夜の虹
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「僕と、逃げてください」
周囲は屋敷の者達の悲鳴や怒号、建物が崩壊する音で騒がしいはずなのに、自分でも驚くほど声がよく響いた。
直哉様の見たこともないほど驚いた顔を見て時が止まったようだと、呑気なことを考えるほど本当に長い時間お互い無言でそうしていたように思った。
「…な、んで」
直哉様の口がゆっくりと動いた後、思い出したようにその表情が怒りの表情へと変わっていった。
でも、それが形だけの作り物の表情だとも何となくわかった。
「お前…この俺にあの失敗作の女から尻尾巻いて逃げいゆうんか?」
いかなる時も威厳を保たねばならぬ。
そう教えてきたのはこの家だ。
そしてそれを、直哉様も信じて疑わない。
「そうで、」
言い終わる前に着物の合わせを誰かに掴み上げられた。
誰かとは言わずもがな、直哉様である。術式を使ってまで僕に近いて最後まで言葉を言わせないようにした。
「おい。ふざけんな。それ以上聞くに耐えん情けない言葉ゆうてみぃ。いくら名前と言えど何するかわからんで」
心にもないことを。
あなたは怖いのだ。
自惚れでも何でもいい。
最も貴方を信頼し、貴方も信頼できるのは僕だけなはず。
僕は絶対的な忠誠を誓ってきたのだ。
そんな僕に、信用されていないと感じるのは酷く不安なはずだから。
「…怖いですか?」
「あぁ?!ええ加減にせぇ!あないな死に損ないすぐに潰したるわ!お前はとっとと引っ込んでろ!」
僕は揺れるその金色の瞳をまっすぐに見つめた。
そして着物を掴む彼の拳をそっと包んだ。
「…僕には、貴方以外大切なものは何もありません」
ピクっとその逞しい両肩が揺れた。
「だから、僕と逃げてください」
再び唖然とした直哉様は、次の瞬間には僕の手と、掴んでいた着物を少々乱雑な手つきで離すとすぐに踵を返した。
僕に背を向けたまま言った。
「…地下の座敷牢の部屋にでも隠れとき。片付けたら迎えに行ったるわ」
わからなかった。
直毘人様亡き今。貴方がそこまでこの家を守る理由はあるのだろうか?
真希様を、倒さなくてはならない理由は何なのか。
でも、真希様にはあるのだ。
この家を、人を、破壊し尽くす理由が。
「…直哉様、死んでしまいます」
「あほ。誰に向かって言っとんのや。殺すぞ」
そうしてくれればどれだけ良いか。
殺された貴方を看取るなどできようか。
「この家は、僕よりも大切ですか?」
最後かもしれない。
そんな思いが、僕をこんな幼稚な質問をさせたのだ。
でも、答えはわかっている。
僕は足元で出しっぱなしになっていた裁縫箱を見た。
「何やそれ、ええから早よ行け」
「直哉様」
僕が呼びかけると彼ははゆっくり振り返る。
振り返きるその前に。
「先に、待っております」
僕はそう言って、裁ち鋏を自分の腹に深く突き立てた。
貴方を1人にしない。
違う。
僕を、1人にしないで。
世界は無音になった。
霞む視界に映る貴方の表情は、今までで見たこともないくらい苦痛に歪んで、人間らしくて、
ーーーー美しかった。
石畳の上を、タイヤがゴロゴロと音を立てながら進む音。
路面電車の走る音。
大勢の観光客の多種多様な言語が街に溢れていた。
街のシンボルの一つである大きな川。
それに沿って植えてあるポプラの黄色い葉がくるくると踊りながら落ちていくのを見た。
美しい景色だった。
僕はベンチに1人で座ってそれを見ていた。
「綺麗だなぁ」
昔からの美しい町並みと、遠くには黒っぽく変色した城が見える。
3、4歳だろうか。
近くで母親と一緒に遊んでいる双子の女の子達が微笑ましかった。
こんな景色が見れるようになるとは思っていなかった。
一緒に見たかった人はいないけれど。
御伽の国のように美しいこの国で、僕はなぜか生きていた。
「…」
僕は腹を切ったはずだった。
目が覚めた時には傷跡もなくて、その後なぜかいつのまにか飛行機に乗せられてこの国に来たようだ。
隣に直哉様はいなかった。
直哉様が助けてくれたのは間違い無いだろう。
もぐりの反転術式持ちを捕まえて僕を生かしてくれた。
あの後禪院家は壊滅した。
外に出ていた家の者まで徹底的に殺されたと、最初身の回りの世話をしてくれた人から聞いた。
「禪院直哉の死体が見つかったようだ」
彼はフリーの呪術者だったようだがそう言い残してすぐ日本に帰ってしまった。
僕は混乱を隠しきれなかった。でもこれが主人を裏切った報いだと…受け入れるように今ただ1人静かに生きていた。
「こんなはずじゃなかった…」
僕は1人俯いた。
直哉様がもし僕を選んでくれるなら、あのまま一緒に逃げてくれると思った。
今思えばとんだ思い上がりもいいところだったようだ。
彼は戦場に舞い戻ってしまったのだろう。
直哉様は…。
「こんなことなら…真希様に殺して貰えばよかった」
あぁ、僕はしくじったのだ。
一時でも1人にされたくなかった。
彼の死に際を見て正気でいられる気がしなかった。
2人で…生きていたかった。
涙はずっと出なかった。
あまりに現実味がなくて、受け入れられなかった。
泣くのは、いつか日本に戻って、彼の墓を前にした時だろうか。
その時僕はやっと彼の死を受け入れられるのだろうか。
わからない。
わからない。
わからない。
…。
「名前」
ガバッと顔を上げた。
黄色の何かが逆光を透かして煌めいた。
僕の、大好きな金色の髪が靡いた気がした。
でもそれはポプラの葉だった。
「直哉様…」
彼の声が聞きたい。
彼に触れたい。
彼の名を呼びたい。
僕の頬に何かが流れた。
僕は、1人なんだと。
彼はもういないのだとこの涙が知らせてくる。
涙で滲んだ視界にまた金色が揺れる。
「なんやその阿保面」
そう、貴方がもしここにいたら…そう言って僕の涙を乱暴に拭うのだ。
「おい。聞ぃとんのか。…お前大丈夫か?」
「…え」
今度はちょっと乱暴に肩を揺らされた。
瞬きを繰り返すと視界がクリアになっていく。
大好きな髪、瞳、手が僕の目に映り込む。
その瞬間僕は立ち上がって両手を広げてそれを抱きしめた。
ここにいて。
幻なら、消えないで。
両腕に抱き締めた温もりは、消えなかった。
また僕の頬を涙が流れて、それだけじゃなくて口からは嗚咽が溢れて…僕はただ泣くことしかできなかった。
「泣き虫やのぉ」
大きな手が僕の頭を撫ぜた。
「しゃーなし。一緒に逃げたるわ。こんな泣き虫で弱っちぃ名前を1人にしたら可哀想やからな」
何度も頷いた。
そばで遊んでいた双子の女の子が不思議そうにこちらを見ているのがぐちゃぐちゃな視界にちょっとだけ見えた。
直哉様が…ここにいる。
僕は、幸せだ。
周囲は屋敷の者達の悲鳴や怒号、建物が崩壊する音で騒がしいはずなのに、自分でも驚くほど声がよく響いた。
直哉様の見たこともないほど驚いた顔を見て時が止まったようだと、呑気なことを考えるほど本当に長い時間お互い無言でそうしていたように思った。
「…な、んで」
直哉様の口がゆっくりと動いた後、思い出したようにその表情が怒りの表情へと変わっていった。
でも、それが形だけの作り物の表情だとも何となくわかった。
「お前…この俺にあの失敗作の女から尻尾巻いて逃げいゆうんか?」
いかなる時も威厳を保たねばならぬ。
そう教えてきたのはこの家だ。
そしてそれを、直哉様も信じて疑わない。
「そうで、」
言い終わる前に着物の合わせを誰かに掴み上げられた。
誰かとは言わずもがな、直哉様である。術式を使ってまで僕に近いて最後まで言葉を言わせないようにした。
「おい。ふざけんな。それ以上聞くに耐えん情けない言葉ゆうてみぃ。いくら名前と言えど何するかわからんで」
心にもないことを。
あなたは怖いのだ。
自惚れでも何でもいい。
最も貴方を信頼し、貴方も信頼できるのは僕だけなはず。
僕は絶対的な忠誠を誓ってきたのだ。
そんな僕に、信用されていないと感じるのは酷く不安なはずだから。
「…怖いですか?」
「あぁ?!ええ加減にせぇ!あないな死に損ないすぐに潰したるわ!お前はとっとと引っ込んでろ!」
僕は揺れるその金色の瞳をまっすぐに見つめた。
そして着物を掴む彼の拳をそっと包んだ。
「…僕には、貴方以外大切なものは何もありません」
ピクっとその逞しい両肩が揺れた。
「だから、僕と逃げてください」
再び唖然とした直哉様は、次の瞬間には僕の手と、掴んでいた着物を少々乱雑な手つきで離すとすぐに踵を返した。
僕に背を向けたまま言った。
「…地下の座敷牢の部屋にでも隠れとき。片付けたら迎えに行ったるわ」
わからなかった。
直毘人様亡き今。貴方がそこまでこの家を守る理由はあるのだろうか?
真希様を、倒さなくてはならない理由は何なのか。
でも、真希様にはあるのだ。
この家を、人を、破壊し尽くす理由が。
「…直哉様、死んでしまいます」
「あほ。誰に向かって言っとんのや。殺すぞ」
そうしてくれればどれだけ良いか。
殺された貴方を看取るなどできようか。
「この家は、僕よりも大切ですか?」
最後かもしれない。
そんな思いが、僕をこんな幼稚な質問をさせたのだ。
でも、答えはわかっている。
僕は足元で出しっぱなしになっていた裁縫箱を見た。
「何やそれ、ええから早よ行け」
「直哉様」
僕が呼びかけると彼ははゆっくり振り返る。
振り返きるその前に。
「先に、待っております」
僕はそう言って、裁ち鋏を自分の腹に深く突き立てた。
貴方を1人にしない。
違う。
僕を、1人にしないで。
世界は無音になった。
霞む視界に映る貴方の表情は、今までで見たこともないくらい苦痛に歪んで、人間らしくて、
ーーーー美しかった。
石畳の上を、タイヤがゴロゴロと音を立てながら進む音。
路面電車の走る音。
大勢の観光客の多種多様な言語が街に溢れていた。
街のシンボルの一つである大きな川。
それに沿って植えてあるポプラの黄色い葉がくるくると踊りながら落ちていくのを見た。
美しい景色だった。
僕はベンチに1人で座ってそれを見ていた。
「綺麗だなぁ」
昔からの美しい町並みと、遠くには黒っぽく変色した城が見える。
3、4歳だろうか。
近くで母親と一緒に遊んでいる双子の女の子達が微笑ましかった。
こんな景色が見れるようになるとは思っていなかった。
一緒に見たかった人はいないけれど。
御伽の国のように美しいこの国で、僕はなぜか生きていた。
「…」
僕は腹を切ったはずだった。
目が覚めた時には傷跡もなくて、その後なぜかいつのまにか飛行機に乗せられてこの国に来たようだ。
隣に直哉様はいなかった。
直哉様が助けてくれたのは間違い無いだろう。
もぐりの反転術式持ちを捕まえて僕を生かしてくれた。
あの後禪院家は壊滅した。
外に出ていた家の者まで徹底的に殺されたと、最初身の回りの世話をしてくれた人から聞いた。
「禪院直哉の死体が見つかったようだ」
彼はフリーの呪術者だったようだがそう言い残してすぐ日本に帰ってしまった。
僕は混乱を隠しきれなかった。でもこれが主人を裏切った報いだと…受け入れるように今ただ1人静かに生きていた。
「こんなはずじゃなかった…」
僕は1人俯いた。
直哉様がもし僕を選んでくれるなら、あのまま一緒に逃げてくれると思った。
今思えばとんだ思い上がりもいいところだったようだ。
彼は戦場に舞い戻ってしまったのだろう。
直哉様は…。
「こんなことなら…真希様に殺して貰えばよかった」
あぁ、僕はしくじったのだ。
一時でも1人にされたくなかった。
彼の死に際を見て正気でいられる気がしなかった。
2人で…生きていたかった。
涙はずっと出なかった。
あまりに現実味がなくて、受け入れられなかった。
泣くのは、いつか日本に戻って、彼の墓を前にした時だろうか。
その時僕はやっと彼の死を受け入れられるのだろうか。
わからない。
わからない。
わからない。
…。
「名前」
ガバッと顔を上げた。
黄色の何かが逆光を透かして煌めいた。
僕の、大好きな金色の髪が靡いた気がした。
でもそれはポプラの葉だった。
「直哉様…」
彼の声が聞きたい。
彼に触れたい。
彼の名を呼びたい。
僕の頬に何かが流れた。
僕は、1人なんだと。
彼はもういないのだとこの涙が知らせてくる。
涙で滲んだ視界にまた金色が揺れる。
「なんやその阿保面」
そう、貴方がもしここにいたら…そう言って僕の涙を乱暴に拭うのだ。
「おい。聞ぃとんのか。…お前大丈夫か?」
「…え」
今度はちょっと乱暴に肩を揺らされた。
瞬きを繰り返すと視界がクリアになっていく。
大好きな髪、瞳、手が僕の目に映り込む。
その瞬間僕は立ち上がって両手を広げてそれを抱きしめた。
ここにいて。
幻なら、消えないで。
両腕に抱き締めた温もりは、消えなかった。
また僕の頬を涙が流れて、それだけじゃなくて口からは嗚咽が溢れて…僕はただ泣くことしかできなかった。
「泣き虫やのぉ」
大きな手が僕の頭を撫ぜた。
「しゃーなし。一緒に逃げたるわ。こんな泣き虫で弱っちぃ名前を1人にしたら可哀想やからな」
何度も頷いた。
そばで遊んでいた双子の女の子が不思議そうにこちらを見ているのがぐちゃぐちゃな視界にちょっとだけ見えた。
直哉様が…ここにいる。
僕は、幸せだ。