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灰色の午後、その先へ

──雨が降っていた。

それは、涙の代わりのようだった。

ぽつ、ぽつ、と、傘も差さず歩く私の肩に、髪に、雨粒が落ちては消えていく。
頬を伝う雫がどこから来たものか、もうわからなかった。

あの洋館から、どうやってここまで戻ってきたのかも思い出せない。
意識を失って、どれくらい経ったのかもわからない。
目覚めたあと、私はただ来た道をたどるようにして、この港町まで歩いていた。

人通りのない、裏通り。
潮の匂いと、古い瓦屋根の影。

(……これから、どうしたものか)

守られた子供では、もういられない。
守る人は、もうどこにもいない。

だけど、あの人が太宰さんに託した言葉がある。

──「いい人間になれ」


“誰かのせいで”じゃなく、“誰かのために”。
私はこれから、自分の意思で歩いていく。

そう、思いかけた、そのときだった。

「……君さ」

不意に、誰かの声がした。

ぴたりと、足が止まった。
私は振り返る。

そこにいたのは、妙な男だった。

くしゃっとした髪。目元に浮かぶ笑み。ひょろりとした長身。
白いレインコートの前は開けられ、傘も差さずに雨に濡れているというのに、どこか軽やかだった。

「その顔……そうだね。“家族と恩人と王子様を一緒に失った”顔、かな」

胸が、少しだけ締めつけられる。

私は、知らず目を細めていた。

「……なんで、わかるの」

「うーん、探偵だから?」

冗談めいた口調。
けれどその瞳は、まっすぐに私を見ていた。
軽さの奥にある優しさに、私はなぜか、声を返せなかった。

「名前は?」

「……ない」

「そっか。じゃあ、“事務員さん”って呼ぼう。ちょうど人手が欲しかったしね。仕事、できるでしょ?」

「……なんで、そんなこと言うの」

「理由なんてないよ。君、そのままだと、どこまでも歩いてって、どこにも辿り着けない気がしてさ」

私は目を伏せた。
そうかもしれない。
ただ、流されるままにここまで来ただけだった。

「……行く場所、ないだけ」

「なら、僕があげる。君の“次の場所”を」

彼は、ポケットから飴玉を一つ取り出した。
包み紙の鮮やかな色が、雨のなかでひどく現実的に見えた。

「乱歩だよ。名探偵。今から君の上司。……はい、契約成立」

私は、その飴を両手で受け取った。
冷えた指先に、微かに温もりが戻ってくる気がした。

(名探偵……知ってる)

織田作さんとすれ違った、あの橋の上の青年。
未来を警告した人。
届かなかったかもしれない。けれど、それでも。

「……ありがとう」

声は震えていた。
けれど、はっきりと聞こえたはずだった。

その日、私は“事務員さん”として拾われた。
あの人が遺した願いの続きを、
今度は自分の足で、生きてみようと思った。
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