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記憶の雲間

任務の報告を終えた夜、
探偵社はすっかり静まり返っていた。

国木田さんは帰路につき、
乱歩さんは難事件だと楽しそうに事務所を出た。

私は、残った書類の整理を終え、デスクに体を預けて小さく息を吐いた。

──終わった。

緊張が解けて、ほんのわずか、まぶたが重くなる。

そのときだった。

「ねえ」

背後から、柔らかく声がかかった。

太宰さんが、いつもの調子で、
けれど、少しだけ間を置いて、言葉を続けた。

「君ってさ……その髪、どうして伸ばしたの?」

唐突だった。

私は、指先で髪の端をつまんだ。
胸元まで伸びた髪は、今では日常の一部だ。

「……特に理由なんて、ないですよ。強いて言えば、そういう年頃だったのかもしれません」

一度、短く切ったあの日から。
もう“女の子らしさ”を持つことすら許されないと思っていたあの頃から。

そしてふと、記憶の端に沈んでいた、ある声がよみがえった。

──「髪を伸ばしてみるといい。きっと彼は、そういうのが好きだから」

確かに、そう言われた。

誰に?と聞かれても、“明確に思い出せない”ことにしていた。

ただ、白衣の匂いと、冷たい指先の感触だけが、なぜかはっきりと残っている。

「……誰かに、そう言われた気もします。
“髪を伸ばせば、好きな人に好かれる”って」

冗談のように言ったつもりだった。

けれど太宰さんは、少しだけ目を細めた。
それが何を意味していたのかは、聞かなかった。

「前は、短かったよね」

「ええ。……あの頃は、私の中に“女の子でいる余裕”なんてなかったですから」

「今は?」

「今は、すこしだけ、あるかもしれません」

太宰さんはソファから立ち上がり、
私の横の空いている椅子に腰を下ろした。

彼が隣にいるのに、空気は不思議と軽かった。

「君ってさ……自分のこと、今でも“誰かに拾われた猫”だと思ってる?」

私は小さく笑った。

「ええ。でも──今は、
“拾ってくれた人の隣に座っていられる猫”だと思ってます」

「……へえ」

太宰さんが、くすっと笑った。

「いいね、それ」

「ありがとうございます。……あなたも、誰かを拾ったこと、ありますか?」

少しの沈黙。

「…拾い損ねたことはあるかな」


太宰さんは、じっと私を見た。
そして、ほんの一瞬だけ、何かを決めたように口を開いた。

「ねえ、“莉緒”」

名前で、呼ばれた。

それは、太宰が私のことを“仕事の顔”じゃなく、
個人として呼んだ初めての瞬間だった。

「……なんですか、太宰さん」

私は、笑って返した。

その笑みは、誰に見せるためでもない、自分の意思で向けたものだった。

窓の外では、風がそっとカーテンを揺らしていた。
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