難しており、未熟な神官たちに命に係わる傷を治療できる者がいなかったのだ。拒むことしかできなかった彼らを責めることはできないだろう。未熟であるが故に、彼らもまた、月教会に見捨てられ、ファレンと共に死ぬことを望まれたのだから。
そんな中、月教会の若き女性神官であるアメリアは、月教会の決定に逆らって、ファレンを訪れたのだ。曲がったことが嫌いな彼女には、どんな理由があれ、見捨てることができなかったのだろう。
太陽神殿や月教会の神官たちは、サクラメントと呼ばれる紋章が彫られた状態で生まれてくる。子どもの頃にはうっすらとしていることが多く、力がつくほどにくっきりとした紋章になっていく。その形は決まっておらず、太陽や月を模したものである。その形で、太陽神殿に入るか、月教会に入るか決まるのだ。
生まれながらにくっきり刻まれている上に、月の満ち欠けを表す類稀なサクラメントを持っているアメリアであったから、非常に高い能力を持っていた。
さらに、剣を扱うことができたため、戦士たちと町の平和のために、モンスターと戦い続けたのである。その活躍もあって、ファレンは平和になったのだ。
しかし、そのことには、触れられたくないとアメリアは思っている。
「今はプライベートですので、様付けは止めてください。できれば、対等に扱っていただきたいのです」
特別扱いされるのは、苦手なのだ。「特別なこと」をしたと思っていないこともあって、本当は「アメリア様」と呼ばれることに抵抗があった。
「それはなかなか聞けない話だね。ファレンの住人にとってアンタは、救世主なんだ。あのとき、危険な山を越え、ボロボロになってまで駆けつけてくれなければ、ファレンに今はなかった」
懐かしむように語る女の声は、やはりアメリアを称える色を含んでいるようで、アメリアは居心地の悪さを感じていた。
それでも、アメリアというきっかけがなければ、ファレンが滅んでいたというのは紛れもなく事実であろう。場合によっては、戦闘もできる月教会の神官と違って、太陽神殿の神官たちは祈祷や舞しかできない。平和な世を祈って舞うことはできても、モンスターの脅威から人々を救うことはできないのである。
それでも、一縷の望みを信じて、祈り続けた太陽神殿の神官たちは、アメリアがやってきたとき、祈りが届いたのだと泣いて喜んでいたという。太陽神殿でも、月教会のアメリアの名は有名であった。生まれながらに完成形のサクラメントを持っている神官は、それだけで噂になるのだ。
「私だけの力ではありません。私に力を貸してくださったいろいろな方がいてこその今ですから、私だけが称えられるというのは、何かが違う気がします」
柔らかに謙遜しながらも、少しアメリアの表情は曇る。それを、女がしっかり見つめていることを、アメリアは気づくことはなかった。
「私だけが称えられるのが気に入らないと思っている方もいないわけではありません。私は称えられたいと思ってしていたわけではないものですから、できればそういういい方は遠慮したいと言いますか……」
その言葉がアメリアの全てを物語っている。当然のことをしただけだと思っているのだろう。
しかし、アメリアがしたことは、組織への反抗であり、死と隣り合わせの危険地帯に足を踏み入れることでもある。なかなかできることではない。
「そうかい? だけど、それは難しい話だね。ファレンの住民は、アンタのおかげで自分たちが生きていると思っているところがあるからね」
その言葉を聞いて、アメリアは微笑むだけであった。この言葉に無意味に反論しても、益がないことを知っているのだろう。
何度も同じやり取りを繰り返し、望む答えが得られないことが分かっているからこそ、防衛手段として微笑んでいるような態度であった。
それは女も理解しているため、そのことに関して何か言うわけではなく、教会の司祭であるアメリアがここに来た理由を後押しする一言をかけることにしたのだ。
「で、アタシのとこに来たってことは、悩みごとかい?」
女は有名な占い師である。ファレンでは評判の高く、場合によってはそこそこ地位の高い人間が、女を訪れることもあるという。アメリアのように。
身分の高さから女に出向いてくるように命令することもあるが、女はそれを拒み続けていた。普通であれば、それに対する答えは激怒するかなかったことにするかのどちらかである。だが、ごく稀に例外がいるのだ。よほどに切羽詰まっているか、少し感性が変わっているか――どちらかのタイプではあるけれど。
それでも、普通は身分を偽って訪れるものだ。アメリアのように、身分を偽らず、対等に接してくるものは少ない。それだけに覚悟ができており、大物になる者も多い。
アメリアは今のままの道を歩けば、間違えなく大物になると女は感じていた。いや、道を誤ったとしても、アメリアにとっては大した違いはないのかもしれない。どこかで有名になってしまうだろう。
ここにアメリアが来たことはある意味必然で、来ることが分かっていたからこそ、声をかけたのだ。アメリアにはやはり悩みがあるようで、女の質問に「はい」と答えた。
それに満足した女は、アメリアをじっと見つめ、観察をする。
「いい目をしている。いいだろう、アタシに分からないことはないよ」
それは普通の人間が言えば、頭がおかしいと言われるような言葉ではあったが、神の寵愛を受ける瞳を持つ能力者である女が言うと、不思議と説得力があった。
じっと見つめてる女に一瞬恐れを抱いたのだが、女の瞳の色を見て考えを改めた。神の寵愛がなくなったとき、瞳の色も変わると言われていることを思い出したのだ。
紫の瞳を持つ者が歩む道は、普通では考えられないくらいに両極端である。王室などに召し抱えられ、重要な役職に就く者もいれば、力を利用され、ボロボロになっていくものもいる。
女は後者なのかもしれない。苦労をした経験が、説得力となって滲み出ているのだろう。
「あなたは、相手の人生の分岐点とその未来が見えるそうですね」
「ああ。だが、確定した未来じゃない。相手の心がけ次第で変わることもある」
現段階で起こりうる未来が見えるのだろうと、アメリアは解釈した。それは概ね正しい理解であった。確定した未来の中で行っていた努力がなくなれば、実力が追い付かなくなり、未来が変わる可能性があるのは当然のことだろう。アメリアはそれを察したのだ。
「アタシが示した未来にすがり、道を踏み外して不幸になるヤツもいる。だから、アタシが相手を選ぶのさ」
「私は大丈夫だと思いますか」
「大丈夫だから、視るんだよ」
確信を持って、女は答える。アメリアはバカではない。努力の人間であることは、よく知っている。実物のアメリアを見たのは初めてだったが、噂に違わぬ聡明な人物であるのだろう。少し心は弱いようだが……。
いろいろな人間を見てきた。いい人間も、悪い人間も。
努力していても、甘い未来に負けて不幸になる人間も、未来を変えようと努力をして幸せになる人間も。
だから、何となくではあるが、女にはアメリアがどちらに属するのか分かるのだ。
「だが、これだけは視なくても断言できる。アンタは大物になるべくしてなっているんだってことはね」
「そんなこと、ありませんよ。私はただ運がよかっただけなのですから」
「そんなことはないさ。アンタはそうなるべくしてなったんだよ。運なんてものじゃない。アンタが持っている美徳や培ってきた努力がそういう道へと繋いでるんだよ」
女は、アメリアに笑いかける。それは美しい笑みであった。そして、安心を覚えるものでもあった。深い包容力を感じる女に、今までさらけ出せなかった思いを吐き出してみたいと思えた。
「アンタはどの道へ行っても、行きつく場所は同じだろう。立場の差はあるが、進みたい道へ進めばいい」
その答えに困惑の表情を浮かべるアメリアは、それでは困ると、必死で訴えかけた。
「どの道でもなんて、言わないでください。私はそれでは困るのです」
その答えを聞きながらも、これと言ってアドバイスをくれない女に、アメリアはまくしたてる。
「私は生きていく道に迷っています。このまま月教会で生きていくのか、それとも、別の道で生きていくのか。それでは答えが出せないのです」
不安を煽られた形となったアメリアは、堰が切れたかのように話し始める。不安があふれて止まらなくなってしまったのだろう。
司祭としてのアメリアしか知らない者なら、我が目を疑ってしまうかもしれない。的確な判断を即座に下し、悩むことなどないと思われるほどにしっかりしている人物だと思われているからだ。
実際に悩まない人間はいないが、それを立派な人間には当てはめられにくい。それはアメリアも同じであろう。それを自分で知っているから、誰にも打ち明けられないまま、糸口を求めてここまで来たのだ。人々の噂を聞き、戦士の言葉を思い出して。
それが、どの道でも構わないということになると、アメリアはどうしていいのか分からない。
「一人でずっと悩んできました。私は悩みがあるようには見えないようで、誰かの相談に乗ることはあっても、自分の悩みを相談する機会がなかったのです。本当は誰かに聞いて欲しかった。でも、誰もが私にはそんなものはないと思っているでしょう」
悲し気に瞳を揺らすアメリア。その表情は涙を流しているわけではないのに、まるで泣いているような印象を与える。今まで泣くことは許されなかったのだろう。
司祭となり、人々に慕われ、将来の展望も明るいアメリアに対して、悩むことや辛さを感じることを贅沢だという人間もいたのかもしれない。そのため、アメリアは自分の気持ちを封印して、感情を表に出すことを避けてきたのだろう。
羨望と嫉妬の先にあるものが孤独である場合があるが、それはアメリアも同様であるようだ。
「アタシは否定したりしないよ。言いたいだけ言って、吐き出したいだけ吐き出してしまえばいい。回りの人間はアンタに『立派な司祭』としての仮面をつけることを望むだろう。そうあるべきだと義務のように押しつけてくるかもしれないね。だけど、アタシには関係のないことだ。アンタは司祭でもあり、一人の悩みを抱える女でもある。どっちも同じ『アメリア』だろう? どっちのアンタが正しいなんてこと、考えたりしないよ」
強い自分を演出して、弱い心を閉じ込めてまで、周りの期待に応えようとするアメリアの心は、繊細すぎて、今にも割れてしまいそうだ。この問題は一人で解決はできないだろう。
「いいのですか、私が弱音を吐いたとしても」
「構わないと言っているだろう?」
ありがとう、ございます──アメリアの頬に涙が伝う。ただ一筋であったが、久しぶりに流れた涙は、アメリアにとってはとても苦く、それでいて優しいものであった。
アメリアはそれをきっかけに、心に澱のようにたまっていた思いを吐き出すように語り始めた。
「私は誰を信じていいのかもわからないのです。私の回りには常に誰かがいます。幸せな人間だと思われていることでしょう。それを否定するつもりはありません。そばにいてほしい人がいても、叶わない人だっているのですから。女でありながら司祭になれたということは、月教会においては出世しているのですから」
「事実が全て真実とは限らないさ。与えられていない者には分からないことだってある。アタシはそう思うけどね」
「あなたにそう言われると安心しますね」
「そうかい? でも、優しいだけではいられないかもしれないよ。肯定できることは肯定するし、怒らないといけないところではきちんと叱るからね」
「はい、お願いします。私が間違っていることがあれば、教えてください」
「それは話が終わってからだ。アンタが話しにくくなるだろう?」
「お心遣いに感謝します」
女の言葉に、自分にもよくない部分があるのだろうと察するアメリア。だけど、それは逆にありがたかった。月教会の中には、いや、自分の回りにいる人はアメリアに意見などしてくれないのだから。
「誰かを信用したいという気持ちはあるのです。ですが、あまりにも我欲で寄ってくる方が多すぎて、段々誰を信じていいのか分からなくなってきたと言いますか……」
「誰もがアンタを利用する目的で近づいてきてるような気がしてならないってことかい?」
「そうですね、そうかもしれません」
アメリアに取り入れば、出世が早くなると思っている人間がいるのだろう。
一昔前では、女であるだけで司祭にはなれなかったのだ。今でこそ門戸は狭いものの、努力次第ではなることが可能になった。しかし、まだ女性司教はいない。
「今までの状況を考えると、誰かから女性初の司教になれると言われても、難しいということは分かっています。男性よりも血の滲むような努力をして、数えきれないくらいの実績を重ねて、ようやく可能性が見える程度のものでしょう。ですから、それに踊らされることはありません。前例がないことを成すことが難しいものですから」
「司祭だって大したものだよ。一昔前まで月教会じゃ女の神官は、神官という扱いすらされなかったもんだよ。むしろ虐げられていた」
月教会は基本的に男社会である。力が強いのは男であり、女にはそこまでの加護は与えられていないと信じられていた。
中には司祭になってもおかしくない神官がいたこともあったが、そういう者は能力を見せることを禁じられ、サクラメントを焼かれて、教会から追い出されたという歴史がある。
しかし、近年は女性の活躍が目覚ましく、月教会にも明らかな男女差別を止めるようにという声が届くようになった。そのため、教皇が代替わりしたときに、性別だけで出世する今までの慣習を見直した。時代の流れに合わせて、教会が変わっていったのである。
「そのようですね。私は、どちらかというと月教会の中でも有名な血筋なのです。母はさほど高い地位ではありませんが、時代が違えば出世できたのではないかとも言われています。そして、父も兄も月教会ではかなり高い地位にいるのです。ファレンでの活躍が認められ、司祭になった私とその血筋を知っている者は、私の口添えで司教になれないか、司祭へなれないかと考えているようです」
ここで深いため息を落とした。人が人を評価する以上、上の者に好かれていれば、早く地位を手に入れることができる。そうやって、地位を手に入れている者もいるのだ。力がありながら、世渡りが苦手な者は、出世からは遠くなる。何かの機会に、大きな功績を上げない限りは評価の対象にならないのだ。
「ですから、私の近くにはいろいろな野心を持った方がいます。深読みしなくても、信頼に足る人物ではない方もいますし、心の中では何を考えているのか分からない人もいます。その中には、信頼に値すると評価していた人もいるはずなのに、今の私には何も分からないのです」
そんな自分がいやだというようにアメリアは首を振り、顔を歪めていく。だけど、その気持ちを振り払うこともできないようだ。
「その悩みが大きくなっていくにつれて、こんな私が司祭という地位にいてもいいのかと、神官として生きていてもいいのかと、思い悩むようになってきました。でも、私は今まで神官としての生き方しかしたことがありません。戦士の方とご一緒したこともありますが、私に務まるかどうかは分かりません。戦士の生活は、今の生活とは違います。月教会では衣食住は保証されている。それがすべてなくなってしまうわけですから、不安は尽きないのです」
「アタシも、元々は戦士に混じって仕事を受けていたから、言いたいことは分かるよ。でもね、アンタは剣を扱うこともできるし、戦士と共に戦いに出たこともある。だから、仕事に困ることはないだろう。だが、アンタの代わりに誰かの仕事がなくなるだろうね。今のまま戦士になったとしても、アンタは普通じゃないんだ。いろんな意味で、『普通』の扱いは受けないさ」
「そうでしょうか……」
一歩間違えば嫌味にも取れるアメリアの言葉に、女から苦笑が漏れる。本気なのだろう。
「全く困ったもんだねぇ。アンタは既に強い力を持っているし、自信だって持った方がいい。そこはアンタが自分で変わるしかない。後、信頼したいと思った相手がいるなら、きちんと向き合わなきゃだめだ。今のアンタは逃げてるだけだよ」
厳しい声が鼓膜の中で反響する。それでいてどこか温かみを感じるのは、女の人柄からだろう。
「アタシは、アンタが教会に残るべきだと思っているよ。教会を出れば、救われない人間だっている。アンタがいつも相手にしている子供たちはどうなる? 薬を買えない、他の神官には頼れない者たちに、無償で薬を提供しているんだろう。噂だが、間違えはないはずだ。その子たちがこれからどうなるか、アンタは考えているかい?」
毎日夕方になるとやってくる子供たちの声が頭の中を反響する。
あの子たちが夕方にしか姿を見せないのは、昼間には働いているからだ。家族総出で働いて、ギリギリの生活をしている漁師たち。家族が病気になったとしても、治療を頼むことも薬を買うこともできない。
それを憂い、話を聞いて薬を渡しているのはアメリアだった。子どもの他愛ない話を注意深く聞き、季節などを考慮し、答えを見つけるのは苦労するが、回復の知らせを聞くのは嬉しい。
「いえ、考えていませんでした。自分のことで頭がいっぱいで……」
もしアメリアがいなくなったときには、同じようなことは誰にもできないだろう。できるだけの力を持つ者がいても、貧しい者たちに施すということを嫌う。また、貧しいものを思いやれる者がいたとしても、同じことをするだけの人脈はなかった。
そうなると、薬が買えない貧しい住人たちは、病に倒れ次々と死んでいくだろう。
「悩んでいるときには、周りが見えないものさ。だが、アンタにしか頼れない人間もいるってこと、忘れるんじゃないよ」
そう言った女に、アメリアは優しく微笑んだ。少し吹っ切れたのだろうか。これからも悩むだろうが、葛藤が落ち着いているように見えた。
「それから、アンタが目をかけている三日月のサクラメントを持つ助祭の男がいるだろう。大切にするんだ。いつか、アンタと肩を並べるほど成長するだろう」
アメリアは、唯一自分が信じれるのではないかと思っていた少年を思い出した。名はマシュー。「神からの贈り物」という意味を持つ、素直で優しい子である。二の腕に三日月のサクラメントがぼんやりとあることを確認した両親が、その名をつけたという。
他の司祭には寄って行かないため、評価は真っ二つに分かれている。アメリアは才ある若者だと思っていたため、その力を伸ばしてあげたいと思っていた。
しかし、いろいろな思惑が見え隠れする生活の中で、マシューのことを疑り始めていたのは事実である。
「分かりました。その子は、私が信じたいと思っていた子なんです。もう一度信じてみます」
アメリアの口調はしっかりしており、少し晴れやかな顔をしているように見えた。
「相手のことをよく見るんだよ。人の言葉や噂なんかに真実はない。脚色された言葉を信じるより、アンタ自身の目を信じるんだ。アンタには人を見抜く力はあるんだからね」
最後に女がそうアドバイスをすると、「ありがとうございます」とアメリアは椅子から立ち、その場を後にしようとする。しかし、ふと思いついたように、女に声をかけた。
「数ある噂を聞いても、あなたの名前だけは分かりませんでした。その話題になると、はぐらかされるのです。名を教えていただけませんか」
「アタシの名が知りたいのかい?」
女はそう言い、少し考える仕草を見せたものの、ほどなくして答えた。
「アタシの名は、明かせない。だが、皆私のことは服にちなんで『ディアンドル』と呼ぶよ。気軽にディアと呼んでくれればいい」
名を聞いたアメリアは、優しく微笑み一礼をすると、女の前から姿を消した。女の占いの対価は、この店の飲食代や宿代の肩代わりで賄われている。相場は決まっておらず、相手が好きなように支払うようにしており、アメリアは噂でそのことは知っていたのだろう。アメリアが用意した対価は、一年分の宿代だった。
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月教会の前では、一人の少年がそわそわとアメリアを待ち続けていた。三日月のサクラメントを二の腕に持っており、治癒能力に長けている。将来司祭になるのは濃厚であった。
しかし、素直すぎる性格が災いして、好き嫌いをすぐ顔に出すため、一部の司教や司祭の間では嫌われており、助祭から上の地位に上がれずにいた。
権力を笠に着る司教や司祭たちが好きではなかった。困っていても貧しいと分かれば、教会から追い出し、暴言を吐く。人間として扱われない人々を見るたびに、少年の心は痛んだ。
しかし、アメリアは違う。裕福な人には寄付を募り、貧しい人には薬や食べ物を分け与える。誰でも平等に扱い、貧富の差で態度を変えたりしない。他の神官たちにはない美徳があるのだ。自分が目指すべきものは、「アメリア」であると確信していた。
だが、アメリアにも悩みがあるのだろう。それに少年は気づいていた。時々寂しそうな表情を浮かべ、物思いに耽るところを幾度となく目撃していたから。
今日はやけに思いつめていて、いつの間にか出かけていたものだから、帰ってくるかどうか心配でならない。
だけど、月教会にアメリアを心配する者はいない。いなくなった方が好都合なのだろう。心配しているのは、少年ただ一人である。
月教会の周りをぐるぐると回りながら、アメリアの姿を探していた。思えばもうずいぶん長い時間こうしているような気がする。
「マシュー、こんなところで何をしているのですか」
しっとり落ち着いたソプラノの声が後ろから聞こえると、少年は嬉しそうにその声の方に寄って行く。アメリアが帰ってきたのだ。
「アメリア様! どこに行ってたんですか? 心配しましたよ」
「心配しなくても、私は帰ってきますよ」
「そんなことありません! 最近悩んでいたから、もう帰ってこないのかと、出て行ってしまうのかと思ったんです」
感情に素直なマシューは、やや不機嫌な態度を隠すこともなく、アメリアに言った。そして、アメリアはマシューの頭をなで、優しく微笑む。こんなに素直に心配を示すマシューの裏の思いを疑ってしまったことを申し訳なく思ったのだ。
(ディア様、私、もう少し頑張ってみようと思います)
決意を胸に秘めたアメリアは、空に浮かぶ美しい月を見上げる。マシューの二の腕のサクラメントと同じ三日月がそこには浮かんでいた。これは何かの運命だろうか。月神がアメリアに信じなさいと導いてくれているのだろうか。
それはアメリアには分からなかったが、マシューの成長を見守り、手助けしようとそれだけを思う。共に月教会へと帰る道を選んだのだ。
そのとき、アメリアの二の腕にある月の満ち欠けを表すサクラメントの三日月が呼応するように淡く輝いたことは誰も知ることはないだろう。キャソックの下で、ひっそりと月は輝いていた。アメリアの未来を応援するかのように。
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