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朝朗けの君へ

 どうしてこうなった、と思いながら夜野は目の前の光景をもう一度見やる。見慣れた自分の家のキッチンとダイニングスペースにかけて、これまた見慣れた人物たちが立っている。見慣れぬ要素としては、彼らが夜野の家に本来いないであろう人々であること、全員がエプロンを着用しているところだろうか。

「ということで、今日はチョコレートを作ります。溶かして固めるのはうまくやらないとおいしくないので、今回は分量を量りさえすれば料理に不慣れな人でもできるガトーショコラにしましょう」

 二月中旬の日曜日。時刻は昼前。バレンタイン直前のこの時期は街のいたるところで浮足立った雰囲気が漂っているが、夜野宅の中に漂う雰囲気に甘さはない。それもそのはず、ここにいるメンバーはバレンタインを喜ぶ恋人同士ではなく、職場を同じくする同僚たちなのだ。夜野、瓶原、そして先日の瓶原の電話によって呼び出された穂波と初羽の四人は瓶原によって揃えられた材料の前で彼の説明を聞いていた。

「一応メインでの進行は夜野副チーフです。チョコが必要なのは彼女ですからね」
「了解っす! じゃあオレたちはなんかあった時のフォローってことで!」
「え、てゆーかうたさん、腹決まった感じ? なーんかしばらく変な空気かもしてたけど」

 初羽の言葉に夜野は僅かにうつむく。

――チョコレートを作りましょう、夜野副チーフ。ちょうどバレンタインがありますから、浅倉チーフにチョコレートを渡して、相手の反応をきちんと確かめればあなたの疑念も晴れるでしょう?

 それが瓶原の提案だった。夜野が無形である浅倉の好意に納得できないのであれば有形になりそうな手を打て。夜野がチョコレートを、それも明らかに他の面々と異なる、手作りとわかるものを渡したときの浅倉の反応を見れば多少なりとも納得はしやすいだろう。
 作戦リーダーは瓶原。それに同意し、ヘルプ要員として呼び出されたのが穂波と初羽。よく職場の同僚のプライベートな問題に力を貸してくれるものだと思っていたが、初羽が「いやー、あの空気感はキツイって。明らかにおかしいもん」と続けた上に穂波もそれを否定しなかったため、彼らの労働環境改善の面も大きいらしい。申し訳ないし、穴がなかろうが掘ってでも入りたかった。

「あっ、でも歌姫先輩、あんま気にしないでください。俺たち、楽しそうだなーって思って来てる部分もあるんで!」

 穂波のフォローに申し訳なさは加速するが、瓶原が調理道具の準備を始めたことで強制的に意識がそちらに向く。顔を上げれば呆れたような顔の瓶原がこちらにキッチンスケールを差し出していた。

「反省会は後にしてくださいね。まだ作ってもないんですから」
「……はい」

 確かにそうである。ここでうだうだと悩んでいるほうが、わざわざ休日を返上してまで来てくれた3人にも悪かろう。そう結論づけた夜野は瓶原からキッチンスケールを受け取ると、材料の計量を始めたのだった。


◆ ◆ ◆ ◆


 ガトーショコラ作成自体はつつがなく終わった。当然のことである。菓子作りのノウハウはほとんどないものの、夜野は浅倉班の中でもかなり器用だ。加えて料理全般に精通している瓶原が指示し、夜野では力が足りない部分を穂波と初羽がフォローする。仕事ではないが、この布陣で失敗しろという方が難題かもしれない。
 焼き上がったケーキを休ませている間にコーヒーや紅茶を用意し、何とはなしにリビングで待機する。仕事中ならなんとも思わない沈黙も、やはりプライベートな集まりになると若干気まずい。
 結局口火を切ったのはいつも通り穂波だった。

「あのー、言いたくなかったらいいんですけど。歌姫先輩って、チーフのこと……結局、えーっと、どんな感じなんすか?」

 彼らしからぬ曖昧な物言い。こうした会話に不慣れなのか、あるいは気を遣ってオブラートに包もうとしたのかは夜野には分からない。しかしそれでも彼が、そして顔をこちらに向けてくる2名が聞きたいことは分かる。
 曰く、浅倉正義に男性としての好意を向けているか。もしくは今向けていないとしても、いずれ向けられそうな見込みはあるのか。
 浅倉からの感情を誤解だと断じようとするその傍らで、ずっとくすぶり続けていた問い。

「そう、ですね……」

 嫌いなわけではない。むしろ相当に好ましい。しかしそれが恋愛的な好意かと聞かれると難しいのも本音だった。
 だって、あの夜までの夜野にとって、浅倉正義は。

「職務に関係がないですし、向こうも忘れている様子だったので公言もしていないんですが……ヤノは昔、チーフの家のご近所に住んでいたんです。年も離れていたので対等な友達、というわけではなかったんですが、それでもたくさん気にかけていただいていました」
「へえー、幼馴染じゃないっすか!」
「そうですね、昔馴染みと言って差し支えないです。今は比較的改善しましたが、ヤノは昔体が弱くて……同年代の友達がほとんどいなかったヤノにとって、唯一の人だったのがチーフでした」

 夜野はそこまで言うと、懐かしむような、眩しいものを見るような顔をした。その場にいる3人が今まで見たこともないほどうっとりとした表情。見ているだけで暖かな気持ちになりそうなその顔が、しかし、曇る。

「だからでしょうか。チーフに対しては英雄に憧れるような気持ちをずっと抱えてきました。刑事になって再会したときも、DAPで副チーフを拝命したときも、そして今も……あの人に対しての感情を考えると、これが憧れなのか異性としての好意なのかが分からないんです」

 夜野にとって浅倉はずっと、憧れの対象だった。
 とんでもない話だが、彼が1人の男性だ、ときちんと認識したのは1ヶ月前のこと。誤解だと結論づけたものの、あの熱のこもった目を見て初めて、この人は男だと思ったのだ。
 そう説明すれば3人の肩が一斉に下がる。なにか良からぬことを言ってしまったかと内心慌てる夜野に対して初羽が口を開いた。

「ンー……月並みな言い方だけどさ。今、チーフの隣ってわりとうたさんの席って認識があるじゃん」
「そう、でしょうか。まあ、副チーフですし」
「それでいいけど。で、東も含めた元DAPメンバーとかじゃなくて……女性が、チーフの隣に立ってるとしたら、うたさんがどう思うかだと思うんだよね」

 同じ一課の人でも、近所の喫茶店の店員さんでも、誰でもいいけど、とにかくうたさん以外の女の人。初羽はそう言って口角をわずかに上げる。

「うたさん以外の女の人がチーフの隣を歩いて、時々2人で食事に行く。おれは見てないけど……うたさんがチーフに向けられたっていう目をその人が向けられる。それを想像した時、うたさんの気持ちってどんなもん?」

 そう問われ、夜野は考える。
 仕事中、自分のポジションに他人がいる。副チーフとして浅倉班を支えているその姿を想像してみると、若干の悔しさめいた感情はあるが、それだけだった。その人物が仕事終わり、浅倉に手を引かれて食事に同席する。また2人での食事もしたいと、はにかんだ顔と低い声でそう告げる。
 夜野の心臓が大きくひとつ脈打った。咄嗟に左胸の辺りを押さえる。カァッと喉奥が熱くなる感覚があるのにこめかみのあたりからくらくらと冷えていく。頬は熱く手元は冷たく、目もとは潤んでいるのに口元が乾く。正面に座る穂波が慌てたように腰を浮かせたのが滲む視界にうつった。

「歌姫先輩! さ、栄袮くん、やりすぎっすよぉ」
「わあ。うたさん、泣いちゃった?」
「な、泣いてないです! なんか、あの、息するのがうまくいかなかったっていうか……生理的な涙です!」
「いや、それにしたって大惨事ですよ……言い訳下手くそですかあなたは……」

 部下たちに慰められながら夜野は涙を拭う。まさか自分でも泣くとは思っていなかった。泣くほどの感情がそこに生じるとは思ってもみなかったのだ。

「……まあ、多少目算は狂いましたが、初羽くんのファインプレーでしたね。夜野副チーフが自分の気持ちを自覚しないままチョコレートを渡したとて、チーフも困るでしょうから」

 瓶原の言葉に穂波と初羽がうんうんと頷く。どうもわかっていなかったのは自分だけらしい。自分の気持ちであるにも関わらず自分だけが理解できていなかったことに驚愕しつつ、夜野は顔を上げる。
 面白がるような顔、心配そうな顔、訳知り顔。きっと「今日は親父対象の家族サービスデーだっつーの」という理由でここに来ていないもう1人も、ここにいれば彼らしい表情を浮かべていただろう。

「で、副チーフ。結論は出ましたか?」

 訳知り顔を崩さぬままに瓶原が問う。その言葉に夜野は少し逡巡し、それからこっくりとひとつだけ頷いた。

「はい。ありがとうございます、みなさん」

 目の光は強く、声に震えはない。いつも通りのー1ヶ月と少し前までのー夜野の姿だ、と3人はわずかに顔を見合わせる。ふわりと夜野の雰囲気が緩み、柔らかに笑みが溶け出す。

「みなさんのご協力があって、きちんと自分の思考をまとめることができました。ヤノは……私は……」

 ピリリリリ、ピリリリリ。

 無機質な電子音が夜野の声を切り裂いた。全員が一瞬体を強張らせる。夜野は顔から笑みを消し、電子音の発生源であるスマートフォンを起動した。

「はい、こちら夜野」

 はい、はい、承知しました。
 短い返答と共に夜野はスマートフォンから耳を離す。そして3人の方を振り向くと生真面目な表情に戻って口を開いた。

「黒田警部から直接の緊急招集です。刃物を所持した男性による通り魔。例の如く一課で総取りにせよとの仰せです。浅倉チーフと西門くんは既に現場に向かっているようですから、追いかけましょう」

 空気が一瞬解れる。油断というよりはいつも通りの雰囲気に寄ったというべきか。即座に車の鍵を手にした夜野の後ろに穂波が続き、初羽がその後ろ、最後に部屋を出る瓶原はケーキを丁寧に冷蔵庫にしまう。全員が退室したのを確認して夜野は入り口を施錠し、駐車場に停めてある愛車に全員で乗り込んだ。
 せっかくの休みだったのに、という不貞腐れたような初羽の声に瓶原が同意し、それを穂波が慰める。夜野はいつも通りに車を走らせながら、公私共に頼れる部下たちに心中で感謝した。自分1人ではきっと今こうして気持ちの切り替えもできなかっただろう。
 視界が明るい気がするし、心なし体も軽い。よもや幼少期に読んだ本の記述をこんな形で体感することになるとは思わなかった。

 「恋をすると世界の色が変わる」なんてことを自分が知る日が来るなんて思わなかった。
 自覚してしまえばなんということはない。その思いは胸の一番あたたかな部分にちょこんと座る。くすぐったいような、少し泣き出したくなるような、それでいて幸せな思い。そうか、これが恋だったのか、と夜野は納得する。

(ヤノは、許されるならあなたの隣がいい)

 伝えたいな、と思った。今なら、あの優しいひとにきちんと言葉で伝えられる気がする。後押しもしてもらったし、家に帰ればガトーショコラもある。始まる前から仕事終わりのことを考えているのは不躾かもしれないが、帰って時間に余裕がありそうならラッピングのひとつでも買って帰ろう。あれでいて彩のあるものが好きなひとだから、きっと喜ぶ。
 浅倉の隣という特別な場所を、一度目は進学というどうしようもない理由で離れた。二度目は事件の最中で喪ったかと思った。それでも彼の背を追い、離れそうになった腕を引いて戻したのだ。
 結局、考えてみれば、最初からそれが答えだったのだ。夜野は小さく笑った。


 けれど。
 翌朝になっても夜野の部屋の冷蔵庫からケーキが取り出されることはなかった。




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