夜の虹
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今日から直哉様が1週間ほどいらっしゃらない。
「ちゃんといい子にしとり、そしたら土産くらい買うてきたる」
「ふふ、ありがとうございます」
僕は直哉様の部屋で、これから遠征に行かれる彼の荷物の最終確認をしていた。
遠征というのは修行みたいなものだそうで。なんと御当主である直毘人様と呪霊の討伐に何日か向かわれる。
これまで2.3日の外泊はあったが、一週間という期間は僕にはひどく長く感じられた。
なんでも直哉様の術式を開花させるためだとか。
修行は等級の高い呪いが相手なのだろうか?
まだ直哉様とて中等部に入学されたばかりの齢だというのに。
何とも言えぬ、胃のあたりがシクシクと痛むような気がしてならない。
直哉様はお強い。
普段飄々とされているが、人知れず血の滲むような努力をされているのを知っている。
なのにこの痛みは何だろう。
心配、不安、それから……
「なんや、またそないな顔して」
「え」
直哉様がぷっと小さく噴き出して笑う。
考え込んでいるうちにいつの間にか直哉様の着替えを数える手が止まっていたようだ。
それを縁側で寝転がっていたはずの直哉様がこちらを振り返って見ていた。
直哉様が突然そう言われたのを聞いて、自分は今どんな顔をしていたのだろうと思った。
「そんなに俺がおらんと寂しいんか?」
直哉様が茶化したように笑う。
だがその冗談が先ほどから感じる痛みの理由だとやけにしっくりきた。
どうやら僕は直哉様がいないこの一週間を思うと、ひどく寂しいようだ。
「なあ、どうなん?#柊#が行かんといて言うんやったら考えてもええで?」
面白がってさらに冗談を重ねる主。
何とも残酷なことを言う。
それが言えたらどれだけ良いだろう。
下僕がそのようなこと、恐れ多い。
「……寂しいです。行かないでください、直哉様」
「……え」
なのに、今日はどうしたというのだろう。
思わず口が開いてしまった。
直哉様の珍しく驚いた声に僕も驚いた。
直哉様がぽかんと口を開いたまま目を点にしている。
慌てて弁論しようとするがうまく言葉が見つからない。
「あ、や、あのっ、も。申し訳ありません!」
主にわがままを言うとは何とも恐ろしいことをしてしまった。
だけど意地悪を言って、そんな事を言わせたのは直哉様だ。許して欲しい。
それに……行ってほしくない。
これは本当だ。
そう思いながらも僕は怖くて直哉様の顔が見れない。
「そ、まぁ、そやな。そういわれても行くんやけどな」
怒気の感じられない声に少し安心して顔を上げる。
見ると直哉様はふいとまた寝返りを打って庭の方へ体ごと向けてしまった。
どんな顔をしているかはわからない。
気分を悪くされただろうか。
「ま、#柊#がそこまで言うなら、はよ帰ってきたるわ」
そう言って頭をガシガシと数回掻いた。
直哉様は、滅多にないが。
恥ずかしい時に頭をかく癖がある。
それに気づいた僕はなんだか気分が良くなった。
「ふふ。早く帰ってきてくださいね」
「調子乗んなあ」
あ、ばれたか。
直哉様が振り向かずに言う。
でも耳まで赤くなった直哉様からはやっぱり怒っている様子は感じられず、僕は笑った。
この大切な主の無事を祈るばかりだった。
「はあ……それにしても暇だな」
直哉様をお見送りしたのが昨日の早朝。
今は日曜日の昼下がり。
直哉様がいない時は掃除以外することがなくなる。
しかし掃除するにももう限度がある。
直哉様のお部屋はいつも綺麗だし。
廊下や風呂も全て終えてしまった。
先程他の女中の方々に手伝いをさせてくれと申し出たが、
「あんたこんな時くらいゆっくりさせてもらいなさい!」
「いつも充分やってもらってるよ。直哉様のお世話だけで大変だろうに」
と、えらく労われてしまった。
僕も学校には通っている。
明日から小学校もある。
今日だけはゴロゴロしてしまおうか。
そんな事を考えながら、直哉様の部屋に向かう。
「失礼します」
主人のいない部屋に向かって声をかける。
障子扉を開けて中に入る。
「ふぅ……」
直哉様の部屋の真ん中に寝転ぶ。
深く息をする。
窓からは柔らかい日差しが差し込んでいて暖かい。
――直哉様の匂いがする。
落ち着く。
凛として、優しい匂い。
「早く帰ってきてくださいね」
貴方がいないだけで
こんなにも僕の世界は寂しい。
直哉様の部屋を後にする。
あのまま寝てしまって万が一にも誰かに見つかったら大変だ。
長い長い廊下を歩く。
夕食の支度の手伝いはないか聞いてみようと思った。
それでも断られればやはり自室に篭っていようと考えていた。
先程まで晴天だった空に分厚い雲が流れ、日差しを遮る。
「よぉ、随分暇そうだな」
「わっ!」
歩いていると突然廊下の曲がり角から人が現れた。
足音がしなかったから人がいると思わず、ぶつかりそうになってしまった。
「も、申し訳ありません!」
僕はすぐに体を90度に曲げて頭を下げた。
だって相手は直哉様の兄上。1番上の兄上だ。
ご兄弟の中で特に、たぶん、1番気が短く横暴だ。
直哉様にはあまり近寄るなと言われている。
今日は高専で交流試合の打ち合わせをしに行ったのではなかっただろうか?
もう帰ってきていたのか。
「あいつ親父と出てるらしいな…。あいつの代わりに俺が遊んでやろうか?」
あいつ…というのは直哉様のことだ。
兄上様は僕が謝っているのも気に留めず話を続けた。
「ぐっ」
そして乱暴な手つきで僕の顎を掴んで顔を上げさせた。
「お前の顔、相変わらず女みてぇだな」
この乱暴な様子に僕は狼狽えた。ぶつかりそうになった事をそんなに怒っているのだろうか。
僕は何とかこの場を穏便に済ませたかったが、謝ることもさせてもらえずただ兄上様の顔を見上げるだけだった。
その顔は怒っていると言うより、どこか面白がっていた。
怯える僕と対照的なその表情は、猟奇的な雰囲気を感じた。
「なぁ。あいつの下僕辞めて俺の世話役にしてやろうか?」
「え゛、」
その時やっと顎を掴んでいた手をパッと離される。
しかしそれよりも今しがた投げかけられた言葉を脳内が駆け巡る。
どうして、そんな事。
「い、いえ」
そんな事されては困る。
「ぼ、僕は直哉様のお世話役を全うしとうございます」
僕の居場所を奪わないで。
「――あ゛?」
兄上様の今まで見た事ないほど怒りに歪んだ顔が見えたと思ったら、次の瞬間景色が飛んだ。
いや。
飛んだのは僕だった。
ドボン!!
大きな水音と、身体中を冷たい水が纏わりつく。
何だ?
何が起きたんだ?
息が、できない。
鼻からも口からも水が入る。
前後不覚になりながら必死にもがく。
すぐに手足が地面に着いた。
でも水の中からうまく起き上がれない。
苦しい。
顔を上げられない。
「ぶはっ!!…っがはっ、はっ」
目眩がする。
何とか四つ這いになって顔を水面から出した。
そこは池だった。
なんて事ない。
いつも見ていた、母屋の西側の池。
その池の水が今は衣服に張り付いて、鉛でも背負わされているかのように重たい。
「あ、れ」
口や鼻から何か温かいものが流れ出てきて水面に落ちた。
それは波紋を描いて池の水を少しだけ赤く濁らせた。
頬が、口の中が痛いことにやっと今気づいた。
それもかなり激しい痛み。
「ぐっ!!」
今度は着物の襟を誰かに掴まれた。
いつの間にそばに来ていたのだろう。
その誰かは袴が濡れるのも気にしないで池の中に沈む僕を掴み上げた。
無理矢理また上を向かされる。
うまく焦点の定まらない目で相手を見る。
さっきまで話していた兄上様が、先程と同じ形相で僕を見下ろしていた。
「あのムカつく弟のおもちゃなら、横取りしてやったら面白いと思ったのになぁ」
どうやら僕はこの人に殴られたようだ。
「たかが下僕が…調子乗んなやぁ」
先程の僕の回答がそんなに気に触るようなことだったのだろうか?
それは余りに理不尽だ。
しかしそこまで考えて、思い出した。
元々この家はそういうところだ。
禪院家の人間が白だと言えば、黒も白になる。
逆もまた然り。
僕を理不尽から守ってくれていたのは他でもない。
直哉様だ。
あの方が専属の世話役として側に置いてくださっていたからだ。
「あんな出来損ない、なして皆気にかける」
ギリっと奥歯を噛み締める音が聞こえた。
僕への怒りの他に、何やら直哉様への嫉妬を感じた。
――僕は殺されるのでは。
長男であるこの方はおそらくこのままだと次期当主となる方だ。次期当主に歯向かったとなれば、僕が殺されたとしてもここでは文句も言えない。
それなのに、僕はさらに口を開いた。
「そんな事、ない……。直哉様は、」
兄上様が僕の着物をより一層強く掴み上げたのがわかった。
「貴方なんかよりも、努力されています……とても、素晴らしい方です」
言い切った瞬間死を覚悟した。
兄上様の声にならない唸り声が喉から呪いの音として漏れる。振り上げられた拳。
恐怖に目を固く瞑る。
思った通り、その直後体が大きく横へ投げ出された。
いや、何かに引っ張られた。
想像していた更なる痛みは来ない。
脚は未だに宙を浮いている。
誰かに抱えられているとやっと気づいた。
「……っ!」
恐る恐る目を開けると、今まで見たことがないほどの恐ろしい形相で立っている直哉様の顔が見えた。
「な、なぉやさま……」
…顔が腫れてうまく喋れない。
「おい。人のもんに何しとんねん」
直哉様はその殺意すら感じる視線を兄上様に向けたまま言い放った。
「……お、お前今何した?」
珍しく兄上様は動揺しているように見えた。
その態度を掻き消すように声を荒げた。
「それより修行どうした!もう音を上げて帰ってきたんか?」
直哉様は睨み続けた。
あ、僕もう下ろしてもらわないと。
体は何とか動ける。
落ちたのが池の中で本当によかった。
少し身じろぎすると、直哉様に更にきつく抱き抱えられた。
「お前なんか……っ、相伝継いどるくせに使いこなせない役立たずが…!」
直哉様はただ静かにその呪いの言葉を聞く。
怒りもそのままに、だけど静かに。
青い、炎のようだとぼんやり思った。
「当主になったその日に!すぐお前をこの家から追いだ……」
「悪いんやけど」
直哉様の声がその場の空気を凪いだ。
「あんたに当主は務まらん。相伝の術式使いこなせる俺がしゃあないからなったるわ」
「え」
「当主なんて面倒やし、こんな家出てってやってもえぇんやけどな」
すると直哉様が僕の方にちらりと視線を送った。
「さっきパパに術式使えるのに当主になる気がないなら出て行け言われてなー。しかも出てくなら名前は置いていけゆうもんで」
「!」
そ、それは。
僕のために…?
直哉様の言葉は一従者には勿体ない、身に余る光栄、暁光であった。
僕は1人痛みも忘れて舞い上がった。
直哉様は再び視線を兄上様に戻して続けた。
「そういうことやで、今度名前に手ぇだしたら追い出すだけじゃすまさん。――殺す」
僕でもゾッとするほどの殺意を感じた。
唖然と立ちすくむ兄上様が見えた。
唖然と言うよりも、絶望している。
構わず直哉様は歩いて自身の屋敷の方へ歩き出した。
そのまま僕の部屋まで直哉様は甲斐甲斐しくも運んで下さった。
途中お召し物が濡れるとか、主人にこんなことさせられないとか回らぬ舌で喚いたが……
直哉様は「やかましぃわ」の一言で全て片付けてしまった。
「ほ、本当に申し訳ありません」
降ろされた僕はその場に土下座する。
「あほ!そなんえぇから、えー……なんや冷やしたらいいんか?その前にそのずぶ濡れ何とかしぃ!」
先程の殺気に包まれた直哉様はすっかり息を潜め、慌てた様子で僕の部屋の中のタオルやら着替えやらを探し始めた。
「あ、ああ。すみません!自分で出しますから」
そう言って立ち上がろうとすると「動くなぁ」と怖い声で静止された。
「は、はい」
大人しくその場に座る。
「……なんで、あないな事言った」
「え?」
箪笥の中を漁る直哉様が一瞬動きを止めて言った。
僕には何のことかわからなかった。
「なして、さらに痛い目見るような事わざわざ言ったんや」
こちらに背を向けているため直哉様のお顔は見えない。
――貴方なんかよりも、努力されています……とても、素晴らしい方です。
「あ、」
僕が先程兄上様に歯向かうような事を言ったのを聞いたのだろうか?
「あのクズはガキ相手でも容赦ないの知っとんやろ」
直哉様……。怒っているのだろうか。
頭の悪い、面倒な従者だと思われただろうか。
「すみません、直哉様。……でも」
でも、
僕にも譲れないものがあるのだ。
これは僕の、空っぽだった僕の唯一で、最大の信念だから。
「直哉様への忠義は、僕の命より重いのです」
直哉様がゆっくり振り返る。
その顔は複雑だった。
嬉しいような。悲しいような。
優しく笑っているのに、泣いている。
僕の心臓がドクリと音を立てた。
「……あほ」
直哉様は屈んで僕の頬に触れる。
腫れたその頬は少し触れられただけでも痛い。
「ほんまに……あほやなぁ」
そうかもしれない。
でも、僕はそれでいい。それがいい。
このままずっと貴方のおそばに居られれば。
それ以上は何も望まない。
厚くなった雲から、次第にサラサラとした雨が降り出した。
雨が少しずつ地面を濡らしていく音を、2人静かに聞いた。
「ちゃんといい子にしとり、そしたら土産くらい買うてきたる」
「ふふ、ありがとうございます」
僕は直哉様の部屋で、これから遠征に行かれる彼の荷物の最終確認をしていた。
遠征というのは修行みたいなものだそうで。なんと御当主である直毘人様と呪霊の討伐に何日か向かわれる。
これまで2.3日の外泊はあったが、一週間という期間は僕にはひどく長く感じられた。
なんでも直哉様の術式を開花させるためだとか。
修行は等級の高い呪いが相手なのだろうか?
まだ直哉様とて中等部に入学されたばかりの齢だというのに。
何とも言えぬ、胃のあたりがシクシクと痛むような気がしてならない。
直哉様はお強い。
普段飄々とされているが、人知れず血の滲むような努力をされているのを知っている。
なのにこの痛みは何だろう。
心配、不安、それから……
「なんや、またそないな顔して」
「え」
直哉様がぷっと小さく噴き出して笑う。
考え込んでいるうちにいつの間にか直哉様の着替えを数える手が止まっていたようだ。
それを縁側で寝転がっていたはずの直哉様がこちらを振り返って見ていた。
直哉様が突然そう言われたのを聞いて、自分は今どんな顔をしていたのだろうと思った。
「そんなに俺がおらんと寂しいんか?」
直哉様が茶化したように笑う。
だがその冗談が先ほどから感じる痛みの理由だとやけにしっくりきた。
どうやら僕は直哉様がいないこの一週間を思うと、ひどく寂しいようだ。
「なあ、どうなん?#柊#が行かんといて言うんやったら考えてもええで?」
面白がってさらに冗談を重ねる主。
何とも残酷なことを言う。
それが言えたらどれだけ良いだろう。
下僕がそのようなこと、恐れ多い。
「……寂しいです。行かないでください、直哉様」
「……え」
なのに、今日はどうしたというのだろう。
思わず口が開いてしまった。
直哉様の珍しく驚いた声に僕も驚いた。
直哉様がぽかんと口を開いたまま目を点にしている。
慌てて弁論しようとするがうまく言葉が見つからない。
「あ、や、あのっ、も。申し訳ありません!」
主にわがままを言うとは何とも恐ろしいことをしてしまった。
だけど意地悪を言って、そんな事を言わせたのは直哉様だ。許して欲しい。
それに……行ってほしくない。
これは本当だ。
そう思いながらも僕は怖くて直哉様の顔が見れない。
「そ、まぁ、そやな。そういわれても行くんやけどな」
怒気の感じられない声に少し安心して顔を上げる。
見ると直哉様はふいとまた寝返りを打って庭の方へ体ごと向けてしまった。
どんな顔をしているかはわからない。
気分を悪くされただろうか。
「ま、#柊#がそこまで言うなら、はよ帰ってきたるわ」
そう言って頭をガシガシと数回掻いた。
直哉様は、滅多にないが。
恥ずかしい時に頭をかく癖がある。
それに気づいた僕はなんだか気分が良くなった。
「ふふ。早く帰ってきてくださいね」
「調子乗んなあ」
あ、ばれたか。
直哉様が振り向かずに言う。
でも耳まで赤くなった直哉様からはやっぱり怒っている様子は感じられず、僕は笑った。
この大切な主の無事を祈るばかりだった。
「はあ……それにしても暇だな」
直哉様をお見送りしたのが昨日の早朝。
今は日曜日の昼下がり。
直哉様がいない時は掃除以外することがなくなる。
しかし掃除するにももう限度がある。
直哉様のお部屋はいつも綺麗だし。
廊下や風呂も全て終えてしまった。
先程他の女中の方々に手伝いをさせてくれと申し出たが、
「あんたこんな時くらいゆっくりさせてもらいなさい!」
「いつも充分やってもらってるよ。直哉様のお世話だけで大変だろうに」
と、えらく労われてしまった。
僕も学校には通っている。
明日から小学校もある。
今日だけはゴロゴロしてしまおうか。
そんな事を考えながら、直哉様の部屋に向かう。
「失礼します」
主人のいない部屋に向かって声をかける。
障子扉を開けて中に入る。
「ふぅ……」
直哉様の部屋の真ん中に寝転ぶ。
深く息をする。
窓からは柔らかい日差しが差し込んでいて暖かい。
――直哉様の匂いがする。
落ち着く。
凛として、優しい匂い。
「早く帰ってきてくださいね」
貴方がいないだけで
こんなにも僕の世界は寂しい。
直哉様の部屋を後にする。
あのまま寝てしまって万が一にも誰かに見つかったら大変だ。
長い長い廊下を歩く。
夕食の支度の手伝いはないか聞いてみようと思った。
それでも断られればやはり自室に篭っていようと考えていた。
先程まで晴天だった空に分厚い雲が流れ、日差しを遮る。
「よぉ、随分暇そうだな」
「わっ!」
歩いていると突然廊下の曲がり角から人が現れた。
足音がしなかったから人がいると思わず、ぶつかりそうになってしまった。
「も、申し訳ありません!」
僕はすぐに体を90度に曲げて頭を下げた。
だって相手は直哉様の兄上。1番上の兄上だ。
ご兄弟の中で特に、たぶん、1番気が短く横暴だ。
直哉様にはあまり近寄るなと言われている。
今日は高専で交流試合の打ち合わせをしに行ったのではなかっただろうか?
もう帰ってきていたのか。
「あいつ親父と出てるらしいな…。あいつの代わりに俺が遊んでやろうか?」
あいつ…というのは直哉様のことだ。
兄上様は僕が謝っているのも気に留めず話を続けた。
「ぐっ」
そして乱暴な手つきで僕の顎を掴んで顔を上げさせた。
「お前の顔、相変わらず女みてぇだな」
この乱暴な様子に僕は狼狽えた。ぶつかりそうになった事をそんなに怒っているのだろうか。
僕は何とかこの場を穏便に済ませたかったが、謝ることもさせてもらえずただ兄上様の顔を見上げるだけだった。
その顔は怒っていると言うより、どこか面白がっていた。
怯える僕と対照的なその表情は、猟奇的な雰囲気を感じた。
「なぁ。あいつの下僕辞めて俺の世話役にしてやろうか?」
「え゛、」
その時やっと顎を掴んでいた手をパッと離される。
しかしそれよりも今しがた投げかけられた言葉を脳内が駆け巡る。
どうして、そんな事。
「い、いえ」
そんな事されては困る。
「ぼ、僕は直哉様のお世話役を全うしとうございます」
僕の居場所を奪わないで。
「――あ゛?」
兄上様の今まで見た事ないほど怒りに歪んだ顔が見えたと思ったら、次の瞬間景色が飛んだ。
いや。
飛んだのは僕だった。
ドボン!!
大きな水音と、身体中を冷たい水が纏わりつく。
何だ?
何が起きたんだ?
息が、できない。
鼻からも口からも水が入る。
前後不覚になりながら必死にもがく。
すぐに手足が地面に着いた。
でも水の中からうまく起き上がれない。
苦しい。
顔を上げられない。
「ぶはっ!!…っがはっ、はっ」
目眩がする。
何とか四つ這いになって顔を水面から出した。
そこは池だった。
なんて事ない。
いつも見ていた、母屋の西側の池。
その池の水が今は衣服に張り付いて、鉛でも背負わされているかのように重たい。
「あ、れ」
口や鼻から何か温かいものが流れ出てきて水面に落ちた。
それは波紋を描いて池の水を少しだけ赤く濁らせた。
頬が、口の中が痛いことにやっと今気づいた。
それもかなり激しい痛み。
「ぐっ!!」
今度は着物の襟を誰かに掴まれた。
いつの間にそばに来ていたのだろう。
その誰かは袴が濡れるのも気にしないで池の中に沈む僕を掴み上げた。
無理矢理また上を向かされる。
うまく焦点の定まらない目で相手を見る。
さっきまで話していた兄上様が、先程と同じ形相で僕を見下ろしていた。
「あのムカつく弟のおもちゃなら、横取りしてやったら面白いと思ったのになぁ」
どうやら僕はこの人に殴られたようだ。
「たかが下僕が…調子乗んなやぁ」
先程の僕の回答がそんなに気に触るようなことだったのだろうか?
それは余りに理不尽だ。
しかしそこまで考えて、思い出した。
元々この家はそういうところだ。
禪院家の人間が白だと言えば、黒も白になる。
逆もまた然り。
僕を理不尽から守ってくれていたのは他でもない。
直哉様だ。
あの方が専属の世話役として側に置いてくださっていたからだ。
「あんな出来損ない、なして皆気にかける」
ギリっと奥歯を噛み締める音が聞こえた。
僕への怒りの他に、何やら直哉様への嫉妬を感じた。
――僕は殺されるのでは。
長男であるこの方はおそらくこのままだと次期当主となる方だ。次期当主に歯向かったとなれば、僕が殺されたとしてもここでは文句も言えない。
それなのに、僕はさらに口を開いた。
「そんな事、ない……。直哉様は、」
兄上様が僕の着物をより一層強く掴み上げたのがわかった。
「貴方なんかよりも、努力されています……とても、素晴らしい方です」
言い切った瞬間死を覚悟した。
兄上様の声にならない唸り声が喉から呪いの音として漏れる。振り上げられた拳。
恐怖に目を固く瞑る。
思った通り、その直後体が大きく横へ投げ出された。
いや、何かに引っ張られた。
想像していた更なる痛みは来ない。
脚は未だに宙を浮いている。
誰かに抱えられているとやっと気づいた。
「……っ!」
恐る恐る目を開けると、今まで見たことがないほどの恐ろしい形相で立っている直哉様の顔が見えた。
「な、なぉやさま……」
…顔が腫れてうまく喋れない。
「おい。人のもんに何しとんねん」
直哉様はその殺意すら感じる視線を兄上様に向けたまま言い放った。
「……お、お前今何した?」
珍しく兄上様は動揺しているように見えた。
その態度を掻き消すように声を荒げた。
「それより修行どうした!もう音を上げて帰ってきたんか?」
直哉様は睨み続けた。
あ、僕もう下ろしてもらわないと。
体は何とか動ける。
落ちたのが池の中で本当によかった。
少し身じろぎすると、直哉様に更にきつく抱き抱えられた。
「お前なんか……っ、相伝継いどるくせに使いこなせない役立たずが…!」
直哉様はただ静かにその呪いの言葉を聞く。
怒りもそのままに、だけど静かに。
青い、炎のようだとぼんやり思った。
「当主になったその日に!すぐお前をこの家から追いだ……」
「悪いんやけど」
直哉様の声がその場の空気を凪いだ。
「あんたに当主は務まらん。相伝の術式使いこなせる俺がしゃあないからなったるわ」
「え」
「当主なんて面倒やし、こんな家出てってやってもえぇんやけどな」
すると直哉様が僕の方にちらりと視線を送った。
「さっきパパに術式使えるのに当主になる気がないなら出て行け言われてなー。しかも出てくなら名前は置いていけゆうもんで」
「!」
そ、それは。
僕のために…?
直哉様の言葉は一従者には勿体ない、身に余る光栄、暁光であった。
僕は1人痛みも忘れて舞い上がった。
直哉様は再び視線を兄上様に戻して続けた。
「そういうことやで、今度名前に手ぇだしたら追い出すだけじゃすまさん。――殺す」
僕でもゾッとするほどの殺意を感じた。
唖然と立ちすくむ兄上様が見えた。
唖然と言うよりも、絶望している。
構わず直哉様は歩いて自身の屋敷の方へ歩き出した。
そのまま僕の部屋まで直哉様は甲斐甲斐しくも運んで下さった。
途中お召し物が濡れるとか、主人にこんなことさせられないとか回らぬ舌で喚いたが……
直哉様は「やかましぃわ」の一言で全て片付けてしまった。
「ほ、本当に申し訳ありません」
降ろされた僕はその場に土下座する。
「あほ!そなんえぇから、えー……なんや冷やしたらいいんか?その前にそのずぶ濡れ何とかしぃ!」
先程の殺気に包まれた直哉様はすっかり息を潜め、慌てた様子で僕の部屋の中のタオルやら着替えやらを探し始めた。
「あ、ああ。すみません!自分で出しますから」
そう言って立ち上がろうとすると「動くなぁ」と怖い声で静止された。
「は、はい」
大人しくその場に座る。
「……なんで、あないな事言った」
「え?」
箪笥の中を漁る直哉様が一瞬動きを止めて言った。
僕には何のことかわからなかった。
「なして、さらに痛い目見るような事わざわざ言ったんや」
こちらに背を向けているため直哉様のお顔は見えない。
――貴方なんかよりも、努力されています……とても、素晴らしい方です。
「あ、」
僕が先程兄上様に歯向かうような事を言ったのを聞いたのだろうか?
「あのクズはガキ相手でも容赦ないの知っとんやろ」
直哉様……。怒っているのだろうか。
頭の悪い、面倒な従者だと思われただろうか。
「すみません、直哉様。……でも」
でも、
僕にも譲れないものがあるのだ。
これは僕の、空っぽだった僕の唯一で、最大の信念だから。
「直哉様への忠義は、僕の命より重いのです」
直哉様がゆっくり振り返る。
その顔は複雑だった。
嬉しいような。悲しいような。
優しく笑っているのに、泣いている。
僕の心臓がドクリと音を立てた。
「……あほ」
直哉様は屈んで僕の頬に触れる。
腫れたその頬は少し触れられただけでも痛い。
「ほんまに……あほやなぁ」
そうかもしれない。
でも、僕はそれでいい。それがいい。
このままずっと貴方のおそばに居られれば。
それ以上は何も望まない。
厚くなった雲から、次第にサラサラとした雨が降り出した。
雨が少しずつ地面を濡らしていく音を、2人静かに聞いた。