家族編
名前変更
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今でもあの異様な空気はよく覚えています。小さな子どもの泣き声。父親の怒声。母親の庇う声。両親の声を聞きながら、そちらを睨むように見ていた長男。目を伏せるしかない他の2人の子供たち。
敷地内の奥にある稽古場から、1番下の5歳の男の子の痛々しい声が聞こえてきても、兄姉たちは何事もないようなふりをして遊び続ける。
それが、この家、轟家の日常でした。
目の前の大きな門を見上げながら、少し冷たくなった空気を吸い込んで深呼吸をしました。
以前から娘夫婦に提案されていた、同居の話がようやくまとまり、私はこの地を出ていくことになりました。出て行くことに決まり、すぐに思い浮かんだのは、長く勤めた轟家のことでした。
腰を痛めてお暇をいただいてしまった轟家のことを、ずっと気掛かりに思っていました。最後に一目だけでもお姿を拝見したい。その思いでかつての勤め先に足を運びましたが、なかなか踏ん切りがつかずに門の前で迷っていました。
「こんにちは」
後ろから声をかけられ、ゆっくり振り向くと大きなお腹をした女性が、小さな男の子を連れて立っていました。親子なのでしょう。深緑の髪の毛とくりっとした大きな瞳がそっくりです。
可愛らしい顔立ちの女性はどこかで見たことがある気がしましたが、誰だか分かりませんでした。
「こんにちは」
挨拶を返すと、にこやかに笑みを浮かべていた女性が、男の子の手をぎゅっと強く握った気がしました。ほんの少し子どもを後ろを隠すような仕草に、女性が私のことを警戒しているのだと思いました。女性は笑みを崩さずに、主人の実家なんです、と言いました。
主人、そう言われてお嫁さんが轟家を見上げていた私を警戒している理由がわかりました。もう随分前のことですが、エンデヴァー一家のことは世間に広く知られてしまったのです。世間からの印象は未だに良いとは言い切れませんから、無理もありません。
「何か御用ですか?」
どの男の子のお嫁さんなのでしょうか。気になりましたが、まずはご挨拶をしなければ、と頭を下げました。
「以前家政婦として働いていた藤原と申します」
「……もしかして、はつ江さんですか?」
顔を上げると、お嫁さんは目を丸くしていました。何故下の名前をご存知なのかと戸惑いながらも肯定しました。
「えぇ…そうです」
「やっぱり!もしかしたら、って思ってたんです。不審がるような言い方をしてすみません。どうぞ、中にお入り下さい!」
お嫁さんはパッと顔を輝かせて、私の手を引くと敷地内に入って行きました。さきほどの警戒心はどこへ行ったのか、明るい声で楽しそうに喋り続けています。
「どうぞって言っても、ここに住んでいるわけじゃないんですけどね。今日は遊びに来ていて、少し散歩に行った帰りなんです。お義姉さんもお義父さんも好きに来ていいって言ってくれていて…」
「ママ」
そのとき、同じように手を引かれていた男の子が母親の手を引っ張っりました。知らない人が一緒で恥ずかしがっているのかと思ったら、おなまえは?と呟いたのです。
「そうだった!ありがと。ほおくんはかしこいねぇ」
お嫁さんが繋いでいた手を離して、男の子の頭を優しく撫でました。記憶にある轟家とは、似つかわしい雰囲気でした。
私の手を離し、正面に立ったお嫁さんは丁寧にお辞儀をして挨拶をしてくれました。
「名乗り忘れてすみません。轟焦凍の妻の、泉と言います。この子は息子のほむらです」
「よんさい!」
驚きました。
「焦凍お坊ちゃんのお嫁さんでしたか…」
照れて恥ずかしそうに笑う泉さんが、焦凍お坊ちゃんと並び立つ姿を想像することが出来ませんでした。はるか昔のお坊ちゃんは父親に対する憎しみの顔で歪んでいました。そのことだけで頭がいっぱいで、子供らしい姿を見たことなんて一度たりともありませんでした。
朗らかなお嫁さんに、可愛らしい息子さん。そして、2人目の子ども…。
私の視線に気が付いたのか、泉さんが笑った気がしました。
「お腹大きく見えますよね」
私と繋いでいた手で、膨らんだお腹を優しく撫でました。
「もうすぐですか?」
訊ねると、泉さんは楽しそうにクスクス笑いだしました。
「まだ7ヶ月なんです。実は…双子で…!」
「ぼく、おにいちゃんになるの!」
そうなんだよねー?と泉さんは、ほむらさんの頭を撫でました。
「それで大きいのですね。体調は大丈夫なのですか?」
「はい!双子なのでお腹も大きいですし、大変なことは多いんですけど、職業柄身体は丈夫なんです」
楽しそうに笑う泉さんは、同じような笑顔で焦凍お坊ちゃんの側にいるのでしょう。
職業柄身体が丈夫だという言葉に聞いて、泉さんがなぜ見覚えがあるのか思い出しました。
「…ヒーロー…?」
ぽつりと呟くと、泉さんは少し驚いたように目をぱちくりしました。
「あ、あれ…もしかして、ご存知なかったですか…?やだ…!すみません!私ったらてっきり…」
「こちらこそ失礼しました。焦凍お坊ちゃんが結婚発表をしていたことをすっかり忘れていました。ヒーローの…」
若手人気ヒーローであるショートが結婚をした、と当時の新聞やテレビで大きく取り沙汰されていました。報道陣に詰め寄られて、ヒーロー業に支障が出ないものかと勝手に気を揉んでいました。
しかし、肝心の名前が出てこずに、詰まってしまいました。泉さんと目が合うと、にっこりと笑って口を開きました。
「いつも明るい笑顔で、みんなの心を温めます!あったかヒーロー、ファイアリーです!」
決め台詞を言ってくれたことで、ヒーロー活動をする彼女と焦凍お坊ちゃんのお嫁さんである、泉さんがようやく繋がりました。
「そうでした…ファイアリーですね。失礼しました。…嫌ですね、この歳になると全然出てこなくて」
「いいえ、とんでもない!私の知名度はショートに比べれば、かなり低いですから!…あ、そうだ!あとで焦凍さんも来るんです。会えるといいんですが…」
焦凍お坊ちゃんは私に会いたいと思うはずもありませんが、口にはしませんでした。お坊ちゃんが私を覚えているかすら怪しいのです。
玄関の引き戸を開けて、ただいま戻りました、と泉さんが家の中に呼びかけました。すぐに奥の方で冬美お嬢さんのおかえり、と言う優しい声が聞こえてきました。
「ちょっと待っててくださいね。ほおくんも待ってて」
「はーい」
ほむらさんは玄関のたたきにお行儀よくちょこん、と座りました。
「お義姉さーん!お客様ですよー!」
泉さんは早足で楽しそうに奥に行ってしまいましたが、すぐに冬美さんの手を引いて帰ってきました。
「早く来てください!」
「ちょ、ちょっと!泉ちゃん、そんな急いだらまたお腹張っちゃうよ…!?」
「大丈夫ですって!とっても嬉しいお客様だと思いますよ!」
玄関に立つ私の正面に冬美さんを立たせました。お辞儀をして、顔を上げて真っ先に冬美さんの目が潤んでいるのを見つけました。驚いて開いた口を、冬美お嬢さんは隠すように手を当てました。
「はつ江さん…!」
「長いことご無沙汰して申し訳ありません。冬美お嬢さん」
「本当に…何年ぶり…?私が高校の頃だから…20年ぶりくらい?お元気でしたか?」
冬美お嬢さんは涙を滲ませながら、玄関を降りて正面に立つと手を取ってくれました。
「ええ、この通り」
腕を上げて、上下に振ってみせました。私は歳の割に丈夫だと、お医者様からのお墨付きももらっているのです。
「あの頃痛めた腰は今も時折痛みますけれど、元気ですよ」
「今日はどうされたんですか?」
「実は遠方に住む娘夫婦と暮らすことになりまして、この土地を離れることになったんです。引越し前にご挨拶にと、お伺いさせていただきました。随分と長いことご無沙汰してしまいましたが、家政婦として長く勤めた場所ですから、最後にお嬢さんお坊ちゃんのお顔を一目拝見したくなりまして…」
「はつ江さん…ありがとうございます。私も夏雄も焦凍もみんな元気にしてます。夏雄は結婚してちょっと遠いとこへ引っ越してしまったんですけど、焦凍はこんなに可愛い奥さんと子どもがいて、…すごく幸せそうなんですよ」
すごく幸せそう、と言った冬美お嬢さんはたまらずに涙をこぼしてしまいました。ズッと鼻を啜り上げながら、続けます。
「昔じゃ考えられないくらい笑ってて…」
「そうですか…。あの焦凍お坊ちゃんが笑顔に…」
じんわりと目頭が熱くなりました。暗くて重たい空気の中、いつも父親を睨んでいた小さな男の子が笑顔に…。
「ただいま」
低い声に振り向くと、成長した焦凍お坊ちゃんが立っていました。画面越しでない久しぶりのお坊ちゃんは、すっかり背が伸びて見上げるほどで、がっしりとした身体付きはヒーローという職業柄なのでしょう。学生時代から何かと注目されていたお坊ちゃんを、テレビでよく目にしていました。その度に成長を嬉しく思っていたものです。
「おかえりなさい、焦凍さん!」
泉さんの嬉しそうな声に釣られて、座っていたほむらさんが立ち上がりました。
「パパ!」
そして、父親に遠慮なく両手を伸ばしたのです。焦凍お坊ちゃんは拒否することなく、抱っこを求めてきた息子をごく自然に抱き上げあげました。優しそうな微笑みを浮かべ、我が子へ愛情を向けるお坊ちゃんに私は涙が溢れました。
焦凍お坊ちゃんは私に気が付いて、静かに見つめました。涙を拭い取り、再び体を折ってお辞儀を致しました。
冬美お嬢さんや夏雄お坊ちゃんとは異なり、一方的に私が覚えているだけです。最低限のお世話だけをすれば良い、と旦那様に申しつけられ、いつも気配を消してお世話をしていました。面と向かって会話をしたことなどありません。
「……はつ江さん…ですよね?」
やがて自信なさそうに、ぽつりとお坊ちゃんが呟きました。まさかお坊ちゃんの口から、私の名前が出てくるとは思いませんでした。
「パパ、知ってる人?」
「あぁ。小さい頃に世話をしてくれた人だ」
「せわ?」
「お世話。ご飯作ってくれたり、掃除してくれたり、洗濯してくれたり」
「ふーん」
「覚えてくださっていたんですね…」
「お母さんが入院した後に、一度廊下で寝てしまったことがあって」
焦凍お坊ちゃんが静かに話し始めました。その時のことでしたら、よく覚えています。揺さぶって起こそうとしたのですが、なかなか起きてくださらなくて、私は旦那様がいないことを確認してから、お坊ちゃんを抱き上げました。初めて抱き上げたお坊ちゃんは、想像よりずっと重たかったのをよく覚えています。
「気がついたら自分の部屋の布団にいて…」
お母さん、と抱き上げたお坊ちゃんは呟きました。心の拠り所であった奥様が入院されて、お坊ちゃんは憎しみに心を支配されていたように思います。ですが、まだ6歳。母親を恋しく思う年頃です。
「お線香の…はつ江さんの匂いがしたけど、はつ江さんの姿がなかったから…」
お坊ちゃんを布団に寝かせてすぐに部屋を出ました。旦那様に見つからなかったことを心底安堵いたしました。
「あのとき、お礼を言えなかったから…ありがとうございました。おかげで風邪をひきませんでした」
「そんな些細なこと…。お坊ちゃんは何も覚えていないのだと思っていました」
「親父に俺と関わるなって言われていたの知ってたから…。でも、はつ江さんはいつも見守っててくれて、ましたよね?ふとしたときにお線香の匂いがしてたから…」
「お線香…?」
「…はつ江さん、毎日燈矢兄にお線香あげてくれていたから」
涙が止まりませんでした。お坊ちゃんに覚えていただいてただけで、私は救われたような気持ちになりました。
「……今日これから娘たちのところへ行く予定なんです。旦那様や奥様、夏雄お坊ちゃんには会えませんでしたが、よろしくお伝えください。冬美お嬢さん、焦凍お坊ちゃん、最後にお会いできて本当に嬉しゅうございます。泉さん、焦凍お坊ちゃんに笑顔をありがとうございます。…それでは、皆さまお元気で」
もうお会いすることはきっとないでしょう。どうか、お元気でお過ごしください。
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轟家の周りの人間から見た話。
推しツイッタラーさんの呟きにインスピレーションを得て執筆しました。雑な終わり感が否めませんが、楽しく書けました。
エピローグ的な感じに仕上がりましたが、まだ私の中では終わってません…。
あと、ファイアリーの決め台詞、適当に考えただけなのでそのうちきっと変わります。
2022.01.06