Rの証明
土曜日の午前十時。調査の二日目もよく晴れていた。燦燦と照り付ける日光にうんざりした様子のらあらを引きずるようにして琴子は住宅街を行く。もともと閑静な住宅街だとは聞いていたが、今は事件のこともあってかなおのことひっそりとしている。
「そんなに周り見ながら歩かなくても、襲われやしないよ」
らあらの軽口に多少ムッとしながらも琴子はあたりへの警戒をやめない。昨日のこともあり、今朝依頼所の前で集合をするときから気が気でなかった。らあらは「合流前から気配感知の呪文は使ってるよ」と口にしていたが、それだけで防ぎきれる保証はない。近接戦闘になれば琴子とて負ける気はしないが、相手に素性が割れている以上こちらの優位性を保てるかどうかも怪しい。
「【九之山】の坊やとは、顔見知りだったっけ」
「父がいたころに何度か。昔はかわいらしい印象でしたけど、なかなか厄介に育たれましたわね」
琴子お姉さま、と舌足らずに自分を呼んでいた幼子がああいう育ち方をしていると少しばかり気分は悪い。あそこまで皮肉っぽい口のきき方をする少年ではなかったと記憶している。しかし今年小学校を卒業するかどうかという年齢で市単位の退魔を任されるというのは大任に違いなかった。
あの口ぶりから彼が自分の任務に並々ならぬ情熱を傾けていることは分かっているし、それを邪魔しようものなら自身の動かせる力を総動員してでも叩き潰しに来るだろうことは容易に想像ができる。あのくらいの年齢の子供であれば自身のプライドを守ることに躍起になるのが当たり前だ。その心境が理解できるからこそ、琴子は周囲の警戒がやめられなかった。
「ま、厄介なくらいがちょうどいいさ。ココから見て厄介なら、自分が相手どれば相性いいでしょ」
ココはまっすぐすぎるからさあ、とらあらに言われて何とも言えない顔になる。自分が良くも悪くも一本気であることに自覚はあった。らあらはけらりと笑って何でもないように言った。
「見知った相手ってわけじゃないけど、ココの警戒っぷりを見てると向こうのやりたいことはわかるよ。あの子の目的は“君を今みたいな状況にすること”でしょ」
「え」
「何時に動くのかわからない自分たち二人を張るのなんてそれこそ解決を急いでる今の状況考えたら無駄でしかない。自分が司令塔ならやらないね。それなりの人数がいるならなおさら、情報を集めたほうが早いもの。あの挑発の狙いは事件に向いてるココの思考を何割かでも割いてこっちの凡ミスを誘発することじゃないの?」
らあらの言葉に琴子はぽかりと口を開けた。今朝からの自分の思考を思い出し、頬に血が上っていくのを感じる。凡ミスの誘発。昨日の透の言葉が脳裏をよぎる。ごめんなさいと零せばらあらは気にしていないと大口を開けて笑った。
「さっきも言ったけど、あの坊やの相手は自分でいいのさ。むしろココには、自分がやりづらい人間を相手取ってもらわないといけないからね」
「……善処しますわ」
うんうん頷いたらあらに背中をぽんと叩かれる。あたたかなものが流れ込んでくるような感覚に頬が緩んだ。いい調子だよ、と言ったらあらの足が止まる。琴子の足も同じ家の前で止まった。先日訪れた雛岸家よりは幾分か地味な印象の一軒家。表札には大和と記してある。顔を合わせ、こくりとうなずく。ゆっくりインターフォンを押した。
『はい』
予想していた声ではない。さつきのものではない、男性の声だ。夫だろうと推測し、琴子は笑顔を作る。
「おはようございます、黒本退魔依頼書のRです。先日ご連絡させていただいておりました、依頼に関してのヒアリングに参りました」
『……』
次の言葉は聞こえない。さつきから予定を聞いていなかったのかと思ったが、それにしてはあいづち一つないのは珍しい。ミィー……という機械が作動している音は聞こえているから通信を切られたわけではないと思うが、妙な空気感が漂った。
うしろにいるらあらが居心地悪そうに身じろいだのを感じたが、琴子は笑みを崩さない。先ほどの男性がさつきの夫であれば、“赤ずきん連続殺人事件”の最初の被害者の息子ということになる。時期的にはようやく一ヶ月が経とうかという頃、まだ事件を過去のものと割り切るには早すぎる。しかし昨日の調査で訪れた家々の反応を思い返せば、ここで怒声が飛んでこないだけまだ落ち着いているほうだろう。
そんなことを考えているとバタバタと足音がした後、ガチャンと鍵が開く音がして慌てた様子のさつきがドアから姿を現した。微笑んだまま会釈する琴子にさつきはわたわたと頭を下げる。
「すみません! 暑い中お待たせしてしまって……」
「いえ、こちらこそお休みの日にお邪魔してしまって申し訳ありません。応対してくださったのはご主人でしょうか? 驚かせてしまったようで」
「……いえ、おそらく義母のことを思い出してしまったからだと思うので……今は自室のほうにいますから、どうぞあがってください」
汚い家ですけれど、と居間に通される。少々古い印象の家具で統一された室内で若いさつきの姿は少々浮いて見えた。
「昨日はすみません、仕事がどうしても片付かなくて」
「問題ありませんわ、むしろお忙しい時期に何度もお時間を取らせて申し訳ないくらいですもの」
「そうおっしゃっていただけるとありがたいです」
さつきはうっすら笑みを浮かべると冷たい飲み物を出してくれる。それに軽く礼を述べてから琴子は昨日の調査で何度も聞いた質問を口にした。
「今日は事件の依頼者としてではなく、“赤ずきん連続殺人事件”の最初の被害者、大和葉奈子さんのご家族としてお伺いさせていただきたく参りました。事件のことを思い出すので不快感があったり、話したくないことがあったりするかもしれませんが……事実のみをお話ししていただければと思います」
「ええ、それはもちろん……私がお話しできることでしたら、いくらでも」
強い意志を秘めた目でさつきがうなずく。それにほっと胸を撫でおろして琴子は言葉を続ける。
「では、率直に……。この一連の事件で一番初めに被害に遭われたのは大和さんの義理のお母様である大和葉奈子さんでしたわね。事件前になにか、大和さん……不躾ですがややこしいのでお名前で呼ばせていただきますね。さつきさんから見て違和感のある行動をとっていらしたようなことはありましたか?」
「違和感、ですか……」
少し思い返してみますね、とさつきは顎に手を当てて考え込む。その様子を琴子とらあらは静かに見つめていた。しばしの沈黙ののち、顔を上げたさつきは力なく首を横に振る。琴子はさらに言った。
「葉奈子さんと最後に会われたのはさつきさんだとお伺いしております。その時の状況と……葉奈子さんの服装について、もう一度お話ししていただけますか?」
ニュースで報道されている限り“被害者たちは何かしら赤いものを身に着けていた”のだから、大和葉奈子がその法則から漏れていることはほぼありえないだろう。問題は、その身に着けていた赤いものが先日の調査で得た情報と同じく“丸い形状”であるかどうかだ。
意気込む琴子と対照的に、わずかにさつきの表情が曇る。その様子を見ていたらあらはぼそりと口を開いた。
「なにか、言いにくい事でもあるのかい。自分たちは調査のために来ているから、君が話したくなかろうが事件解決のために必要だと判断すれば口を割らせる。君だって、自分の得意分野を知らないわけじゃないでしょう」
「阿良々木」
諫める琴子にさつきは首を振る。
「いえ……確かに言いにくい事には違いありません。身内の恥をさらすようなことですし、年若いあなた方に聞かせるにはあまりにも申し訳ない話なんです。ですが……ええ、それがもしかしたら事件の解決につながるかもしれませんもの」
そうしてさつきは話し始めた。大和葉奈子との最後の一日を。
「あの日……お義母さんがうちを訪ねてきました。白いブラウスに茄子紺のスカートを着ていたと思います。お昼ご飯を食べた後でした。土曜日だったので私は休みで、主人はたまたま休日出勤で出ていた日でした。いつもお義母さんは主人がいるときにいらっしゃるので、珍しいなと思ったのを覚えています。お恥ずかしながらあまり仲のいい嫁姑ではないので、私は一人でお相手ができるか不安で……。ただその日はお義母さんが優しくお話をしてくださったので、私もリラックスして一緒にお茶をいただいたんです。主人の子供時代の話なんかもたくさん聞かせていただいて、私はすごく嬉しかった。でも、そう、その後です。『あなたたちの子供、次はいつになるの』って、お義母さんが言ったのは」
そこでさつきは話すのを一度やめた。小さく細かく、そして荒く息を吸うのが正面に座っている琴子とらあらにも聞こえるほどだった。随分と興奮しているのが見て取れる。残念ながら最も知りたかった“赤く丸いもの”を身に着けていたかという部分に有益な情報は今のところないが、このあとの話で詳しく知ることができるかもしれない。琴子は努めて冷静に続きを促した。
「……そして?」
「そして? ……そして。私が上手に返事をできなかったから、お義母さんは呆れている様子でした。私を見て、それから……」
再び言葉が止まる。息は荒いまま、目玉が零れ落ちそうなほど目を見開く彼女の様はどう見ても平常のそれではない。
それを見て琴子は隣に座るらあらに目配せする。らあらは小さく頷くと口の中で呪文を呟いた。ナンバーセブンティファースト、気配探知。調査中常に発動させている呪文を重ねがけしたことには理由が二つある。一つは正気を失っている人間は妖魔に狙われやすくなるという特性を鑑みたさつきの護衛のため。そしてもう一つは。
「それから、『こんなことならあの時別れさせておくべきだった』と言って……私、それを聞いて頭に血が上ったのか、それから後のことを覚えていないんです。多分、無理やり追い出したんだと思います。次に覚えているのは玄関に座り込んでいるところです。帰ってきた主人に声をかけられて、自分が玄関にいることに気づきました。慌ててごまかして、夕飯の支度をして……食べ終わったころに警察の方からお電話をいただいたんです」
さつきの話が終わる。琴子はひとまず頷き、お話しいただきありがとうございました、と礼を述べる。調査とはまた別に、話の内容が語るだけで相当な苦痛になるのが察するに余りあったからだ。さつきは先ほどよりぐったりとした様子だが、少し落ち着いたのか「取り乱してすみません」と小さく謝罪した。
「いいえ、こちらも無理に話をお伺いしていますから。ただ申し訳ありません、今お伺いした情報を整理させていただきたいのでここで一度小休止を取らせていただいてよろしいかしら」
言葉の裏にある気遣いをきちんと読み取ったのだろう、さつきは少々申し訳なさそうにしながらも頷いた。空になった飲み物をもう一度注ぎ、化粧室や内線の場所を伝えると居間を後にする。二人だけになった空間で琴子はらあらに向き直った。
「残念だけど、ココの予想が当たりそうだねえ」
らあらは珍しく鼻にしわを寄せながら低く言う。それはらあらがナンバーセブンティファーストを使用したもう一つの理由……さつきが常時取り憑かれているわけではないことの確認。それは本体の妖魔が見つけづらいということを意味していた。琴子は短く息を吐いて立ち上がり、居間のガラス戸から庭を眺める。
「大和葉奈子は赤くて丸いものを身に着けていなかったようね」
「そのようだね。まあ、ココの予想が当たっているなら、特段それを身に着けている必要性はなかったかもしれないけれど……」
「そうね。当たらないことを願っているけれど、難しそう——……」
琴子の言葉が途中で止まる。小首をかしげるらあらは琴子が見ている方向を見て、そして動きを止めた。
「これは、ココの予想が当たりかな。本格的に退魔の支度をしなきゃいけないな……」
琴子は唇をぎゅっとかみしめて頷く。予想を立ててはいたものの、当たらなければいいと思っていた。らあらに気配探知をさせたのも、半分はこの予想が外れていることにかけたかったからだったのに。
二人が見つめる先では、叩き割られた鉢植えと、その中で枯れるのを待つばかりになった鬼灯の実がわずかに揺れていた。
