短編集
『この世のすべてが幸せであればいいのに』
晩秋の風がひゅう、と甲高い音をたててすぐそばを通り過ぎた。色づいた樹は、その葉を道に落としはじめている。
もうすぐ、冬になるのか。
冷たくなった風から身を守るように、高耶はコートの襟に口元を埋めた。
「だから言ったでしょう、今日は寒くなるから暖かくしてきてください、と」
「うっせーよ、おまえはオレの母親か!」
直江は微笑みながら、自分のしていたマフラーを自然な所作で高耶に巻いてやる。睨みつけられても、その裏に照れが見え隠れしていて微笑ましい。ぶすくれながら、高耶は巻かれたマフラーに顔を埋めて歩き出した。
直江の一歩前、それが景虎の立ち位置だった。いつでも背中を見せて、いつも一歩先を行く。どんなに追いかけても、必ず一歩、届かない。そんな人だった。そのくせいつだって、見せた背中で直江を気配を探り、直江に見限られやしないかと怯えていた。それでも、その気配は冷徹の扉に閉じ込め、直江に毛ほども悟らせはしない完璧な人だった。
そんな景虎の、いや、仰木高耶の隣。それは、この橘義明が勝ち取ったものだ。
一歩先行く高耶の隣に、直江が並んだ。完璧だった主人は、臣下の無礼に言及しない。それどころかむしろ、チラチラと横目で直江の様子を伺っている。微笑んでやると、目を泳がせてそっぽを向いてしまった。ぶつくさ何かを言っているが、赤くなった耳は本心を映している。
ふと、高耶が足を止めた。そっぽを向いた先に何かを見つけたらしい。
あれは、子供か?
少し離れた物陰に、この世の終わりを見たかのような虚ろな目をした子供が座り込んでいる。着ている服も、ほとんど冬だというのに薄汚れたTシャツ一枚。明らかに何かおかしいその子供の脇を、素知らぬ顔の大人達が歩き去っていく。存在に気づいていないのか、無視しているのか、それとも、気にかける余裕がないのか。
「おい、おまえ」
高耶が駆け寄って声をかけるが、反応はない。膝を折って目線の高さを子供に合わせた。
「おまえ、一人か? こんな所でどうしたんだ。親は?」
「……ママはでかけました。パパはおうちで女の人とお酒を飲んでます」
小さな少年は、消えそうな声でそう言った。俯いて浅く呼吸をするその姿は、風前の灯火のようだ。
「とにかく、暖かい所へ移動しましょう。ここにいてはいけない」
「そうだな、立てるか?」
高耶は手を差し伸べた。その手を見つめて、少年は痛そうな笑顔を浮かべた。首を大きく横に振り、取り繕った声で救いの手を振り払った。
「ぼく、もう帰ります。だから、だいじょうぶです」
少年はさっと立ち上がって駆けていく。
大丈夫だなんて、どの口が言うんだ。
高耶は歯痒く思う。あの少年は、自分の境遇ととても良く似ている。誰かを頼ることを知らず、一人で何とかしようと思いつめている、そんな所も。
容姿は小学生低学年くらいだというのに、その表情はずっと大人びていた。いや、そうならざるを得なかったのだろう。両親の愛情に包まれ、学校に行き、友達と笑い合い……そんな普通の「幸せ」を手に入れることが出来なかったために。
「一応、児童相談所の方に連絡を入れておきます」
「あぁ」
誰も彼もが忙しなく、小さな子供が発する無意識のSOSは誰の目にも止まらない。そうして、救える「幸せ」は喪われていくのだろう。
あの少年は、幸せになれるだろうか。
「直江……」
児童相談所への連絡を終えて、高耶に歩み寄る。今にも泣きそうで、壊れてしまいそうな、心優しい主。
この人は、優しすぎる。
「すぐにでも調査をしてくれるようです、心配はいりません」
「なぁ、直江……」
「はい」
悲嘆と安堵の入り交じった顔で、遠くの緋色の空を見つめている。
「この世のすべてが幸せであればいいのにな」
死んだ人たちも、今を生きる人達も、この世の何もかも全てが。幸せになっていいはずなのだ。その権利を持っているはずだ。
どこまでも現実主義で理想を語らなかった、一昔前の主人の顔が思い出された。長く生きすぎて、大切な人を失いすぎて、疲れきって。それでもそれを鉄の扉に隠し、一人で抱え込んでいた加瀬賢三。
彼が繋いだ希望は、直江に小さな夢と切実な願いを漏らした。現実的にはどちらも叶えられる想いではなかったが。
「それは、難しいですね。幸せは人によって違いますし、人を貶めることを『幸せ』と感じる人もいますから」
高耶はチラリと直江を見やり、また夕焼け空を見つめる。
忙しそうに過ぎ去る人々は、この悲しそうに歪む王者の瞳に興味をもたない。
「叶えられるなどとは……思っていない」
「ええ。ですが、嬉しいですよ」
「何がだ」
現代人の無関心によって切り離されたこの空間は、直江と高耶、二人きりだった。寂しげな表情を湛える彼に一歩近づき、腰を抱く。
「私には決して夢や理想を語らなかったあなたが、こうして話してくれることが」
「はっ……そんな小さなことが嬉しいのか、安いことだな」
「知らなかったあなたを知れることは、私にとって、小さなことではありません」
挑発的で高慢な笑顔を浮かべ、腕の中の虎が唸る。直江は静かに抱き寄せ、囁いた。
「あなたを、愛しています」
晩秋の風がひゅう、と甲高い音をたててすぐそばを通り過ぎた。色づいた樹は、その葉を道に落としはじめている。
もうすぐ、冬になるのか。
冷たくなった風から身を守るように、高耶はコートの襟に口元を埋めた。
「だから言ったでしょう、今日は寒くなるから暖かくしてきてください、と」
「うっせーよ、おまえはオレの母親か!」
直江は微笑みながら、自分のしていたマフラーを自然な所作で高耶に巻いてやる。睨みつけられても、その裏に照れが見え隠れしていて微笑ましい。ぶすくれながら、高耶は巻かれたマフラーに顔を埋めて歩き出した。
直江の一歩前、それが景虎の立ち位置だった。いつでも背中を見せて、いつも一歩先を行く。どんなに追いかけても、必ず一歩、届かない。そんな人だった。そのくせいつだって、見せた背中で直江を気配を探り、直江に見限られやしないかと怯えていた。それでも、その気配は冷徹の扉に閉じ込め、直江に毛ほども悟らせはしない完璧な人だった。
そんな景虎の、いや、仰木高耶の隣。それは、この橘義明が勝ち取ったものだ。
一歩先行く高耶の隣に、直江が並んだ。完璧だった主人は、臣下の無礼に言及しない。それどころかむしろ、チラチラと横目で直江の様子を伺っている。微笑んでやると、目を泳がせてそっぽを向いてしまった。ぶつくさ何かを言っているが、赤くなった耳は本心を映している。
ふと、高耶が足を止めた。そっぽを向いた先に何かを見つけたらしい。
あれは、子供か?
少し離れた物陰に、この世の終わりを見たかのような虚ろな目をした子供が座り込んでいる。着ている服も、ほとんど冬だというのに薄汚れたTシャツ一枚。明らかに何かおかしいその子供の脇を、素知らぬ顔の大人達が歩き去っていく。存在に気づいていないのか、無視しているのか、それとも、気にかける余裕がないのか。
「おい、おまえ」
高耶が駆け寄って声をかけるが、反応はない。膝を折って目線の高さを子供に合わせた。
「おまえ、一人か? こんな所でどうしたんだ。親は?」
「……ママはでかけました。パパはおうちで女の人とお酒を飲んでます」
小さな少年は、消えそうな声でそう言った。俯いて浅く呼吸をするその姿は、風前の灯火のようだ。
「とにかく、暖かい所へ移動しましょう。ここにいてはいけない」
「そうだな、立てるか?」
高耶は手を差し伸べた。その手を見つめて、少年は痛そうな笑顔を浮かべた。首を大きく横に振り、取り繕った声で救いの手を振り払った。
「ぼく、もう帰ります。だから、だいじょうぶです」
少年はさっと立ち上がって駆けていく。
大丈夫だなんて、どの口が言うんだ。
高耶は歯痒く思う。あの少年は、自分の境遇ととても良く似ている。誰かを頼ることを知らず、一人で何とかしようと思いつめている、そんな所も。
容姿は小学生低学年くらいだというのに、その表情はずっと大人びていた。いや、そうならざるを得なかったのだろう。両親の愛情に包まれ、学校に行き、友達と笑い合い……そんな普通の「幸せ」を手に入れることが出来なかったために。
「一応、児童相談所の方に連絡を入れておきます」
「あぁ」
誰も彼もが忙しなく、小さな子供が発する無意識のSOSは誰の目にも止まらない。そうして、救える「幸せ」は喪われていくのだろう。
あの少年は、幸せになれるだろうか。
「直江……」
児童相談所への連絡を終えて、高耶に歩み寄る。今にも泣きそうで、壊れてしまいそうな、心優しい主。
この人は、優しすぎる。
「すぐにでも調査をしてくれるようです、心配はいりません」
「なぁ、直江……」
「はい」
悲嘆と安堵の入り交じった顔で、遠くの緋色の空を見つめている。
「この世のすべてが幸せであればいいのにな」
死んだ人たちも、今を生きる人達も、この世の何もかも全てが。幸せになっていいはずなのだ。その権利を持っているはずだ。
どこまでも現実主義で理想を語らなかった、一昔前の主人の顔が思い出された。長く生きすぎて、大切な人を失いすぎて、疲れきって。それでもそれを鉄の扉に隠し、一人で抱え込んでいた加瀬賢三。
彼が繋いだ希望は、直江に小さな夢と切実な願いを漏らした。現実的にはどちらも叶えられる想いではなかったが。
「それは、難しいですね。幸せは人によって違いますし、人を貶めることを『幸せ』と感じる人もいますから」
高耶はチラリと直江を見やり、また夕焼け空を見つめる。
忙しそうに過ぎ去る人々は、この悲しそうに歪む王者の瞳に興味をもたない。
「叶えられるなどとは……思っていない」
「ええ。ですが、嬉しいですよ」
「何がだ」
現代人の無関心によって切り離されたこの空間は、直江と高耶、二人きりだった。寂しげな表情を湛える彼に一歩近づき、腰を抱く。
「私には決して夢や理想を語らなかったあなたが、こうして話してくれることが」
「はっ……そんな小さなことが嬉しいのか、安いことだな」
「知らなかったあなたを知れることは、私にとって、小さなことではありません」
挑発的で高慢な笑顔を浮かべ、腕の中の虎が唸る。直江は静かに抱き寄せ、囁いた。
「あなたを、愛しています」
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