朝朗けの君へ
「二人で食事がしたいんだが」
浅倉にそう声をかけられたのは夜野が退院してから三週間、復職してから三日が経った日のことだった。今日は大きな案件もなく、デスクワークを中心にこなしていたのでなにも祝い事があるわけではない。ただ、休職期間中にそれなりに仕事は溜まっていたので、片付けるのに時間がかかってしまい退勤時間はとうに過ぎている。しばらく手伝ってくれていた班員たちは夜野の判断で帰宅させたところだった。結果的に浅倉と二人になってしまったが。
夜野は静かに浅倉の目を見返した。あの日見た色は浅倉の目にはない。熱っぽさのない、いつも通りの目だ。
だから夜野も、悩ましい部分は多々あれどいつも通りの声色で返した。
「今日ですか」
明日でもいい、と浅倉は続けた。別の予定があったり、体調が万全でないなら別の日にする、と。その口調は仕事中とは異なり穏やかだ。
予定は特にない。万全かどうかと聞かれればいかんとも答え難いところだが、とはいえ食事に行けないほどではない。いつもよりは疲れているなという程度である。
だが夜野にはどうしても、浅倉に言っておかなければならないことがあった。それを言わずして二人で食事になど行けまい。
「お誘いはありがたいのですが、」
そこまで言って、もう一度目の前の浅倉を見る。口が僅かに開いてわなわなと震えているのが見てとれた。しかし夜野は言葉を続ける。
「退院祝いはすでにしてもらいましたし、怪我のことを気にしておられるのであれば大丈夫ですよ。あれはヤノの判断ミスでもありますから、チーフが気にされることではありません。そこまで時間を割いていただかなくても問題ありませんから」
意識して言葉を使う。面倒なことをしている自覚はあった。ただ、面倒であっても言っておかなければ今後に差し障る。
脳裏に冷蔵庫の中で残念な姿に変わってしまっていたガトーショコラが浮かぶ。あれを作った時の気持ちを思い返して、震えそうになる足を奮い立たせた。喉の奥がきゅう、と詰まりそうになるのを押し返して声を発する。
「だから、そういった理由でお誘いいただいているのであれば、ヤノはお食事には行けません。ヤノは……私は、それでは、嫌です」
いつもより幾分か硬い声にはなったが、それでも末尾は情けないほど震えていた。目線だけは下げないように、なけなしの度胸を振り切って彼から目を離さない。それならいいと言われても俯いてしまわないように頭の中で必死に念じる。
ところが、待っても待っても彼の口は動かない。真一文字に引き結ばれたままの唇はぴくりともしない。たっぷり十秒ほどの沈黙があって、人より肝が座っていると言われる夜野も流石に目線が彷徨い始めた。どうしよう、とその五文字が脳内を回り始める。じりじりと目線が下がり、とうとう夜野の視界から浅倉の顔が消えた。ネクタイの結び目のあたりでかろうじて俯きは止まったが、それでも言葉は降ってこない。
次の音があったのは、そこからさらに数十秒が経ってからだった。
「……はぁー……」
夜野の耳に飛び込んできたのは深い深いため息。自分のものではないので、それが浅倉の口からこぼれたものだということはすぐに分かった。音の高低から、それがポジティブなものなのかネガティブなものなのかを判別することはできない。
「お前が……」
浅倉が言いかけて、口をつぐんだのが分かる。それからまた数秒の沈黙があって、浅倉は意を決したように口を開いた。
「お前が、特別鈍いというのはよーく分かった」
「…………は?」
予想していなかった言葉に、思わず夜野は顔を上げる。そこには明らかに、誰がどう見ても“拗ねて”いる様子の浅倉がいる。今まで見たことのないその様子に夜野は多少面食らった。昔も、DAPとして活動してからも、浅倉班になってからも、こんな姿は見たことがない。
「お前には俺が、詫びを入れるためだけにいつでも日程を空ける男に見えていると。詫びを入れるためだけにお前を誘っていると。本当にそう思っているのか」
「え、と……」
「前のこともそうだ。瓶原と初羽には別日に労いをしようと声をかけて。わざわざ穂波に雰囲気のいい店がないか聞いて。西門についてこないように釘を刺して」
「あの、チーフ?」
弾丸のように飛び出す言葉は夜野の想像をはるかに超えている。先ほどまでの沈黙はなんだったのかと思うほど饒舌になった浅倉は、呆れているようにも憤っているようにも見えた。
「また二人での食事をしたいと言っただけで、直接言わなかった度胸のない俺が悪いのはもちろんだが、それにしたってお前の今の返事は……」
「そ、その辺で! その辺で、あの、ご容赦ください!」
夜野は言葉を聞いている間に俯いた顔のまま、慌てて声を上げる。それでやっと浅倉の言葉は一旦止まった。
言葉はマシンガン、とはよく言ったものだ。既に夜野のハートは言葉で撃ち抜かれ過ぎて原型も留めていない。混乱に支配された脳内で、ただ一点、小さな期待だけが脈動している。耳元に心臓が移動してしまったと錯覚するほど、自分の鼓動が大きく聞こえる。
だって、今の言い方ではまるで。
「それではまるで、チーフが、ヤノに……」
言いかけた夜野の手を大きな手が取る。一回りも二回りも大きい手は夜野よりほんの少しだけ暖かい。
「そうだが?」
その開き直ったような声色はいっそ清々しかった。直接的な言葉があるわけではないのに、そのたった四文字はなにより雄弁だった。
自分のこれまでの懸念が、声と手から伝わる熱で溶かされていくのを夜野は感じる。
結局自分は今も昔も、この男の言動一つで左右されてしまうのだろうな、と。そう思ったら震えるほど恥ずかしく、飛び上がりたいほど嬉しかった。
「……これでは足りないな。お前は俺以上に考えるのが下手だというのが今回で分かったんだから、もっときちんと言葉にした方がいい」
独り言のようにそう言って、浅倉がほんのわずかに屈む。落ちた夜野の視線を掬い上げるように目合わせて、彼はそっとはにかんだ。
「俺は、ただの部下と二人で食事には行かない」
「……はい」
「ただの部下を食事に誘うためだけに、周囲に根回しもしない」
「……はい」
「つまり、その」
ぎゅうっと手に力がこもる。浅倉の手が小さく震えているのに気づいて、夜野は小さく笑った。
「俺は、夜野が好きだ。好きな女性と食事に行きたいから、誘っている。今回は無事を祝う意味合いもないわけじゃないが」
目の前の男の目には、いつか見た熱が宿っている。熱に揺れる空色の瞳を支える色白の肌にぽうっと朱が差していて、夜野にはそれが随分と美しいもののように見えた。多分、人はそれを惚れた欲目とでもいうのだろう。
「私も同じ気持ちですから……そういうお誘いでしたら、私でよければ、喜んで」
握られた手を握り返す。自分の手も、相手のことを言えないくらい震えていた。その震えた手を先ほどよりもしっかりと握って、浅倉が笑う。
「以前の食事もそのつもりで誘っていたんだが、俺は言葉が足りなくていけないな。いや、状況もあわせるから余計にか……」
さすがに瓶原に釘を刺された、と浅倉は続けてはにかんだ。曰く、「あなたたち二人とも驚くほど面倒なので早く言葉にしてください。俺が帰れないので」云々。面目ないな、と夜野は苦笑する。おそらく口にはしていないが、穂波にしろ初羽にしろ西門にしろ、多かれ少なかれそう思っていたと思う。なんだかんだ面倒見のいい彼らにとって、あのもだもだした空間はストレスフルなものだっただろう。詫びの品くらいは献上せねばなるまい。
くすくす笑っている夜野に浅倉は少しばかり不思議そうな顔をしたが、なんとなく考えていることを察したのだろう。悪いことをしたな、と少しだけ頬を掻いた。
「お詫びとして食事会と、何かお菓子くらいは渡しておかないといけませんね。チーフと夜野の連名で誘えば、察してくれそうですけど」
そうだな、そこまで言った浅倉が何かを考えるように言葉を止める。夜野が首を傾げると、浅倉は少しばかり言い淀んだものの比較的すぐに口を開いた。
「俺たちは先ほど双方の思いを確認したわけだが」
「まあ、そうです、ね? 改めて言葉にされると面映いですが」
「だから、なんだ……プライベートの時くらいは、名前で呼んでも構わないか?」
そう言われれば夜野も合点がいく。他者と付き合った経験が乏しい夜野にはついぞ縁のないことだったが、夜野の両親だって子供たちがいない場では互いのことを名前で呼んでいるし、恋人とはそういうものなのだろう。自分より年上で、かつそれなりに女性と付き合った経験もある浅倉がそうしたいとわざわざ宣言したのは、きっと慣れない自分のことを気遣ってに違いない。
少々、いや相当に照れはあったものの夜野はこっくりと頷く。浅倉は嬉しそうに微笑むと、自分自身の胸の辺りをとんとん、と人差し指で軽く叩いた。じ、と視線が自分に据え置かれているのを見て、夜野は彼の考えを察する。お先にどうぞ、というわけだ。
同僚になってからはもちろん、幼かった頃ですら名前を呼んだことはない。夜野は深呼吸を一つして、それから、焦がれ続けたひとの名を音に乗せた。
「正義さん」
朝朗けの空のような美しい色になった彼の瞳には、心底幸せそうな顔をした女がひとりだけ映し出されている。
