赤ずきんは誰のもの
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それは些細な違和感からだった。
名前は夜中にふと目が覚めた。月明かりだけが部屋を照らす暗い空間。ぼんやりとした視界にふたつの赤い光が見えた気がしてハッと目を見開いた。
「どうした?」
「…え、ぁ、」
「なんか変な夢でも見たんか」
「う、ううん。なんか…目が覚めちゃっただけ」
まだ体は眠っている状態の掠れた声で名前は返事をした。
「こっちこいよ」
そう言って腕をこちらに伸ばしてくるカツキの胸の中に名前はすっぽりと収まった。
いつものカツキだった。
優しく包み込んでくれる、優しいいつもの彼だった。
さっきの視線はなんだったんだろう?
どこか鋭く、何故か金縛りにあったように身動きが取れなかった。
恐る恐る彼の顔を見上げる。
カツキはその視線に気づくといつものように目元を緩めて名前に笑いかけた。
あぁ、いつもの優しい彼だ。名前は安心してまた額をカツキの胸元に押しつけた。
それこそ、さっきのが夢だったんだろうか?カツキがあんな獲物を狙っているような視線を自分に向けてきたことなんてない。
彼は自分を大切にしてくれている。エサなんかではない。
一瞬怯えてしまった自分を申し訳なく思い、名前はまた夢の中へと沈んでいった。
「カツキ。今日は僕がご飯作るよ」
「おー、じゃあサンドイッチ」
またそれでいいの?
そう言って名前は笑った。
鍋に水を入れ、火にかけた。
鍋の中には卵を3つ入れてゆっくり火が通るのを待っている間に野菜を切っていた。
「カツキ。卵以外は何挟みたい?」
「名前」
「はは!やめてよー」
たわいない冗談を言いながらも名前は手を動かす。そういえば街で昨日珍しいチーズも買っていた。あれもサンドイッチに使おう。そう思って布に包まれたそのチーズを棚から取り出す。
「あ?何かそれ臭くねぇ?腐ってんじゃねぇのか?」
チーズを取り出した瞬間カツキが表情を歪ませた。
「ありゃ。鼻の効くオオカミさんにはきつかったかなー」
確かに独特な匂いがするかもしれない。
これはまだ保存が効くからこっそり1人で食べようと名前が戸棚にチーズをしまった。
「子犬の時はチーズあんなに喜んで食べて…」
ふふふ。と笑いながら言った自分の言葉に名前はハッとした。
ぼんやりとしかもう思い出せなかったが、怪我をした小さな頃のカツキ。
サンドイッチのチーズだけ先に食べちゃうからいつもパンだけ最後に食べてて…
「どうした?」
「え?あ、や」
「あ?」
ここでチーズ嫌いになったの?と、一言聞けば済む話を、何故か柊は酷く躊躇った。
掘り返してはいけない記憶のような気がしてならなかった。
しかしその理由は全くわからず、余計に不安な気持ちが少しずつ心を覆う。
「カツキ…チーズ好きだったよね?」
「何でも食うけどよぉ、それはちょっと匂いがキツイからいらねぇ」
「あはは、うん。そうだよね」
ほら、深い意味なんてないではないか。
そう自分に言い聞かせると名前は再び調理の作業に戻った。
そうして、徐々に嘘の虚像がほころびていく。
決定的だったのはそれから数週間後のことだった。
「ねぇカツキ!石知らない?!」
「はぁ?」
「君がくれたやつだよ!ほらあの黒っぽい緑の…」
名前は別れの挨拶のように置かれていたあの深い緑をした石をずっと大切に持っていた。
子犬の思い出と共に大切にずっとしまっていた。
ある日それが突然消えていたのだ。
「捨てたぜ」
「…え?」
名前の中の、
「あんなもん、もういらねぇだろ?」
「な、なんで…」
少しずつ心を侵食していた違和感が、
「何でって、俺がいるだろぉが。あんな石なくてもどぉってことねぇだろ」
「え、で、でも…あれは」
猜疑心と、
「…っあれは、君が初めて僕にくれたものじゃないか…!」
懐疑心が、
「なんで…!」
突然大きく膨れ上がった。
突然ぼんやりとしていた昔のカツキの姿を思い出した。
「そうだ…あの石の色…君の目みたいだと思って…」
ーーーだから大切にしようと思ったんだ。
子犬は黒っぽい目だった。
しかしある時木漏れ日がその子犬に降り注いだ時、本当は深い緑色だったのだと知った。
名前はずっと忘れてしまっていた。
あの子は、目は深い緑で、毛は黒に近い焦茶色だった。
「…」
目の前のカツキを名前は何も言えずに見た。
2人とも何も言わずにその場に立ちすくんでいた。
外では呑気に鳥たちが囀る声が聞こえてきて、現実味がなかった。
名前の喉は緊張感でカラカラに乾いていた。
それでも意を決して、つかえそうになるなどを震わせていった。
「君は…誰なの…?」
「…誰って、お前の番だろ?」
カツキは何てこともないように飄々とした表情で答える。
それが余計に名前の猜疑心を煽った。
「あの時の子犬は…君じゃなかったの…?」
「…」
「だって、目も、毛の色も違う…」
「狼男は成長すると色が変わんだよ」
カツキがはぁっと大きく溜息をつくと名前に向かって歩き出した。
途端に名前は体を強張らせた。
カツキが手を伸ばす。
名前の頬にその手が触れた瞬間、華奢な肩が大袈裟に揺れた。
「そんなに怯えんなよ。傷つくだろぉが」
そう言って今度は両腕を背中に回して名前を抱きしめた。
「なぁ、勝手に捨てて悪かったよ。だからってそんな冷てぇこと言うなよ」
「…」
名前にはわかっていた。
自分が嘘に気づいたと言うことを、カツキもそれを確信を持って気づいているだろうと。
「…う、うん」
名前にはわからなかった。
もう誤魔化すことはできないとわかっていて、彼は何故こんな芝居を打つのか。
「今度はあんな石よりもっといいもん贈ってやるよ…」
両腕はしっかりと名前の体をその場に縫い留めていて、まるで逃がさないと言われているようだった。
そして、名前は黙ってその言葉に頷くことしかできなかった。
それから3日経った。
相変わらずカツキは何事もなかったかのように名前と接していて、それが名前には理解ができず、恐怖を感じさせた。
何故?
あの子犬はカツキではなかった。
カツキは何故自分の元に訪れたのか?
じゃああの傷は?なんだったのだ?
何故嘘の生活を続けるのか?
あの子犬は…誰だったのか?
どうして、子犬は急にいなくなってしまったのか?
ぐるぐると何度も同じ質問が頭を巡るが、そのどれひとつもカツキに尋ねることはできなかった。
幸せだった日常が突然猜疑心と恐怖心で満たされていく。
それが酷く辛かった。
愛している。
カツキのことは変わらず愛している。
だからこそ自分に隠された真実があることが、それを今もなお否定し続ける彼が怖い。
何も知らなければよかった。
何も知らずにカツキと2人で生きていけたらよかった。
名前は少しずつ絶望していった。
そんな時だった。
「こんにちは!」
コンコン。
という小気味良い音と共に誰かが名前たちの家を訪れた。
今カツキは川まで行って水を汲んでいるはずだった。
ぼんやりとした表情のまま名前は戸を開けた。
そこには見慣れない青年が立っていた。
しかし、会った瞬間にわかったのだ。
黒っぽい焦茶色の髪に、人懐っこい大きな目。そしてなによりこの深い…緑色の瞳を見て。
「君は…」
あの時の。
そう言おうとしたところで青年が名前に抱きついた。
咄嗟に距離を取ろうとしたが、あまりに強い力だったので押し返そうにもびくともしなかった。
「迎えに来たよ!」
青年は元気な声でそう言った。
そしてゆっくり名前から離れると再度、少し興奮気味に言った。
「名前!僕が、迎えに来たよ!覚えてるだろ?」
「怪我してた、子犬…」
「うん!君は命の恩人だよ!僕、君を守れるような強い男になりたくてずっと修行の旅に出てたんだよ?人の言葉も話せるようになったからやっと名前も伝えられるね!僕はイズクだよ」
イズクと名乗った青年…狼男は早口で捲し立てた。
「あの日から一度も名前のこと忘れたことなんてなかった」
そう言って名前の、頬を両手で包んだ。
目元は弧を描き、頬をだらしなく緩めて、その瞳の奥にはギラギラと揺れる渇望が見えた。
名前はこの目には何度も見覚えがあった。
「…カツキも、そんな目をして僕をよく見てる」
「え?」
口からこぼれ出たその言葉によって、一瞬空気が凍りついたような気がした。
しかしそれは気のせいではなかった。
先程まで尻尾を振った犬のように機嫌のよかったイズクは途端に冷たい表情になり名前に言った。
「あぁ…。そういうこと…」
突然雰囲気の変わったイズクに名前は怯えた。
「興奮してて気づかなかったけど…なんだが懐かしい匂いもするし、しかも…」
イズクは名前の腕を突然掴むと自分に引き寄せた。
そして強引に首筋に顔を埋めると言った。
「寝たの?かっちゃんと」
「か、かっちゃん?」
「かっちゃん…カツキは僕の幼馴染だよ。それからーー」
ーーーあの時、僕の脚に酷い怪我をさせたのもかっちゃんだよ?
「…ぇ」
小声で言われた言葉に名前は思考が霧散した。
「知らなかったんだね。かっちゃんに騙されて番にまでさせられて…可哀想に名前」
ギュッとイズクが名前を抱きしめる。
名前はカツキの何が嘘で、何が本当なのかもうわからなくなっていた。
小さく震える名前に気づかれないよう、イズクは小さく口角を上げて言った。
「大丈夫。大丈夫だよ。今度は僕が名前を助けてあげるからね」
優しくその後頭部を撫で付ける。
名前の震えは止まらなかった。
その時、地の底を這うような低い声が響いた。
「おい」
名前にはその声が今は怖かった。
思わずイズクの腕を掴んでしまった。
「…あぁ。かっちゃん久しぶり。酷いよ僕の名前を騙して勝手に番っちゃうなんて」
「…名前から離れやがれ」
「何言ってんのさ。名前が僕から離れないんだよ。こんなに怯えちゃって可哀想に」
2人のやり取りの間もずっと名前は顔を青くして震えていた。
頭の中では疑問でいっぱいだった。
どうして?
何故カツキは自分に嘘をついてまで近づいてきたのだろう?
いつかはやはり食べるつもりだったのだろうか?
何でそんな回りくどい事を?
何でイズクに怪我をさせたの?
「名前…」
名前を呼ばれて肩が揺れた。
ゆっくりと声の主を見る。
カツキは、傷ついた顔をして名前を見ていた。
ズキリ。
名前はその表情をみて胸が痛んだ。
「嘘ついてて…悪かった。狼男の俺なんて、絶対に近づいても怖がられるだけだとわかってたからデク…そいつとの思い出を利用した。他に他意はねぇ」
「…」
名前はその言葉を黙って聞いていた。
「お前が離れていっちまうくらいなら嘘を突き通そうと思った…」
「ずるいやかっちゃん。人の思い出を勝手に自分のものにして」
カツキはイズクを睨む。
イズクは怯む事なく言葉を続けた。
「ねぇ。名前に悪いと思ってるならさ、番解消してよ」
「…」
「ぇ」
そんなことできるのか?
名前はイズクを見上げた。
それに答えるようにイズクは名前に笑いかけながら言った。
「僕がかっちゃんに決闘を申し込んで、勝てばいいんだよ。その上で名前の頸を僕が噛めば名前の番は僕だよ」
イズクはとてもいい話でしょと言わんばかりに得意げに話した。
カツキはそれをずっと睨みながら聞いている。
おずおずと名前はイズクに疑問を投げかけた。
「…でも、もし僕がイズクと番になるのを断ったら…?」
「え?そんなことできないよ!そうなったら僕もかっちゃんも気が狂っちゃうかもね。名前に残されてる選択肢はかっちゃんとこのまま番でいるか、僕と番になるかどっちかだよ!」
名前には狼男たちのルールはわからなかった。人間のルールで言えばこんな強引な話はないだろう。
しかし一度は自分はカツキと番になることを選んだ。解消するのにも狼一族のルールを尊重しなくてはいけないことはなんとなくわかっていた。
「さ、かっちゃん。僕はいつでもいいよ?」
「…森に来い。ここだと目立つ」
2人は名前を置き去りにして殺気を剥き出しにしている。
「まっ、待って…」
「名前」
カツキが名前の引き止めようとする声を遮った。
「…今まで、楽しかった。あと、森には近づくな」
「…っカツキ」
振り返らずにカツキは森に向かって歩いていってしまった。
「名前。僕が勝ったら迎えに来るからね。安心して?これからは僕がずっと名前のそばにいるよ」
イズクが名前の頬を優しく撫でる。
そうして2人は森に向かって消えてしまった。
取り残された名前はその場に座り込んだ。
話があまりにも急展開すぎて思考が追いつかなかった。
カツキは何で決闘をあっさり引き受けたのだろう?番を解消したくないんじゃなかったのか?
何が嘘で、何が本当なの?
名前はぐるぐるとまとまらない思考の渦の中を彷徨った。
いつの間にか日も傾き、夕陽が地面を赤く染めだした。
何で、楽しかったなんて…まるで最後みたいじゃないか。
ーーー森には近づくな。
カツキの言葉が不安な心を掻きむしった。
もう会えないような言い方だった。
まさか、死んじゃったりしないよね?
死に際を見られたくないからとかじゃないよね…?
狼男はプライドが高く、最後の瞬間を仲間に見せないようにしたがるって聞いたことがあるけど…。
名前はそこまで考えて、もつれそうになる脚で森に向かって駆け出した。
あぁ。こんな事前にもあったな。
そんな事を考えながら森に入っていく。
夕暮れに森に入るのは初めてだった。
森の中は何かピリピリとした空気が漂っていて、動物たちどころか、虫一匹も飛んでいなかった。
ばきばきばきーーー。
「!」
鈍い音と共に、木が割れるような凄まじい音が聞こえた。
名前はそちらに向かって走り出した。
そして抉れた地面と倒れた木々に囲まれた空間に出た。
砂埃の舞う中に、影を見つけた。
その姿は人と狼の間、人狼の姿だった。
狼男の本来の姿。
名前はその鋭い牙と爪に息を呑んだ。
「…名前?」
少し高い声。
深い緑色の瞳がこちらを見た。
その体には深い切り傷がいくつもあって酷い出血だった。
右肩は関節が外れてダラリとしている。
その有り様を見て名前は青ざめる。
「い、いずく…っ、早く、手当てしないと…!」
「勝ったよ。名前」
「…え?」
イズクがゆっくりと地面に顔を向けた。
砂埃が収まり視界が広がったその先に、血の海が広がっていた。
「あ、…ぇ、嘘」
血の海の中には金色の美しい毛並みを赤く染めたカツキが沈んでいた。
「か、カツキ!!」
名前は走り出した。
血の海に迷わず飛び込み、その人狼のそばに座り込んだ。
「カツキ!起きて!ねぇ!」
「…名前、くんなっつったろ…」
薄く目が開かれ、カツキの赤い瞳が名前を映した。
死んでいないことに名前は安心してハッと息を吐いた。
「…これで…いい。俺が、死ななきゃお前…番解消できねぇだろ」
「…!」
名前はカツキの大きな狼の手を握る。鋭い爪が腕に当たって皮膚が少し裂けても気にならなかった。
「…いや、いやだよ。いやだ」
小さな子供のようにポロポロと涙を流しながら名前は震えた声で言った。
「いやだ、よぉ。もう…っもうカツキが僕に嘘ついててもいいから…!」
「…」
冷たい手を名前が強く握った。
「カツキがそばで一緒に笑っててくれるならそれでいいから!」
「…名前」
「ずっと一緒にいてって、言ったじゃないか…っ」
顔をぐしゃぐしゃにして泣く名前の涙を拭おうと手を伸ばしたかったが、カツキはすでにその余力がなかった。
綺麗な涙を見て思う。
自分のために流されるこの涙がなんと幸福を感じることかと。
「ごめんね、かっちゃん。そろそろお終いにするね」
いつの間にか音もなく名前の背後にはイズクが立っていた。
ハッとした名前が後ろを振り返る。
「ま、待って!イズク…!もう勝負はついたんだろ?!」
ふぅとため息を吐いたイズクが優しい笑顔で名前を見つめた。
「名前。ダメなんだ、かっちゃんに死んでもらわないと番は解消できないんだ」
「そ、そんな…!そこまでしなくてもいいじゃないか!」
名前はカツキの手を離すと立ち上がってイズクの前に立った。
「お願い、もうカツキを傷つけないで。嘘から始まったけど、寂しい時にカツキがそばにいてくれて僕は救われたんだ。…僕カツキと一緒にいたいんだ」
「…名前」
カツキは血を流しすぎたせいか、名前の後ろ姿を見る視界が霞んできていた。
「そんなに…かっちゃんがいいの?」
「…ぇ」
目の前のイズクは人狼の姿から人の姿へとかわった。
背丈が自分と同じくらいになっていくらか名前の緊張感がとれたが、ボロボロの姿で俯く様はあまりにも痛々しかった。
「…嫌だよ。名前、イヤだ。僕、頑張ったんだよ?君のそばにいられるように、家族とも別れてがんばって強くなったんだ」
「い、イズク…」
「君と番になりたくて、幼馴染のかっちゃんまでこんなに傷つけたのに…!」
イズクはついには膝から崩れ落ちて鼻をぐずぐずと鳴らして泣き出した。
「かっちゃんは意地悪だけど憧れてたんだ。あの時の怪我だってわざとじゃなかったの…知ってるよ」
「…!」
「いやだ。嫌だよ…」
それきりイズクは子供のように泣き出して譫言のように繰り返しては首を振っていた。
名前は知らなかった。
あの時、傷ついた幼いイズクを助けたいと思った純粋な心が、こんなにも大きくイズクやカツキの運命を左右させてしまった事を。
知って、罪悪感が芽生えた。
名前は泣き崩れるイズクのそばに屈むとその背中を撫ぜた。
「イズク…他に方法はないの?3人で一緒にはいられないの?」
「…ぇ」
「僕があげられるものなら何でもあげるから…お願い。カツキにもイズクにも、これ以上傷つかないでほしい…」
イズクは涙と泥でドロドロになった顔をあげると名前を見上げた。
「…本当に、いいの?」
「うん。僕はどうしたらいい?」
チラリとイズクは倒れて動けないでいるカツキを見た。
「…番は、解消することは難しいけど増やすことはできるんだ」
「え、じゃあ…」
「でも番になる全員に同意が必要なんだ」
もう一度イズクはカツキを見た。
名前も横たわるカツキを振り返って見た。
「…カツキ」
「き、こえてらぁ…」
声を搾り出すようにカツキが唸った。
「お願い、カツキ…僕に、責任を取らせて」
「やめろ、お前のせいじゃ…ねぇんだ」
ググッと力を入れて起きあがろうとするカツキを名前が優しく制する。
「僕がイズクを忘れちゃってたからいけないんだ。お願いだよ…カツキ」
霞む視界でカツキは名前の瞳を見た。
まっすぐな眼差し、確固たる信念を感じて、カツキはふっと顔の力が抜けた。
「好きに、しろ…」
▽
「あぁ!ダメだよ動いちゃ!!」
「うっせ!こんな傷屁でもねぇわ!!おいクソデク!!名前と番になったからって調子乗ってんじゃねぇぞ!俺は1番、お前は2番だ雑魚がぁ!」
「かっちゃん元気だなぁ」
あれから数日が経った。
3人で家に帰り、2人の酷い怪我を治すために名前は夜通し看病と治療を続けた。
さすが狼男なだけあって治癒力は凄まじかった。
「イズクも、傷口見せて」
「ありがとう名前」
そう言って狼の姿のイズクの背を撫ぜた。
あぁ。この暖かさ…イズクの子犬の頃を思い出すな。
そして足を撫ぜた時だった。
「…傷跡がない」
「ん?もう綺麗に治ってるでしょ?あ、もしかして子犬の頃の傷のこと言ってる?」
名前は子犬の頃の傷跡がないことに気がついた。
「僕たち怪我の治り早いから傷跡も残りにくいんだよね…え?ちょっと!何その顔?!まさか僕を疑ってる?!」
「…まさかイズクも偽物?あの思い出の子犬は一体誰なの…?」
じとーとした視線をイズクに向けた名前を見てカツキが「ざまぁ!!」と言って笑う。
「何笑ってんのさかっちゃん!僕のフリするために何度も同じ場所切りつけて、傷跡わざと作ったかっちゃんのがよっぽど笑えるからね」
「いや笑えないし!何それ?!」
名前は知らぬ真実をまた一つ知って怯えた。
「はぁ?!何引いてやがる!お前への愛の深さと覚悟がわからねぇってか?!」
「かっちゃん流石に怖いって」
カツキとイズクがまた騒ぎ出す。
名前はため息をつく。
いきすぎている。
けど、確かにそれは愛故になのだろうか。
静かに立ち上がるとイズクに怒鳴り散らしているカツキのそばに行きその頭を撫ぜた。
「…お」
「嘘ついててもいいからさ。…もういなくならないでよ」
カツキが目を見開いて固まった。
「あーずるいなずるいな!番の間で贔屓はダメだよ名前。僕も撫でてよ」
イズクがカツキと名前の間にずいっと入り込む。
名前はそれを狼の姿のままなためもあって可愛いと素直に思ってしまった。
仕方ないなと、2人の頭を撫でる。
「あ、でもまだ正式に番になってなかったね!」
イズクがわざとらしく声をあげた。
「え?」
「わかるでしょ?番になるにはお互いの首に噛みついて、エッ」
「だーー!!!黙れやクソデクーー!!」
名前の顔が瞬時に赤くなった。
「かっちゃん!今更なしはダメだよ!もう首には噛みついちゃったんだからあとはエッチしないと!」
「っせハゲ!!いつ首に噛みつきやがった?!」
「かっちゃんが僕にのされてベッドで呑気に寝てる間だよ!」
「殺す!!」
「さ、さてと。僕お夕飯の用意してくるね…」
再び2人がギャーギャー騒ぎ立てている間に名前はそろりと部屋を抜け出そうとした。
しかしすぐに両肩をがしりと掴まれた。
右肩はカツキに、
「デクの下手くそが粗相しねぇかちゃんと一緒にやってやらねぇとなぁ?」
左肩をイズクに、
「どうせこれからは3人で仲良く暮らすんだもんね?時間はいっぱいあるし、2人っきりはまた今度でいいから早くやろう?」
それぞれ掴まれて、名前の体は油を刺していないブリキの人形のようにギギギと鈍く動いた。
「あ、や…あの」
異議を唱えようとする名前に聞く耳を持たず、2人が引きずるようにして運んだ先は寝室だった。
▽
「ちょっとやり過ぎちゃったかなぁ…」
「てめぇ加減ってもんを知らんのか」
「かっちゃんに言われたくないなー」
寝息も立たずに深い眠りについている名前を見下ろしてため息をついた。
白い頸には先程自分が噛み付いてつけた噛み跡が赤く残されている。
反対側にはかっちゃんがつけた歯形がある。
背中には2人で競うようにつけた赤い鬱血痕が花のように咲き誇っていた。
それを見て思わずうっそりとする。
あぁ。本当にきれいだよ名前。
白い肌にいっぱい跡つけちゃったね。
ごめんね。
明日君が作ったお薬塗ってあげるからね。
あー!ついに名前と番になれたんだね!
色々と予定は狂っちゃったけど、僕はこの結末に満足してるよ。
かっちゃんは意地悪だけど憧れてたってのは本当だよ。
やっぱり悲しんでほしくはない。
でも名前を諦めることもできなかったから。
「名前が変わらず純真でいてくれてよかったよ。決闘で相手を殺せば番を解消できるって嘘を信じてくれてよかった」
「ったく。てめぇがさっさと帰ってこねぇからこんな面倒くせぇことになっちまったじゃねぇか」
「何言ってんのさ!かっちゃんが僕との約束破って名前に手を出してるからいけないんだろ!」
「緊急事態だったつってんだろ!胡散臭い連中が名前を誘惑しやがるから仕方なくだ!」
その昔、狼男なのに人の姿にも化けれず、力の弱かった僕は、よくかっちゃんに虐められた。
ある日かっちゃんがふざけて僕を追い回していた時に崖から落ちた。
痛かった。
知らない場所で一人お腹も空いて動けず。
寂しかった。
そんな時名前が現れたんだ。
赤い頭巾の似合う可愛い子。
いい匂いがして、その手がとても暖かかった。
一目で大好きだって思った。
だから君を守れるように、強くなろうって思った。
君のそばに行けるように、人の姿にも変われるように頑張ろうって思った。
遠い旅に出るのに家族と別れを告げた。
かっちゃんにも。
「…かっちゃん。僕、番になりたい人がいるんだ。その人を守れるように強くなって帰ってくる」
「は!勝手にしろよ!…って言いてえんだけどよ…それ、お前を助けた名前ってやつだろ?」
「え?!何で知ってるの?!」
「ずっと見てた。俺も、アイツが欲しい…」
「えぇー?!」
絶望した。
かっちゃんは優秀な狼男で、力も強くて賢い。
僕が今かっちゃんと名前を取り合ったら、負けてしまう…。
でも、それでも、僕は名前だけは渡したくなかった。
「…かっちゃん、この前僕に怪我させたの謝らなくていいから」
「は?!」
ずるいとは思った。こんな言い方。
でも他に方法がなかった。
「だから、僕が帰ってくるまで名前には手を出さないで欲しい。帰ってきたら真剣勝負しよう?勝った方が名前と番になるんだ」
「…」
かっちゃんは迷ってるようだった。
でも、君は変に義理堅いところがあるから…
「…わかった。これで貸し借りなしだ。その時負けても文句言うんじゃねぇぞ」
「っうん!」
名前のことを思いながら修行を続けた。
非力な僕も君を思うと強くなれた気がした。
何年も何年もかけて修行した。
やっと君の隣に立てるかなと思った時にはもう10年経っていた。
「あぁ!名前の匂いがする!ずっとこの家に住んで僕を待ってくれてたんだね!」
やっと故郷に帰ってきて、名前の家に一目散で向かった。
中で料理でもしているのかな?
何だかいい匂いがする。
早く会いたいよ名前。
僕はすぐに戸をノックしようとした。
しかし扉はノックする前に勢いよく開けられ、中から金色の大きなものが飛び出してきて僕の上にのしかかった。
僕は無様に後ろにひっくり返った。
「…っデク?!」
僕の目の前には、大きくなった幼馴染がどこか焦った表情をして乗っかっていた。
「かっ、かっちゃん?!何で?!え、今、名前の家から…?!え?!」
「ま、待ちやがれ!これには訳があんだよ!」
その再会が、今からちょうど10日前だった。
名前は今薬の調合が終わって疲れて寝ていると言って、かっちゃんと僕は狼の姿で森まで走った。
あぁ、名前に出会った場所だ。
君と二人でここで再会できたら最高だったのに…。
「じゃあつまりかっちゃん…約束破って僕の名前に手を出した挙句、番の契約までしちゃった…てことなのかな?」
「…」
かっちゃんが居心地悪そうにしている。
あのいじめっ子だったかっちゃんがたじろいでいる様は珍しかったが、正直今はそれどころでなかった。
「約束…破ったんだね」
「悪かった。名前を手に入れようとする人間がいたから待ってらんねぇと思って…。だいたい!てめぇも帰ってくんのが遅ぇんだ!!とっくに野垂れ死んだと思っとったわ!!」
「逆ギレ?!」
そのまま言い合いになる。
まぁ確かに10年も周りが名前を放っておくはずもなかった。そこを考慮してなかったのは確かに浅はかだった。
よく聞けばその間かっちゃんは一度も名前の前に姿を現すことなく、森に訪れては薬草を摘む名前を他の獣に襲われないようずっと見守っていたというのだから、一方的に責められない気持ちになってきた。
僕がいない間、今日まで名前が無事だったのはかっちゃんが守ってきたからに違いなかった。
「…っ、でも、だからって番になっちゃうなんて…」
気づいたら僕は泣いていた。
「…そこは、本当に…悪ぃ」
「番解消してよ」
「無茶言うなや。俺はともかく名前も苦しむぞ」
「うぅ」
番は…どんなことがあっても解消できない。
無理に引き裂かれた番同士は精神が崩壊して最悪死んでしまう。
「…ま、番の契約がなけりゃ、名前は今頃俺から逃げ出してるだろうな」
「え?」
僕はすぐに耳をピンと立てて意識を集中した。
よろこんでんじゃねぇ!ってかっちゃんに脚を踏まれた。
しまった。ちょっと尻尾揺れちゃってたみたい。
「…お前のふりして近づいたのが、嘘だったってバレた」
「え、なんでそんな…」
「…」
かっちゃんは黙ってしまった。
かっちゃんが簡単に嘘を見破られるようなことになるはずがない。
なのに一体なぜ。
「お前の、あの緑の石」
「え?」
「捨てた」
「はえぇぇぇ?!」
なんてことだ。
それはきっと名前に贈ったあの綺麗な石だ。
あれは僕の目の色に似てたから、持ってて欲しいと思って贈ったものだ。
「な、何でそんなこと!」
「俺にも…よくわかんねぇ。そんなことしたら名前に俺が嘘ついて近づいたことを確信させるってわかってたのによ」
「どういうのと…?」
かっちゃんらしくない要領をえないその解答に僕は混乱する。
「お前が、帰ってくんのが…怖かった」
「え?」
まさか。
一族で1番期待されていたかっちゃんが。怖いだなんて。
「あの石捨ててもそれに名前が気づかなかったら…もう俺だけを見てくれるって、何かそう思ったんだ」
「…」
「試したくなったんだわ」
かっちゃんの言いたいことは何となくわかった。
僕も、もし立場が反対だったら君が帰ってこなければいいと祈っただろう。
「最近俺のこと怯えた目で見てんだ。番ってしまったこの男は、本当は誰なんだろうって…」
かっちゃんは視線を落として俯いた。見たこともないほどその横顔は悲しそうだった。
僕たちは…どうすればいいのかな?
かっちゃんも名前も、僕は大切なんだけどな。
3人で笑える未来はないのかな…。
あ、そうか。
3人で…。
「ねぇかっちゃん、お互い落ち度もあった訳だしさ…また貸し借りなしで協力しようよ?」
「あ?」
僕はこの提案にかっちゃんが乗ってくれるか正直不安だったけど、乗らざるを得ないとは確信していた。
「僕は番のポジションが欲しい。かっちゃんは名前からの信頼が欲しい」
「…あぁ」
番を無理に解消することは出来ない。
でも増やすことは出来る。
だけどいきなり名前に僕とも番になってと頼んだところで、かっちゃんがいては色良い返事をもらいにくいだろう。
でもかっちゃんはかっちゃんで、その信頼関係に今ヒビが入っている。
僕が決闘でかっちゃんを殺す、フリをする。
名前は優しいから簡単に情を捨てられないし、きっとそこまできたら嘘をついてたかっちゃんを許しちゃうだろう。
その後は僕の泣き落としで全部丸め込んじゃおう。思考が渋滞したところに罪悪感で導いてあげればきっと名前は僕のことも見捨てられやしない。
かっちゃんも番の席が増えるのは不満だろうけど、このままでは関係を続けられないってわかってるはずだ。
「かっちゃん…名前のためなら死ぬ覚悟はある?」
「…いいぜ。その芝居に付き合ってやるよ」
それが、事の発端だった。
「ほんとによー、思った通りに行き過ぎてちょろすぎるコイツのことが心配だわ」
「名前が純粋で無垢なんだよ。かっちゃんが澱んでるだけで」
「てめぇが1番言えた口かよ」
名前を間に挟んで3人でベッドで川の字になる。
「あとてめぇ…俺のこと割と本気で殺しに来てたろ」
「え?当たり前じゃないか。じゃないとまた名前に嘘がバレちゃうだろ?」
それに僕の思い出を利用したことと、名前と先に番になっちゃったことは怒ってたんだからね。
これくらい許してよ。
「…けっ!」
「ベッド狭い」
「じゃあてめぇは床で寝ろ」
横を見れば名前の寝顔が見えた。
幸せだった。
予定とは違う形になったけれど、ずっと欲しかったものは手に入った。
これからもずっと一緒にいられると思うと顔が緩んで仕方なかった。
明日は3人で何をしよう?
名前のお仕事を手伝おうか?
買い物にでも行こうか?
ずっとこうして3人でくっついていようか?
最大の秘密を持ってして、ほしかった愛を手に入れた。
最大の秘密を共有して、揺るがない友情を手に入れた。
これって最高じゃない?
あぁ、なんだかドキドキするな。
僕たちって素敵な番だね。
名前は夜中にふと目が覚めた。月明かりだけが部屋を照らす暗い空間。ぼんやりとした視界にふたつの赤い光が見えた気がしてハッと目を見開いた。
「どうした?」
「…え、ぁ、」
「なんか変な夢でも見たんか」
「う、ううん。なんか…目が覚めちゃっただけ」
まだ体は眠っている状態の掠れた声で名前は返事をした。
「こっちこいよ」
そう言って腕をこちらに伸ばしてくるカツキの胸の中に名前はすっぽりと収まった。
いつものカツキだった。
優しく包み込んでくれる、優しいいつもの彼だった。
さっきの視線はなんだったんだろう?
どこか鋭く、何故か金縛りにあったように身動きが取れなかった。
恐る恐る彼の顔を見上げる。
カツキはその視線に気づくといつものように目元を緩めて名前に笑いかけた。
あぁ、いつもの優しい彼だ。名前は安心してまた額をカツキの胸元に押しつけた。
それこそ、さっきのが夢だったんだろうか?カツキがあんな獲物を狙っているような視線を自分に向けてきたことなんてない。
彼は自分を大切にしてくれている。エサなんかではない。
一瞬怯えてしまった自分を申し訳なく思い、名前はまた夢の中へと沈んでいった。
「カツキ。今日は僕がご飯作るよ」
「おー、じゃあサンドイッチ」
またそれでいいの?
そう言って名前は笑った。
鍋に水を入れ、火にかけた。
鍋の中には卵を3つ入れてゆっくり火が通るのを待っている間に野菜を切っていた。
「カツキ。卵以外は何挟みたい?」
「名前」
「はは!やめてよー」
たわいない冗談を言いながらも名前は手を動かす。そういえば街で昨日珍しいチーズも買っていた。あれもサンドイッチに使おう。そう思って布に包まれたそのチーズを棚から取り出す。
「あ?何かそれ臭くねぇ?腐ってんじゃねぇのか?」
チーズを取り出した瞬間カツキが表情を歪ませた。
「ありゃ。鼻の効くオオカミさんにはきつかったかなー」
確かに独特な匂いがするかもしれない。
これはまだ保存が効くからこっそり1人で食べようと名前が戸棚にチーズをしまった。
「子犬の時はチーズあんなに喜んで食べて…」
ふふふ。と笑いながら言った自分の言葉に名前はハッとした。
ぼんやりとしかもう思い出せなかったが、怪我をした小さな頃のカツキ。
サンドイッチのチーズだけ先に食べちゃうからいつもパンだけ最後に食べてて…
「どうした?」
「え?あ、や」
「あ?」
ここでチーズ嫌いになったの?と、一言聞けば済む話を、何故か柊は酷く躊躇った。
掘り返してはいけない記憶のような気がしてならなかった。
しかしその理由は全くわからず、余計に不安な気持ちが少しずつ心を覆う。
「カツキ…チーズ好きだったよね?」
「何でも食うけどよぉ、それはちょっと匂いがキツイからいらねぇ」
「あはは、うん。そうだよね」
ほら、深い意味なんてないではないか。
そう自分に言い聞かせると名前は再び調理の作業に戻った。
そうして、徐々に嘘の虚像がほころびていく。
決定的だったのはそれから数週間後のことだった。
「ねぇカツキ!石知らない?!」
「はぁ?」
「君がくれたやつだよ!ほらあの黒っぽい緑の…」
名前は別れの挨拶のように置かれていたあの深い緑をした石をずっと大切に持っていた。
子犬の思い出と共に大切にずっとしまっていた。
ある日それが突然消えていたのだ。
「捨てたぜ」
「…え?」
名前の中の、
「あんなもん、もういらねぇだろ?」
「な、なんで…」
少しずつ心を侵食していた違和感が、
「何でって、俺がいるだろぉが。あんな石なくてもどぉってことねぇだろ」
「え、で、でも…あれは」
猜疑心と、
「…っあれは、君が初めて僕にくれたものじゃないか…!」
懐疑心が、
「なんで…!」
突然大きく膨れ上がった。
突然ぼんやりとしていた昔のカツキの姿を思い出した。
「そうだ…あの石の色…君の目みたいだと思って…」
ーーーだから大切にしようと思ったんだ。
子犬は黒っぽい目だった。
しかしある時木漏れ日がその子犬に降り注いだ時、本当は深い緑色だったのだと知った。
名前はずっと忘れてしまっていた。
あの子は、目は深い緑で、毛は黒に近い焦茶色だった。
「…」
目の前のカツキを名前は何も言えずに見た。
2人とも何も言わずにその場に立ちすくんでいた。
外では呑気に鳥たちが囀る声が聞こえてきて、現実味がなかった。
名前の喉は緊張感でカラカラに乾いていた。
それでも意を決して、つかえそうになるなどを震わせていった。
「君は…誰なの…?」
「…誰って、お前の番だろ?」
カツキは何てこともないように飄々とした表情で答える。
それが余計に名前の猜疑心を煽った。
「あの時の子犬は…君じゃなかったの…?」
「…」
「だって、目も、毛の色も違う…」
「狼男は成長すると色が変わんだよ」
カツキがはぁっと大きく溜息をつくと名前に向かって歩き出した。
途端に名前は体を強張らせた。
カツキが手を伸ばす。
名前の頬にその手が触れた瞬間、華奢な肩が大袈裟に揺れた。
「そんなに怯えんなよ。傷つくだろぉが」
そう言って今度は両腕を背中に回して名前を抱きしめた。
「なぁ、勝手に捨てて悪かったよ。だからってそんな冷てぇこと言うなよ」
「…」
名前にはわかっていた。
自分が嘘に気づいたと言うことを、カツキもそれを確信を持って気づいているだろうと。
「…う、うん」
名前にはわからなかった。
もう誤魔化すことはできないとわかっていて、彼は何故こんな芝居を打つのか。
「今度はあんな石よりもっといいもん贈ってやるよ…」
両腕はしっかりと名前の体をその場に縫い留めていて、まるで逃がさないと言われているようだった。
そして、名前は黙ってその言葉に頷くことしかできなかった。
それから3日経った。
相変わらずカツキは何事もなかったかのように名前と接していて、それが名前には理解ができず、恐怖を感じさせた。
何故?
あの子犬はカツキではなかった。
カツキは何故自分の元に訪れたのか?
じゃああの傷は?なんだったのだ?
何故嘘の生活を続けるのか?
あの子犬は…誰だったのか?
どうして、子犬は急にいなくなってしまったのか?
ぐるぐると何度も同じ質問が頭を巡るが、そのどれひとつもカツキに尋ねることはできなかった。
幸せだった日常が突然猜疑心と恐怖心で満たされていく。
それが酷く辛かった。
愛している。
カツキのことは変わらず愛している。
だからこそ自分に隠された真実があることが、それを今もなお否定し続ける彼が怖い。
何も知らなければよかった。
何も知らずにカツキと2人で生きていけたらよかった。
名前は少しずつ絶望していった。
そんな時だった。
「こんにちは!」
コンコン。
という小気味良い音と共に誰かが名前たちの家を訪れた。
今カツキは川まで行って水を汲んでいるはずだった。
ぼんやりとした表情のまま名前は戸を開けた。
そこには見慣れない青年が立っていた。
しかし、会った瞬間にわかったのだ。
黒っぽい焦茶色の髪に、人懐っこい大きな目。そしてなによりこの深い…緑色の瞳を見て。
「君は…」
あの時の。
そう言おうとしたところで青年が名前に抱きついた。
咄嗟に距離を取ろうとしたが、あまりに強い力だったので押し返そうにもびくともしなかった。
「迎えに来たよ!」
青年は元気な声でそう言った。
そしてゆっくり名前から離れると再度、少し興奮気味に言った。
「名前!僕が、迎えに来たよ!覚えてるだろ?」
「怪我してた、子犬…」
「うん!君は命の恩人だよ!僕、君を守れるような強い男になりたくてずっと修行の旅に出てたんだよ?人の言葉も話せるようになったからやっと名前も伝えられるね!僕はイズクだよ」
イズクと名乗った青年…狼男は早口で捲し立てた。
「あの日から一度も名前のこと忘れたことなんてなかった」
そう言って名前の、頬を両手で包んだ。
目元は弧を描き、頬をだらしなく緩めて、その瞳の奥にはギラギラと揺れる渇望が見えた。
名前はこの目には何度も見覚えがあった。
「…カツキも、そんな目をして僕をよく見てる」
「え?」
口からこぼれ出たその言葉によって、一瞬空気が凍りついたような気がした。
しかしそれは気のせいではなかった。
先程まで尻尾を振った犬のように機嫌のよかったイズクは途端に冷たい表情になり名前に言った。
「あぁ…。そういうこと…」
突然雰囲気の変わったイズクに名前は怯えた。
「興奮してて気づかなかったけど…なんだが懐かしい匂いもするし、しかも…」
イズクは名前の腕を突然掴むと自分に引き寄せた。
そして強引に首筋に顔を埋めると言った。
「寝たの?かっちゃんと」
「か、かっちゃん?」
「かっちゃん…カツキは僕の幼馴染だよ。それからーー」
ーーーあの時、僕の脚に酷い怪我をさせたのもかっちゃんだよ?
「…ぇ」
小声で言われた言葉に名前は思考が霧散した。
「知らなかったんだね。かっちゃんに騙されて番にまでさせられて…可哀想に名前」
ギュッとイズクが名前を抱きしめる。
名前はカツキの何が嘘で、何が本当なのかもうわからなくなっていた。
小さく震える名前に気づかれないよう、イズクは小さく口角を上げて言った。
「大丈夫。大丈夫だよ。今度は僕が名前を助けてあげるからね」
優しくその後頭部を撫で付ける。
名前の震えは止まらなかった。
その時、地の底を這うような低い声が響いた。
「おい」
名前にはその声が今は怖かった。
思わずイズクの腕を掴んでしまった。
「…あぁ。かっちゃん久しぶり。酷いよ僕の名前を騙して勝手に番っちゃうなんて」
「…名前から離れやがれ」
「何言ってんのさ。名前が僕から離れないんだよ。こんなに怯えちゃって可哀想に」
2人のやり取りの間もずっと名前は顔を青くして震えていた。
頭の中では疑問でいっぱいだった。
どうして?
何故カツキは自分に嘘をついてまで近づいてきたのだろう?
いつかはやはり食べるつもりだったのだろうか?
何でそんな回りくどい事を?
何でイズクに怪我をさせたの?
「名前…」
名前を呼ばれて肩が揺れた。
ゆっくりと声の主を見る。
カツキは、傷ついた顔をして名前を見ていた。
ズキリ。
名前はその表情をみて胸が痛んだ。
「嘘ついてて…悪かった。狼男の俺なんて、絶対に近づいても怖がられるだけだとわかってたからデク…そいつとの思い出を利用した。他に他意はねぇ」
「…」
名前はその言葉を黙って聞いていた。
「お前が離れていっちまうくらいなら嘘を突き通そうと思った…」
「ずるいやかっちゃん。人の思い出を勝手に自分のものにして」
カツキはイズクを睨む。
イズクは怯む事なく言葉を続けた。
「ねぇ。名前に悪いと思ってるならさ、番解消してよ」
「…」
「ぇ」
そんなことできるのか?
名前はイズクを見上げた。
それに答えるようにイズクは名前に笑いかけながら言った。
「僕がかっちゃんに決闘を申し込んで、勝てばいいんだよ。その上で名前の頸を僕が噛めば名前の番は僕だよ」
イズクはとてもいい話でしょと言わんばかりに得意げに話した。
カツキはそれをずっと睨みながら聞いている。
おずおずと名前はイズクに疑問を投げかけた。
「…でも、もし僕がイズクと番になるのを断ったら…?」
「え?そんなことできないよ!そうなったら僕もかっちゃんも気が狂っちゃうかもね。名前に残されてる選択肢はかっちゃんとこのまま番でいるか、僕と番になるかどっちかだよ!」
名前には狼男たちのルールはわからなかった。人間のルールで言えばこんな強引な話はないだろう。
しかし一度は自分はカツキと番になることを選んだ。解消するのにも狼一族のルールを尊重しなくてはいけないことはなんとなくわかっていた。
「さ、かっちゃん。僕はいつでもいいよ?」
「…森に来い。ここだと目立つ」
2人は名前を置き去りにして殺気を剥き出しにしている。
「まっ、待って…」
「名前」
カツキが名前の引き止めようとする声を遮った。
「…今まで、楽しかった。あと、森には近づくな」
「…っカツキ」
振り返らずにカツキは森に向かって歩いていってしまった。
「名前。僕が勝ったら迎えに来るからね。安心して?これからは僕がずっと名前のそばにいるよ」
イズクが名前の頬を優しく撫でる。
そうして2人は森に向かって消えてしまった。
取り残された名前はその場に座り込んだ。
話があまりにも急展開すぎて思考が追いつかなかった。
カツキは何で決闘をあっさり引き受けたのだろう?番を解消したくないんじゃなかったのか?
何が嘘で、何が本当なの?
名前はぐるぐるとまとまらない思考の渦の中を彷徨った。
いつの間にか日も傾き、夕陽が地面を赤く染めだした。
何で、楽しかったなんて…まるで最後みたいじゃないか。
ーーー森には近づくな。
カツキの言葉が不安な心を掻きむしった。
もう会えないような言い方だった。
まさか、死んじゃったりしないよね?
死に際を見られたくないからとかじゃないよね…?
狼男はプライドが高く、最後の瞬間を仲間に見せないようにしたがるって聞いたことがあるけど…。
名前はそこまで考えて、もつれそうになる脚で森に向かって駆け出した。
あぁ。こんな事前にもあったな。
そんな事を考えながら森に入っていく。
夕暮れに森に入るのは初めてだった。
森の中は何かピリピリとした空気が漂っていて、動物たちどころか、虫一匹も飛んでいなかった。
ばきばきばきーーー。
「!」
鈍い音と共に、木が割れるような凄まじい音が聞こえた。
名前はそちらに向かって走り出した。
そして抉れた地面と倒れた木々に囲まれた空間に出た。
砂埃の舞う中に、影を見つけた。
その姿は人と狼の間、人狼の姿だった。
狼男の本来の姿。
名前はその鋭い牙と爪に息を呑んだ。
「…名前?」
少し高い声。
深い緑色の瞳がこちらを見た。
その体には深い切り傷がいくつもあって酷い出血だった。
右肩は関節が外れてダラリとしている。
その有り様を見て名前は青ざめる。
「い、いずく…っ、早く、手当てしないと…!」
「勝ったよ。名前」
「…え?」
イズクがゆっくりと地面に顔を向けた。
砂埃が収まり視界が広がったその先に、血の海が広がっていた。
「あ、…ぇ、嘘」
血の海の中には金色の美しい毛並みを赤く染めたカツキが沈んでいた。
「か、カツキ!!」
名前は走り出した。
血の海に迷わず飛び込み、その人狼のそばに座り込んだ。
「カツキ!起きて!ねぇ!」
「…名前、くんなっつったろ…」
薄く目が開かれ、カツキの赤い瞳が名前を映した。
死んでいないことに名前は安心してハッと息を吐いた。
「…これで…いい。俺が、死ななきゃお前…番解消できねぇだろ」
「…!」
名前はカツキの大きな狼の手を握る。鋭い爪が腕に当たって皮膚が少し裂けても気にならなかった。
「…いや、いやだよ。いやだ」
小さな子供のようにポロポロと涙を流しながら名前は震えた声で言った。
「いやだ、よぉ。もう…っもうカツキが僕に嘘ついててもいいから…!」
「…」
冷たい手を名前が強く握った。
「カツキがそばで一緒に笑っててくれるならそれでいいから!」
「…名前」
「ずっと一緒にいてって、言ったじゃないか…っ」
顔をぐしゃぐしゃにして泣く名前の涙を拭おうと手を伸ばしたかったが、カツキはすでにその余力がなかった。
綺麗な涙を見て思う。
自分のために流されるこの涙がなんと幸福を感じることかと。
「ごめんね、かっちゃん。そろそろお終いにするね」
いつの間にか音もなく名前の背後にはイズクが立っていた。
ハッとした名前が後ろを振り返る。
「ま、待って!イズク…!もう勝負はついたんだろ?!」
ふぅとため息を吐いたイズクが優しい笑顔で名前を見つめた。
「名前。ダメなんだ、かっちゃんに死んでもらわないと番は解消できないんだ」
「そ、そんな…!そこまでしなくてもいいじゃないか!」
名前はカツキの手を離すと立ち上がってイズクの前に立った。
「お願い、もうカツキを傷つけないで。嘘から始まったけど、寂しい時にカツキがそばにいてくれて僕は救われたんだ。…僕カツキと一緒にいたいんだ」
「…名前」
カツキは血を流しすぎたせいか、名前の後ろ姿を見る視界が霞んできていた。
「そんなに…かっちゃんがいいの?」
「…ぇ」
目の前のイズクは人狼の姿から人の姿へとかわった。
背丈が自分と同じくらいになっていくらか名前の緊張感がとれたが、ボロボロの姿で俯く様はあまりにも痛々しかった。
「…嫌だよ。名前、イヤだ。僕、頑張ったんだよ?君のそばにいられるように、家族とも別れてがんばって強くなったんだ」
「い、イズク…」
「君と番になりたくて、幼馴染のかっちゃんまでこんなに傷つけたのに…!」
イズクはついには膝から崩れ落ちて鼻をぐずぐずと鳴らして泣き出した。
「かっちゃんは意地悪だけど憧れてたんだ。あの時の怪我だってわざとじゃなかったの…知ってるよ」
「…!」
「いやだ。嫌だよ…」
それきりイズクは子供のように泣き出して譫言のように繰り返しては首を振っていた。
名前は知らなかった。
あの時、傷ついた幼いイズクを助けたいと思った純粋な心が、こんなにも大きくイズクやカツキの運命を左右させてしまった事を。
知って、罪悪感が芽生えた。
名前は泣き崩れるイズクのそばに屈むとその背中を撫ぜた。
「イズク…他に方法はないの?3人で一緒にはいられないの?」
「…ぇ」
「僕があげられるものなら何でもあげるから…お願い。カツキにもイズクにも、これ以上傷つかないでほしい…」
イズクは涙と泥でドロドロになった顔をあげると名前を見上げた。
「…本当に、いいの?」
「うん。僕はどうしたらいい?」
チラリとイズクは倒れて動けないでいるカツキを見た。
「…番は、解消することは難しいけど増やすことはできるんだ」
「え、じゃあ…」
「でも番になる全員に同意が必要なんだ」
もう一度イズクはカツキを見た。
名前も横たわるカツキを振り返って見た。
「…カツキ」
「き、こえてらぁ…」
声を搾り出すようにカツキが唸った。
「お願い、カツキ…僕に、責任を取らせて」
「やめろ、お前のせいじゃ…ねぇんだ」
ググッと力を入れて起きあがろうとするカツキを名前が優しく制する。
「僕がイズクを忘れちゃってたからいけないんだ。お願いだよ…カツキ」
霞む視界でカツキは名前の瞳を見た。
まっすぐな眼差し、確固たる信念を感じて、カツキはふっと顔の力が抜けた。
「好きに、しろ…」
▽
「あぁ!ダメだよ動いちゃ!!」
「うっせ!こんな傷屁でもねぇわ!!おいクソデク!!名前と番になったからって調子乗ってんじゃねぇぞ!俺は1番、お前は2番だ雑魚がぁ!」
「かっちゃん元気だなぁ」
あれから数日が経った。
3人で家に帰り、2人の酷い怪我を治すために名前は夜通し看病と治療を続けた。
さすが狼男なだけあって治癒力は凄まじかった。
「イズクも、傷口見せて」
「ありがとう名前」
そう言って狼の姿のイズクの背を撫ぜた。
あぁ。この暖かさ…イズクの子犬の頃を思い出すな。
そして足を撫ぜた時だった。
「…傷跡がない」
「ん?もう綺麗に治ってるでしょ?あ、もしかして子犬の頃の傷のこと言ってる?」
名前は子犬の頃の傷跡がないことに気がついた。
「僕たち怪我の治り早いから傷跡も残りにくいんだよね…え?ちょっと!何その顔?!まさか僕を疑ってる?!」
「…まさかイズクも偽物?あの思い出の子犬は一体誰なの…?」
じとーとした視線をイズクに向けた名前を見てカツキが「ざまぁ!!」と言って笑う。
「何笑ってんのさかっちゃん!僕のフリするために何度も同じ場所切りつけて、傷跡わざと作ったかっちゃんのがよっぽど笑えるからね」
「いや笑えないし!何それ?!」
名前は知らぬ真実をまた一つ知って怯えた。
「はぁ?!何引いてやがる!お前への愛の深さと覚悟がわからねぇってか?!」
「かっちゃん流石に怖いって」
カツキとイズクがまた騒ぎ出す。
名前はため息をつく。
いきすぎている。
けど、確かにそれは愛故になのだろうか。
静かに立ち上がるとイズクに怒鳴り散らしているカツキのそばに行きその頭を撫ぜた。
「…お」
「嘘ついててもいいからさ。…もういなくならないでよ」
カツキが目を見開いて固まった。
「あーずるいなずるいな!番の間で贔屓はダメだよ名前。僕も撫でてよ」
イズクがカツキと名前の間にずいっと入り込む。
名前はそれを狼の姿のままなためもあって可愛いと素直に思ってしまった。
仕方ないなと、2人の頭を撫でる。
「あ、でもまだ正式に番になってなかったね!」
イズクがわざとらしく声をあげた。
「え?」
「わかるでしょ?番になるにはお互いの首に噛みついて、エッ」
「だーー!!!黙れやクソデクーー!!」
名前の顔が瞬時に赤くなった。
「かっちゃん!今更なしはダメだよ!もう首には噛みついちゃったんだからあとはエッチしないと!」
「っせハゲ!!いつ首に噛みつきやがった?!」
「かっちゃんが僕にのされてベッドで呑気に寝てる間だよ!」
「殺す!!」
「さ、さてと。僕お夕飯の用意してくるね…」
再び2人がギャーギャー騒ぎ立てている間に名前はそろりと部屋を抜け出そうとした。
しかしすぐに両肩をがしりと掴まれた。
右肩はカツキに、
「デクの下手くそが粗相しねぇかちゃんと一緒にやってやらねぇとなぁ?」
左肩をイズクに、
「どうせこれからは3人で仲良く暮らすんだもんね?時間はいっぱいあるし、2人っきりはまた今度でいいから早くやろう?」
それぞれ掴まれて、名前の体は油を刺していないブリキの人形のようにギギギと鈍く動いた。
「あ、や…あの」
異議を唱えようとする名前に聞く耳を持たず、2人が引きずるようにして運んだ先は寝室だった。
▽
「ちょっとやり過ぎちゃったかなぁ…」
「てめぇ加減ってもんを知らんのか」
「かっちゃんに言われたくないなー」
寝息も立たずに深い眠りについている名前を見下ろしてため息をついた。
白い頸には先程自分が噛み付いてつけた噛み跡が赤く残されている。
反対側にはかっちゃんがつけた歯形がある。
背中には2人で競うようにつけた赤い鬱血痕が花のように咲き誇っていた。
それを見て思わずうっそりとする。
あぁ。本当にきれいだよ名前。
白い肌にいっぱい跡つけちゃったね。
ごめんね。
明日君が作ったお薬塗ってあげるからね。
あー!ついに名前と番になれたんだね!
色々と予定は狂っちゃったけど、僕はこの結末に満足してるよ。
かっちゃんは意地悪だけど憧れてたってのは本当だよ。
やっぱり悲しんでほしくはない。
でも名前を諦めることもできなかったから。
「名前が変わらず純真でいてくれてよかったよ。決闘で相手を殺せば番を解消できるって嘘を信じてくれてよかった」
「ったく。てめぇがさっさと帰ってこねぇからこんな面倒くせぇことになっちまったじゃねぇか」
「何言ってんのさ!かっちゃんが僕との約束破って名前に手を出してるからいけないんだろ!」
「緊急事態だったつってんだろ!胡散臭い連中が名前を誘惑しやがるから仕方なくだ!」
その昔、狼男なのに人の姿にも化けれず、力の弱かった僕は、よくかっちゃんに虐められた。
ある日かっちゃんがふざけて僕を追い回していた時に崖から落ちた。
痛かった。
知らない場所で一人お腹も空いて動けず。
寂しかった。
そんな時名前が現れたんだ。
赤い頭巾の似合う可愛い子。
いい匂いがして、その手がとても暖かかった。
一目で大好きだって思った。
だから君を守れるように、強くなろうって思った。
君のそばに行けるように、人の姿にも変われるように頑張ろうって思った。
遠い旅に出るのに家族と別れを告げた。
かっちゃんにも。
「…かっちゃん。僕、番になりたい人がいるんだ。その人を守れるように強くなって帰ってくる」
「は!勝手にしろよ!…って言いてえんだけどよ…それ、お前を助けた名前ってやつだろ?」
「え?!何で知ってるの?!」
「ずっと見てた。俺も、アイツが欲しい…」
「えぇー?!」
絶望した。
かっちゃんは優秀な狼男で、力も強くて賢い。
僕が今かっちゃんと名前を取り合ったら、負けてしまう…。
でも、それでも、僕は名前だけは渡したくなかった。
「…かっちゃん、この前僕に怪我させたの謝らなくていいから」
「は?!」
ずるいとは思った。こんな言い方。
でも他に方法がなかった。
「だから、僕が帰ってくるまで名前には手を出さないで欲しい。帰ってきたら真剣勝負しよう?勝った方が名前と番になるんだ」
「…」
かっちゃんは迷ってるようだった。
でも、君は変に義理堅いところがあるから…
「…わかった。これで貸し借りなしだ。その時負けても文句言うんじゃねぇぞ」
「っうん!」
名前のことを思いながら修行を続けた。
非力な僕も君を思うと強くなれた気がした。
何年も何年もかけて修行した。
やっと君の隣に立てるかなと思った時にはもう10年経っていた。
「あぁ!名前の匂いがする!ずっとこの家に住んで僕を待ってくれてたんだね!」
やっと故郷に帰ってきて、名前の家に一目散で向かった。
中で料理でもしているのかな?
何だかいい匂いがする。
早く会いたいよ名前。
僕はすぐに戸をノックしようとした。
しかし扉はノックする前に勢いよく開けられ、中から金色の大きなものが飛び出してきて僕の上にのしかかった。
僕は無様に後ろにひっくり返った。
「…っデク?!」
僕の目の前には、大きくなった幼馴染がどこか焦った表情をして乗っかっていた。
「かっ、かっちゃん?!何で?!え、今、名前の家から…?!え?!」
「ま、待ちやがれ!これには訳があんだよ!」
その再会が、今からちょうど10日前だった。
名前は今薬の調合が終わって疲れて寝ていると言って、かっちゃんと僕は狼の姿で森まで走った。
あぁ、名前に出会った場所だ。
君と二人でここで再会できたら最高だったのに…。
「じゃあつまりかっちゃん…約束破って僕の名前に手を出した挙句、番の契約までしちゃった…てことなのかな?」
「…」
かっちゃんが居心地悪そうにしている。
あのいじめっ子だったかっちゃんがたじろいでいる様は珍しかったが、正直今はそれどころでなかった。
「約束…破ったんだね」
「悪かった。名前を手に入れようとする人間がいたから待ってらんねぇと思って…。だいたい!てめぇも帰ってくんのが遅ぇんだ!!とっくに野垂れ死んだと思っとったわ!!」
「逆ギレ?!」
そのまま言い合いになる。
まぁ確かに10年も周りが名前を放っておくはずもなかった。そこを考慮してなかったのは確かに浅はかだった。
よく聞けばその間かっちゃんは一度も名前の前に姿を現すことなく、森に訪れては薬草を摘む名前を他の獣に襲われないようずっと見守っていたというのだから、一方的に責められない気持ちになってきた。
僕がいない間、今日まで名前が無事だったのはかっちゃんが守ってきたからに違いなかった。
「…っ、でも、だからって番になっちゃうなんて…」
気づいたら僕は泣いていた。
「…そこは、本当に…悪ぃ」
「番解消してよ」
「無茶言うなや。俺はともかく名前も苦しむぞ」
「うぅ」
番は…どんなことがあっても解消できない。
無理に引き裂かれた番同士は精神が崩壊して最悪死んでしまう。
「…ま、番の契約がなけりゃ、名前は今頃俺から逃げ出してるだろうな」
「え?」
僕はすぐに耳をピンと立てて意識を集中した。
よろこんでんじゃねぇ!ってかっちゃんに脚を踏まれた。
しまった。ちょっと尻尾揺れちゃってたみたい。
「…お前のふりして近づいたのが、嘘だったってバレた」
「え、なんでそんな…」
「…」
かっちゃんは黙ってしまった。
かっちゃんが簡単に嘘を見破られるようなことになるはずがない。
なのに一体なぜ。
「お前の、あの緑の石」
「え?」
「捨てた」
「はえぇぇぇ?!」
なんてことだ。
それはきっと名前に贈ったあの綺麗な石だ。
あれは僕の目の色に似てたから、持ってて欲しいと思って贈ったものだ。
「な、何でそんなこと!」
「俺にも…よくわかんねぇ。そんなことしたら名前に俺が嘘ついて近づいたことを確信させるってわかってたのによ」
「どういうのと…?」
かっちゃんらしくない要領をえないその解答に僕は混乱する。
「お前が、帰ってくんのが…怖かった」
「え?」
まさか。
一族で1番期待されていたかっちゃんが。怖いだなんて。
「あの石捨ててもそれに名前が気づかなかったら…もう俺だけを見てくれるって、何かそう思ったんだ」
「…」
「試したくなったんだわ」
かっちゃんの言いたいことは何となくわかった。
僕も、もし立場が反対だったら君が帰ってこなければいいと祈っただろう。
「最近俺のこと怯えた目で見てんだ。番ってしまったこの男は、本当は誰なんだろうって…」
かっちゃんは視線を落として俯いた。見たこともないほどその横顔は悲しそうだった。
僕たちは…どうすればいいのかな?
かっちゃんも名前も、僕は大切なんだけどな。
3人で笑える未来はないのかな…。
あ、そうか。
3人で…。
「ねぇかっちゃん、お互い落ち度もあった訳だしさ…また貸し借りなしで協力しようよ?」
「あ?」
僕はこの提案にかっちゃんが乗ってくれるか正直不安だったけど、乗らざるを得ないとは確信していた。
「僕は番のポジションが欲しい。かっちゃんは名前からの信頼が欲しい」
「…あぁ」
番を無理に解消することは出来ない。
でも増やすことは出来る。
だけどいきなり名前に僕とも番になってと頼んだところで、かっちゃんがいては色良い返事をもらいにくいだろう。
でもかっちゃんはかっちゃんで、その信頼関係に今ヒビが入っている。
僕が決闘でかっちゃんを殺す、フリをする。
名前は優しいから簡単に情を捨てられないし、きっとそこまできたら嘘をついてたかっちゃんを許しちゃうだろう。
その後は僕の泣き落としで全部丸め込んじゃおう。思考が渋滞したところに罪悪感で導いてあげればきっと名前は僕のことも見捨てられやしない。
かっちゃんも番の席が増えるのは不満だろうけど、このままでは関係を続けられないってわかってるはずだ。
「かっちゃん…名前のためなら死ぬ覚悟はある?」
「…いいぜ。その芝居に付き合ってやるよ」
それが、事の発端だった。
「ほんとによー、思った通りに行き過ぎてちょろすぎるコイツのことが心配だわ」
「名前が純粋で無垢なんだよ。かっちゃんが澱んでるだけで」
「てめぇが1番言えた口かよ」
名前を間に挟んで3人でベッドで川の字になる。
「あとてめぇ…俺のこと割と本気で殺しに来てたろ」
「え?当たり前じゃないか。じゃないとまた名前に嘘がバレちゃうだろ?」
それに僕の思い出を利用したことと、名前と先に番になっちゃったことは怒ってたんだからね。
これくらい許してよ。
「…けっ!」
「ベッド狭い」
「じゃあてめぇは床で寝ろ」
横を見れば名前の寝顔が見えた。
幸せだった。
予定とは違う形になったけれど、ずっと欲しかったものは手に入った。
これからもずっと一緒にいられると思うと顔が緩んで仕方なかった。
明日は3人で何をしよう?
名前のお仕事を手伝おうか?
買い物にでも行こうか?
ずっとこうして3人でくっついていようか?
最大の秘密を持ってして、ほしかった愛を手に入れた。
最大の秘密を共有して、揺るがない友情を手に入れた。
これって最高じゃない?
あぁ、なんだかドキドキするな。
僕たちって素敵な番だね。