朝朗けの君へ
瞼が驚くほど重い。そのあまりの重量にめげそうになりながら、それでも夜野は瞼を上げた。柔らかな日光が降り注ぐ白い部屋が視界に入る。同じ白でも随分な差だわ、とぼんやり思った。
すい、とこちらも重い目玉に鞭打って視線を横にずらす。ベッドサイドに人の気配があったからだ。
ぱち、と視線があう。空色の瞳に自身の姿が映っているのがぼんやりと見えた。疲れ果てた顔の真ん中、口がぽかんと開いている。
「ちー、ふ」
思っている以上に声が枯れている。会話もできず、呼吸器もつけっぱなしだったから当然かもしれない。それでも夜野は目の前の男を呼んだ。
「ちーふ」
瞳が静かに潤んでいくのを夜野は静かに見つめていた。自身の視界も徐々に滲んでいくものだから、もはや相手の顔を正しく把握することもほとんどできていない。彼の奥でこちらを覗きこむ四つの塊がゆらゆらと揺れていることは分かった。
「みか、のはら、くん。ほなみ、くん。は、つばく、ん。にし、かどくん」
絞り出した声に、それぞれの応答が返ってくる。たったそれだけのことがひどく嬉しくて夜野は口角がゆるゆると上がるのを感じた。
自分の体ではないかもしれない、と思うほど重い右手を持ち上げる。先ほどテレビを殴った時と同じように親指を内側にしっかりと握り込んで握り拳を作ったその腕を、のろのろと、しかししっかりと持ち上げた。不恰好なガッツポーズだ。
「生き延びて、やりました」
掠れているのに自慢げな声が病室に反響する。
「みなさんは、ごぶじ、でした?」
当たり前でしょう、見守っていた男の声。
大丈夫っすよ、励まし続けた男の声。
いつものうたさんだね、力付けてくれた男の声。
夜野が一番重傷じゃん、揶揄いきれない男の声。
それから。
「……大馬鹿者……上司より先に飛び出していくやつがあるか」
安心し切った、涙で濡れた、男の声。
それを再度聞けたことに安堵し、夜野はもう一度笑った。
「失礼、しました。浅倉班、夜野、ただいま帰還しました」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
結局あの後、夜野はもう一度意識を失った。気持ちの方は万全だったのだが、やはり体はそういうわけにもいかなかったらしい。瀕死の体を無理やり動かしたのだから当然だと医師にも看護師にも怒られた。郷里から駆けつけた両親と兄弟にも叱られた。三十を目前にしてあんなにも親に怒られることは多分ないだろう。無論、心配が高じての叱責なので甘んじて受け入れる他なかったのだが。
失血量は相当なものだったが、止血が早かったこともあって奇跡的に後遺症等はなく退院ができそうだと聞いたのが一週間ほど前。では復職は退院後に、と伝えて病室にも関わらず黒田(と、それを聞いた瓶原)に怒鳴られたのが三日前のことだ。ここしばらく、夜野は珍しく怒られ続きであった。気も滅入る。
そういえば、と。そう口を開いたのは「退屈だろうから」という理由で病室に顔を出していた西門だ。
「あんときの夜野、やばかったじゃん。なー、栄袮」
「どの時? お前の言い方曖昧すぎてわかんないんだけど」
勝手知ったる様子で訪問者用の椅子に腰掛けた初羽が呆れたように問い返す。ベッドで体を起こしていた夜野も、いつの話ですか、と問うた。西門は人差し指をピンと立てて「だからあんときだっつーの」と言葉を続ける。
「夜野が目を覚ます前に、一瞬夜野が光ってすげえ音がしたじゃん」
「あー、あったね」
初羽はこともなげにそう言い、興味を失ったと言わんばかりにスマホをいじり始めた。答えたのにすげなくあしらわれた西門は不満をその口元に貼り付けたが、すぐに夜野の方に体を向けて満面の笑みを浮かべる。
「な、夜野は気になるだろ? それがなんだったのかって」
ええと、夜野も苦笑する。なんと答えたものだろうか。まさか、あの空間だけだと思っていたものが実際の体を通して放出されているとは思わなかった。説明しても良いが、死に際に異能が使えたなどというとんでもない話を信用してもらえるものだろうか。
「あんなの、うたさんの異能に決まってんじゃん」
だから、初羽がなんでもないことのようにそう言ったとき、西門以上に耳を疑ったのは夜野だった。
「え、あの?」
「あれうたさんの異能でしょ。雷光石火。じゃなきゃあの空間で電撃なんて生じるわけない。オレだったら火だしさ」
「んー、そりゃ、まあ、そうだけど……ちげーじゃん栄袮! もっとこう、ロマンのあるさあ……」
あーはいはい、お前のロマンとかどーでもいいよー。適当にあしらわれて凹む西門に視線を向けたあと、初羽は夜野の方に目を向けた。
「よかったんじゃない? 止まった心臓に電気流すこともあるし、医療機器だけじゃなくてうたさんの体が中からできることした感じで」
「いや、それはそうですけど……驚かないんですね」
初羽はあっけらかんと笑う。
「そりゃ、うたさんならあの流れで死なないだろうと思ってたし、死なないためになにかしらするだろうなって思ってたからね」
けらけらと笑った初羽は、顔を個室の出入り口の方へ向ける。一拍遅れて、ノックの音がした。夜野が答えるより早く、西門が「どぞー」と返事をする。
「あなたたち、病室ですよ。どれだけ連日入り浸る気ですか」
「そうっすよー。外回り行くって言った日大体ここにいるじゃないっすか」
「まあ、見舞い目的もあるけどぶっちゃけテイのいいサボり場だし」
「なんだかんだ言って夜野、俺らのこと追い出さないじゃん」
時計を見ればもう夕刻から夜に移ろうとしている。班員たちは律儀なことに退勤後にこうやって連れ立って様子を見に来てくれることも多い。唯一、ある男を除いては。
「今日もチーフは残業ですか?」
聞けば瓶原が肩をすくめる。そういうことらしい。
残業と言っているものの、他の班員たちがここに集まっている通り重大な案件があるわけではないらしい。ただ浅倉がここに来ないことを揶揄ってそう呼んでいるだけだ。
夜野が目を覚ましたあのとき以来、浅倉は病院に来ていない。班員たちには残業が、と言っているがそれが本意ではないことなど誰にでもわかる。夜野はほんの少し失望の色を瞳に滲ませたが、小さく頭を振ると四人に向き直った。今日の業務内容共有である。
(来てくれたらいいのにな)
話に相槌を打ちながら、思う。
来てくれたらいい。この光景を見て、もう夜野が大丈夫だと思ってくれればいい。責任感の強い彼にとって難しいことであるのは百も承知だったけれど、それでも来てくれたらいいな、と思う。
(それとも、嫌になったかな)
夜野が弱いということに気づいてしまったのかもしれない。彼にとって有用な部下であるように振る舞ってきたけれど、夜野の地力がそうではないことに聡い彼は気づいてしまったのかもしれない。だから、そんな夜野の顔を見るのが嫌になったのかもしれない。
(好きでもない女に庇われるのも、嫌だったかも)
浅倉が男尊女卑だとは毛ほども思っていない(そうであるなら、浅倉班が結成される前に頼り甲斐のある瓶原あたりに副チーフを変えていそうである)が、男性の考え方は夜野にはわからない。部下以上の感情がない人間に庇われて、形式上とはいえ見舞い等に時間を割かなければいけないことにストレスを感じていたらどうしよう。
平時なら思いもよらないそんなことが頭の中をぐるぐる回っていく。
「あーっ、ダメっすよぉ歌姫先輩! しわできてるっす!」
ぶす、と眉間に何かが突き刺さる。びっくりして顔を上げれば穂波が笑いながら人差し指をむけていた。ずいぶんひどい顔をしていたらしい。
「やれやれ、うちはチーフも副チーフも言わずに自分の中で考えを加速させていくのでタチが悪いんですよね」
少々棘のある言い方で瓶原が続く。返す言葉もない。
「ま、うたさんはさっさと体治して退院したほうがいいよ。ここで悩んでてもなんも変わんないしね」
さらりとした口調で初羽。その後ろでは西門がうんうんと頷いている。なにやら訳知り顔の四人に多少違和感は覚えたものの、言語化できるほどのものではなかったので夜野は首を傾げるにとどめた。そうと決まれば解散だ、と帰宅準備をしている班員たちをぼんやり眺めていると不意に西門が振り向いて笑う。
「ま、夜野はなんも心配せずに退院したらいいっつーの」
その発言の真意を捉えられないまま、夜野はまたもう一つ頷いた。
すい、とこちらも重い目玉に鞭打って視線を横にずらす。ベッドサイドに人の気配があったからだ。
ぱち、と視線があう。空色の瞳に自身の姿が映っているのがぼんやりと見えた。疲れ果てた顔の真ん中、口がぽかんと開いている。
「ちー、ふ」
思っている以上に声が枯れている。会話もできず、呼吸器もつけっぱなしだったから当然かもしれない。それでも夜野は目の前の男を呼んだ。
「ちーふ」
瞳が静かに潤んでいくのを夜野は静かに見つめていた。自身の視界も徐々に滲んでいくものだから、もはや相手の顔を正しく把握することもほとんどできていない。彼の奥でこちらを覗きこむ四つの塊がゆらゆらと揺れていることは分かった。
「みか、のはら、くん。ほなみ、くん。は、つばく、ん。にし、かどくん」
絞り出した声に、それぞれの応答が返ってくる。たったそれだけのことがひどく嬉しくて夜野は口角がゆるゆると上がるのを感じた。
自分の体ではないかもしれない、と思うほど重い右手を持ち上げる。先ほどテレビを殴った時と同じように親指を内側にしっかりと握り込んで握り拳を作ったその腕を、のろのろと、しかししっかりと持ち上げた。不恰好なガッツポーズだ。
「生き延びて、やりました」
掠れているのに自慢げな声が病室に反響する。
「みなさんは、ごぶじ、でした?」
当たり前でしょう、見守っていた男の声。
大丈夫っすよ、励まし続けた男の声。
いつものうたさんだね、力付けてくれた男の声。
夜野が一番重傷じゃん、揶揄いきれない男の声。
それから。
「……大馬鹿者……上司より先に飛び出していくやつがあるか」
安心し切った、涙で濡れた、男の声。
それを再度聞けたことに安堵し、夜野はもう一度笑った。
「失礼、しました。浅倉班、夜野、ただいま帰還しました」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
結局あの後、夜野はもう一度意識を失った。気持ちの方は万全だったのだが、やはり体はそういうわけにもいかなかったらしい。瀕死の体を無理やり動かしたのだから当然だと医師にも看護師にも怒られた。郷里から駆けつけた両親と兄弟にも叱られた。三十を目前にしてあんなにも親に怒られることは多分ないだろう。無論、心配が高じての叱責なので甘んじて受け入れる他なかったのだが。
失血量は相当なものだったが、止血が早かったこともあって奇跡的に後遺症等はなく退院ができそうだと聞いたのが一週間ほど前。では復職は退院後に、と伝えて病室にも関わらず黒田(と、それを聞いた瓶原)に怒鳴られたのが三日前のことだ。ここしばらく、夜野は珍しく怒られ続きであった。気も滅入る。
そういえば、と。そう口を開いたのは「退屈だろうから」という理由で病室に顔を出していた西門だ。
「あんときの夜野、やばかったじゃん。なー、栄袮」
「どの時? お前の言い方曖昧すぎてわかんないんだけど」
勝手知ったる様子で訪問者用の椅子に腰掛けた初羽が呆れたように問い返す。ベッドで体を起こしていた夜野も、いつの話ですか、と問うた。西門は人差し指をピンと立てて「だからあんときだっつーの」と言葉を続ける。
「夜野が目を覚ます前に、一瞬夜野が光ってすげえ音がしたじゃん」
「あー、あったね」
初羽はこともなげにそう言い、興味を失ったと言わんばかりにスマホをいじり始めた。答えたのにすげなくあしらわれた西門は不満をその口元に貼り付けたが、すぐに夜野の方に体を向けて満面の笑みを浮かべる。
「な、夜野は気になるだろ? それがなんだったのかって」
ええと、夜野も苦笑する。なんと答えたものだろうか。まさか、あの空間だけだと思っていたものが実際の体を通して放出されているとは思わなかった。説明しても良いが、死に際に異能が使えたなどというとんでもない話を信用してもらえるものだろうか。
「あんなの、うたさんの異能に決まってんじゃん」
だから、初羽がなんでもないことのようにそう言ったとき、西門以上に耳を疑ったのは夜野だった。
「え、あの?」
「あれうたさんの異能でしょ。雷光石火。じゃなきゃあの空間で電撃なんて生じるわけない。オレだったら火だしさ」
「んー、そりゃ、まあ、そうだけど……ちげーじゃん栄袮! もっとこう、ロマンのあるさあ……」
あーはいはい、お前のロマンとかどーでもいいよー。適当にあしらわれて凹む西門に視線を向けたあと、初羽は夜野の方に目を向けた。
「よかったんじゃない? 止まった心臓に電気流すこともあるし、医療機器だけじゃなくてうたさんの体が中からできることした感じで」
「いや、それはそうですけど……驚かないんですね」
初羽はあっけらかんと笑う。
「そりゃ、うたさんならあの流れで死なないだろうと思ってたし、死なないためになにかしらするだろうなって思ってたからね」
けらけらと笑った初羽は、顔を個室の出入り口の方へ向ける。一拍遅れて、ノックの音がした。夜野が答えるより早く、西門が「どぞー」と返事をする。
「あなたたち、病室ですよ。どれだけ連日入り浸る気ですか」
「そうっすよー。外回り行くって言った日大体ここにいるじゃないっすか」
「まあ、見舞い目的もあるけどぶっちゃけテイのいいサボり場だし」
「なんだかんだ言って夜野、俺らのこと追い出さないじゃん」
時計を見ればもう夕刻から夜に移ろうとしている。班員たちは律儀なことに退勤後にこうやって連れ立って様子を見に来てくれることも多い。唯一、ある男を除いては。
「今日もチーフは残業ですか?」
聞けば瓶原が肩をすくめる。そういうことらしい。
残業と言っているものの、他の班員たちがここに集まっている通り重大な案件があるわけではないらしい。ただ浅倉がここに来ないことを揶揄ってそう呼んでいるだけだ。
夜野が目を覚ましたあのとき以来、浅倉は病院に来ていない。班員たちには残業が、と言っているがそれが本意ではないことなど誰にでもわかる。夜野はほんの少し失望の色を瞳に滲ませたが、小さく頭を振ると四人に向き直った。今日の業務内容共有である。
(来てくれたらいいのにな)
話に相槌を打ちながら、思う。
来てくれたらいい。この光景を見て、もう夜野が大丈夫だと思ってくれればいい。責任感の強い彼にとって難しいことであるのは百も承知だったけれど、それでも来てくれたらいいな、と思う。
(それとも、嫌になったかな)
夜野が弱いということに気づいてしまったのかもしれない。彼にとって有用な部下であるように振る舞ってきたけれど、夜野の地力がそうではないことに聡い彼は気づいてしまったのかもしれない。だから、そんな夜野の顔を見るのが嫌になったのかもしれない。
(好きでもない女に庇われるのも、嫌だったかも)
浅倉が男尊女卑だとは毛ほども思っていない(そうであるなら、浅倉班が結成される前に頼り甲斐のある瓶原あたりに副チーフを変えていそうである)が、男性の考え方は夜野にはわからない。部下以上の感情がない人間に庇われて、形式上とはいえ見舞い等に時間を割かなければいけないことにストレスを感じていたらどうしよう。
平時なら思いもよらないそんなことが頭の中をぐるぐる回っていく。
「あーっ、ダメっすよぉ歌姫先輩! しわできてるっす!」
ぶす、と眉間に何かが突き刺さる。びっくりして顔を上げれば穂波が笑いながら人差し指をむけていた。ずいぶんひどい顔をしていたらしい。
「やれやれ、うちはチーフも副チーフも言わずに自分の中で考えを加速させていくのでタチが悪いんですよね」
少々棘のある言い方で瓶原が続く。返す言葉もない。
「ま、うたさんはさっさと体治して退院したほうがいいよ。ここで悩んでてもなんも変わんないしね」
さらりとした口調で初羽。その後ろでは西門がうんうんと頷いている。なにやら訳知り顔の四人に多少違和感は覚えたものの、言語化できるほどのものではなかったので夜野は首を傾げるにとどめた。そうと決まれば解散だ、と帰宅準備をしている班員たちをぼんやり眺めていると不意に西門が振り向いて笑う。
「ま、夜野はなんも心配せずに退院したらいいっつーの」
その発言の真意を捉えられないまま、夜野はまたもう一つ頷いた。
