最強から最凶
「お前ええ加減にせぇよ!!俺のことバカにしてるやろ!!」
香る風笑劇場(かおるかぜしょうげきじょう)。
ここは香風笑業が所有する劇場で、所属芸人たちが毎日のようにお笑いライブを開催している。
今日も事務所主催のライブが開催され、17期デビュー組を中心に、8組程度の芸人が会場にいた。
もうすぐステージには、17期組“ブルーハワイロマンス”の登場である。
大抵の後輩芸人は、舞台袖で先輩のネタを勉強のために見ているものであるが、突如として若手の楽屋から、先程の怒号が響き渡った。
「何がやねん!別に馬鹿になんかしてへんわ!!」
「ほんならちゃんと説明せぇや!!」
“最強バディ”。
ブルーハワイロマンスの6年後輩の23期組のコンビで、彼らのファン以外にも知られるほどの不仲コンビである。
出番前に怒鳴り合い掴み合いのケンカは日常茶飯事。
先輩の出番であろうがお構いなしなため、芸人仲間や事務所関係者からは、“問題児”と呼ばれていたりする。
「アイツら、まぁーたやってるわ…」
先輩のネタを観ようと舞台袖に向かっていた、20期組のコンビ“緑の黒板”の、ただの王子が足を止め、相方であるミッチェの方を見てため息をつくと、「王子止めてきて」と、涼しい顔で返された。
「またおれかい?」
問題児のケンカは日常茶飯事。
無いことがないもの。あって当然のもの。
正直、もう誰も興味を持たない。
またか…と心の中で思う程度に留める。
そんな中、ただのだけは毎回のように律儀に反応してしまうため、結局ケンカを止める役目を任されるのだ。
反応しなければいいのに、とミッチェは思うが、この男は反応せずにはいられないのだとも分かっている。
「だって、これからブルハロやし…」とミッチェが返せば、ミッチェにとってブルーハワイロマンスがどれだけ特別な存在なのかを理解しているただのには、それ以上返す言葉はない。
しゃーないな…と足取り悪く問題児の楽屋に向かうしかなかった。
ガチャ。
「おい、お前ら静かにせぇ!」
ただのがドアを開けると、相変わらず大きな声で怒鳴り合い掴み合っていた問題児2人はビクッと身体を震わせ、驚いた表情でドアを開けた主を見た。
「先輩がネタやってるんやで?そんなデカい声でケンカしてたら、客席まで聞こえるわ。その辺にしとき」
長い髪を掻き上げながらただのがそう言うと、「………すみません」と相方のネクタイを掴んでいた手を、納得いかない表情で離したのは雛石裕也。
長い睫毛の奥に見える瞳は、未だに確かな怒りが滲んでいる。
そんな雛石の襟を尚も掴み続けているのは、その相方である新名将継。その、心底気に入らないというような表情は、およそ先輩に向ける顔ではない。
「バカにしてるやろ!!」と先に叫んだのは雛石の声やったな。と、ただのは腕を組む。先に怒っていたのは雛石のはず。
今の様子を前情報無しに見たら、確実に、より怒っているのは新名である。
「はぁ…」
どうしたものかと思案しているただのに対し大きなため息を吐くと、新名は雛石の襟首を離し、「どけ」と言わんばかりに、ただのの肩を押し退けて部屋を後にした。
何度でも言うが、ただのは先輩である。
「はぁ…今日は何や、どうしたんや?」
新名が出ていった扉を呆気にとられながら見ていたただのは、不機嫌そうな顔で襟を直す雛石に向けて問いかける。
雛石は、ただのの方を向くと、「ネタ書いてこいって言うから書いてきたんスよ」と話し始めた。
どうやら新名は、雛石が書いていたネタを読むなり、特別理由も感想も言わずに、紙を机に投げ捨てたらしい。
「今日は俺のネタやるわ」と一言だけ添えて。
「意味わからん。腹立つ」
雛石は思い出して更に怒りが増したのか、勢いよくソファに座り、頭を両手で掻き毟った。
「それはアカンなぁ」
「でしょ?めっちゃ腹立つんすよ」
面白くなかったからなのか、今日の観客を見て、ウケるのはこのネタじゃないと判断したのか…。理由はどうあれ、外野であるただのからしても、新名のとった行動は身勝手に感じた。
せめて、理由を話していれば、雛石も納得しただろう。普段から会話をしない2人ではあるが、それは必要最低限のコミュニケーションだと思う。
「ん〜…わかった。ちょっと新名に話聞いてくるわ」
ただのがそう言うと、「いいっすよ、もう。アイツが有りネタやるって言うたら有りネタなんで」と、冷めた顔をして雛石は答えたが、そういうわけにはいかないとただのは新名を探しに部屋を出た。
「新名」
喫煙所でタバコを吹かす新名を見つけ呼びかけると、わざわざ自分を探して声をかけてくる先輩に新名は「何すか?」と顔を顰めた。
面倒な先輩や。毎回毎回、よく他人の問題にここまで踏み込んでこれるもんや。
新名は、自分には考えられない行動を当たり前のようにするこの先輩が(大前提で、大好きな先輩ではあるが)苦手である。
「雛石にネタ書かせたんやろ?おもろなかったんか知らんけど、やらんならやらんで理由ちゃんと言わなあかんで」
「別に、おもろかったすよ。ただ、今日の感じやないな、と思っただけで。そんなん別に、言わんでもわかるでしょ」
「いや、わからへんから、納得いかずにケンカなってるわけやん。そこはちゃんと向き合って、思ったこと伝えんと」
ただのの言うことはご尤もである。
新名にも分かっていた。自分が説明不足であることが原因で、毎回ケンカになっていることは。
ただ幼い頃から、どうにも上手くコミュニケーションが取れないのだ。雛石に限らず、他人との適切な関わり方がわからない。
大抵の相手は呆れて離れていく。雛石は食って掛かってくるからケンカになる。
この状況で仲良くなるなんてことはそうそうないため、ケンカしながらも今の関係でいてくれるという意味では、新名にとって雛石は特別な存在である。
「……別にそもそも」
一体、誰に言い訳をしているのか。
新名はただのに向かって言葉をぶつける。
「今日やるからネタ書いてこいとは言うてないんですよ」
最近上手くネタが浮かばない時がある。書きたくても書けない。書き始めても書ききれない。
以前は湧き出る泉のようにネタが湧いてきていたため、新名にとって今の状況はかなりのストレスだった。
助けてくれ、なんて口が裂けても言えない。だから、ネタ作ってみてくれと言っただけなのだ。
「それを、今日やると勘違いしてたんはアイツなんですよ」
新名の心の声は届かない。が、新名の表情から苦しみを感じたただのは、言葉に詰まる。
先輩として力になってやりたい気持ちもあるが、だがしかし、新名のとった行動は気持ちのいいものではない。
「………それも、そもそも発注のときに言葉が足りんかったんやないか?」
寄り添う言葉をかけてやりたかったが、思わず漏れてしまったただのの言葉。
新名は不満そうな顔をして黙り込む。
結局、味方はしてもらえへんのや。
「まぁ、そっすね。ご迷惑おかけしてすみませんでした。でも、僕らの問題なんで」
「あ、おい」
結局先輩たちは雛石の味方なのだ。
そんな幼稚な考えが頭を掠め、更に苛立ちを覚えながら、先輩を残し一人飛び出した喫煙所の扉を勢いよく閉めた。
新名が楽屋の付近まで戻ると、「おい新名〜出囃子鳴っとるで」と、自分たちの楽屋から出てきたミッチェが手をひらひら振りながら呼んでいる。
出囃子がなっている?
それならもう舞台に出なければ。
いつの間にか、そんな時間だとは。
新名はミッチェに軽く返事をし、楽屋の中から未だ不機嫌そうな顔で出てくる雛石に「おい」と呼びかける。
「どれ?」
そう一言返した雛石に、新名も一言「イルカショー」とだけ返す。
それ以上の会話は一切なく、2人はさっさと舞台に小走りで向かった。
「お疲れ、王子」
新名に置いていかれ、独り寂しく煙草を1本吸ってから戻ってきたただのを、ミッチェは軽く手を挙げ出迎えた。
あいつらの仲介なんて、自分はやりたくない。
2人ともとても可愛がっている後輩だが、それはあくまで個々人で。コンビ揃ってご飯に連れて行くこともないし、3人で過ごすなんて考えたくない。
面倒事に巻き込まれるのは正直御免である。
嫌がりながらもその役割を引き受けてくれるただのを、ミッチェはシンプルに尊敬している。
「ホンマにアイツら、仲悪すぎやって…」
「そうな」
ただのは深くため息をつき、「いつ解散って言い出すか…心配なるわ」と俯き気味にこぼした。
一歩間違えれば、いつだって解散してしまいそうな危うさが、あの2人にはある。
「まぁでも、漫才してる時は、ほんとにめっちゃ最強バディなんやよなぁ」
出囃子が終了するまでになんとか間に合い、舞台に立つ後輩たちをモニターで確認し、ミッチェはそう呟く。
きっと、このまま、あの2人はあの2人なりの関係で、コンビを続けていくだろう。
2人と、特に雛石と特別深い関係であるミッチェには、確信にも似た自信があった。
* * *
「おい雛石、最後のボケ間違えるって何やねん!最近お前よう間違えるよな?わざとか?あ?!」
舞台から降りた瞬間楽屋に直行し、衣装を脱ぎ足早に帰ろうとする雛石を追いかけながら、新名が怒鳴る。
「はい、すみませんでしたー」
反省しているわけがないと誰もが思うような軽さで、新名の顔すら見ずに謝罪の言葉を口にしながら、雛石は尚も足を止めない。
先輩も後輩も、またケンカか、という呆れ顔で自分たちを見ているが、雛石は気にも留めない。
スタスタスタスタ、振り返りもしない。
「おい、漫才にケンカ持ち込むなって約束やろ。こっち向けや!」
新名がそんな雛石に追いつき、肩を掴んで自分の方に無理矢理振り向かせ、まっすぐ目を見て言うと、雛石は「別に持ち込んでへんわ!」と新名の腕を振り払う。
「…ちょっと間違えただけやろ」
「ちょっとで済む間違いならかまへんけど、一番重要な…」
「あーはいはい。わかりました。今後気をつけます。お疲れ様ー」
「あ、おい!」
くるりと方向を変え、出口に直行する雛石。
そんな雛石の態度に、尚も怒りをぶつけようとした新名だったが、すぐ背後から「おい新名」と自分の名を呼ぶ声がして、ピタリと足を止めた。
声の主は、ブルーハワイロマンスの覇月。
耳に入った瞬間、全身から冷や汗が溢れ出す。
覇月といえば、全後輩が恐れ慄く地元でも有名な元ヤンである。
さっさと足早に去った相方に憎しみさえ覚えるほどの恐怖。これから自分は殺されるのではないか。
「あ…お疲れ様です…」となんとか絞り出し、新名が振り返った瞬間視界に入った覇月の瞳には、冷酷な炎がありありと見える。
「お前らまた出番前ケンカしてたやろ。アカンで?何言ってるかまではわからんけど、お前らの声舞台まで聞こえとったわ。よう俺らの番のときにケンカとかできたな。ほんま。下手したら出禁やぞ」
まさか、あのケンカをしていた時間にネタをしていたのがブルハロだったとは。いや、そりゃなんとなくは分かっていたのだが。自分たちの前の出番がそうであったのだから。
何故自分だけが怒られなければならないのか。不満はあれど、ここでそんなことを言えば本当に殺されかねないため、シンプルに申し訳ございませんと謝罪すれば、意外にもあっさりと「気ぃつけや」とだけ返された。
今が帰るチャンスである。
以後気をつけます。お疲れ様でした。と言えば難なく帰ることができるタイミング。
新名が口を開いた瞬間、覇月の背後から、相方の温井が顔を出した。
「あ、新名、そういえば話したいことあってん」
「え?」
ちょっと来て、と手招きする温井に、新名は頷く。あぁ、なるほど。本当に怒っていたのはこっちの先輩か。だとしたら、これはもっと長くなるかもしれない。
自身の感情で後輩に攻撃的になる覇月とは全く違うタイプなのが温井である。
普段は後輩に優しいが、後輩が間違っていると感じた時はとても厳しい。全後輩の兄貴分であり、まるで母親のようでもある。
この後もブルーハワイロマンスはコンビの仕事が入っているのだろう。「先行ってるで?」と覇月は温井に確認し、新名を一瞥してから出口に向かった。
「何ですか?」
温井と共に彼らの楽屋に入ると、座るように促される。
自分たちの、会議机にパイプ椅子の楽屋とは違う、座敷スタイルの楽屋。
指示通り座布団に座った新名は、説教をされる覚悟を決めるために一つ深呼吸をしてから尋ねる。
「最近、雛石は元気か?」
「え?」
突如として聞こえた質問に、思考が追いつかない新名は、気の抜けた声で顔を上げた。
元気?雛石が?まぁ、確かにアイツは免疫力が低いのか、よく体調を崩して仕事に穴を開けているが。
この先輩は、急に何の心配をしているのか。
怪訝な顔をしていただろう新名に、温井はそっと口を開く。
「こんなん、ほんまは勝手に言わんほうがええんかもしらんけど…」
続いた温井の言葉。
数日前、温井が休憩時間に散歩をしてからテレビ局に帰る途中、雛石が、この辺りで一番大きな病院である『新浜総合病院』から出てくるのを見たようだ。
本人が通院しているのか、はたまた身内が入院してるのか。
急いで帰っている途中だったため、温井は確認できなかった。
「何か聞いとる?」
「いや…知らないです…」
思い当たる節は一切ない。
雛石自身の体調は別に安定していそうだったし、お互い家族の話はしたことがない。家族構成すらも知らないかもしれない。
「まぁ、なんか調子悪い理由があるんかもやし、ガミガミ怒るより1回ちゃんと向き合って話をせぇ。ええな?」
「……はい」
実は体調が悪かったのだろうか。
親の病状が不安で、漫才に集中できていないのだろうか。
どんな理由であれ、舞台に立ったらネタに集中するのがプロフェッショナルだ。
客が金を払い、予定を合わせて観に来てくれている場で、自分の事情を出すなどというのは、プロ失格であると新名は思っている。
しかしそれは相方が寄り添い理解し、フォローなりケアなりを行った上でできることなのかもしれない…とも、正直新名も思う。コンビとはそういうものであろう。
「新浜総合病院…」
温井との話の後、劇場を後にして新名が向かった先は、雛石が出てきたという新浜総合病院。
大きな病院である。新名にとっても、何度も来たことがある馴染みある病院。あることがキッカケで、新名がここに足を踏み入れることは二度となくなったのだが。
ぼんやり病院を眺めていると、門から見慣れた男が出てくるのが見えた。
自分がいる方向に向かって俯きながら歩いてくる男に、「おい、雛石」と声を掛ける。
「え…新名…っ?」
ビクッと体を震わせ驚いた表情でこちらを向いた雛石に、新名は近付き尋ねた。
「お前、そこの病院から出てきたよな?……誰か家族が入院してるんか?」
新名の問いかけに、雛石は黙り込む。
否定とも肯定ともとれる反応だが、肯定だと決めつけ新名は続ける。
「それならそうと先に言えや。最近ぼんやりしてると思っててん。それでネタ飛ばしたりするんやろ」
新名の言葉に「ちゃう」とハッキリ否定の言葉で返した雛石に、違うんかい、ほな早よ言えや。と内心ツッコミながら、新名は続けて「友達か?」と尋ねる。
雛石は首を横に振って、答えた。
「俺が通院してんねん」
思わぬ返答に、新名はドキッとした。
生唾を飲む音が脳に響く。
雛石が通院している…?
別に顔色も悪くないし、体調が悪そうには見えないが。
「…どっか悪いんか?」
「………」
絞り出した質問に、雛石がまた黙り込む。怖い。そりゃ通院しているのだから、どこかは悪いのだ。それはわかっている。わかっているのだが、今黙り込まれたら、事態が深刻なのではないかと思わされる。
「何か言えや」と、震える声で新名が言うと、雛石は何かを決心したように一つため息をついた。
「…わかった。話あるから、俺の部屋来てくれ」
* * *
「お前まだここ住んでたん?!スクールの頃から住んでるとこやんけ!え?引っ越したいとか思わへんの?!」
香る風お笑いスクール。
香風笑業所属の芸人の大半が卒業生である、事務所が経営するお笑い芸人の養成所。
最強バディの両名も、スクールに通っていた同期である。
コンビを組んだばかりの頃は現在のように仲は悪くはなく、ネタ見せの授業の前には、お互いの家に行き来してネタ合わせをしたりもしていた。
それから時は経ち、自他共に認める不仲コンビになり、お互いどこに住んでいるのかもわからないようになった今では考えられない過去である。
まさか、その当時と変わらない部屋に住んでいようとは。ある程度、芸人としての稼ぎもあるというのに。
驚きで、まるで舞台上かのような大声で騒ぐ新名に、人差し指で静かにするようにジェスチャーし、雛石は「別にええやろ」と小声で返す。
それに合わせ小声で謝罪し、雛石の後に続いて部屋に入った新名は、またも驚きの光景を目にし、絶句した。
何もない。
金のなかった昔と何も変わらない。
6畳のワンルームに小さな机、柄のない敷布団と掛け布団。
「…家具ぐらい買えや」
何かのボケなんか?これは。
誰かのツッコミ待ちなんか?俺がツッコめばええんか?
そんなことあるはずはないが、せめて何かのボケであってほしいくらいには、目の前の光景は奇妙で理解し難いもので、思考が全く追いつかない新名。
雛石は机の近くに座って、その反対側を指差す。
「床で悪いけど、座ってや」
新名は「…おう」と小さく返事をし、言われるがままに床に座った。
改めて部屋を見回すが、本当に何もない。雛石は本当にここで生活しているのだろうか。落ち着かない。
「単刀直入に言わせてもらうけど」
ソワソワしているところに、雛石のハッキリとした声が届き、新名は忙しなく動いていた脳みそを一度ストップさせ、雛石に意識を戻した。
「おう、なんや?」
一体、何の病気なのだろうか。
重いのか軽いのか、どんな症状があるのか、知っている病気か、聞いたこともない難病か。
意味もなく思考する。
答えはもうすぐ聞けるのに、待ち切れないと言わんばかりに、新名の脳はまた動き出す。
しかし、次の瞬間。
「解散してほしい」
あまりの衝撃に、言葉を失う。
静寂。耳鳴りがするくらいの静寂。
「かいさん…?」
まるで聞いたことのない言葉を聞いたかのように、オウム返ししかできない。
脳が動かない。頭が真っ白になる。
雛石が改めて「そう。解散、してほしいねん」と言うと、新名はようやく言葉を理解した。
解散って言ったんや、コイツは。
「……何や?もうすぐ死ぬんか?そんな重い病気か?」
「いいや」
「鬱とか?パニック何たらか?それなら、暫く休みぃや。色々疲れたんやな。そんなに決断急がんでも大丈夫や」
「ちゃう」
「ほな何やねん!急に解散とか言い出して!!」
苛立ちが込み上げる。
たしか、ここに来る前に自分がした質問は、どこか悪いのか?だったはず。
通院している理由を聞くためにここに来たのに、何故急にコイツは解散だなどと言い出しているのか。
思わず声を荒らげてしまった。
あまりに感情的で、情けない。
だが、抑えられなかった。
そんな自分が少し恥ずかしくなり、新名は小さく深呼吸をし、冷静になるように努める。
「……教えてくれや、理由を」
落ち着きを取り戻した新名に、雛石は言い出しづらそうに口ごもる。
新名が自分を心配し、話を聞くためにわざわざここまで来てくれたことは、正直意外だった。
ここで話せ。移動するならもうええわ。そんな言葉が聞こえてもおかしくなかった。それくらい、自分たちの関係は冷めきっていると思っていた。
だから解散も、すぐに受け入れるものだと思っていた。
あんな露骨に、あんな感情的に拒否をされるとは、思いもしなかった。
長年、言おう言おうと思いながら言えなかった「解散」の言葉。
理由など話すつもりはなかったが、本音でぶつかろうとしてくれる相方に、中途半端なマネをするのは失礼だと感じた。
意を決した雛石は、重い口を開いた。
「俺…精神科、通ってんねん」
「…でも、鬱ちゃうんやろ?」
「うん…」
何から話せばいいのだろうか。
雛石は、手元のスマートフォンを弄びながら、話の順序を考える。
相方の待ち切れないという様子に急かされ、焦る気持ちもあるが、今まで隠し続けてきた話をするのは、非常に緊張した。
できれば、話すことなく解散を受け入れてほしかった。が、そんなことを言っていても仕方がない。
まずは…と、新名の目を見て、
「多重人格ってわかる?よな?俺、それやねん」
思いも寄らない雛石の告白に、新名の強張った表情が一瞬緩む。
何かの冗談か?とでも言わんばかり。
「は?じゃあ、ミスしたんは自分やないもう1人の人格のせいやって言うんか?」
出た。と雛石は口を閉ざす。
新名の悪い癖だ。人が話している途中に、続きを勝手に自分の中で作ってしまう。
誰も言っていないことに勝手に腹を立て、嫌味を言ったり攻撃したり。
無自覚だろうか?
新名のそこが、その悪癖が、雛石は嫌いだった。
「確かにお前、デビューしたくらいから人変わったみたいやったもんな。多重人格や言われたら納得やわ」
本当に最悪。
「最後まで話聞けや」
ため息のように雛石が呟くと、それに気付いた新名は、「…悪い」と珍しく謝罪した。
多重人格。
フィクションで聞く単語という印象で、それ以上でもそれ以下でもない。
確か、“解離性同一性障害”とか言ったか。
耐えきれない苦痛や心的ストレスから逃れるために意識を切り離した結果、それが何故だが人格として形成されてしまうとかなんとか。
新名の父は医師であり、新名自身も一時医師を志した側の人間である。少しばかりの知識はある。
だが、馴染みがない。
精神疾患は、個人的には理解の範疇を超えている。
なにはともあれ、あれこれ考えすぎてしまい、相手が言うであろう言葉を待ち切れずに先読みしてしまうのは、せっかち故だろう。
そう、自己分析している新名である。
何故だが納得したような表情の新名に対し、雛石は改めて口を開いた。
「俺は、交代人格やねん。雛石裕也の主人格は、もう8年、眠ったままや」
「は?え…8年?」
雛石の言葉に思考が追いつかず、間の抜けた声で聞き返す。
「俺は、主人格を守るために生まれた。この身体を裕也に返したいから、自分を消すために精神科に8年間通ってる」
「何言って……」
「お前を巻き込んでもうたんは、ほんまに申し訳ないと思うてる。もうじき裕也が目を覚ますのが俺にはわかる。だから、早く解散したいねん」
未だ思考が追いつかず思うように言葉が出ない新名に、雛石は立て続けに言葉を重ねた。
8年。
それは、新名と出会う前から、主人格は表に出てきてないということを意味する。
つまり、新名が知っている雛石は……
「……何で解散せなあかんの?」
愕然。
急に突き放された感覚に、新名はただただ愕然として、質問を絞り出すことで意識を保っている。
「芸人になりたかったのは裕也で、スクールに受かったのも裕也やけど、お前とコンビ組むのは、裕也が選んだ人生やないから」
スクールには通うつもりだった。
通わない選択をして、もし主人格が途中で目を覚ましたら、せっかく入所試験に受かったのに勿体ない。
しかし、誰ともコンビを組む気はなかった。それは、主人格が決めることであって、自分が決めることじゃない。
だから、コンビは組まなくても、主人格がいつ目覚めてもいいようにスクールには真面目に通い、もし卒業までに目を覚まさなくても、勉強だけはしておいて、1個でも多く主人格のためになる知識を身に着けたかった。
なのに自分が、主人格の人生を勝手に選んでしまった。だから、目を覚ます前に、終わりにしたいのだ。
「新名からしたら、あまりに身勝手な話やって思うやろうと思う。それは理解してる。でも、頼むわ」
「……」
少しずつ、雛石の言葉を理解する。
少しずつ、噛み砕いて、理解する。
少しずつ、少しずつ…
* * *
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