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Rの証明

 違和感に気づこうと思えばいくらでも気づけたのだと思う。それでも今の今までそこに思考を向けなかったのは心のどこかでそれを見たくないと思っていたからだろう。
——自分たちに都合のいい意見だけを拾うのはやめてちょうだいね。そういう聞き取りをして事件の本質を見失った退魔士がどれだけいるか、知らないあなたたちではないでしょう?
 透の言葉がフラッシュバックする。事件の解決を望むのであれば、どんな情報であってもフェアに受け入れなければならない。例えばそれが自分にとって好ましくない情報であっても、だ。
「とりあえず、確認をしてからですわね」
 琴子の言葉にらあらは頷く。目の前にある鬼灯の形状が自分たちの想定していたものに酷似しているだけで、本当に事件の解決に関係があるかはわからない。ここで自分たちがすべきことは目の前の状況に一喜一憂することではなく、きちんと情報を精査し、事件を解決に導くことだ。
「遅くなってすみません、主人の様子を見てきたもので……お飲み物は大丈夫ですか?」
 控えめなノックと共にさつきの声がする。琴子は一度深呼吸をしてから、もう一度笑顔を形作り、返事をした。
「ええ。ヒアリングの続きをお願いしてもよろしくて?」
 ノックと同じくらい控えめに扉を開けたさつきは、そのままの体勢でぴたりと動きを止めた。目線は真っすぐに庭と、それを見る二人に注がれている。しばしの沈黙、それを破ったのはやはり琴子だった。
「情報整理が思ったよりも早く終わったので、お庭を拝見しておりました。あの鬼灯は何か、風で倒れたのでしょうか? 鉢植えが割れてしまっていてもったいないですね」
「……」
 さつきからの返事はない。ただじっと視線を外さずこちらを見つめ続けている。その瞳から感情が抜け落ちていくのを琴子もらあらも感じていた。特にらあらが強く感じていたうっとうしいまでの善意が表情からも雰囲気からも消えていく。かといって悪意があるかと言われればそういうわけでもない。そこに立つさつきはまるで虚無をため込んだ人形のようで、いやに不気味だった。
「あのさ、依頼人。最初のヒアリング前にも言ったけど、自分の専門は呪文だから、あんたが話したくなくても無理やり話をさせることくらいなんてことないんだよ。最初からそれをしなかったのは善意でもなんでもなくて、単純にうちの相方がそういうやり方を嫌がるから。人を人と思わない行為に敏感なんだよね、うちのココは」
「……」
「ただ……あんたが妖魔、もしくは妖魔憑きだっていうなら話は別。そういうのを相手取るのは自分の専売特許だよ」
 らあらの言葉にもさつきは反応を示さない。それまでの彼女であれば少なからず傷ついたような顔をしただろう。そのうえで「それも仕方がないですね」とあきらめたように笑うくらいはしたかもしれない。
 意識がないのだろうか、それとも妖魔が前面に出ているのだろうかとらあらはさつきの状況を探ろうとする。しかしそれよりも早く琴子が一歩前に進み出た。珍しくぎょっとするらあらを手で制し、琴子は話し始める。
「さつきさん、あなた先ほどおっしゃいましたね。大和葉奈子さんと最後に会ったときに子どもの話になって、『あなたたちの子供、次はいつになるの』と言われたと……」
 ぴくり、さつきの肩が震える。顔がうつむきがちになり、前髪に遮られて表情が読めなくなった。しかしここではまだ退けない。この先に続く言葉がどれほど彼女を傷つけるものか分かっていても、これを確認しなければ先に進むこともままならない。
「初めてのお子さんであれば、次は、なんて言葉は使わない。それは、あなたがご主人との間にすでにお子さんを産んだことがあるか、あるいは」
 そこで言葉を切る。胃の中がぐらぐら沸騰するような気持ちの悪さが琴子を苛んだが、ここまで言いかけて続きを言わないのは自分が納得できない。らあらに言わせるのもなしだ。
「産まれることがかなわなかったか……理由はいくつか考えられますが、大和葉奈子さんはそれをご存じだった。そしてそれを不満に思っていて、あなたに当てつけのつもりでそう言った……。あまり仲がよろしくないというのは先ほどあなたから聞いたところですから、齟齬はありません。わたしも阿良々木も未婚ですから完全な理解はできていませんが、所謂嫁姑問題……というよりは姑からのいびりというのでしょうね」
 さつきからの反論はない。それでも彼女の肩の震えが大きくなり、僅かに垣間見える唇がぎゅっと嚙み締められたのが分かった。その動作が追い詰められたことからくるものなのか、その時のことを思い出した不快感からくるものなのかはわからない。
「あの鉢植え、ちょうどこの窓から投げたらあのあたりで落ちて割れそうですね。もしかしてあれは、大和葉奈子さんが持ち込んだものなのではないですか。鬼灯は……古く、煎じて堕胎薬としていたと聞いたことがあります。あなたのお義母様は、言葉だけではなく、視覚的にも当てつけをなさったのではありませんか」
「……」
 言葉は返ってこない。言い訳もなければ肯定もないが、依頼時の透によるヒアリングでも、そのあとの二人で行ったヒアリングでも、大和さつきという人間が意図的に嘘をついた様子はなかった。義母との関係など、多少言いづらいことを伏せて話してはいただろうが、こちらを騙そうという様子は見られなかった。そもそも嘘をつくくらいなら自分たちに依頼など持ち込まなければいいのだ。それこそ【九之山】まで動かすような事態になっているのだから遅かれ早かれ動きはあっただろう。
 ではなぜわざわざさつきは依頼という形で自分たちを訪ねてきたのか。
「さつきさん、今一度依頼内容をお伺いいたしますわ」
 琴子は息を大きく吸い込む。彼女の行動が、彼女の善意によって行われたものだと信じて確認する。
「わたしたち“R”へのご依頼は……“退魔”でよろしいですね?」
 琴子の叫びにも近いその声に、さつきの動きが止まり、そして直後彼女は顔を上げて同じように吠えた。
「……は、いっ…………“これ”を、止めてください……!!」
 瞬間、ぞっ……とするほどの寒さが部屋中を駆け巡る。夏だというのに身震いするほどのこの寒さが、さつきが気を利かせて入れた冷房のせいでないのは明らかだった。
 再びうなだれたさつきの後ろに何かがいる。黒い靄のようにしか認識できないそれに二人は歯噛みした。
「ココ……本命のお出ましだけど、可視化かけとく!?」
「いいえ、我々の実力と開きがあるから実体まで見えていないんでしょう!? それならいたずらにあなたの呪文を使っても仕方ありませんわ!」
 最初のヒアリングの時に分かっていたことだが、琴子とて“姿が正しく認識できないほど”実力が離れた妖魔は初めて見る。両の足を踏ん張っていなければ膝から崩れ落ちてしまいそうな威圧感だが、視線だけは二人とも妖魔から外さなかった。
「おい依頼人、まだ意識はあるか!? あるなら声を出すか、動作で示してくれよ! そうじゃないと、自分ら、あんたごとやっていいのかどうか判断できないからさ!」
 らあらの咆哮に僅かにさつきの指先が動く。聞こえてはいる、しかし大きな動きをしたり声を出したりできるわけではないようだ。あまりいい状態とは言えないが、自分たちが視認できないほど強力な妖魔に憑かれているにも関わらずまだ意思の疎通ができるさつきは努力したともいえるのかもしれない。しかし徐々に靄はさつきに覆いかぶさるように広がり、やがて体に染み入るように見えなくなった。
 さつきが勢いよく顔を上げる。気弱な印象の目はカッと見開かれ、穏やかな笑みを浮かべていた口元は獣のように涎をまき散らしながら開かれている。ジジジ……と切れかけの蛍光灯に似た音がして彼女の手に包丁に似た形の短剣が握られる。どうやら妖魔の能力らしい。無から有を具現化するのも比較的力の強い妖魔の特徴だが、今さらそれで尻込みすることはない。
「……わたし相手に短剣で優位に立ち回れるとお思い?」
 ヴンッと空気を裂くような音と共に琴子の手にダガーが一揃い現れる。飾りの少ない、敵を攻撃することに特化したシンプルなダガーをしっかりと握りこみ、琴子は姿勢を低くする。
「ララ! フォローは任せますわよ!」
「心得た。我慢ばっかでヤんなったろ、好きなだけ暴れなよ、ココ!」
 瞬間、火花が散り、一拍遅れてキィンと金属同士がぶつかる音が響く。一瞬のうちに接近し、すぐさま離れる。びりびり衝撃で震える両手に再度ダガーを握り直し、琴子は目の前のさつきを注意深く観察する。
 意識はなさそうだ。明らかに能力で強化していなければ体に異常をきたすような動きだったが、悲鳴一つ上げていない。それに、刃同士を渾身の力でぶつけ合った瞬間も、向こうの手首の角度はおかしかった。考えている途中にも二度三度刃が叩き込まれるが、集中してなんとかかわせるくらいの太刀筋を彼女が自分で制御しているとは到底思えない。
 琴子は狭い今の中を縦横に走り回り、距離を調整する。さつきに妖魔が取り憑いている以上、彼女の依頼を達成することはできない。屋外に出ることも考えたが、広い場所に出てさつきごと逃げ切られてしまうのも口惜しい。この場合の最適解は居間の中で動きを止め、彼女の体に憑くよりも逃げたほうがいいと思わせることだ。
「さつきさん! さつきさん、意識をしっかり持ってください、さつきさん!」
 さつきに声をかけ続けながら刃を交える。一瞬でもさつきの意識が戻れば拘束も多少なり容易になるだろう。もっとも、意識が戻れば先ほどまでの戦いで負った体へのダメージで行動不能になるだろうという、あまり褒められない想定に基づいた策ではあるが。
 しかしその作戦がよくなかったらしい。ばたんという音と共に居間の扉が開け放たれる。
「さつき!?」
 その男がインターフォン越しに会話をしたさつきの夫、大和春正だということはすぐにわかった。しかし状況が良くない。一般人の乱入に意識が持っていかれれば、対面する妖魔への意識がおろそかになる。
「ココ!」
 らあらの絶叫が耳に届いた時には手に持っていたダガーは弾き飛ばされ、琴子の体は居間の端から端まで後ろ向きに飛ばされていた。背中がソファにぶつかり、空気が肺から強制的に追い出されて喉の奥が詰まる。それには春正も怯んだらしい、うわっという声と共に扉の近くで尻もちをついた。
 その隙を妖魔は逃がさない。春正が開けた居間の扉めがけて全速力で駆け、そこから逃げようとする。
「ナンバートゥエンティナインス!」
 間髪入れずらあらは逃げ出そうとする妖異に麻痺の呪文を放つ。ばちりと閃光が散って電気の球が妖異に飛んだが、それが到達するよりも妖魔が扉を出るほうが早かった。舌打ちをして妖魔を追おうとし、しかし未だ咳き込む琴子を見やってそちらに駆け寄る。琴子は目線で妖魔を追えと指示したが、らあらはがんとして動こうとしなかった。背をさすり、吹き飛ばされた衝撃でどこか折れたり痛めたりしていないかを確認する。
「な、なん、なんで……」
 ようやく琴子の咳が止まったころ、呆然とした様子で春正は呟いた。焦点のあっていない目で二人を見る。
「げほっ……その“なんで”がいま飛び出していったさつきさんに対してのものであれば、わたしたちからできる返事は“奥様は妖魔に取り憑かれて正気を失っていらっしゃいます”というものになりますわね」
「そん……じゃあ、あいつ、あいつが、連続殺人事件の……おふくろを殺したのも、あいつが……?」
 ひどく錯乱している様子の春正は口から泡を吹きながらそんなことを口走る。らあらはため息を一つつくと琴子から離れ、春正の前に立った。嫌な予感がした琴子の耳に、どすんという重く鈍い音と、ヴッといううめき声が聞こえる。座り込む春正を足蹴にしたらあらは苛立った様子で口を開いた。
「あんた、妖魔に取り憑かれた嫁さんの心配するならまだしも言うに事欠いてそれ? いったいいくつだよ、いつまでマザコンしてるんだ。その様子じゃ、あんたの母親が依頼人にしてたことも知らなかったか見て見ぬふりしてたんだろ。まったく、あの依頼人もこんなののどこがいいんだか……」
「な……なっ……」
 わなわなと震える春正と、その春正を口悪くこきおろすらあら。鈍い頭痛を覚えながら、琴子は言う。
「……ララ、その人に当たっても仕方ありませんわ。先にさつきさんと、それについた妖魔を追わなくては」
「でもさあココ、こいつのせいで外に出ちゃったんだよ。悪いけど、自分の気配探知じゃ町中を探すなんてとても……」
 こんこんこんっ。
 この場に不似合いな、軽快なノックの音が居間のガラス戸のほうからする。別種の嫌な予感を感じたが、琴子はしばしの逡巡の後、観念して振り向いた。機嫌良さそうに細められた目と、目が合う。
「困ってるみたいですね」
 ガラス越し、大変嬉しそうな声色で綾也はそう言った。
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