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朝朗けの君へ

 静かである。それは好ましい静けさではなく、むしろ居心地の悪い静けさだ。
 白い部屋。白い部屋には申し訳程度の彩りを与える薄茶色の棚と椅子、ベッドくらいしか置いていない。浅倉班がいるここは、個人にあてがわれた病院の一室であった。
 ベッドの上に女が一人寝かされている。化粧っけのない顔と小柄な体格が相まって少女のようにも思えた。彼女の口元からはしゅーっ、しゅーっ、と規則正しく空気が体内に押し込まれていく音だけが響いている。

「……」

 誰も何も言わない。言葉を発することがためらわれるような、そんな空気感があった。その原因は誰が見ても明らかだ。

「チーフ、ちょっと寝てきた方がいいっすよ……俺たちで歌姫先輩見てますから」
「ああ……」

 穂波の言葉が聞こえているのかいないのか、浅倉は曖昧な返事をしたもののその場から動こうとしない。虚ろにも見える目でベッドの上に横たわる夜野の姿をじっと見つめ続けている。言葉を続けようとした穂波の肩を掴んだ瓶原はやわく首を横に振った。口を閉じた穂波の代わりと言わんばかりに口を開こうとした西門の方を初羽がジロリと見やる。彼も口を閉じたため、部屋の中を再度沈黙が支配した。

「……気遣いはありがたいが、俺は、ここをあけるわけにはいかない。この後夜野のご家族もまたおいでになるからな……。俺はチーフとして、きちんと説明する責任がある」
「そん前にチーフが倒れたら意味ねーっつーの……」
「今回はさすがに東に同意する。いざってときにチーフ動けなかったら誰が代わりに説明するの? それこそ、『起きたことをきちんと説明ができる』のはチーフなのに」

 初羽の、彼にしては珍しい棘のある言い方に隣にいた西門がギョッと目を剥く。しかし一拍おいても二拍おいてもいつもの仲裁は入らず、瓶原が「初羽くん」と名前を呼ぶにとどまった。初羽がふいと顔を逸らす。入れ替わるようにのろのろと顔をそちらに向けた浅倉は「すまない」と力のない声で謝罪した。

「初羽や西門、穂波の言うとおりだ。俺がついていてどうなるわけでもない……少し、席を外す」

 声に輪をかけて力無く立ち上がると浅倉は病室を後にする。一瞬の目配せののち、穂波が彼の後を追った。引き継いだと言わんばかりに西門がベッドサイドの椅子に腰掛ける。瓶原と初羽はその場から動かない。

「……や、ごめん」

 初羽の謝罪に瓶原は気にするな、と首を横に振る。ああいう時ははっきり言われたほうが行動しやすいものだということを瓶原は分かっている。まして場の空気を回すのに適した西門が同席しているのだから険悪になりすぎることもほぼありえない。あの場では初羽のあの物言いが最適解だった。無論、言われた側はどう思っているか分からないが、フォローとして穂波が付いて行ったのだからあちらも大きな問題はないだろう。瓶原はそう結論づけてベッドの上の夜野を見る。
 生気のない顔。いつもならああした空気になるのを察するが早いかテキパキと話を切り替える、浅倉班副チーフの面影は今どこにもない。呼吸を一人ですることすらままならない彼女は、現在意識不明の重体で入院中なのだ。

「まさかあの局面で飛び出すとは思いませんでした。止めきれなかったのも腹立たしいですね」
「夜野が速すぎて全然見えなかったっつーの……」


 本当に一瞬だった。

 招集を受けて暴漢を取り押さえ、安堵したその隙だった。物陰に隠れて機を窺っていたらしい暴漢の仲間は刃物を中腰に構えて浅倉に向かって走り出していた。一番初めにそれに気づいたのは誰だったのか。危険を知らせるために声を飛ばすよりも早く、それこそ彼女がかつて使用した異能の如く、誰よりも早く夜野が身を翻した姿だけが班員の目に映っていた。
 どう、ともんどりうって倒れたのは男の方だった。喉の辺りがじんわりと赤みを帯びていく様子から、咄嗟に夜野が拳を振るったのだということはわかった。ガラン、重い音を立てて刃物が遠くに転がっていく。急所を適切に狙った一撃は暴漢を無力化するに十二分だったようで、男はうめき声一つ上げることなく昏倒していた。

「……夜野!」

 静かな場を割ったのは浅倉の絶叫だった。
 男が昏倒するのに遅れること僅か数秒、夜野の全身から力が抜ける。後ろ向きに傾いだ体を支えた初羽は、いつも冷静な彼にしては珍しくぎょっと目を見開くとすぐさま声を発した。

「東、応急キット! うたさん刺されてる、刃物抜けてるから急いで!」

 声に弾かれるようにして西門が車に走る。もう一人の暴漢を取り押さえていた穂波は震える声のまま、共に男を取り押さえる瓶原に告げた。

「ゆた先輩、ここ、任せていいすか」
「……了解です」
「栄祢、言われたやつ全部持ってきたじゃん! 夜野、は……」

 駆け寄ってきた西門が口をつぐむ。目線の先、穂波が地面に敷いた上着の上に仰向けに寝かされている夜野の胸部は赤黒く染まっていた。ブラウスに開いた裂け目からはそのまま裂かれた皮膚がのぞいている。はくはくと血と共に息を吐く夜野の隣に座り込んだ初羽は応急キットから手早くゴム手袋をはめて止血に必要な布を取り出すと、傷口の上から体重をかけてぐっと圧迫した。ゔ、と呻いた夜野に再度穂波が声をかける。

「歌姫先輩、聞こえますか? 喋るのきつかったら体のどっか動かしてください、いけそうっすか」

 僅かに夜野の右手の先が動く。意識がまだ保たれていることは確認できたが、楽観視できない状態であることは一目瞭然だった。傷口を押さえていた初羽の両の手がじっとりと赤く染まっていく。出血の勢いが変わらないのだ。小柄な夜野の体躯なら出血によるショックが起きるのも一般的な成人女性より早い。直接圧迫以上の処置ができない以上、本職が来るまで持ちこたえるしかないことはその場にいる誰もが理解していた。

「——……」

 不意に、夜野の唇が動く。聞き取れるかどうかも分からないほどの小さな声だったが、彼女の治療に当たっている初羽には十二分に聞こえる声だった。

「チーフ、うたさんが呼んでる」

 その言葉に呆然自失としていたらしい浅倉は、彼らしからぬ粗雑な動きで夜野の前に飛び出した。

「夜野……」

 続きの言葉を待つ浅倉の体を夜野の視線がうろうろと移動する。頭の先から爪先までをほんの十数秒で見終えると、血にまみれた口元に小さく笑みが浮かんだ。

「    」

 今度こそ彼女に最も近い初羽にすら聞き取れないような声だった。それでも、正面から見ていた浅倉には、彼女が何を言おうとしたのかがわかるほどの短い一言だった。続けざまに声を上げようとした夜野だったが、ぽかりと開いた口から出たのは声ではなく血液だった。かくん。今度こそ夜野の全身が脱力する。意識を失ったのだ。こうなるとできることは、失血を少しでも遅らせるための処置をつなぐことだけだ。
 初羽から穂波に処置が変わってすぐ、けたたましいサイレンの音と共に黒田の率いる一課の数班と救急隊員が到着した。すぐに夜野は担架にのせられて病院へ搬送されていく。救急車には応急処置で体力を消耗しておらず、かつ比較的落ち着いて状況の説明ができそうな西門が同乗することになった。数分前までのあわただしさはどこへ消えたのか、うすら寒さすら覚えるような静寂がそこにある。

「“よかった”……? 何がだ……」

 浅倉の押し殺したようなそのうめき声に返事をできる人間はその場にいない。被疑者の身柄を黒田たちに預けて病院へ急行したころには、夜野はすでに病室のベッドの上で寝かされていた。意識が戻らず自発呼吸もままならないという状況ではあったが。


「うたさんがマジモンの考えなしだってところをさー、失念してたんだよね」

 呆れたように初羽が言う。夜野が意識を失ってからすでに二日が経過している。状況が芳しくないことは十二分に分かっていた。先の浅倉のときと似たような状態ではあるものの、失血量を考えると夜野の体格で無事に意識が戻る確率は浅倉に比べてぐっと下がる。警察組織に身を置くものとして、既に最悪の事態を受け入れる心づもりは済ませていた。
 ――僅かに一人、先ほど初羽がこの部屋から退出させた男以外は。


「チーフ!」

 穂波の声に浅倉がのろのろと顔を上げる。その口元が無理やり笑みを形作ろうとして、中途半端な角度で止まった。へたくそな笑顔に穂波は特に言及せず、失礼するっす、と一声だけかけて浅倉の隣に腰を下ろす。

「仮眠するなら俺隣にいるんで、希望のタイミングで起こせるっすよ」
「いや、すまないな、気を遣わせて……瓶原や西門にも気を遣わせたし、初羽にも、言いにくいことを言わせてしまった」
「いやあ、栄祢くんのあれは素な気もするっすけど……」

 初羽のつっけんどんな物言いを思い出して笑った穂波だったが、隣の浅倉の表情を見て少々困惑する。口からは笑い声に近い音が出ているものの表情には覇気がない。浅倉が昏睡状態だった時の夜野と似た状態かと思ったが、どうもそれよりもう少し状態は良くないらしい。
 それもそうか、と穂波は心中で呟く。誰だって、自分を庇った相手が生死の境を彷徨っていると知ったらたまらないだろう。ましてや浅倉にとっての夜野は、ただの部下という存在でもあるまい。

「歌姫先輩、心配っすね」

 言葉をかけて一拍。浅倉が浅く息を吐いた音がする。ちらりとそちらを見やれば、涙こそ出ていないもののほとんど泣き顔と言って差し支えないような表情がそこにあった。

「……やっぱりチーフ、その、歌姫先輩のこと、好きなんすか?」

 一秒、二秒。沈黙の時間は穂波が思っていたよりも長い。

「……そうだな」

 たっぷり十秒以上の間を空けて、呻くように浅倉は言った。肯定の言葉は、こんな状況でなければもっと茶化して祝って笑えるものだっただろう。穂波は息を吐き、それから少し天井を仰いだ。

「……歌姫先輩、優しいっすもんね」
「あの子は、」

 浅倉が口を開く。彼が夜野のことを「あの子」と呼ぶのを穂波は初めて聞いた。
 ほんの数日前、彼女が言っていたことを思い出す。曰く、二人は歳の離れた幼馴染だったと。浅倉のほうは覚えていないとのことだったが、今の口ぶりを聞くにそういうわけではなさそうだ。

「昔から無茶ばかりする。体が弱いのに、困っている人間がいたら体力が尽きるまで助けてしまうような、そんな子だった」
「……」
「DAPが結成された時もそうだ。捜査二課からの人員だと言われて、データを見た時、俺がどれほど驚いて、人事に意を唱えようとしたか。人を助けることを大切にしていたあの子が二課でその役割を果たしていたのに、こんな前線に出すことになるなんて、と……」

 異能の適合率が群を抜いて高かった彼女は、詐欺等に対応する二課から引き抜かれてDAPに加入した。浅倉に憧れていた彼女はその異動を喜んでいたのだと、これも先日彼女自身から聞いた。
 浅倉が覚えていようといまいと、夜野は彼と共に刑事としての職務を全うできることを誇りに思っていた。後からそこに多少違う色が乗りはしたものの、根底にあるのはその感情だろう、と穂波は思う。

「分かっていたはずなのに、手放すことができなくてな。挙句あんな怪我を負わせてしまっては、申し開きのしようもない」

 はは、と浅倉は口だけで笑った。

「そうだよ、穂波。俺は彼女が好ましいんだ。部下としてはもちろん、女性として」

 彼の声は震えている。穂波は口をつぐむことで次の言葉を促した。自分が知っているどんな言葉をかけても、浅倉の気持ちを量るには足りない気がしたからだ。

「だが、結果はこのザマだ」
「……」
「俺は、俺と一緒にいれば彼女が怪我をする確率が高いままになることをわかっていた。そうでなくても元々体の強い子ではないのに、激務だと分かっていてそのまま班に引き抜きをかけている。全ては俺が、彼女と一緒にいられたらと思ってしまった結果だ」

 だから彼女の怪我も俺の責任だ。浅倉は口にこそしなかったものの、そう言いたいのだということは嫌というほど伝わった。
 好意を寄せた女性に、結果的にとは言え自分の思惑で怪我を負わせたことは穂波にはない。浅倉の気持ちは想像するしかできないから、下手な慰めの言葉を口にすることはできなかった。

 しかし、ひとつだけ。確実に分かっていることはある。


「……それ、歌姫先輩の前で言ったら、今度こそチーフぶん殴られるっすよ」


 例の事件で浅倉が夜野に「自身がいなくなった時のこと」を話したことを思い出す。あの時の夜野は、悲しむより先に怒っていた。穂波の知る夜野という女は、好いた男のそうした発言を完膚なきまでに叩き潰す女なのだ。それも、奥手な自分を棚上げする厄介なタイプの。



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