朝朗けの君へ
浅倉のナビを頼りに車を走らせ、着いたのはいつも班の慰労会で行くのとは違う小洒落た雰囲気の店だった。仕事終わりの姿で来ていいものか、と内心ひやひやしている夜野に対して、浅倉はなんでもないように手招きをしてみせる。なんとか気持ちを奮い立たせて着いてはいくものの、品の良い店員に半個室の席に通された途端、弱気になってしまう。どう見ても自分が入っていい店ではない。殺しにかかってくるスキル犯罪者や刃物を持った強盗に怯まないのに店の雰囲気に怯むのは何事かと、なんとか自分を鼓舞して席に着いたものの妙な汗が止まらない。
「黒田さんがな。サイの一件があった頃に穂波をここに連れてきたらしい。食事も酒もうまいらしくてな、わりとあけすけに自慢された」
身内が可愛くて仕方がない、そのくせ口が引くほど悪い男の顔と怒鳴り声が脳裏をよぎる。彼が深い信頼を置く、明るい笑顔の男の姿も瞼の裏をちらついた。
そうすると、夜野は途端に落ち着いてしまう。黒田と穂波の関係が、浅倉と自分の関係に落とし込めれば緊張も飲み下せる。信用のおける部下だと思って労ってくれるつもりなのだろう。であれば、頑なになるのは反対に失礼というものだ。肩から力が抜けていく。
「珍しい。浅倉チーフでも人に自慢したいと思うことがあるんですね」
「夜野は俺を買いかぶるきらいがあるな。俺だって人並みの欲求はある」
軽口を叩けば幾分かリラックスしたのが伝わったらしい。浅倉からも普段より軽い声が返ってくる。夜野は浅倉に勘付かれないようにこっそりと息を吐いた。先程の彼の目付きは、きっと自分の気のせいだ。光の加減か、そうでなければ終業直後でいつもと違う心持ちだったのかもしれない。
そうでなければ浅倉正義が、黒田とは違うカリスマ性で班員を惹きつけてやまない彼が、あんなただの男のような目をするわけがない。
「夜野は何が食べたい? 車できて飲めない分、食べ物は好きなものを頼むといい」
実際、今浅倉が夜野に向けている目は大変穏やかだ。口調も相まって父とも兄ともつかぬ様相に見える。
――うたちゃん、何か食べたいものはあるか?
――うたは……えーっと……。
今日はやけに昔のことを思い出す。その上、妙に胸がざわざわして、思い出したことを無視する、というのを許さない。
もしかしたら、泣きじゃくるあの少女が、かつての自分に重なって見えたからかもしれない。あの子にとって浅倉班が救世主だったように、幼少期の自分にとっては目の前の男こそが英雄だったのだから。
「そうですね、ヤノは……」
言いかけた夜野の目にメニューの一つが止まる。こんな小洒落た店に何故、と思うものの一度目につくとなかなか離れない。そもそも、先ほど思い出したかつての自分がねだったものがおあつらえむきにここにあるのが問題なのだ。誰に対してかわからない責任転嫁をしてから、夜野は大人としての面目を保つべく複数の注文を始めた。
◆ ◆ ◆
「すみませんチーフ、結局ご馳走になってしまって」
「元からそのつもりだ。今日は珍しく、夜野も食べていたしな。しかしたこ焼きとはこれまた珍しかったな」
「久しぶりに食べたくなってしまって……」
言葉の通り、いつもよりほんの少し苦しい腹部をやんわりさする。二人分のつもりで頼んだつもりがいつもの六人分の料理が頭をちらついて、二人にしては多めの食事になってしまった。注文をした手前、小食の夜野も食べられませんとは到底言えず、こうして食べ過ぎてしまったわけだ。
「素敵なお店だったので、今度はみんなも一緒に来られるといいですね。穂波くんは来たことがあるにしても、瓶原くんなんかは喜びそうです。メニューが多かったから初羽くんも楽しめそうですし、半個室なら西門くんがある程度おしゃべりしても問題ないですしね」
車に向かいながらそんなことを口にする。自分が浅倉にとってこの店に連れてきてもいいと思えるくらいの部下なのだとしたら、夜野は他の班員たちもこの店に連れてきたかった。面倒そうな顔をしながら、あるいは得意そうな顔をしながらここにきて、食事をする彼らを想像するだけで暖かな気持ちになる。
浅倉はそんな夜野を眩しいものを見るように見つめた。視線に気づいて夜野が顔を上げ、視線が交錯すると、浅倉は微笑む。
「夜野は、DAPを……浅倉班を、大切に思ってくれているんだな」
ぽつり、万感の思いを込めて落とされたであろう言葉に、夜野は。
「そうですね。あなたが率いて、私が支えると誓った、実力者揃いで退屈しない班ですから」
平時の彼女には珍しく、躊躇うことなくすらすらと誉め言葉を口にした。目の前の浅倉の呆けた顔に少々居心地悪そうに目を伏せると、「ヤノだって、みなさんのことをできる限り褒めようとは思ってるんです」と呟く。
「でも、DAPの頃からヤノはあまりみなさんに対して、こう、友好的ではなかったというか……結局副チーフという立場に手いっぱいになってしまって、みなさんを褒めるだなんて烏滸がましい立ち回りしかできなかったというか……なのに今さら、親しげに振る舞うと、ちょっと、違うかなって思うだけで……」
どんどん尻すぼみになっていく夜野の声。比較的通りやすい彼女の声は、今や耳を澄まさなければ聞き取れないほどぼそぼそと小さく発されている。おまけに照れくさいのかいたたまれないのか、髪から覗く耳の縁まで赤い。珍しい夜野の姿に思わず浅倉は噴き出した。笑い出した浅倉に夜野は真っ赤な顔のままじろりと恨めし気な視線を送る。すまない、と前置きしたうえで浅倉は口を開いた。
「それに関しては、絶対に皆気にしていない。俺が保証する。そんな小さなことをいうやつらが、大人しくうちの班にいると思うか?」
否定の言葉は出ない。む、と唇を僅かに突き出してそっぽを向いたまま、夜野は小さく首を横に振った。自惚れでもなくそう思えるからかえって気まずいのだ、という繊細な感情はおそらく浅倉には伝わるまい。
車の前に来ると、浅倉は珍しく「寄りたいところがあるから送迎は必要ない」と言った。まだ比較的早めの時間だからもう一軒くらい行くのだろうか、と結論づけて頷く。再度礼を伝えると浅倉も「気にするな」と同じように答えた。それからふと何かを思い出したような顔になると夜野の名を呼ぶ。
「はい?」
相槌を打った夜野の目の前で浅倉が僅かに屈む。
「班の皆を誘った食事ももちろんだが――」
ぼそり、耳元で低い声が響いた。咄嗟に耳を押さえて見上げた彼の顔は、やはり勘違いではなく。
「二人での食事も、時折できると嬉しいな」
夜野が知らない、はにかむような笑みを浮かべた浅倉正義の顔だった。
「あ、え?」
それに気取られて一瞬、阿呆のような声が口から漏れる。否定も訂正もなく、何事もなかったかのように浅倉は姿勢を正すと、「ではまた明日」と声をかけ駅の方に歩いて行ってしまった。
そこからどうやって家に帰ったのか、刑事としてゆゆしきことだが、あまり覚えていない。我に返ったのは寝る支度を済ませたベッドの中。物品の場所が変わっているところを見ると、無意識のうちに平常通りのナイトルーティンは済ませていたらしい。
「二人での、食事?」
胸の内側に思いが灯る。花が内側からぽっと色づくようなその僅かばかりの思いは、しかし夜野の心を揺さぶるには十二分な質量を伴っていた。
「浅倉チーフは……どうして、あんなことを……」
にもかかわらず、夜野は浅倉から丁寧に落とされた言葉の意味を“意図的に”掴み損ねる。
元来、夜野は他人の感情の機微に鈍感な人間ではない。彼女にとって他人の感情を読むということは、体の弱さが原因で友人が作りにくかった頃に決死の努力で掴んだコミュニケーション手段であり、刑事になり二課に配属されてからは多種多様な不正を発見して糾すために必須の技能であり、DAPに配属されてからは浅倉と共にDAPのメンバーを守るための、上層部と直接渡り合うための武器でもあった。もちろんそれはプライベートに関しても例外ではない。彼女を知る古くからの友人や、同級生などは夜野を「周りの状況に合わせて立ち回れる人」だと評することが多い。夜野自身も相手の感情を察知する能力に関しては一般の人々と比べても段違いに高い自信がある。
だが――自分に向けられると想像してもいなかった“好意”の感情を読み取った彼女は、それを“誤認”だと判断した。
あの浅倉正義が夜野歌姫を憎からず思っている? いやしかし、本当にそんなことがあるだろうか。だって、夜野には浅倉に好意を向けられる要素が何一つ思い浮かばない。だとすれば夜野が浅倉の言葉や瞳から感じた思いは自分の勘違い、それも世間一般的に言う“イタい”勘違いというものなのではないだろうか。浅倉は気心が知れた部下をただ大事にしてくれただけではないのか。
すうっと静かに胸の内の色が褪せていく。早まっていた鼓動が落ち着き、昏い気持ちに引きずられるように徐々に遅いリズムを刻み始める。重い息を一つ吐いて夜野はベッドにもぐりこんだ。もうこれ以上考えるのも、自分の中にあるものを見つめなおすのも面倒くさい。
とろとろと眠りに落ちていく意識の中、別れ際に見せた浅倉の控えめな笑顔だけが最後まで瞼の裏にこびりついて離れなかった。
「黒田さんがな。サイの一件があった頃に穂波をここに連れてきたらしい。食事も酒もうまいらしくてな、わりとあけすけに自慢された」
身内が可愛くて仕方がない、そのくせ口が引くほど悪い男の顔と怒鳴り声が脳裏をよぎる。彼が深い信頼を置く、明るい笑顔の男の姿も瞼の裏をちらついた。
そうすると、夜野は途端に落ち着いてしまう。黒田と穂波の関係が、浅倉と自分の関係に落とし込めれば緊張も飲み下せる。信用のおける部下だと思って労ってくれるつもりなのだろう。であれば、頑なになるのは反対に失礼というものだ。肩から力が抜けていく。
「珍しい。浅倉チーフでも人に自慢したいと思うことがあるんですね」
「夜野は俺を買いかぶるきらいがあるな。俺だって人並みの欲求はある」
軽口を叩けば幾分かリラックスしたのが伝わったらしい。浅倉からも普段より軽い声が返ってくる。夜野は浅倉に勘付かれないようにこっそりと息を吐いた。先程の彼の目付きは、きっと自分の気のせいだ。光の加減か、そうでなければ終業直後でいつもと違う心持ちだったのかもしれない。
そうでなければ浅倉正義が、黒田とは違うカリスマ性で班員を惹きつけてやまない彼が、あんなただの男のような目をするわけがない。
「夜野は何が食べたい? 車できて飲めない分、食べ物は好きなものを頼むといい」
実際、今浅倉が夜野に向けている目は大変穏やかだ。口調も相まって父とも兄ともつかぬ様相に見える。
――うたちゃん、何か食べたいものはあるか?
――うたは……えーっと……。
今日はやけに昔のことを思い出す。その上、妙に胸がざわざわして、思い出したことを無視する、というのを許さない。
もしかしたら、泣きじゃくるあの少女が、かつての自分に重なって見えたからかもしれない。あの子にとって浅倉班が救世主だったように、幼少期の自分にとっては目の前の男こそが英雄だったのだから。
「そうですね、ヤノは……」
言いかけた夜野の目にメニューの一つが止まる。こんな小洒落た店に何故、と思うものの一度目につくとなかなか離れない。そもそも、先ほど思い出したかつての自分がねだったものがおあつらえむきにここにあるのが問題なのだ。誰に対してかわからない責任転嫁をしてから、夜野は大人としての面目を保つべく複数の注文を始めた。
◆ ◆ ◆
「すみませんチーフ、結局ご馳走になってしまって」
「元からそのつもりだ。今日は珍しく、夜野も食べていたしな。しかしたこ焼きとはこれまた珍しかったな」
「久しぶりに食べたくなってしまって……」
言葉の通り、いつもよりほんの少し苦しい腹部をやんわりさする。二人分のつもりで頼んだつもりがいつもの六人分の料理が頭をちらついて、二人にしては多めの食事になってしまった。注文をした手前、小食の夜野も食べられませんとは到底言えず、こうして食べ過ぎてしまったわけだ。
「素敵なお店だったので、今度はみんなも一緒に来られるといいですね。穂波くんは来たことがあるにしても、瓶原くんなんかは喜びそうです。メニューが多かったから初羽くんも楽しめそうですし、半個室なら西門くんがある程度おしゃべりしても問題ないですしね」
車に向かいながらそんなことを口にする。自分が浅倉にとってこの店に連れてきてもいいと思えるくらいの部下なのだとしたら、夜野は他の班員たちもこの店に連れてきたかった。面倒そうな顔をしながら、あるいは得意そうな顔をしながらここにきて、食事をする彼らを想像するだけで暖かな気持ちになる。
浅倉はそんな夜野を眩しいものを見るように見つめた。視線に気づいて夜野が顔を上げ、視線が交錯すると、浅倉は微笑む。
「夜野は、DAPを……浅倉班を、大切に思ってくれているんだな」
ぽつり、万感の思いを込めて落とされたであろう言葉に、夜野は。
「そうですね。あなたが率いて、私が支えると誓った、実力者揃いで退屈しない班ですから」
平時の彼女には珍しく、躊躇うことなくすらすらと誉め言葉を口にした。目の前の浅倉の呆けた顔に少々居心地悪そうに目を伏せると、「ヤノだって、みなさんのことをできる限り褒めようとは思ってるんです」と呟く。
「でも、DAPの頃からヤノはあまりみなさんに対して、こう、友好的ではなかったというか……結局副チーフという立場に手いっぱいになってしまって、みなさんを褒めるだなんて烏滸がましい立ち回りしかできなかったというか……なのに今さら、親しげに振る舞うと、ちょっと、違うかなって思うだけで……」
どんどん尻すぼみになっていく夜野の声。比較的通りやすい彼女の声は、今や耳を澄まさなければ聞き取れないほどぼそぼそと小さく発されている。おまけに照れくさいのかいたたまれないのか、髪から覗く耳の縁まで赤い。珍しい夜野の姿に思わず浅倉は噴き出した。笑い出した浅倉に夜野は真っ赤な顔のままじろりと恨めし気な視線を送る。すまない、と前置きしたうえで浅倉は口を開いた。
「それに関しては、絶対に皆気にしていない。俺が保証する。そんな小さなことをいうやつらが、大人しくうちの班にいると思うか?」
否定の言葉は出ない。む、と唇を僅かに突き出してそっぽを向いたまま、夜野は小さく首を横に振った。自惚れでもなくそう思えるからかえって気まずいのだ、という繊細な感情はおそらく浅倉には伝わるまい。
車の前に来ると、浅倉は珍しく「寄りたいところがあるから送迎は必要ない」と言った。まだ比較的早めの時間だからもう一軒くらい行くのだろうか、と結論づけて頷く。再度礼を伝えると浅倉も「気にするな」と同じように答えた。それからふと何かを思い出したような顔になると夜野の名を呼ぶ。
「はい?」
相槌を打った夜野の目の前で浅倉が僅かに屈む。
「班の皆を誘った食事ももちろんだが――」
ぼそり、耳元で低い声が響いた。咄嗟に耳を押さえて見上げた彼の顔は、やはり勘違いではなく。
「二人での食事も、時折できると嬉しいな」
夜野が知らない、はにかむような笑みを浮かべた浅倉正義の顔だった。
「あ、え?」
それに気取られて一瞬、阿呆のような声が口から漏れる。否定も訂正もなく、何事もなかったかのように浅倉は姿勢を正すと、「ではまた明日」と声をかけ駅の方に歩いて行ってしまった。
そこからどうやって家に帰ったのか、刑事としてゆゆしきことだが、あまり覚えていない。我に返ったのは寝る支度を済ませたベッドの中。物品の場所が変わっているところを見ると、無意識のうちに平常通りのナイトルーティンは済ませていたらしい。
「二人での、食事?」
胸の内側に思いが灯る。花が内側からぽっと色づくようなその僅かばかりの思いは、しかし夜野の心を揺さぶるには十二分な質量を伴っていた。
「浅倉チーフは……どうして、あんなことを……」
にもかかわらず、夜野は浅倉から丁寧に落とされた言葉の意味を“意図的に”掴み損ねる。
元来、夜野は他人の感情の機微に鈍感な人間ではない。彼女にとって他人の感情を読むということは、体の弱さが原因で友人が作りにくかった頃に決死の努力で掴んだコミュニケーション手段であり、刑事になり二課に配属されてからは多種多様な不正を発見して糾すために必須の技能であり、DAPに配属されてからは浅倉と共にDAPのメンバーを守るための、上層部と直接渡り合うための武器でもあった。もちろんそれはプライベートに関しても例外ではない。彼女を知る古くからの友人や、同級生などは夜野を「周りの状況に合わせて立ち回れる人」だと評することが多い。夜野自身も相手の感情を察知する能力に関しては一般の人々と比べても段違いに高い自信がある。
だが――自分に向けられると想像してもいなかった“好意”の感情を読み取った彼女は、それを“誤認”だと判断した。
あの浅倉正義が夜野歌姫を憎からず思っている? いやしかし、本当にそんなことがあるだろうか。だって、夜野には浅倉に好意を向けられる要素が何一つ思い浮かばない。だとすれば夜野が浅倉の言葉や瞳から感じた思いは自分の勘違い、それも世間一般的に言う“イタい”勘違いというものなのではないだろうか。浅倉は気心が知れた部下をただ大事にしてくれただけではないのか。
すうっと静かに胸の内の色が褪せていく。早まっていた鼓動が落ち着き、昏い気持ちに引きずられるように徐々に遅いリズムを刻み始める。重い息を一つ吐いて夜野はベッドにもぐりこんだ。もうこれ以上考えるのも、自分の中にあるものを見つめなおすのも面倒くさい。
とろとろと眠りに落ちていく意識の中、別れ際に見せた浅倉の控えめな笑顔だけが最後まで瞼の裏にこびりついて離れなかった。
