短編集
『今日、生きられたから』
物心ついた四、五歳くらいの頃、唐突に膨大な記憶の嵐に晒された。戦国時代で生きていた記憶と換生者として生き続けた400年間の記憶。そして、絶望した。
あのひとは、もうこの世にいないかもしれない。
昭和の頃の記憶。織田信長との戦いで破魂波を浴びた景虎は、その後消息が掴めず「魂が六道界から消滅した」とまで言われていた。それは、景虎の魂が今後換生することも生まれ変わることもなく、存在ごと消えたという事だった。
あのひとがいない世界に、どうして俺は換生したんだ。
困惑した。己の小さな両手を見つめる。
あんなにも景虎を愛していると言いながら、本当は……換生し、生き続ける自分を許すための「口実」にしていただけではなかったか。自分の醜い「生きたい」という欲望のために、彼を利用していたのではなかったか。
いや違う! 俺は、……もしあのひとが生き延びていた時、俺が換生していなければあのひとを独りにしてしまう。
ほんの少しでも1%に満たなくても、景虎が換生を続けている可能性がある限り、自分もまた生き続けなくてはならない。それは、あの寂しい主君を決して独りにしないと決めた時から芽生えた使命感であった。上杉景虎が眠る時まで、直江信綱は決して眠らないと。
……美奈子…………?
思い出した。自らの罪の名を。景虎とその愛する人へ、正気を失った自分が犯した最大の罪。
「おまえだけは、永久に許さない!」
荒れ狂う炎の中で、美しい顔を憎悪に歪めながら女が放った力強い声。耳の奥底で何度も叫ばれるその声を、補うように脳内で憎悪に満ちた男の声がリフレインする。景虎から向けられた最大の憎しみ。
「信じている」
自らの愛する美奈子を連れて、戦線から離脱するよう命じた景虎。憎い重臣に「信じている」と枷をつけて。その言葉は呪いだった。
俺はあのひとの信頼を裏切った!
修羅の日々から逃げてしまいたかった景虎に、使命から逃げてはならないと言い続けた。憎まれるのは当然のことだった。それでも彼は、愛する女を憎い直江に預けたのだった。「信じている」からこそ、直江に。
俺がした事はなんだった! 加瀬さんを呼び助けを乞うた美奈子を、見るも無惨に犯した!
「おまえだけは、永久に許さない!」
いいや、そう仕向けたのはあなたの方だ! 俺のことも全てわかった上で、わざと「信じている」と呪いをかけて美奈子を俺に預けた!
衝動的にハサミを握っていた。工作に使えるようにと両親が義明に買い与えた、子供用の先が丸くなったハサミ。最大限まで開いて力強く握り、重なり合うことで収納されていた鋭い刃を左手首に押し当てた。思い切り引くと、刃を握っていた右手の指と手首から血が滲んできた。ぱっくりと肉が割れて見える。痛みに生理的な涙が滲む。一心不乱に自らの手首を切り刻んだ。罪を刻むように。
借り物の身体に傷をつけて、罪滅ぼしだとでも言うのか。
冷徹な主の断罪の声。脳内で合成されたその声は、激しすぎる衝動に駆られた直江には届かなかった。
傷が生み出す「痛み」は、借り物ではなかった。
「何をしているの!」
悲痛に叫んで、小さな義明の身体を抱きしめたのは橘義明の母親だった。幼い子からハサミを取り上げ、両の手を優しく握った。
「いったいどうしたというの」
母親は甲斐甲斐しく傷を手当てして、義明を抱きしめた。
「辛いことがあったなら、いつでも言っていいのよ。お母さんは、どんな時でもあなたの味方ですからね」
涙が溢れ出た。特別な言葉でもなんでもない「母親」の言葉。親が無条件で味方でいてくれることの、大きな意味を改めて感じたのだった。
母親に促されるまま、いつもより早く布団に入り、目をつぶった。
「今日生きられたから、きっと明日も生きられる……」
そう思えば、不思議と「死への渇望」がほんの少し、薄らいだ気がした。
物心ついた四、五歳くらいの頃、唐突に膨大な記憶の嵐に晒された。戦国時代で生きていた記憶と換生者として生き続けた400年間の記憶。そして、絶望した。
あのひとは、もうこの世にいないかもしれない。
昭和の頃の記憶。織田信長との戦いで破魂波を浴びた景虎は、その後消息が掴めず「魂が六道界から消滅した」とまで言われていた。それは、景虎の魂が今後換生することも生まれ変わることもなく、存在ごと消えたという事だった。
あのひとがいない世界に、どうして俺は換生したんだ。
困惑した。己の小さな両手を見つめる。
あんなにも景虎を愛していると言いながら、本当は……換生し、生き続ける自分を許すための「口実」にしていただけではなかったか。自分の醜い「生きたい」という欲望のために、彼を利用していたのではなかったか。
いや違う! 俺は、……もしあのひとが生き延びていた時、俺が換生していなければあのひとを独りにしてしまう。
ほんの少しでも1%に満たなくても、景虎が換生を続けている可能性がある限り、自分もまた生き続けなくてはならない。それは、あの寂しい主君を決して独りにしないと決めた時から芽生えた使命感であった。上杉景虎が眠る時まで、直江信綱は決して眠らないと。
……美奈子…………?
思い出した。自らの罪の名を。景虎とその愛する人へ、正気を失った自分が犯した最大の罪。
「おまえだけは、永久に許さない!」
荒れ狂う炎の中で、美しい顔を憎悪に歪めながら女が放った力強い声。耳の奥底で何度も叫ばれるその声を、補うように脳内で憎悪に満ちた男の声がリフレインする。景虎から向けられた最大の憎しみ。
「信じている」
自らの愛する美奈子を連れて、戦線から離脱するよう命じた景虎。憎い重臣に「信じている」と枷をつけて。その言葉は呪いだった。
俺はあのひとの信頼を裏切った!
修羅の日々から逃げてしまいたかった景虎に、使命から逃げてはならないと言い続けた。憎まれるのは当然のことだった。それでも彼は、愛する女を憎い直江に預けたのだった。「信じている」からこそ、直江に。
俺がした事はなんだった! 加瀬さんを呼び助けを乞うた美奈子を、見るも無惨に犯した!
「おまえだけは、永久に許さない!」
いいや、そう仕向けたのはあなたの方だ! 俺のことも全てわかった上で、わざと「信じている」と呪いをかけて美奈子を俺に預けた!
衝動的にハサミを握っていた。工作に使えるようにと両親が義明に買い与えた、子供用の先が丸くなったハサミ。最大限まで開いて力強く握り、重なり合うことで収納されていた鋭い刃を左手首に押し当てた。思い切り引くと、刃を握っていた右手の指と手首から血が滲んできた。ぱっくりと肉が割れて見える。痛みに生理的な涙が滲む。一心不乱に自らの手首を切り刻んだ。罪を刻むように。
借り物の身体に傷をつけて、罪滅ぼしだとでも言うのか。
冷徹な主の断罪の声。脳内で合成されたその声は、激しすぎる衝動に駆られた直江には届かなかった。
傷が生み出す「痛み」は、借り物ではなかった。
「何をしているの!」
悲痛に叫んで、小さな義明の身体を抱きしめたのは橘義明の母親だった。幼い子からハサミを取り上げ、両の手を優しく握った。
「いったいどうしたというの」
母親は甲斐甲斐しく傷を手当てして、義明を抱きしめた。
「辛いことがあったなら、いつでも言っていいのよ。お母さんは、どんな時でもあなたの味方ですからね」
涙が溢れ出た。特別な言葉でもなんでもない「母親」の言葉。親が無条件で味方でいてくれることの、大きな意味を改めて感じたのだった。
母親に促されるまま、いつもより早く布団に入り、目をつぶった。
「今日生きられたから、きっと明日も生きられる……」
そう思えば、不思議と「死への渇望」がほんの少し、薄らいだ気がした。
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