Rの証明
「はい! ご無沙汰しておりました、琴子お姉さま。今回この事件の退魔を市から依頼されております、【九之山】家の綾也(りょうや)でございます。正式かつ優先度の高い依頼を受けておりますので……もちろん、そちらの握っておられる情報は共有していただけますよね?」
にこにこというオノマトペがここまで似合う表情もないだろう、と思わされるほどの笑みだった。しかしその微笑みと対照的な感情がこちらにもびりびりと伝わってくる。隣に立つ琴子の表情を見て、らあらは一歩前に出た。正しくは綾也と名乗った少年と琴子の視線の間をめがけて一歩足を踏み出す。キョトンとした顔でらあらを見上げた綾也は、しかしすぐに微笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、君が話してくれるんですね? 【四之坂】のお嬢さん」
「いや、そういうわけじゃないよ。うちの相方が困ってるようだから、とりあえずあんたと面識のない自分が前に出ただけ」
「おや、これは手厳しい。これでも僕は君の御父上とはそれなりに懇意なんですよ?」
少年の言葉にらあらの動きがわずかに止まる。笑みが張り付けたものに変わり、眉間のしわが濃くなる。しかし目の前の彼はそれに気が付かなかったのだろう、気をよくしたのか話を続ける。
「そこまで言えば僕がどういう人間なのか、【四之坂】のお嬢さんにも分かりますよね? 先ほどは【九之山】とだけ名乗りましたが、そこでも中枢に位置している者です。そんな僕が担当しているのがこの佐々熊市で起きている女性連続殺人事件……と言えばこの事件を上がどれほど重要視しているかはすぐに理解いただけますよね」
「名門が出張ってくるくらいの事件なら、相当難度が高いものとして扱われているんでしょうね」
「ええ、その通りですよ琴子お姉さま!」
綾也は微笑みを絶やさずに言葉を紡ぐ。興奮してきたのかゆるゆると頬に朱が差し、口の回りも軽くなっていく。自分がこの事件を任されるほど有能だということ、自分を万全にサポートする体制がこの市には敷かれているということ、そんな中に横入りしてくるRが周りから白い目を向けられているということ、その他もろもろ。目の前の人間がどのような表情をしているかを確認しながら話すことはまだできないらしい。背負っている肩書きに対してそのあたりは年相応に見えた。
「……ですからね? 君たちが掴んでいる情報は僕らに提供してしかるべきです。個人経営の依頼所が出るような事件ではありませんから」
最初の言葉と同じ言葉を繰り返して綾也は口を閉じる。気が済むまで喋ったらしく、疑いのない眼差しで琴子とらあらを見ている。
「言いたいことはそれだけ?」
「それ以上何を君たちに伝える必要があるんですか? 退く退魔士から情報を引き出すことはあっても、僕が君たちに何かを言う必要なんてないでしょう?」
「そう」
らあらは言葉少なにそう相槌を打つと、静かに息を吐いた。目を伏せ、眉間のあたりをぐりぐりと指で押す。ゆっくりと瞳を開けて、隣の琴子にだけ聞こえるように何事かを呟いた。えっ、と小さく言葉を漏らした琴子の手を取り、らあらは綾也に向き直る。
「何を——」
言いかけた綾也の額にとん、と人差し指を突き付ける。
「ナンバーフィフティーセカンド」
ほとんど聞こえないくらいの声での詠唱。らあらの指先と綾也の額の間で小さな光の球体が発生したと琴子が認識するが早いか、その球体はみるみる膨らみ、五センチほどにまで膨れ上がる。先ほどのらあらの言葉を思い出し、咄嗟に琴子は強く目をつぶった。
瞬間、閃光。目と鼻の先で光が弾けた綾也の悲鳴ともうめき声ともつかない声が聞こえると同時にぐんと手を引かれる。蹴躓きそうになりながら琴子は手を引かれるままに走った。
「ははっ——交渉術を勉強してから出直してきな、ボクちゃん!」
らあらのそんな高笑いをBGMに、二人は真昼の住宅街を駆け抜けていく。
十分と少し走っただろうか、適当な場所で路地裏に入ったらあらの脚が止まる。いたずらっぽい目がくるりと琴子に向けられた。
「見せるの初めてだったよね、フィフティーセカンドは」
「……あなた滅多に五十番台は使わないじゃないですの」
「うん、使わない。“目くらまし”なんて小さい家の中じゃ使う必要ないもん。こうやって使うのかーって、さっきのはちょっとワクワクしちゃったな」
けらけらと悪びれなく笑うらあらに琴子は一つデコピンを食らわせる。あいててて、と痛くもないだろうに額を押さえたらあらを見て、小さく言葉を落とした。
「十家と……最低でも【九之山】と事を構えることになれば、実権のない【一之宮】はともかく【四之坂】が黙っていないのではなくて? そこまで考えての行動ですの?」
笑い声が一瞬止まる。翡翠の瞳が黄金色を捉えた。
琴子の家は現状十家から除かれているため、現十家と正面からやりあったとてたいした傷にはならない。しかしらあらは別だ。現十家同士であり、加えて阿良々木の家での立場が極端に弱いらあらが問題を起こしたとなれば当主である彼女の父が黙っていないだろう。
「今さら、“落胤”ごときの行動をとやかく言うような家じゃないよ。後継ぎ様から嫌みと折檻くらいはいただくかもしれないけど……旦那様や奥様、お嬢様は口もきかないんじゃない?」
「わたし、それを懸念しているんですけど」
「あり、そうなの? ココってば優しい~」
らあらの目がとろけるように細められる。心底嬉しそうな顔に言葉が詰まった。
らあらは阿良々木家の次女だが、兄や姉とは腹違いだ。彼女の母は阿良々木家の頭首に手を付けられてらあらを宿し、本妻の怒りを買って家を追い出された。成長した彼女の有した能力が本妻の子二人よりも勝っていたために本家に連れ戻されたものの、その勝手な処遇に腹を立てたらあらはいまだに反抗を続けている。もちろん学生の身分でできる反抗などたかが知れているため、家からの仕返しもすさまじい。らあらは何でもないふうに口にするが、少なからずそれが彼女の自尊心を傷つけていることを琴子は知っていた。
分かっているからこそ、あそこで綾也に対して先陣を切るべきは自分だったと思ってしまう。不向きとはいえ、あの場から逃走するだけなら自分の力でもできたはずだ。
「ココ」
らあらが自分の名を呼ぶ。反射的に顔を上げた先で額に衝撃を感じ、うめき声が漏れる。
「っ……! ララ!」
「あはははは! 真剣な顔してるからちょっとからかってやりたくなってさ」
らあらは口先だけで謝りながら琴子の手を握る。
「でも本当に大丈夫だよ。自分にとって一番大事なのは、ココと一緒に受けたこのRの依頼を完遂することなんだから。ココもそうでしょ?」
そうして、本当に屈託のない笑顔と共にそう言った。一片の曇りもない眼でそう言われてしまうと、琴子の返事は一つしかない。
「……喧嘩を売ったからには、向こうより早く依頼をさばきますわ。仕事量は増えますけど、よろしいですわね、ララ?」
「へへ、もちろん!」
もっとも、最初から琴子の意見はらあらと合致しているわけだが。
同日、夕刻、黒本退魔依頼所のオフィスにて。ぐったりした様子のらあらと、対照的に涼しい顔をした琴子の二人にアイスコーヒーを振舞ながら透は「それで」と声をかけた。
「今日の収穫はどんな感じだったの~?」
「とりあえず聞き取りができたのが一番の収穫ですわね。門前払いのご家庭もありましたが、それを考慮しても直接情報が聞けたのは幸運でしたわ。あとは行ける限り現場を見て回りましたわね」
「もう二度とやらない……」
「仕事量が増えることを承諾したのはあなたですわ。聞き込みでそんなに疲れるとは思わなかったですが……もう少しこの事件が解決したら基礎体力増強のトレーニングをしましょうね」
彼女の名誉のために補足するのであれば、近接戦闘に特化した琴子の体力に補助を中心とした能力を発動させるらあらの体力が及ばないのは当然のことだ。無茶言わないでよ、と呟いたらあらの頭を撫でた透は琴子から受け取ったメモに再度目を通す。
事件の被害者十一名の遺族にヒアリングを試みたが、まともに取り合ってもらえたのは雛岸家を含めて三件。不在のためヒアリング自体が実施できなかったのが一件。残りの七件に関しては居留守やインターフォン越しの罵声等様々なお断りをいただいた。既に別の退魔士が主体となって調査が進行している事件に横槍を入れることの直接的な弊害を被った形になる。ましてや今回対抗しなければならないのは自分たちよりも遥かに依頼慣れした十家だ。十家に細かなヒアリングを受けているのは間違いなく、また遺族としても何度も思い出したい話ではなかろう。あまり強気なヒアリングに踏み切らなかった琴子の判断は見方によっては賢明に見える。
「応対してくださったご遺族の方々からはこちらが持っている以上の情報はあまり……ただ被害者の方々が身に着けていたといわれる“赤いもの”については少しばかり絞り込みができましたわ」
アイスコーヒーを飲み下し、琴子はスマートフォンを操作していくつかの画像を提示する。その画像のどれもに赤色の物体が映りこんでおり、そしてその形に共通点があることに透もすぐ気づいた。
「あら~、赤くて……“丸い”のねえ」
赤色のプラスチック製の球体が付いた髪飾りに、赤色のガラス玉があつらえてあるピアス、赤色の丸みを帯びた花をいくつも重ねたようなストラップ。色は橙に近い赤から深紅、形は真円から楕円とある程度の幅はあるが、十分に共通点と言えるだろう。残りの家の確認は難しいが、これに似たものが残されていると予想して差し支えなさそうだ。
「被害者が身に着けていたものが赤いものって情報しかなかったから、事件名を赤ずきんにしたのよねえ……。でも実際は、赤いだけでなく形にも規則性があった……」
「赤くて丸いもの……。林檎……さくらんぼ……トマト……?」
「ココ食べ物ばっかりじゃん」
むっと口をつぐんだ琴子に軽く笑いかけて、らあらも赤くて丸いものに思考を巡らせる。梅干し、日の丸、ピエロの鼻。真上から見ればバラなどの花は大体丸いから色さえ赤ければいいし、イラストまで発想を飛ばせば太陽なんかもそうだろう。しかしそのどれもがいまひとつぴんとこない。
その“何か”を連想させるものを身に着けている“女”をあれだけ惨たらしく殺しているのだ。すべての事件に共通するのだから、腹を裂いて石を詰めるという行為にも何かの意味があるだろう。妖魔に憑かれていれば理屈が通じないため、単純にカモフラージュかもしれないが。
「そういえば、今日行けなかったお宅はここなのね~」
透の声で琴子とらあらの意識がはっと返ってくる。透の細い指がメモの一部、赤い丸を付けた文字をゆっくりとなぞっている。
「ああ、平日だったしね。明日は土曜だし、日を改めて行ってくるよ」
「まあ、追い返されることがないと分かっているだけ多少気持ち的には楽ですわね」
「正気? 自分はまたあの人と話をするのかと思うだけで嫌だよ」
「あらあらぁ」
らあらの嫌そうな声と顔に透はくすくすと笑う。琴子はこの件に関しては諦めているのか、口をへの字に曲げたものの何も言わなかった。そんな二人を微笑ましく見て、しかし透は一度気を引き締めると口を開く。
「事件の最初の犠牲者と、それに続く犠牲者たちに共通項があればあなたたちの見つけた理論は信憑性が高まるわ。ただし誘導尋問のような形にして、自分たちに都合のいい意見だけを拾うのはやめてちょうだいね。そういう聞き取りをして事件の本質を見失った退魔士がどれだけいるか、知らないあなたたちではないでしょう?」
透の言葉に琴子とらあらは目を合わせ、そして揃って頷いた。
人間の記憶、特に妖魔によって引き起こされるような悲惨な事件に巻き込まれた者の記憶はあいまいで、こちらが聞き方を一つ誤るだけで本当に必要な情報を聞き逃すことになる。「そういえばそんな気がする」という情報ではいざというときに対応ができないし、妖魔と対峙しているような状態ではそれが命取りになってしまう。透から、そして家人からも散々言い聞かされてきた言葉だ。
大和葉奈子。この一連の事件の最初の犠牲者であり、依頼人大和さつきの義母である女性の写真を思い出す。特徴らしい特徴を感じない、事件とは縁遠そうな普通の女性という印象だった。しかしその印象すら自分に都合のいい意見かもしれない。第一印象のいい人間が必ず優れた人格者であるとは限らないし、その逆も然りと言える。なんにせよ、彼女についてきちんと知ることは少なからずこの事件解決の手掛かりになるだろう。
琴子はそっと息を吐く。今日の【九之山】の件もあるし、明日の調査が予定通りにいくとは考えにくい。事前に妨害されるか、当日妨害されるか。らあらの家のこともあるし、考えるべきことは山のようにあった。前途は多難である。
にこにこというオノマトペがここまで似合う表情もないだろう、と思わされるほどの笑みだった。しかしその微笑みと対照的な感情がこちらにもびりびりと伝わってくる。隣に立つ琴子の表情を見て、らあらは一歩前に出た。正しくは綾也と名乗った少年と琴子の視線の間をめがけて一歩足を踏み出す。キョトンとした顔でらあらを見上げた綾也は、しかしすぐに微笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、君が話してくれるんですね? 【四之坂】のお嬢さん」
「いや、そういうわけじゃないよ。うちの相方が困ってるようだから、とりあえずあんたと面識のない自分が前に出ただけ」
「おや、これは手厳しい。これでも僕は君の御父上とはそれなりに懇意なんですよ?」
少年の言葉にらあらの動きがわずかに止まる。笑みが張り付けたものに変わり、眉間のしわが濃くなる。しかし目の前の彼はそれに気が付かなかったのだろう、気をよくしたのか話を続ける。
「そこまで言えば僕がどういう人間なのか、【四之坂】のお嬢さんにも分かりますよね? 先ほどは【九之山】とだけ名乗りましたが、そこでも中枢に位置している者です。そんな僕が担当しているのがこの佐々熊市で起きている女性連続殺人事件……と言えばこの事件を上がどれほど重要視しているかはすぐに理解いただけますよね」
「名門が出張ってくるくらいの事件なら、相当難度が高いものとして扱われているんでしょうね」
「ええ、その通りですよ琴子お姉さま!」
綾也は微笑みを絶やさずに言葉を紡ぐ。興奮してきたのかゆるゆると頬に朱が差し、口の回りも軽くなっていく。自分がこの事件を任されるほど有能だということ、自分を万全にサポートする体制がこの市には敷かれているということ、そんな中に横入りしてくるRが周りから白い目を向けられているということ、その他もろもろ。目の前の人間がどのような表情をしているかを確認しながら話すことはまだできないらしい。背負っている肩書きに対してそのあたりは年相応に見えた。
「……ですからね? 君たちが掴んでいる情報は僕らに提供してしかるべきです。個人経営の依頼所が出るような事件ではありませんから」
最初の言葉と同じ言葉を繰り返して綾也は口を閉じる。気が済むまで喋ったらしく、疑いのない眼差しで琴子とらあらを見ている。
「言いたいことはそれだけ?」
「それ以上何を君たちに伝える必要があるんですか? 退く退魔士から情報を引き出すことはあっても、僕が君たちに何かを言う必要なんてないでしょう?」
「そう」
らあらは言葉少なにそう相槌を打つと、静かに息を吐いた。目を伏せ、眉間のあたりをぐりぐりと指で押す。ゆっくりと瞳を開けて、隣の琴子にだけ聞こえるように何事かを呟いた。えっ、と小さく言葉を漏らした琴子の手を取り、らあらは綾也に向き直る。
「何を——」
言いかけた綾也の額にとん、と人差し指を突き付ける。
「ナンバーフィフティーセカンド」
ほとんど聞こえないくらいの声での詠唱。らあらの指先と綾也の額の間で小さな光の球体が発生したと琴子が認識するが早いか、その球体はみるみる膨らみ、五センチほどにまで膨れ上がる。先ほどのらあらの言葉を思い出し、咄嗟に琴子は強く目をつぶった。
瞬間、閃光。目と鼻の先で光が弾けた綾也の悲鳴ともうめき声ともつかない声が聞こえると同時にぐんと手を引かれる。蹴躓きそうになりながら琴子は手を引かれるままに走った。
「ははっ——交渉術を勉強してから出直してきな、ボクちゃん!」
らあらのそんな高笑いをBGMに、二人は真昼の住宅街を駆け抜けていく。
十分と少し走っただろうか、適当な場所で路地裏に入ったらあらの脚が止まる。いたずらっぽい目がくるりと琴子に向けられた。
「見せるの初めてだったよね、フィフティーセカンドは」
「……あなた滅多に五十番台は使わないじゃないですの」
「うん、使わない。“目くらまし”なんて小さい家の中じゃ使う必要ないもん。こうやって使うのかーって、さっきのはちょっとワクワクしちゃったな」
けらけらと悪びれなく笑うらあらに琴子は一つデコピンを食らわせる。あいててて、と痛くもないだろうに額を押さえたらあらを見て、小さく言葉を落とした。
「十家と……最低でも【九之山】と事を構えることになれば、実権のない【一之宮】はともかく【四之坂】が黙っていないのではなくて? そこまで考えての行動ですの?」
笑い声が一瞬止まる。翡翠の瞳が黄金色を捉えた。
琴子の家は現状十家から除かれているため、現十家と正面からやりあったとてたいした傷にはならない。しかしらあらは別だ。現十家同士であり、加えて阿良々木の家での立場が極端に弱いらあらが問題を起こしたとなれば当主である彼女の父が黙っていないだろう。
「今さら、“落胤”ごときの行動をとやかく言うような家じゃないよ。後継ぎ様から嫌みと折檻くらいはいただくかもしれないけど……旦那様や奥様、お嬢様は口もきかないんじゃない?」
「わたし、それを懸念しているんですけど」
「あり、そうなの? ココってば優しい~」
らあらの目がとろけるように細められる。心底嬉しそうな顔に言葉が詰まった。
らあらは阿良々木家の次女だが、兄や姉とは腹違いだ。彼女の母は阿良々木家の頭首に手を付けられてらあらを宿し、本妻の怒りを買って家を追い出された。成長した彼女の有した能力が本妻の子二人よりも勝っていたために本家に連れ戻されたものの、その勝手な処遇に腹を立てたらあらはいまだに反抗を続けている。もちろん学生の身分でできる反抗などたかが知れているため、家からの仕返しもすさまじい。らあらは何でもないふうに口にするが、少なからずそれが彼女の自尊心を傷つけていることを琴子は知っていた。
分かっているからこそ、あそこで綾也に対して先陣を切るべきは自分だったと思ってしまう。不向きとはいえ、あの場から逃走するだけなら自分の力でもできたはずだ。
「ココ」
らあらが自分の名を呼ぶ。反射的に顔を上げた先で額に衝撃を感じ、うめき声が漏れる。
「っ……! ララ!」
「あはははは! 真剣な顔してるからちょっとからかってやりたくなってさ」
らあらは口先だけで謝りながら琴子の手を握る。
「でも本当に大丈夫だよ。自分にとって一番大事なのは、ココと一緒に受けたこのRの依頼を完遂することなんだから。ココもそうでしょ?」
そうして、本当に屈託のない笑顔と共にそう言った。一片の曇りもない眼でそう言われてしまうと、琴子の返事は一つしかない。
「……喧嘩を売ったからには、向こうより早く依頼をさばきますわ。仕事量は増えますけど、よろしいですわね、ララ?」
「へへ、もちろん!」
もっとも、最初から琴子の意見はらあらと合致しているわけだが。
同日、夕刻、黒本退魔依頼所のオフィスにて。ぐったりした様子のらあらと、対照的に涼しい顔をした琴子の二人にアイスコーヒーを振舞ながら透は「それで」と声をかけた。
「今日の収穫はどんな感じだったの~?」
「とりあえず聞き取りができたのが一番の収穫ですわね。門前払いのご家庭もありましたが、それを考慮しても直接情報が聞けたのは幸運でしたわ。あとは行ける限り現場を見て回りましたわね」
「もう二度とやらない……」
「仕事量が増えることを承諾したのはあなたですわ。聞き込みでそんなに疲れるとは思わなかったですが……もう少しこの事件が解決したら基礎体力増強のトレーニングをしましょうね」
彼女の名誉のために補足するのであれば、近接戦闘に特化した琴子の体力に補助を中心とした能力を発動させるらあらの体力が及ばないのは当然のことだ。無茶言わないでよ、と呟いたらあらの頭を撫でた透は琴子から受け取ったメモに再度目を通す。
事件の被害者十一名の遺族にヒアリングを試みたが、まともに取り合ってもらえたのは雛岸家を含めて三件。不在のためヒアリング自体が実施できなかったのが一件。残りの七件に関しては居留守やインターフォン越しの罵声等様々なお断りをいただいた。既に別の退魔士が主体となって調査が進行している事件に横槍を入れることの直接的な弊害を被った形になる。ましてや今回対抗しなければならないのは自分たちよりも遥かに依頼慣れした十家だ。十家に細かなヒアリングを受けているのは間違いなく、また遺族としても何度も思い出したい話ではなかろう。あまり強気なヒアリングに踏み切らなかった琴子の判断は見方によっては賢明に見える。
「応対してくださったご遺族の方々からはこちらが持っている以上の情報はあまり……ただ被害者の方々が身に着けていたといわれる“赤いもの”については少しばかり絞り込みができましたわ」
アイスコーヒーを飲み下し、琴子はスマートフォンを操作していくつかの画像を提示する。その画像のどれもに赤色の物体が映りこんでおり、そしてその形に共通点があることに透もすぐ気づいた。
「あら~、赤くて……“丸い”のねえ」
赤色のプラスチック製の球体が付いた髪飾りに、赤色のガラス玉があつらえてあるピアス、赤色の丸みを帯びた花をいくつも重ねたようなストラップ。色は橙に近い赤から深紅、形は真円から楕円とある程度の幅はあるが、十分に共通点と言えるだろう。残りの家の確認は難しいが、これに似たものが残されていると予想して差し支えなさそうだ。
「被害者が身に着けていたものが赤いものって情報しかなかったから、事件名を赤ずきんにしたのよねえ……。でも実際は、赤いだけでなく形にも規則性があった……」
「赤くて丸いもの……。林檎……さくらんぼ……トマト……?」
「ココ食べ物ばっかりじゃん」
むっと口をつぐんだ琴子に軽く笑いかけて、らあらも赤くて丸いものに思考を巡らせる。梅干し、日の丸、ピエロの鼻。真上から見ればバラなどの花は大体丸いから色さえ赤ければいいし、イラストまで発想を飛ばせば太陽なんかもそうだろう。しかしそのどれもがいまひとつぴんとこない。
その“何か”を連想させるものを身に着けている“女”をあれだけ惨たらしく殺しているのだ。すべての事件に共通するのだから、腹を裂いて石を詰めるという行為にも何かの意味があるだろう。妖魔に憑かれていれば理屈が通じないため、単純にカモフラージュかもしれないが。
「そういえば、今日行けなかったお宅はここなのね~」
透の声で琴子とらあらの意識がはっと返ってくる。透の細い指がメモの一部、赤い丸を付けた文字をゆっくりとなぞっている。
「ああ、平日だったしね。明日は土曜だし、日を改めて行ってくるよ」
「まあ、追い返されることがないと分かっているだけ多少気持ち的には楽ですわね」
「正気? 自分はまたあの人と話をするのかと思うだけで嫌だよ」
「あらあらぁ」
らあらの嫌そうな声と顔に透はくすくすと笑う。琴子はこの件に関しては諦めているのか、口をへの字に曲げたものの何も言わなかった。そんな二人を微笑ましく見て、しかし透は一度気を引き締めると口を開く。
「事件の最初の犠牲者と、それに続く犠牲者たちに共通項があればあなたたちの見つけた理論は信憑性が高まるわ。ただし誘導尋問のような形にして、自分たちに都合のいい意見だけを拾うのはやめてちょうだいね。そういう聞き取りをして事件の本質を見失った退魔士がどれだけいるか、知らないあなたたちではないでしょう?」
透の言葉に琴子とらあらは目を合わせ、そして揃って頷いた。
人間の記憶、特に妖魔によって引き起こされるような悲惨な事件に巻き込まれた者の記憶はあいまいで、こちらが聞き方を一つ誤るだけで本当に必要な情報を聞き逃すことになる。「そういえばそんな気がする」という情報ではいざというときに対応ができないし、妖魔と対峙しているような状態ではそれが命取りになってしまう。透から、そして家人からも散々言い聞かされてきた言葉だ。
大和葉奈子。この一連の事件の最初の犠牲者であり、依頼人大和さつきの義母である女性の写真を思い出す。特徴らしい特徴を感じない、事件とは縁遠そうな普通の女性という印象だった。しかしその印象すら自分に都合のいい意見かもしれない。第一印象のいい人間が必ず優れた人格者であるとは限らないし、その逆も然りと言える。なんにせよ、彼女についてきちんと知ることは少なからずこの事件解決の手掛かりになるだろう。
琴子はそっと息を吐く。今日の【九之山】の件もあるし、明日の調査が予定通りにいくとは考えにくい。事前に妨害されるか、当日妨害されるか。らあらの家のこともあるし、考えるべきことは山のようにあった。前途は多難である。
