赤ずきんは誰のもの
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ある街の外れの森の近くに、おばあさんと小さな男の子が2人で住んでおりました。
柔らかい白い雪のような肌に、大きな瞳をもつ男の子は可愛らしい外見といつも赤い頭巾のついた外套を着ているため、街の人からは「赤ずきん」と呼ばれていました。
男の子の両親は遠くの街に行くために森を抜けようとしたところ、土砂崩れに巻き込まれて死んでしまいました。
「名前…っ、行ってはいけないよ。名前っ」
「大丈夫だよおばあちゃん!薬草をとってくるから待っててね!」
小さな男の子はとても優しい子でした。
酷い風邪を引いて寝込んでしまったおばあさんのために、1人で入ってはいけないと言われる森に1人で薬草をとりにいこうと思いました。
おばあさんが引き止める声も聞かず、防寒着の赤い外套を羽織ると外に飛び出しました。
この世界には人間だけでなく狼男や吸血鬼、他にも不思議な力を持った妖や、大昔には魔女も住んでいました。
時として人間はそれらの食糧にされることがあり、日々恐れられておりました。
男の子が入って行こうとする森の奥深くには、昔から獣のオオカミが、さらには狼男たちが住んでいると言われておりました。
男の子はおばあさんと何度も森の入り口にある薬草を一緒に採りにきていました。
それでも一度も狼を見たことはありませんでした。
だから1人でも大丈夫だと思ったのです。
森の入り口につきました。
森の木々は密生しており、森の中は昼間だと言うのに薄暗く見えました。
男の子は森の中に入りました。
森の中は静かでした。
木漏れ日が美しく、鳥の鳴き声が遠くで聞こえ、男の子は狼の噂も忘れ穏やかな気持ちになりました。
薬草の生えている場所までまっすぐ行き、目当ての薬草が生えているのを見つけました。すぐにそれらを丁寧に引き抜くと籠に集めました。
もう充分集め終わり、急いで帰ろうと思ったその時でした。
ガサガサと何かが動く音がしました。
「!」
木々の生い茂る向こうで物音がしました。
男の子はゆっくり立ち上がりその場から離れるため足音を立てないよう後退りました。
もし狼だったら小さな男の子はあっという間に食べられてしまいます。
男の子は怯えながら必死に息を殺しました。
「クゥゥン…」
「…え?」
何か動物の声がしました。
「…クゥゥ」
その声は弱々しく、心優しい男の子にはどこか助けを求めているように聞こえて仕方がありませんでした。
純真な男の子は迷わずその藪の向こうに進みました。
そしてその藪の中に声の主がありました。
三角に尖った耳を伏せ、黒っぽい焦茶色の毛むくじゃら、まだ幼い柊でも抱えられそうな大きさの犬のような生き物でした。
体を小さく震えさせて、左の足の付け根には深い切り傷のようなものがありました。
「酷い怪我…!」
少年は今とったばかりの薬草を自分の口に押し込むと何度も噛みました。
それをまた吐き出すと軽く手の中で揉み込み、それを傷口に貼ってやりました。
小さな獣は怯えるように男の子を見て逃げようとしましたが、脚が痛いのか立ち上がれませんでした。
「大丈夫。大丈夫だよ。これは塗れば消毒にも痛み止めにもなるからね。明日ちゃんと手当してあげるからね」
このままではお腹を空かせてしまうだろうと、男の子は自分がおやつに持ってきたサンドウィッチを目の前に置いてやりました。
よっぽどお腹が空いていたのでしょうか。小さな獣は目の前に差し出されたそれを、匂いを少し嗅いだ後あっという間に平らげてしまいました。
「お水も置いておくね」
サンドウィッチを入れていた箱に、男の子は水筒から水を注いでやりました。
このままもっと大きな獣に襲われてしまうかもと心配しましたが、男の子は病気で待っているおばあさんのためにもこれ以上のことはしてあげられませんでした。
明日またくるね。と、言い残して男の子は急いで森を抜けました。
まっすぐ家に戻り、ベッドの中でうなされているおばあさんのために早速お薬を作りました。
作っている間も先ほどの小さな獣…おそらく犬であろう生き物のことが気になって仕方がありませんでした。
「おばあちゃん、川でお水組んでくるね」
「すまないね名前…。頼むからもう森に1人で近づかないでおくれよ?」
「うん!」
次の日の朝になりました。
水はまだ十分にありましたが、男の子は森に向かうため嘘をつきました。
男の子はおばあさんに初めて嘘をついたので、少し心が痛みましたが、あの犬がどうなったのか心配で夜はなかなか眠れなかったのです。
「無事に今日もいるかなー」
男の子はバケツに治療の道具と食べ物とお水を用意してまた森に入って行きました。
藪に入っていくと…
「クゥゥン」
昨日と同じ鳴き声が聞こえました。
「…あ!いたいた!調子はどう?」
男の子が声をかけると、その犬は黒くつぶらな瞳を男の子に向け尻尾を一生懸命振りました。
昨日より元気な様子に男の子も喜びました。
「今日もサンドイッチ持ってきたよ。食べれるかな?」
子犬の前に食べ物と水を置いてやります。
子犬は立ち上がると尻尾を振ってそれらを食べました。
「え!もう立てるようになったの?」
子犬がサンドウィッチを食べている間に、傷の様子を見ました。
驚いたことに、出血も止まり傷口は綺麗になっていました。
「わー!よかったね!もう明日には歩き回れてそうだね!」
男の子は子犬の怪我が思っていたより深く無かったことに喜びました。
念のためもう一度薬草を貼ってあげました。
男の子はそれから毎日食べ物を森のその子犬に持って行きました。
子犬はもう動き回れるまで元気になっていましたが、男の子が会いにいくと必ずいつもの藪の中で丸くなって待っておりました。
そんな日が7日ほど続いた時です。
「…あれ?」
子犬がいなかったのです。
いつも水を入れてあげていた器にはまるでお礼のように置かれた綺麗な深い緑色の石が残されておりました。
男の子は思いました。あの子犬はきっと元気になって家族の元に帰ったのだろうと。
ですが、その石を見ながらちょっぴり寂しくなって…少しだけ泣きながら帰りました。
月日は流れ、男の子は16歳になりました。
美しく成長した男の子は、もうあの赤い頭巾は被っていませんでした。
16歳になったその春に、たった1人の家族のおばあさんは病気で突然死んでしまいました。
彼は街から離れた一軒家に1人取り残されてしまいました。
おばあさんに教えてもらった薬の作り方をさらに勉強し、街に薬を売りにいっては1人で生活しておりました。
今日も街に薬を売りに行きます。
今日は街の中でも資産家の若旦那様に頼まれていたお薬を持って行きます。
「ありがとう名前。あなたの薬はとてもよく効くから街でも評判いいのよ。また同じものを来月お願いね」
お屋敷に着くと人の良さそうな若奥様が出迎えてくれました。
「ありがとうございます!またお願いいたします奥様」
「…」
若奥様は優しい笑顔を名前に向けたまま、少し間を置いてからゆっくり口を開きました。
「ねぇ、名前。お婆様も亡くなって1人で寂しくない?あのね、主人とも相談したの…」
「?」
名前は若奥様が何を言いたいのか図りかねて言葉の続きを待ちました。
「その、…うちで一緒に住まない?」
「えっ」
「もちろん無理にとは言わないわ。でもね、あんな森の近くに1人で住んでるなんて心配で…あなたのこと私達だけじゃなくて街のみんな大切に思ってるわ。娘も貴方を兄のように慕ってるし…」
その心遣いが、名前はとても嬉しかったのです。
だけど、家族の思い出があるあの家を離れるのも寂しく思いました。
その日、名前は気持ちをそのまま伝えました。優しい若奥様はいつでも待っていると言って名前を送り出してくれました。
帰り道、夕暮れの草原を1人家に向かって歩きます。
名前は家族のことを考えていました。優しい両親、おばあさん…みんな自分を置いて先に天国へ行ってしまいました。
「僕も…家族と暮らしたいな…」
振り返ると丘の上から先ほどまで自分がいた街が見えました。
日が暮れ始めて、ところどころ家の明かりや街灯が灯されていくのが見えます。
街から離れた場所に住んでいる名前は家族どころか友達もいませんでした。
そんな時お屋敷の若奥様の顔が浮かびました。
いつも優しく出迎えてくれ、天気の悪い日にお薬を持っていけばわざわざ来てくれたお礼だと言って多めにお金を支払ってくれました。
お屋敷の娘は自分と歳が近いのか、会えばいつも嬉しそうに話しかけてきてくれました。
忙しい旦那様は滅多に会うことはありませんでしたが、もし会えれば必ず家の中に招待してお茶やお菓子を名前にご馳走してくれました。
もし、あの人たちの家族になれたら、自分も幸せになれるだろうか?
そんな風に考えながら、名前は家に帰り、1人ベッドに潜り込んでからもずっとずっとそのことを考えていました。
コンコン。
次の日の早朝、誰かが名前の家の戸を叩きました。
こんな朝早くに誰だろう?もしかして薬が急に必要になった人でも来たのだろうか?
名前は急いで戸を開けました。
そこには自分より背が高く、がっしりとした体つきの青年が立っておりました。
見慣れない青年に驚いて顔を見上げれば、その目つきは鋭く、名前は思わず一歩後退りしてしまいました。
「…」
青年は自分を見下ろしたまま何も言いません。
名前は怖くなって声をかけました。
「…あ、あの。どちらさまですか?」
「…やっと、会えたな」
「え?」
その瞬間目つきの鋭かった青年はふと、顔の力が抜けたように笑ったかと思うと名前を抱きしめました。
「うわーー!」
名前はびっくりして大声を上げましたが、背の高い青年の腕はしっかりと背中に回されて離れませんでした。
「うるせぇなぁ。…俺だ。覚えてねぇのかよ」
「え?」
そう言われて名前は男の顔を見上げました。
朝日が透ける金色の美しい髪に、勇ましさを感じる精悍な顔、真紅の赤い瞳がとても印象的でした。
しかしやはり名前には見覚えがありませんでした。
「ごめんなさい…覚えてないです」
「…そう、だよなぁ」
青年の腕がゆっくりと少年を離しました。
名前は思い出せず申し訳ない気持ちになりました。
すると青年は2、3歩名前から離れると言いました。
「これでも思い出せねぇか」
「?!」
瞬きした瞬間でした。
立っていたはずの青年は消えて、そこには金色の毛並みに赤い瞳を持った大きな狼がおりました。
「う、うわぁーーー!!!」
名前は今度こそ本気で悲鳴をあげました。
そして慌てて玄関の扉を閉めようとしました。
「おい!待ちやがれ!」
狼は扉が閉まる前に体をその隙間に捩じ込んできました。ものすごい速さです。
「わ!…あ…!!」
名前は顔を真っ青にしてその場に尻餅をつきました。
自分はここで食べられてしまうのだろうか。あの鋭い歯が自分の皮膚を破り、肉を切り裂くところまで想像してしまい、震えて立ち上がることができませんでした。
「てめぇを食ったりしねぇ!」
名前のそばに狼が近づきます。
そしてこう言いました。
「ガキの時、俺を森の入り口で見つけて助けてくれただろ!」
「…!!」
その時、名前はあの子犬のことを思い出しました。
足を怪我していたあの子。
すぐにいなくなってしまって、寂しかった。
泣きながら帰ったその日のことも思い出しました。
「もしかして、あの時の…」
「これ見ろ」
そう言って狼は鼻先で自分の左後ろ脚を見るよう名前に促しました。
少年はまさかと思い、恐る恐るその脚の毛を撫ぜてみます。
そこにはよく見ると傷跡がありました。
「君…、あの時怪我してた…」
「あぁ。お前が助けてくれたんだ」
自分の記憶にあるあの子犬の傷の場所と一致し、名前はあの時の子犬は狼男だったのかとやっと気づきました。
「お前が持ってきてくれたサンドイッチ…美味かった」
「あ、ぁ…」
少年は色々なことに驚きすぎて声が出せませんでした。
青年は再び狼の姿から人に変わり、座り込んでいる名前を抱き上げました。
その手は温かく、名前はあの時抱き上げた子犬のことを思い出しました。
今度は名前は悲鳴をあげません。
「今度は…俺がお前を助ける」
そうして唐突に名前と狼男の2人の生活が始まりました。
名前がおばあさんは死んでしまい一人で住んでいると言えば「危ねぇから一緒に住む」と言って本当に家に上がり込んでしまいました。
森で採れる薬草を使って薬を作っていると聞けば「じゃあ俺が一緒に行ったるわ」と必ず森には用心棒として付いてきました。
街にその薬を売りに行っていると言えば「じゃあ俺の背中に乗ってけ」と言うので流石にそれは街の人に見られたら大変なので断りました。
ですが必ず街に出かける時も狼男は付いてきました。
狼男には“カツキ”という名前がありました。
名前はカツキとの生活にはじめは戸惑いましたが、今では楽しくて仕方がありません。
彼は人の姿になっては家のことを全て器用にこなしてくれました。
物知りで外の国の話でもなんでもしてくれる彼とは話していていつもワクワクしていました。
街で見かけた珍しいお菓子を食べてみたいと言えば、見ただけでそれを真似たそっくりなものを家で作ってくれました。
寒い日の夜には狼の姿になったカツキが狭いベッドに入り込んできては朝まで温かく包んでくれました。
名前はもうすっかりカツキを家族のように思っておりました。
こんな生活がずっと続けばいいのにと、流れ星に願いました。
ある日街に行った帰りのことでした。
カツキが暗い顔をして一言も喋らないのです。
心配になった名前はカツキにどうしたのか聞きました。
しかしカツキは何でもないと笑うだけで何も答えてはくれませんでした。
名前は何だか胸騒ぎがして心配でなりませんでした。
その日もいつものようにベッドで寄り添って2人で眠りました。
しかし次の日の朝、目が覚めてみるとどうでしょうか。
カツキがいません。
どこを探してもいません。
家中探した頃、ポストに何か入っているのに気がつきました。
それは手紙でした。
綺麗な文字でした。
『名前。
昨日街に行って買い出ししてる時に街の人間に声をかけられた。
俺と住む前に資産家の家から養子にならないかって言われてたんだろ?
俺が一緒に住むようになったから断るしかなくなっちまったんじゃねぇかって。
ごめんな。知らなかったんだ。
俺のことは忘れて本当の家族と幸せに過ごしてくれ』
俺は狼男だからどうなったってお前と家族にはなれなかったのになーー。
名前は手紙を読み終えるとその手紙を握りしめて靴も履かずに飛び出しました。
息を切らしながら走って、走って、見えてきたのは2人が出会った森でした。
名前は迷わず森の中に入りました。
日の光が木々の隙間から降り注ぐ穏やかな場所でした。
出会った日もこんな穏やかな日だったと名前は思い出しながら涙を流していました。
「カツキ…!」
森の奥へ奥へと走りながら、名前は震える声で呼びました。
「…カツキー!」
すると、遠くからあのしなやかな四本足で走り寄る音が聞こえた気がしました。
「カツキ?!」
茂みの背の高い草が揺れました。
咄嗟にそちらに体を向かわせようとして名前はピタリと動きを止めました。
「グルル…」
威嚇するようなその唸り声は彼ではないと気付いたからです。
そして茂みから姿を現したのは真っ黒な狼でした。
「あ…」
逃げようと後ずさったその瞬間に、黒い狼は名前に飛びかかりました。
狼の鋭い牙が見え、名前は恐怖のあまり叫び声を上げることもできませんでした。
「名前‼︎」
誰かの声がしたと思えば、もう鼻の先にまで迫っていた黒い狼に何かが飛び掛かりました。
それは名前の愛しい愛しい金色の毛並みの狼でした。
二匹の狼は絡みつくようにその場で争いました。互いに牙を剥き出しにして激しく取っ組み合っているのを名前は震えながら見ていることしかできませんでした。
「ギャン!!」
次の瞬間には黒い狼が悲痛な鳴き声をあげたかと思えば、再び茂みの中へと姿を消し、二度と現れませんでした。
「お前!こんなところまで何しにきやがった!」
金色の髪の毛が名前の目の前で揺れました。
「何って…だって…」
名前はポロポロと泣き出しました。
その涙をカツキが優しく拭います。
「カツキが…カツキが急にいなくなっちゃうから…!」
名前は大声でついに泣き出しました。
なかなか泣き止まない名前に困った狼男は、背中に名前を背負うと歩き出しました。
森を抜け、またあの家に2人で戻ってきました。
名前は家に帰ってもずっとカツキから離れません。
「僕を1人にしないでよ」
「君が僕の家族でしょ」
「カツキがそれでもいなくなるなら、また森に入って狼のエサになる」
どこかヤケになった名前はまるで駄々を捏ねる幼い子供のようでした。
そんな彼にカツキは困り果てながら言いました。
「…わかった。俺だって本当はお前と一緒にいてぇ」
「じゃあ…!」
「けどな…俺はお前をもうただの家族には見れねぇ」
「…え?」
カツキの言った言葉の意味がわからず名前は不安になりました。やはりカツキは出ていってしまうのか。そう思うとまた大きな名前の目からは涙が溢れてきました。
「…お前が、名前が好きなんだ。ずっと…助けられた時から」
「…ぅん」
「最初は一緒にいられれば何でもいいと思ってた。だから人間の言葉も文字も覚えたし、料理だって練習した…お前のそばにいられるなら、一緒にいたらちょっと便利なやつぐらいに思ってもらえたら十分だと思ったんだ」
「そんな…」
名前は本当にカツキのことを大切に思っておりました。はじめは狼男と生活なんて出来るのかと心配ではありましたが、都合よく自分のために動いてくれるから一緒にいるなどと、思ったことは一度もありませんでした。
なのでそう言われて、名前はとても悲しい気持ちになりました。
「けど、もうそれじゃぁ満足できねぇんだ。俺はお前が欲しい。今までみてぇな家族ごっこはもう俺にはできねぇ」
カツキが苦しそうに顔を歪めて吐き出す言葉を、名前は静かに聞きました。
そしてカツキに問いかけました。
「カツキは、僕にどうしてほしいの?」
「…俺の、番になって欲しい」
「いいよ」
カツキは目を丸くして名前を見ました。
そして次の瞬間にはまた表情を歪めて自嘲するかのように言いました。
「はっ、簡単に言うんじゃねぇよ。どうせお前意味わかってねぇだろ。番になったら最後、絶対俺から逃げられねぇんだぞ?」
狼一族は一生を添い遂げる相手のことを番と呼びました。
お互いの首を噛み、夜を共に過ごせばその儀式は完了します。
万が一どちらかが番を裏切るようなことがあれば、片割れの番は気が狂い、相手を殺し、自身も死んでしまいます。
「うん。いいよ」
「お前…っ、」
名前はカツキに顔を近づけて、真剣な眼差しを向けて言いました。
「番になれば、カツキは僕から離れられないんでしょう?また今日みたいにいなくなったりしないんでしょう?」
「…そうだ」
「じゃあなろうよ。番に」
名前の顎をカツキが突然掴みました。
そしてそのまま噛み付くように口付けました。
名前は少し驚きましたが、嫌な気持ちにはなりませんでした。胸が大きく脈打って、苦しくて、とても幸せな気持ちになりました。
「いいのかよ?番になるって、これ以上の事を俺とするんだぞ?」
顔が離れたと思ったら、未だに不安そうな顔をしているカツキに名前はまた言いました。
「僕もカツキが好きだよ。ずっと…ずっと一緒にいよう?」
それを聞いた途端、カツキは顔だけでなく耳まで赤くなり、その表情は苦しそうでした。
「…っ名前!!」
堪らずその細い肩を掴むとそのまま床に押し倒し、首元に歯を立てました。
ズキッと痛みを感じたと思ったら次は生暖かい感触が名前の首を撫でました。
「っあ、これで…もう、俺のもんだからな」
滲んだ血を舐めとったカツキが恍惚とした表情で名前を見下ろしました。
その妖艶な笑みにすっかり魅せられた名前も、誘われるようにカツキの首筋に歯を立てました。
「っはぁ、もっと、…もっと強く噛んでくれよ。名前」
「んぅうっ」
カツキはそのまま名前を抱き上げると寝室に向かいました。
そして名前をベッドに優しく降ろして、自分はその上に馬乗りになりました。
「…きもちいいこと、しような?名前…」
「あ、…ぅん。カツキ…」
2人の唇が再び重なり、そうして2人は番となりました。
2人はとても、とても、幸せでした。
▽
月の光が窓から差し込んで、名前の綺麗な横顔を照らしていた。
疲れ果てて寝ている名前を腕の中に抱きしめる。
首にある噛み跡を愛おしく思ってその跡を指先で撫ぜた。
「名前…」
名前を呼んでみても、俺の腕の中で安心しきったように眠り込んでいる。
「名前。ーー狼男に喰われちまうぞ」
もう一度名前を呼んで、それでも眠り続ける名前を見て、俺は…もうこの歪に引き上がる口角を抑えられなかった。
「…っはは!」
笑い声が抑えられない。
やっと、やっと手に入れた!
ずっと!ずっと欲しかった名前を!
「長かったんだぜ…。手に入らないならお前を食い殺しちまおうかと何度思ったか」
初めて見た時、お前が欲しいと思った。
狼一族の中でも恵まれた才を持って生まれた俺に、手に入らないものなんてガキの頃からなかった。
だけど森で怪我を治療してやるお前を見てたら、いつの間にか欲しくて欲しくて仕方なくなっちまった。
だけどお前は人間だから…俺が狼男だと知ったら拒絶するだろうと思った。
だから人の世界に紛れ込んでお前の役に立ちそうな事全て真似して覚えた。
俺は人間と偽ってお前に愛されるなんてのはごめんだった。狼男の俺を受け入れて愛して欲しかった。
そうやってずっと名前を側で見守っていたのに…。
あの屋敷の成金家族が俺の名前を手に入れようとしてるとわかって、急いで行動に移した。
あいつらは可愛いくて街の人気者のお前を人形のように家に置いておきたいだけだ。
そのうち娘と結婚させようなんて思ってたにちげぇねぇんだ。
名前みてぇな綺麗な生き物は、あんな欲に塗れた奴らの近くにいたらダメだ。
俺は名前の目の前に現れて、寂しがりやな名前に必要とされるように尽くした。
もちろん今朝の手紙は全部嘘で芝居だ。もう名前は俺がいない生活なんて耐えられないだろ?
絶対追いかけてくると思ってた。
まさか裸足で追いかけてきてくれるなんてな。すげぇ嬉しかったぜ。
俺がいなくなるって思って、寂しかったろ?怖かったろ?絶対離れたくないって思ったろ?
これで番になって欲しいって言えば名前は絶対頷いてくれると思った。
「あー。そういえばあの怪我してた犬っころも俺じゃあねぇんだ。…ごめんな?」
あいつを怪我させたのは俺だけど。
それを知ったら名前は、どんな顔をするのだろうか?
怯えて、泣くだろうか?俺を拒絶するだろうか?
そんな事してももう離してなんかやらないが。
「俺たち傷がすぐ治っちまうからよ…傷跡残るほどの傷つけるのすげー大変だったんだわ」
アイツが怪我したであろう場所に自分でナイフを突き立てた。
すぐに治っちまうから治り切る前にもう一度突き立てた。
それを5回ほど繰り返したころ、やっと傷跡が残った。
「全部…名前のためにやったんだ…」
その白くまるい額に軽く口付けた。
「…んぅ…」
名前は小さく呻いたかと思うと俺の胸板に額を押し付けてまた眠り出した。
「はぁ…幸せだな。俺たち」
恍惚に緩む顔を、俺は隠すように名前のつむじに埋めてため息をつく。
こんな狼男に愛されちまって、お前は…本当に可愛くて可哀想なやつだよ。
「お前が真実を知って逃げようとしても…俺はずっとお前を鎖で繋いで大切にしてやるからな…」
柔らかい白い雪のような肌に、大きな瞳をもつ男の子は可愛らしい外見といつも赤い頭巾のついた外套を着ているため、街の人からは「赤ずきん」と呼ばれていました。
男の子の両親は遠くの街に行くために森を抜けようとしたところ、土砂崩れに巻き込まれて死んでしまいました。
「名前…っ、行ってはいけないよ。名前っ」
「大丈夫だよおばあちゃん!薬草をとってくるから待っててね!」
小さな男の子はとても優しい子でした。
酷い風邪を引いて寝込んでしまったおばあさんのために、1人で入ってはいけないと言われる森に1人で薬草をとりにいこうと思いました。
おばあさんが引き止める声も聞かず、防寒着の赤い外套を羽織ると外に飛び出しました。
この世界には人間だけでなく狼男や吸血鬼、他にも不思議な力を持った妖や、大昔には魔女も住んでいました。
時として人間はそれらの食糧にされることがあり、日々恐れられておりました。
男の子が入って行こうとする森の奥深くには、昔から獣のオオカミが、さらには狼男たちが住んでいると言われておりました。
男の子はおばあさんと何度も森の入り口にある薬草を一緒に採りにきていました。
それでも一度も狼を見たことはありませんでした。
だから1人でも大丈夫だと思ったのです。
森の入り口につきました。
森の木々は密生しており、森の中は昼間だと言うのに薄暗く見えました。
男の子は森の中に入りました。
森の中は静かでした。
木漏れ日が美しく、鳥の鳴き声が遠くで聞こえ、男の子は狼の噂も忘れ穏やかな気持ちになりました。
薬草の生えている場所までまっすぐ行き、目当ての薬草が生えているのを見つけました。すぐにそれらを丁寧に引き抜くと籠に集めました。
もう充分集め終わり、急いで帰ろうと思ったその時でした。
ガサガサと何かが動く音がしました。
「!」
木々の生い茂る向こうで物音がしました。
男の子はゆっくり立ち上がりその場から離れるため足音を立てないよう後退りました。
もし狼だったら小さな男の子はあっという間に食べられてしまいます。
男の子は怯えながら必死に息を殺しました。
「クゥゥン…」
「…え?」
何か動物の声がしました。
「…クゥゥ」
その声は弱々しく、心優しい男の子にはどこか助けを求めているように聞こえて仕方がありませんでした。
純真な男の子は迷わずその藪の向こうに進みました。
そしてその藪の中に声の主がありました。
三角に尖った耳を伏せ、黒っぽい焦茶色の毛むくじゃら、まだ幼い柊でも抱えられそうな大きさの犬のような生き物でした。
体を小さく震えさせて、左の足の付け根には深い切り傷のようなものがありました。
「酷い怪我…!」
少年は今とったばかりの薬草を自分の口に押し込むと何度も噛みました。
それをまた吐き出すと軽く手の中で揉み込み、それを傷口に貼ってやりました。
小さな獣は怯えるように男の子を見て逃げようとしましたが、脚が痛いのか立ち上がれませんでした。
「大丈夫。大丈夫だよ。これは塗れば消毒にも痛み止めにもなるからね。明日ちゃんと手当してあげるからね」
このままではお腹を空かせてしまうだろうと、男の子は自分がおやつに持ってきたサンドウィッチを目の前に置いてやりました。
よっぽどお腹が空いていたのでしょうか。小さな獣は目の前に差し出されたそれを、匂いを少し嗅いだ後あっという間に平らげてしまいました。
「お水も置いておくね」
サンドウィッチを入れていた箱に、男の子は水筒から水を注いでやりました。
このままもっと大きな獣に襲われてしまうかもと心配しましたが、男の子は病気で待っているおばあさんのためにもこれ以上のことはしてあげられませんでした。
明日またくるね。と、言い残して男の子は急いで森を抜けました。
まっすぐ家に戻り、ベッドの中でうなされているおばあさんのために早速お薬を作りました。
作っている間も先ほどの小さな獣…おそらく犬であろう生き物のことが気になって仕方がありませんでした。
「おばあちゃん、川でお水組んでくるね」
「すまないね名前…。頼むからもう森に1人で近づかないでおくれよ?」
「うん!」
次の日の朝になりました。
水はまだ十分にありましたが、男の子は森に向かうため嘘をつきました。
男の子はおばあさんに初めて嘘をついたので、少し心が痛みましたが、あの犬がどうなったのか心配で夜はなかなか眠れなかったのです。
「無事に今日もいるかなー」
男の子はバケツに治療の道具と食べ物とお水を用意してまた森に入って行きました。
藪に入っていくと…
「クゥゥン」
昨日と同じ鳴き声が聞こえました。
「…あ!いたいた!調子はどう?」
男の子が声をかけると、その犬は黒くつぶらな瞳を男の子に向け尻尾を一生懸命振りました。
昨日より元気な様子に男の子も喜びました。
「今日もサンドイッチ持ってきたよ。食べれるかな?」
子犬の前に食べ物と水を置いてやります。
子犬は立ち上がると尻尾を振ってそれらを食べました。
「え!もう立てるようになったの?」
子犬がサンドウィッチを食べている間に、傷の様子を見ました。
驚いたことに、出血も止まり傷口は綺麗になっていました。
「わー!よかったね!もう明日には歩き回れてそうだね!」
男の子は子犬の怪我が思っていたより深く無かったことに喜びました。
念のためもう一度薬草を貼ってあげました。
男の子はそれから毎日食べ物を森のその子犬に持って行きました。
子犬はもう動き回れるまで元気になっていましたが、男の子が会いにいくと必ずいつもの藪の中で丸くなって待っておりました。
そんな日が7日ほど続いた時です。
「…あれ?」
子犬がいなかったのです。
いつも水を入れてあげていた器にはまるでお礼のように置かれた綺麗な深い緑色の石が残されておりました。
男の子は思いました。あの子犬はきっと元気になって家族の元に帰ったのだろうと。
ですが、その石を見ながらちょっぴり寂しくなって…少しだけ泣きながら帰りました。
月日は流れ、男の子は16歳になりました。
美しく成長した男の子は、もうあの赤い頭巾は被っていませんでした。
16歳になったその春に、たった1人の家族のおばあさんは病気で突然死んでしまいました。
彼は街から離れた一軒家に1人取り残されてしまいました。
おばあさんに教えてもらった薬の作り方をさらに勉強し、街に薬を売りにいっては1人で生活しておりました。
今日も街に薬を売りに行きます。
今日は街の中でも資産家の若旦那様に頼まれていたお薬を持って行きます。
「ありがとう名前。あなたの薬はとてもよく効くから街でも評判いいのよ。また同じものを来月お願いね」
お屋敷に着くと人の良さそうな若奥様が出迎えてくれました。
「ありがとうございます!またお願いいたします奥様」
「…」
若奥様は優しい笑顔を名前に向けたまま、少し間を置いてからゆっくり口を開きました。
「ねぇ、名前。お婆様も亡くなって1人で寂しくない?あのね、主人とも相談したの…」
「?」
名前は若奥様が何を言いたいのか図りかねて言葉の続きを待ちました。
「その、…うちで一緒に住まない?」
「えっ」
「もちろん無理にとは言わないわ。でもね、あんな森の近くに1人で住んでるなんて心配で…あなたのこと私達だけじゃなくて街のみんな大切に思ってるわ。娘も貴方を兄のように慕ってるし…」
その心遣いが、名前はとても嬉しかったのです。
だけど、家族の思い出があるあの家を離れるのも寂しく思いました。
その日、名前は気持ちをそのまま伝えました。優しい若奥様はいつでも待っていると言って名前を送り出してくれました。
帰り道、夕暮れの草原を1人家に向かって歩きます。
名前は家族のことを考えていました。優しい両親、おばあさん…みんな自分を置いて先に天国へ行ってしまいました。
「僕も…家族と暮らしたいな…」
振り返ると丘の上から先ほどまで自分がいた街が見えました。
日が暮れ始めて、ところどころ家の明かりや街灯が灯されていくのが見えます。
街から離れた場所に住んでいる名前は家族どころか友達もいませんでした。
そんな時お屋敷の若奥様の顔が浮かびました。
いつも優しく出迎えてくれ、天気の悪い日にお薬を持っていけばわざわざ来てくれたお礼だと言って多めにお金を支払ってくれました。
お屋敷の娘は自分と歳が近いのか、会えばいつも嬉しそうに話しかけてきてくれました。
忙しい旦那様は滅多に会うことはありませんでしたが、もし会えれば必ず家の中に招待してお茶やお菓子を名前にご馳走してくれました。
もし、あの人たちの家族になれたら、自分も幸せになれるだろうか?
そんな風に考えながら、名前は家に帰り、1人ベッドに潜り込んでからもずっとずっとそのことを考えていました。
コンコン。
次の日の早朝、誰かが名前の家の戸を叩きました。
こんな朝早くに誰だろう?もしかして薬が急に必要になった人でも来たのだろうか?
名前は急いで戸を開けました。
そこには自分より背が高く、がっしりとした体つきの青年が立っておりました。
見慣れない青年に驚いて顔を見上げれば、その目つきは鋭く、名前は思わず一歩後退りしてしまいました。
「…」
青年は自分を見下ろしたまま何も言いません。
名前は怖くなって声をかけました。
「…あ、あの。どちらさまですか?」
「…やっと、会えたな」
「え?」
その瞬間目つきの鋭かった青年はふと、顔の力が抜けたように笑ったかと思うと名前を抱きしめました。
「うわーー!」
名前はびっくりして大声を上げましたが、背の高い青年の腕はしっかりと背中に回されて離れませんでした。
「うるせぇなぁ。…俺だ。覚えてねぇのかよ」
「え?」
そう言われて名前は男の顔を見上げました。
朝日が透ける金色の美しい髪に、勇ましさを感じる精悍な顔、真紅の赤い瞳がとても印象的でした。
しかしやはり名前には見覚えがありませんでした。
「ごめんなさい…覚えてないです」
「…そう、だよなぁ」
青年の腕がゆっくりと少年を離しました。
名前は思い出せず申し訳ない気持ちになりました。
すると青年は2、3歩名前から離れると言いました。
「これでも思い出せねぇか」
「?!」
瞬きした瞬間でした。
立っていたはずの青年は消えて、そこには金色の毛並みに赤い瞳を持った大きな狼がおりました。
「う、うわぁーーー!!!」
名前は今度こそ本気で悲鳴をあげました。
そして慌てて玄関の扉を閉めようとしました。
「おい!待ちやがれ!」
狼は扉が閉まる前に体をその隙間に捩じ込んできました。ものすごい速さです。
「わ!…あ…!!」
名前は顔を真っ青にしてその場に尻餅をつきました。
自分はここで食べられてしまうのだろうか。あの鋭い歯が自分の皮膚を破り、肉を切り裂くところまで想像してしまい、震えて立ち上がることができませんでした。
「てめぇを食ったりしねぇ!」
名前のそばに狼が近づきます。
そしてこう言いました。
「ガキの時、俺を森の入り口で見つけて助けてくれただろ!」
「…!!」
その時、名前はあの子犬のことを思い出しました。
足を怪我していたあの子。
すぐにいなくなってしまって、寂しかった。
泣きながら帰ったその日のことも思い出しました。
「もしかして、あの時の…」
「これ見ろ」
そう言って狼は鼻先で自分の左後ろ脚を見るよう名前に促しました。
少年はまさかと思い、恐る恐るその脚の毛を撫ぜてみます。
そこにはよく見ると傷跡がありました。
「君…、あの時怪我してた…」
「あぁ。お前が助けてくれたんだ」
自分の記憶にあるあの子犬の傷の場所と一致し、名前はあの時の子犬は狼男だったのかとやっと気づきました。
「お前が持ってきてくれたサンドイッチ…美味かった」
「あ、ぁ…」
少年は色々なことに驚きすぎて声が出せませんでした。
青年は再び狼の姿から人に変わり、座り込んでいる名前を抱き上げました。
その手は温かく、名前はあの時抱き上げた子犬のことを思い出しました。
今度は名前は悲鳴をあげません。
「今度は…俺がお前を助ける」
そうして唐突に名前と狼男の2人の生活が始まりました。
名前がおばあさんは死んでしまい一人で住んでいると言えば「危ねぇから一緒に住む」と言って本当に家に上がり込んでしまいました。
森で採れる薬草を使って薬を作っていると聞けば「じゃあ俺が一緒に行ったるわ」と必ず森には用心棒として付いてきました。
街にその薬を売りに行っていると言えば「じゃあ俺の背中に乗ってけ」と言うので流石にそれは街の人に見られたら大変なので断りました。
ですが必ず街に出かける時も狼男は付いてきました。
狼男には“カツキ”という名前がありました。
名前はカツキとの生活にはじめは戸惑いましたが、今では楽しくて仕方がありません。
彼は人の姿になっては家のことを全て器用にこなしてくれました。
物知りで外の国の話でもなんでもしてくれる彼とは話していていつもワクワクしていました。
街で見かけた珍しいお菓子を食べてみたいと言えば、見ただけでそれを真似たそっくりなものを家で作ってくれました。
寒い日の夜には狼の姿になったカツキが狭いベッドに入り込んできては朝まで温かく包んでくれました。
名前はもうすっかりカツキを家族のように思っておりました。
こんな生活がずっと続けばいいのにと、流れ星に願いました。
ある日街に行った帰りのことでした。
カツキが暗い顔をして一言も喋らないのです。
心配になった名前はカツキにどうしたのか聞きました。
しかしカツキは何でもないと笑うだけで何も答えてはくれませんでした。
名前は何だか胸騒ぎがして心配でなりませんでした。
その日もいつものようにベッドで寄り添って2人で眠りました。
しかし次の日の朝、目が覚めてみるとどうでしょうか。
カツキがいません。
どこを探してもいません。
家中探した頃、ポストに何か入っているのに気がつきました。
それは手紙でした。
綺麗な文字でした。
『名前。
昨日街に行って買い出ししてる時に街の人間に声をかけられた。
俺と住む前に資産家の家から養子にならないかって言われてたんだろ?
俺が一緒に住むようになったから断るしかなくなっちまったんじゃねぇかって。
ごめんな。知らなかったんだ。
俺のことは忘れて本当の家族と幸せに過ごしてくれ』
俺は狼男だからどうなったってお前と家族にはなれなかったのになーー。
名前は手紙を読み終えるとその手紙を握りしめて靴も履かずに飛び出しました。
息を切らしながら走って、走って、見えてきたのは2人が出会った森でした。
名前は迷わず森の中に入りました。
日の光が木々の隙間から降り注ぐ穏やかな場所でした。
出会った日もこんな穏やかな日だったと名前は思い出しながら涙を流していました。
「カツキ…!」
森の奥へ奥へと走りながら、名前は震える声で呼びました。
「…カツキー!」
すると、遠くからあのしなやかな四本足で走り寄る音が聞こえた気がしました。
「カツキ?!」
茂みの背の高い草が揺れました。
咄嗟にそちらに体を向かわせようとして名前はピタリと動きを止めました。
「グルル…」
威嚇するようなその唸り声は彼ではないと気付いたからです。
そして茂みから姿を現したのは真っ黒な狼でした。
「あ…」
逃げようと後ずさったその瞬間に、黒い狼は名前に飛びかかりました。
狼の鋭い牙が見え、名前は恐怖のあまり叫び声を上げることもできませんでした。
「名前‼︎」
誰かの声がしたと思えば、もう鼻の先にまで迫っていた黒い狼に何かが飛び掛かりました。
それは名前の愛しい愛しい金色の毛並みの狼でした。
二匹の狼は絡みつくようにその場で争いました。互いに牙を剥き出しにして激しく取っ組み合っているのを名前は震えながら見ていることしかできませんでした。
「ギャン!!」
次の瞬間には黒い狼が悲痛な鳴き声をあげたかと思えば、再び茂みの中へと姿を消し、二度と現れませんでした。
「お前!こんなところまで何しにきやがった!」
金色の髪の毛が名前の目の前で揺れました。
「何って…だって…」
名前はポロポロと泣き出しました。
その涙をカツキが優しく拭います。
「カツキが…カツキが急にいなくなっちゃうから…!」
名前は大声でついに泣き出しました。
なかなか泣き止まない名前に困った狼男は、背中に名前を背負うと歩き出しました。
森を抜け、またあの家に2人で戻ってきました。
名前は家に帰ってもずっとカツキから離れません。
「僕を1人にしないでよ」
「君が僕の家族でしょ」
「カツキがそれでもいなくなるなら、また森に入って狼のエサになる」
どこかヤケになった名前はまるで駄々を捏ねる幼い子供のようでした。
そんな彼にカツキは困り果てながら言いました。
「…わかった。俺だって本当はお前と一緒にいてぇ」
「じゃあ…!」
「けどな…俺はお前をもうただの家族には見れねぇ」
「…え?」
カツキの言った言葉の意味がわからず名前は不安になりました。やはりカツキは出ていってしまうのか。そう思うとまた大きな名前の目からは涙が溢れてきました。
「…お前が、名前が好きなんだ。ずっと…助けられた時から」
「…ぅん」
「最初は一緒にいられれば何でもいいと思ってた。だから人間の言葉も文字も覚えたし、料理だって練習した…お前のそばにいられるなら、一緒にいたらちょっと便利なやつぐらいに思ってもらえたら十分だと思ったんだ」
「そんな…」
名前は本当にカツキのことを大切に思っておりました。はじめは狼男と生活なんて出来るのかと心配ではありましたが、都合よく自分のために動いてくれるから一緒にいるなどと、思ったことは一度もありませんでした。
なのでそう言われて、名前はとても悲しい気持ちになりました。
「けど、もうそれじゃぁ満足できねぇんだ。俺はお前が欲しい。今までみてぇな家族ごっこはもう俺にはできねぇ」
カツキが苦しそうに顔を歪めて吐き出す言葉を、名前は静かに聞きました。
そしてカツキに問いかけました。
「カツキは、僕にどうしてほしいの?」
「…俺の、番になって欲しい」
「いいよ」
カツキは目を丸くして名前を見ました。
そして次の瞬間にはまた表情を歪めて自嘲するかのように言いました。
「はっ、簡単に言うんじゃねぇよ。どうせお前意味わかってねぇだろ。番になったら最後、絶対俺から逃げられねぇんだぞ?」
狼一族は一生を添い遂げる相手のことを番と呼びました。
お互いの首を噛み、夜を共に過ごせばその儀式は完了します。
万が一どちらかが番を裏切るようなことがあれば、片割れの番は気が狂い、相手を殺し、自身も死んでしまいます。
「うん。いいよ」
「お前…っ、」
名前はカツキに顔を近づけて、真剣な眼差しを向けて言いました。
「番になれば、カツキは僕から離れられないんでしょう?また今日みたいにいなくなったりしないんでしょう?」
「…そうだ」
「じゃあなろうよ。番に」
名前の顎をカツキが突然掴みました。
そしてそのまま噛み付くように口付けました。
名前は少し驚きましたが、嫌な気持ちにはなりませんでした。胸が大きく脈打って、苦しくて、とても幸せな気持ちになりました。
「いいのかよ?番になるって、これ以上の事を俺とするんだぞ?」
顔が離れたと思ったら、未だに不安そうな顔をしているカツキに名前はまた言いました。
「僕もカツキが好きだよ。ずっと…ずっと一緒にいよう?」
それを聞いた途端、カツキは顔だけでなく耳まで赤くなり、その表情は苦しそうでした。
「…っ名前!!」
堪らずその細い肩を掴むとそのまま床に押し倒し、首元に歯を立てました。
ズキッと痛みを感じたと思ったら次は生暖かい感触が名前の首を撫でました。
「っあ、これで…もう、俺のもんだからな」
滲んだ血を舐めとったカツキが恍惚とした表情で名前を見下ろしました。
その妖艶な笑みにすっかり魅せられた名前も、誘われるようにカツキの首筋に歯を立てました。
「っはぁ、もっと、…もっと強く噛んでくれよ。名前」
「んぅうっ」
カツキはそのまま名前を抱き上げると寝室に向かいました。
そして名前をベッドに優しく降ろして、自分はその上に馬乗りになりました。
「…きもちいいこと、しような?名前…」
「あ、…ぅん。カツキ…」
2人の唇が再び重なり、そうして2人は番となりました。
2人はとても、とても、幸せでした。
▽
月の光が窓から差し込んで、名前の綺麗な横顔を照らしていた。
疲れ果てて寝ている名前を腕の中に抱きしめる。
首にある噛み跡を愛おしく思ってその跡を指先で撫ぜた。
「名前…」
名前を呼んでみても、俺の腕の中で安心しきったように眠り込んでいる。
「名前。ーー狼男に喰われちまうぞ」
もう一度名前を呼んで、それでも眠り続ける名前を見て、俺は…もうこの歪に引き上がる口角を抑えられなかった。
「…っはは!」
笑い声が抑えられない。
やっと、やっと手に入れた!
ずっと!ずっと欲しかった名前を!
「長かったんだぜ…。手に入らないならお前を食い殺しちまおうかと何度思ったか」
初めて見た時、お前が欲しいと思った。
狼一族の中でも恵まれた才を持って生まれた俺に、手に入らないものなんてガキの頃からなかった。
だけど森で怪我を治療してやるお前を見てたら、いつの間にか欲しくて欲しくて仕方なくなっちまった。
だけどお前は人間だから…俺が狼男だと知ったら拒絶するだろうと思った。
だから人の世界に紛れ込んでお前の役に立ちそうな事全て真似して覚えた。
俺は人間と偽ってお前に愛されるなんてのはごめんだった。狼男の俺を受け入れて愛して欲しかった。
そうやってずっと名前を側で見守っていたのに…。
あの屋敷の成金家族が俺の名前を手に入れようとしてるとわかって、急いで行動に移した。
あいつらは可愛いくて街の人気者のお前を人形のように家に置いておきたいだけだ。
そのうち娘と結婚させようなんて思ってたにちげぇねぇんだ。
名前みてぇな綺麗な生き物は、あんな欲に塗れた奴らの近くにいたらダメだ。
俺は名前の目の前に現れて、寂しがりやな名前に必要とされるように尽くした。
もちろん今朝の手紙は全部嘘で芝居だ。もう名前は俺がいない生活なんて耐えられないだろ?
絶対追いかけてくると思ってた。
まさか裸足で追いかけてきてくれるなんてな。すげぇ嬉しかったぜ。
俺がいなくなるって思って、寂しかったろ?怖かったろ?絶対離れたくないって思ったろ?
これで番になって欲しいって言えば名前は絶対頷いてくれると思った。
「あー。そういえばあの怪我してた犬っころも俺じゃあねぇんだ。…ごめんな?」
あいつを怪我させたのは俺だけど。
それを知ったら名前は、どんな顔をするのだろうか?
怯えて、泣くだろうか?俺を拒絶するだろうか?
そんな事してももう離してなんかやらないが。
「俺たち傷がすぐ治っちまうからよ…傷跡残るほどの傷つけるのすげー大変だったんだわ」
アイツが怪我したであろう場所に自分でナイフを突き立てた。
すぐに治っちまうから治り切る前にもう一度突き立てた。
それを5回ほど繰り返したころ、やっと傷跡が残った。
「全部…名前のためにやったんだ…」
その白くまるい額に軽く口付けた。
「…んぅ…」
名前は小さく呻いたかと思うと俺の胸板に額を押し付けてまた眠り出した。
「はぁ…幸せだな。俺たち」
恍惚に緩む顔を、俺は隠すように名前のつむじに埋めてため息をつく。
こんな狼男に愛されちまって、お前は…本当に可愛くて可哀想なやつだよ。
「お前が真実を知って逃げようとしても…俺はずっとお前を鎖で繋いで大切にしてやるからな…」
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