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朝朗けの君へ

 扉一枚隔てた向こうで浅倉の声がしている。くぐもった男の叫び声にも似た声が屋内から聞こえてくるが、一か所にとどまっているのか声の発生源がぶれることはなかった。小窓から様子を伺っていた初羽は下で作業を続ける夜野に小さく声をかける。

「うたさん、チーフたちが中に入った。聞こえてると思うけどー、まだ交渉中。いけそう?」
「ある程度構造は理解していると思うのですが……なかなか、難しくて……」

 細心の注意を払いながら鍵をこじ開ける。DAPにいたときも、はたまたその前の捜査二課にいたときもしたことのない動きに冬場だというのに汗がにじむ。しかし慣れていないからといって投げ出すわけにもいかない。横にいる二人よりも少しばかり自分のほうが手先は器用なのだ。加えて言うなら浅倉班の中ではこの三人が器用さのトップスリーに当たる。必然的に自分が開錠の役割を、他二人に見張りと突入の準備をしてもらうことになった。
 鍵穴の中で針金をゆっくりと曲げていく。錠を壊さぬように、開錠時に音を鳴らさぬように、中にいる男を刺激せぬように。そうすることが容疑者を確保し、人質を一刻も早く救出することにつながる。夜野は一度目を閉じ、短く息を吐くと最後の一区画に取り掛かった。

「………開錠、しました。いつでも扉開けられます」

 ほとんど音もなく、しかし確かな手ごたえを夜野の手に返して鍵は開く。興奮して大声を上げている様子の男にはおそらく聞こえていないだろう。無線に向かってそう言えば、初羽が「聞こえてるっぽいよ」と声を上げる。西門が笑ったのが見えたらしい。
 姿勢をなるべく低く保ち、三人で裏口の前に構える。万一のことに備えて瓶原は警棒を構え、初羽と夜野はその両端に小さく広がる。容疑者がこちらに向かってくるようであれば最も武器慣れした瓶原が応戦し、突入組と挟み撃ちにしている隙に夜野と初羽が人質を保護する算段だ。彼がこちらに向かってこなければいいが、こればかりは錯乱した人間のすること、たらればは通用しない。

「では、十秒後から扉を開け始めます。目標は人質の保護、向かってくるようであれば容疑者の無力化も致し方ありません。全力を尽くしましょう」

 低く落とした声で夜野が告げれば、二人はそれぞれ頷いた。それを視認し、十秒。夜野はゆっくりと裏口の扉を開け始めた。うっかり開けていく途中で扉が軋まぬよう、蝶番の近くは初羽が押さえながら開いていく。
 隙間ができれば中の様子がさらによくわかる。大きな声で男が吠えているのだろう、さらに負けじと大きな声で浅倉、穂波、西門の三名が交渉を持ちかけているものだからちょっとしたカラオケ会場のようであった。潜入組は眉間にしわを寄せたものの、しかし結果的には自分たちの潜入のカモフラージュになっていたということに思い至り表情を正す。
 その大声に混じって、小さなすすり泣きが聞こえてきた。三人は顔を見合わせて扉を開ける速度を少しだけ早める。思っていた以上に近くから聞こえたその声は、確かに報告にあった通り少女のもので相違ないだろう。

「ひっ……!」

 扉が開いたことに気づいたのか、少女の引きつった声が聞こえる。大声を上げている容疑者にはいまだバレていないようだが、早めに気を静めるに越したことはない。目配せをかわし、まず瓶原が扉の隙間から体を滑りこませた。次いで夜野、初羽と続く。夜野は悲鳴を上げそうになった少女に静かに近寄ると、ほんの少しだけ口角を上げて見せた。

「あ……」
「もう大丈夫よ。よく頑張りましたね」

 害がないと判断したのか、少女は僅かに目を見開いて夜野の袖口を掴む。みるみるうちに目に涙をためた少女はしゃくりあげながら夜野にしがみついた。すぐさま瓶原と初羽が二人と男の間に割り込み、瓶原が静かに手を上げる。保護成功の合図だった。
 遠目からでもそれが視認できたのだろう、浅倉は深く息を吐くと男に再度呼びかける。

「君はまだ、誰も傷つけていない! 強盗に入りはしたが、怪我人を出さなかったのは幸いだった。武器を捨てて投降しなさい」
「う……うるせぇっ! こ、ここ、こっちには、がき、がきが、がきがここにっ……あ……なん、だ、おまえ、らああ……!」

 少女を人質にしていたことを思い出したのか、不意に男の頭がぐるりと裏口側に向けられる。まずい、と思ったときには男の目線は保護された少女と、それを取り囲む三人の刑事たちを捕えていた。血走った目がぎょろりと裏返るように動くと男は咆哮する。
 聞くが早いか、瓶原は臨戦体制に入った。相手はナイフを持っているとはいえズブの素人。武道に精通した彼の敵う相手ではない。予想通り、直線的に向かってきた男の振り上げたナイフは、一閃、彼の警棒に弾き上げられる。鋭い音を立てて天井にナイフが突き刺さり、男がギョッと身をすくめたその拍子に影から初羽と穂波が飛びかかった。どすんと鈍い音が響き、一拍遅れて肺から空気を絞り出された男のうめき声が漏れる。
 確保。
 静かな浅倉の声の後に、同じ言葉を西門が大声で復唱する。さらにそれを合図にするように複数人の刑事がなだれ込み、男の四肢を取り押さえた。押しつぶされまいと飛びのいた穂波と初羽に西門がハイタッチをしかけにいく。手慣れた様子で男を確保した刑事たちは最後の力を振り絞って暴れる男を無理やり空き家から引きずり出していった。展開の早さに理解が追い付かないのか、この場でただ一人、人質とされていた少女だけが呆然としている。

「……これで、本当にもう大丈夫。強いお兄さんたちが、ちゃんとあの人を怒ってくれましたから」

 少女の背にゆっくりと手を当てながら、夜野が穏やかに言葉をこぼす。少女の目から再び大粒の涙が溢れだし、体が小刻みに震え始めた。しゃくり声はやがて嗚咽になり、声にならない声で絶叫を始める。

 怖かった。怖かった。怖かった!

 ほとんど意味をなさない音であるそれを夜野は聞き取り、相槌を打ち、静かに少女を抱きしめる。そうね、大丈夫よ、頑張ったわね、と答える声は、張り上げているわけでもないのに空き家の中によく響いた。少女の涙と鼻水と涎がない交ぜになった液体でブラウスがみるみるうちに湿っていくのも気に留めていないのか、一定のリズムで背中を叩きながら声をかけ続ける。

「……なーんか、夜野、あいつの母親みたいな顔してんじゃん? 俺らには普段にこりともしねーのに」

 そこから二メートルと少し離れた入り口付近、どことなく不満げな声で西門が言えば瓶原と穂波、初羽が揃って噴き出した。噴き出した理由は単純で、まるで下の子に母親を取られた上の子が拗ねたような物言いだったからだ。そこに穂波が間髪入れず「東くん、歌姫先輩好きっすねえ」と悪意なく言葉を投げるものだから、その場の全員がけらけらと声を上げて笑う。
 否――唯一笑わなかった男が一人。珍妙なうめき声をあげて、古典的なお笑いのように片膝から力が抜ける、所謂ズッコケまでかました男。
 浅倉は今しがたの自分の行動に自分自身が反応できていないのか、パクパクと口を開閉しては班員たちを困ったように見つめている。皆がそんな浅倉を珍しいと笑うなか、穂波だけが一瞬妙な顔をして黙り込み、それから何事もなかったかのように皆の笑い声の中に加わっていった。

「いつまで笑ってるんですか」

 少し間を開けて夜野が小走りに近寄ってくる。少女の姿はなく、聞けば他の婦警の手によって迎えに来た両親と共に診察と聞き取りのために病院へ向かったとのことだった。ぐしょぐしょになったブラウスには相変わらず意識がいっていないのか、服が肌に張り付いたままいつも通りの無表情で班員全員をじろりと睨めあげる。

「本部に戻りましょう。この件についての報告書も必要ですから、チーフとヤノがメインのものを書きます。穂波くんと瓶原くんでそれぞれの報告書のチェックを、西門くんと初羽くんは他課と上への報告に回ってください」

 すらすらとこの後の工程を口にした夜野は浅倉に近寄ると「チーフ?」と怪訝そうに声をかける。浅倉ははっと我に返った様子で夜野を見下ろすと、咳ばらいを一つして夜野の指示を再度復唱した。浅倉から正式に出た指示に班員たちは本部に戻るべく、捜査車両のほうへ向かう。夜野も運転席に向かおうとして、不意に左腕を柔い力で引かれた。

「え……」

 なに、の声も出ないうちに夜野の肩に暖かな重みがかかる。それがジャケットだと理解するのに数瞬。

「濡れた服で体が冷えるといけない。俺ので申し訳ないが、もう一枚羽織っておくといい」

――うたちゃんは体を冷やさないようにしようね。俺の服、貸してあげるよ。

 そのジャケットが浅倉のものだと理解するのにもう一瞬。夜野の脳裏で浅倉の姿がダブる。今より二十歳以上若い、まだ高校生時分の浅倉。体が弱かった自分を気遣って上着を貸してくれた彼は、きっとその時のことなど覚えていない。それなりの密度の付き合いになった部下を気遣った彼らしい行動。
 いつもなら何も思わないそれに、何故だか今日はカチンときた。明確な理由はない。ただなんとなくそのままにしておきたくないと思っただけの、夜野の直感。

「ありがとうございます……お兄ちゃん」
「え?」
「いえ……お心遣い痛み入ります、チーフ。車に戻りましょうか」

 聞こえるか聞こえないかの僅かな音に乗せたかつての呼び方はきっと聞こえていないだろう。そう判断して夜野は浅倉の横をすり抜ける。自分の肩にかかったジャケットからは慣れ親しんだ、けれど知らない男の香がほのかに薫っていて、夜野には少々こそばゆかった。


◆ ◆ ◆


 ところで、どの仕事場にもあるように浅倉班にも班員だけに伝わる暗黙のルールというものがある。ルールとは言っても堅苦しいものではなく、“綺麗に事件が解決した時は皆で食事を共にして互いをねぎらう”といった程度のものだ。今日の一件などは被害者たちにも自分たちにも怪我なく、十全に終えた仕事だと言えるだろう。夜野自身もブラウスを着替えて幾分こざっぱりした気持ちで報告書を書き上げ、終業を迎えている。

「夜野、少しいいか。今日の夜は空いているか?」

 だから浅倉がそのように声をかけてきたとき、夜野は頷いた。そのまま反射的に班のデスク周りを見回す。仕事が済めば直帰したいだろう瓶原や初羽だが、今日の彼らは功労賞だ。帰る前に彼らを誘おうと口を開いた夜野だったが、声は音になる前に霧散する。
 左腕を引かれるのは今日だけで二度目だった。目の前に立つ男がそれをしたのだと理解して、夜野はデスクのほうに向けていた目線を浅倉に戻す。何か伝えそびれがあったかと確認しようとして、浅倉の目を見た夜野は自分の口から言葉になるはずだったものが漏れ落ちていくのを感じた。
 知らない男の目をしている。熱に浮かされたような、それでいてどこまでも冷静なような、奇妙な瞳。浅倉のものであるのが不思議なほどの色を帯びたその瞳に夜野の足が僅かに後退しようとするが、掴まれた腕がそれを許さない。動揺する夜野をよそに浅倉は思った以上に落ち着いた声を発した。

「今日は、二人で食事がしたいんだが」

 何が何やらわからぬまま、夜野は小さく首を縦に振るほかなかった。

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