恋人編
名前変更
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「お兄ちゃん泊めて!」
深夜に兄の家に訪問してきた泉は珍しく怒っていた。いつもの笑顔はない。
「いいけど…」
緑谷は驚きながら妹を家の中へ迎え入れた。泉が突然訪問してくること自体はいつものことなのだが…。
「しばらく轟さんには会いたくない!」
泉はぷりぷり怒りながら、ソファに勢いよく腰を下ろした。ヒーローとして軌道に乗ってきた頃に、同棲を始めた轟と泉はあまり喧嘩をしない。同棲を始めてもう3年になる。家を飛び出して兄を頼ってきたことなど、一度もなかった。
「何かあったの?」
緑谷は妹の好きなぬるめのココアを作ってあげようと台所に立った。棚からココアの粉と冷蔵庫から牛乳を取り出しながら、尋ねてみる。頬を膨らませた泉はソファからひょっこり顔を覗かせた。
「お兄ちゃんのこと、デクって呼んだの!」
「えぇ?」
何その理由…と言おうとして、何とか言葉を引っ込めた。さらに怒るに決まっている。
「分かってる、お兄ちゃんの言いたいことは分かってる。お兄ちゃんのヒーローネームはデクだもんね」
「うん、そうだね?」
言いたいことはそうじゃない、とは言えないので話の流れに合わせて相槌を打った。
「最近轟さん、仕事でお兄ちゃんに会うことが多かったせいか、プライベートでもデク、デク…って呼ぶの!何回もプライベートですよって言ってるのに!しょうがないだろ、なんて言うんだよ⁉」
「そんなことで喧嘩したの…?」
出来上がったココアを妹の前に置くのと一緒に、先程頑張って引っ込めた言葉がつい口から出た。やってしまった!と思ったがもう遅い。
「そんなこと…?」
「ごめん」
一言謝るが、泉の耳には届かなかったようだ。泉は立ち上がって兄をキッと睨みつけた。
「そんなことじゃない!私にとってはとても大事なことだって、お兄ちゃんは知ってるでしょ⁉」
泉の半ば叫び声のような怒りの言葉が、緑谷の耳を勢いよく通り抜けていった。
「う、うん…。だからごめんて」
耳に手を当てながら、再び謝るが泉は聞いていなかった。
「やっぱりお兄ちゃんがヒーローネームをデクにしたこと納得いかない!だってかっちゃんがお兄ちゃんを馬鹿にして言ったんだもの!私一生忘れない」
未だにその幼馴染はプライベートでもデクと呼んでいるが、それは良いのだろうか。そんな疑問がよぎるが、さすがに言わないように気をつける。火に油を注ぐだけだ。
緑谷は妹の背中をさすりながら、座るように促し自分も隣に座った。
「最近仕事で会う機会が多かったからしょうがないよ。僕だってそんな器用に呼び分けられないし、難しいよ」
「でも」
「でもじゃなくて」
反論しようとする泉に言葉を上から被せた。
「それに何度も言ってるけどね、デクはもう僕にとって木偶の坊のデクじゃないんだよ。頑張れ!って感じのデクなんだ」
「…」
泉は膨れっ面のまま返事をしなかった。
「泉?」
呼びかけると、ココアをぐいっと飲み干す。コップを勢いよく机に置くと立ち上がった。
「やだ!寝る!」
頬をリスみたいに膨らませた泉は、怒りながら玄関の方へ走っていった。
「どこ行くの⁉」
驚いて立ち上がると、泉が怒った声で言い返してきた。
「歯磨き!ココア飲んだままの口じゃ寝られないでしょ!」
慌ただしい音がいくつか聞こえてきた後、泉がまたパタパタと戻ってきて緑谷が呆気に取られているうちに寝室に飛び込んだ。
「今日はお兄ちゃんの布団で寝る!ココアはありがとう!ご馳走様でした!」
納得のいかない顔をして早口で言うと、寝室の扉を閉めてしまった。こういうところは律儀だ。
「明日は!?」
「早番!…お兄ちゃんソファで寝てね!おやすみ!」
急いで尋ねると、閉じた扉の向こうから泉が叫んだ。いくら言っても聞く耳は持たなさそうだと、緑谷はため息を吐いた。
「あ!泉。掛け布団取りたいんだけど…」
思い出して、控えめに声をかけるが返事はない。そっと扉を開けると、泉は布団もかけずに、ベッドの上で小さく丸まって寝息を立てていた。
緑谷は呆れながら、ベッドの端に追いやられていた掛け布団を引っ張った。 20代も半ばに差し掛かろうとしている妹を可愛い、と言うと流石に怒るだろうか。そう思いながら布団をかけ直して、泉の頭を撫でた。
「おやすみ、泉」
押し入れからタオルケットを取り出して、寝室を後にした。
翌朝まだ薄暗いうちに電話が鳴り響いた。緑谷は飛び起きると、頭上に置いてあったスマホを耳に当てた。
「はい、緑谷!」
朝早くから何か事件かと、緑谷は急いで頭をクリアにする。
「朝早くにすまねぇ、俺だ」
聞こえてきた声に耳からスマホを外した。轟、と表示されていた。声色からして何か事件という訳ではなさそうだ。緊張が一気に解れてあくびが出た。
「なんだ、轟くんか…どうしたの?」
「泉はそっちに行ってるか?夜に怒って出て行ったきり、メールの返事もないし電話も出ねぇんだ」
あの子携帯の電源切ってるのか…とあくびのようなため息が出た。緑谷は半分寝てしまいそうになりながら答える。
「うん、大丈夫。来てる。たぶんまだゆめのなか…」
「そうか、無事なら良いんだ。良かった…」
轟は安堵したように息を吐いた。相当心配していたのだろう。緑谷は妹が心配をかけさせてしまって申し訳ないと感じた。
「悪かった、朝早くから」
時計を見ると、まだ4時半だった。
「大丈夫。むしろ泉がごめんね。もしかして起きてたの?」
「あぁ、帰ってくるだろうと思って」
「ちゃんと寝ないと泉が怒るよ」
「だろうな、これから少し休む。居場所がわかって安心したら、眠くなってきた」
「泉に何か言っておく?」
「…早く帰ってこいって言っといてくれ」
「分かった。じゃあ、おやすみ」
「あぁ、ありがとな」
そう言って轟は眠そうに欠伸をすると電話を切った。
「今の、轟さん?」
「うわっ!?」
寝室の戸が開き泉が顔を出した。緑谷が驚いて振り返ると、ムッとして顔をしかめた。
「ごめん、びっくりして…。おはよう、起こしちゃった?」
「ううん。起きたらお兄ちゃんの声がしたの」
「泉が帰ってこないから心配して起きてたみたい」
「…別に帰ってこないからって簡単に事件とか事故に巻き込まれるわけじゃないのに。それで、何か言ってた?」
「早く帰ってこいだって」
「ごめんでもなく!早く帰ってこい⁉やだ、絶対に帰ってあげない…!」
泉が文句を言うことは滅多にないのだが、今回ばかりは何やらぶつぶつ文句を言いながら洗面所に言ってしまった。
「寝てもまだ怒ってるか…」
はぁ…とため息をついて緑谷は気が重たくなった。
「仕事行くね」
髪を束ね、薄化粧をした泉は、リビングまで戻ってくると兄にそう声をかけた。
「いってらっしゃい」
緑谷はまたソファに寝転がっていた。眠たそうな顔だけ起こして妹を見た。
「今日こっち帰ってくるから。代わりにご飯は作るね!親子丼にしよっかな」
「えー?」
緑谷は非難の声を上げる。
「それはどっちのえー?なの⁉」
「うーんどっちも?」
蕎麦打ちが得意なことを公言している泉だが、料理全般が得意なわけではない。むしろ苦手なくらいで母からは、台所に立つことすら禁止されたことがある。
「お兄ちゃんひどいんだけど…!」
「鍵持った?」
話を逸らそうと緑谷が鍵の有無を尋ねると、泉はカバンの中から合鍵を取り出して見せた。もしもの時用に泉には合鍵を渡しているが、訪ねてくるときはいつもインターフォンを押すので使用することはあまりない。
「持った!じゃ行ってきます!」
流石に仕事に行くからか、気持ちを切り替えた泉は笑顔を作って兄の家を出た。
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