Rの証明
「暑いですね……」
日傘の中でそう呟く。照りつける太陽のもと、鮮やかな色の花々が電柱に飾られていた。もうとっくにぬるくなってしまっているであろうジュースの缶の隣に小さな花束を置いて琴子は手を合わせる。
「はじめまして、雛岸さん。このたびはご愁傷さまでした。あなたの担任の先生からご依頼を受けて、事件の解決に当たらせていただくことになったRの霊山寺です」
事件の直近の被害者である雛岸湊の遺体発見現場は思った以上に閑散としている。すでに調査が終わった後ということもあるのだろうが、野次馬の姿もなく非常に静かだ。自分より年下の少女の墓標となった電柱を見つめる。酷い出血があったと聞いたが、もう電柱にもアスファルトにも血の跡はなかった。
「どうですの、進捗は」
「ん~、良くはないね。直近とはいえ警察も正規の退魔士も動いた後だから遺留品なんて残ってるわけないし。妖気を辿ろうと思ったけどそっちもだめっぽい」
全く感知できないよ、とらあらは肩をすくめた。
Rは普段一軒家等を現場とする依頼に対応していることもあり、市内全域をあたるのは少々骨が折れる。やみくもに動いても仕方がないと思って一番手がかりが残っていそうな雛岸の遺体発見現場に赴いたものの、そう簡単にいく話ではない。ある程度の規模が確認される妖異であれば、居場所や行動域を予測・察知する能力を持つ退魔士が駆り出されるというのも納得の重労働だ。妖魔との戦闘に特化した琴子はもちろんのことだが、全般的なサポートに特化したらあらが呪文を複数重ねがけしても気配ひとつ追いきれない。
「能力でどうしようもないなら、足で稼ぐしかないですわね。警察組織からの助力も期待できませんから」
「大きいとこだとそっちからも情報入るんだっけ。自分は見たことないけど」
「わたしは小さいころに。父に依頼をしに来る警察の方にお会いしたこともあったので、余計に印象強いのかもしれませんね」
国家退魔士という最高位の退魔士だった父の元には多くの警察関係者が依頼を持って、または依頼の情報を持って訪れていた。その誰もが父を尊敬のまなざしで見つめ、その娘である自分にも柔らかな笑みを向けてくれたものだった。「いずれ一之宮を継ぐために」と父がヒアリングに同席させてくれたとき、能力なしで分かるような、事件にかかわるありとあらゆる情報を提示する警察官はずいぶんと頼もしく見えたものだった。無論、あの時のように情報を与えてもらえる権利は今の琴子にはないわけだが。
「しかし情報源がないっていうのは困ったものだよねえ。足で稼ぐって言ったってコネも何もないんだよ」
珍しく弱気なことを言うらあらに琴子は意外そうな目を向ける。小規模な妖魔であれば依頼主が全貌を知っているから情報収集にコネもへったくれもないのだが、市内全域を捜査全域とするならまず“誰に”“どのように”話を聞くのかという問題が生じる。余程初対面の人間との交渉に慣れていなければそれなりに苦手意識がある者もいるだろう。らあらなどは特に、大人に対していい感情を持っていないからなおさらだ。
「あら、コネなんてなくても聞ける相手がいるじゃないですの」
「ええ……?」
「いつもとやることは何も変わりませんわ」
琴子は数十メートル先を指さす。たくさんの家が立ち並ぶなか、ひときわひっそりとたたずむ家。
「事件のことを聞くなら近しい人間から……大和さんにお話を伺ったのであれば、次にお話を聞くならここではなくて?」
立ち上がり歩を進める。その家の表札には“雛岸”と記されていた。インターフォンを押し用向きを伝えれば、少々怪訝そうな様子ではあるが家の中に招き入れられる。見知らぬ退魔士の、それも少女が二人連れで来ても追い返されないだけ、この家は事件の傷が癒えていないと見えた。
家の中はエアコンがよく効いていて、家具と相まって非常に小綺麗な印象を受けた。かろん、とアイスティーの中の氷が揺れて音を立てる。
「それで……ええと、黒本退魔依頼所の、Rさん……?」
「ええ。依頼を受けて参りましたの」
琴子は余所行きの笑みを浮かべる。それに対して女性——雛岸夫人は困惑した様子で眉根を寄せた。既に警察関係者や大手の退魔士からのヒアリングを相当数終えた後なのだろう、退魔士に対して嫌そうな顔はしなかったが色濃い疲れは見えた。
「市からの依頼はもう、きちんとした退魔士の方が動いていらっしゃると聞いていますが……」
「いえ、我々は個人から依頼を受けてきたのですわ。お嬢様の担任の、大和様から」
「大和……大和先生から……?」
雛岸夫人は琴子の言葉を聞き、一瞬ぽかんとした顔になった。しかしその後みるみるうちに瞳に水の膜が張り、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。琴子とらあらは逆にぎょっとしてしまう。
「あの……?」
「あ、いえ、すみません……。本当に大和先生が……?」
「ええ、大和さつき様から依頼を受けていますが」
そうですか、と雛岸夫人は言葉をこぼすと懐からハンカチを取り出して目元を押さえた。大丈夫かと気遣う言葉に軽くうなずいた雛岸夫人は口を開く。
「湊ちゃんが事件に巻き込まれた日……私、大和先生に失礼なことを言ったんです。あの子が先生の話を聞かずに帰ったから、こちらから指導ができなかった分、家についたらきちんと話を聞いてやってほしいと言われて……でもその時私は仕事中で、癪に触って……」
「話を聞かずに?」
その話はさつきから出なかった。湊が死ぬ前に目撃されたのは喫茶店だと聞いていたし、学校を出る直前のことまで気が回っていなかったことに小さく舌打ちをする。こと琴子についてはこれまでの人生で教員からの指導というものを受けたことがないため余計に想像ができなかった。
雛岸湊という少女についての情報はほとんどなかったものの、その限られた情報からでもこの少女がそれなりに扱いにくい子供であるということは推察できた。事前にヒアリングをした透曰く、「人を見下すことで自己を保つ少女」。特にクラスメイトからの評価は何とも言えないものだったという。さつきは口にしなかったが、湊の教員に対しての態度の悪さのは有名だったらしい。雛岸夫人は言いにくそうに口を二、三度もごもごとさせたあとに再び話し始めた。
「お二人もご存じかと思いますけど、今佐々熊市内の学校は相当事件を警戒して、複数人での下校や送迎を推奨しているんです。大和先生は特に担任ということもあって、クラスの女の子たちを相当心配していたみたいで……あの日も、娘に声をかけたそうなんです」
「うちもそうだよ。でも、声かけを聞かないくらいよくあるんじゃないの? 自分も教員の話が長いときなんかは聞き流すこともあるけど」
じろりとした琴子の視線に気づいたのか、らあらはわざとらしく「失礼」と咳払いをした。雛岸夫人は少々面食らったようだったが、言葉遣いを咎めることはこの場で優先するべきではないと思ったらしい。小さく首を横に振る。
「もちろん、娘も感情がありますし、中学生ですから。反抗期と相まって連日続く注意喚起に嫌気がさしていたのはあったと思います。ただその時、大和先生はクラス全体に声をかけた後にわざわざ個別にあの子に声をかけたそうで……」
雛岸夫人の言葉にらあらがあからさまに嫌そうな顔をする。大人を嫌う彼女にとっては想像するだけで不快なことだったのだろう。琴子にはあまりぴんとこない感情だが、少なくとも人によっては教員に個別で声をかけられるというシチュエーション自体を嫌うようだ。
「お嬢様が、個別に注意喚起をされるようなことをその時なさっていたということですか?」
琴子の直球の質問に雛岸夫人は僅かに眉根を寄せたが、しばしの沈黙ののち頷いた。
「湊ちゃんが、その話を聞いた後に赤い髪飾りをつけて帰ろうとしたそうなんです」
「え……」
思わず声が漏れる。琴子の隣でらあらも呆気に取られていた。妖魔の関係する事件だということも知っていて、退魔士が動いていることも知っていて、その妖魔がどのような人間を対象にしているかも知っていたはずだ。年齢と性別は変えられずとも、それ以外の要素をなるべく排除することはできた。にもかかわらず、わざわざ対象に近づくような行動をするのは、単なる自殺行為だ。自分から妖魔に「狙ってくれ」とアピールしているようなものなのだから。さすがに雛岸夫人も気まずかったのだろう、沈黙が居間に満ちる。
「大和先生は状況を考えれば危険だからやめたほうがいいと娘に声をかけたそうなんですが、娘はそれを聞き入れないまま学校を出てしまったと……。娘が学校を出てすぐに私の携帯に大和先生から電話があって、そう聞きました」
さつきの行動は状況が状況なら彼女を救っただろうということは、琴子やらあらにも容易に想像できた。湊が寄り道をせず暗くなってから帰宅しなければ、電話を受けた段階で雛岸夫人が湊に連絡をしていれば、あるいは彼女は被害者にならずに済んだかもしれない。もちろん助かったかもしれないというのは希望的観測でしかないが、あまりにも悪条件が重なりすぎてしまった。
「けれど私は仕事中ということもあって、大和先生からの電話を過剰な心配だと……状況を考えれば、先生が娘を心配してくれたものだと分かったはずなのに。『湊ちゃんがあなたの言うことを聞かないのはあなたの指導力がないからだ』なんて失礼なことを言ってしまって」
「……」
「なのに先生はわざわざ個人で退魔士さんに依頼まで……私、もう、申し訳ないやら恥ずかしいやらで……」
雛岸夫人の嗚咽だけが部屋に響く。学生の二人から彼女にかけられる言葉はない。心中でそっとさつきに同情はすれど、目の前の女性を責め立てても得られるものもない。
「いい先生なんですね」
やっとのことで琴子はそれだけ言った。雛岸夫人はしきりに目元を押さえながら、「それが分かってれば、湊ちゃんは……」と繰り返す。結局十数分、気まずい時間が続いたのちに二人は雛岸家を出ることになった。
「酷い目に遭った」
げんなりとした様子でらあらが言ったが、琴子もそれには反論しなかった。反論する元気がなかったとも言える。
「ただ不謹慎ではありますが、あの一件については被害者の自業自得だと思いますわ。ご婦人はご自身の不甲斐なさを嘆いていらしたけれど、妖魔が出ると勧告されている場所で大人に止められてもやめないというのは、第三者からの止めようがありませんもの」
「まあ……うーん」
歯切れの悪いらあらに琴子は視線をやる。しかし、考え込むような仕草をしていたらあらは首を振ると琴子にあいまいな笑顔を向けた。
「んや、だいじょーぶ。確定してないことを話すの、好きじゃないのココも知ってるでしょ」
「まあ、そうですけど……」
「それは困りますね。現状どんなわずかな情報でも必要なもので……僕たちにはお話ししていただけますよね?」
突如降り注いだ声に二人は頭上を見上げる。電柱の上、逆光になったそこに小さな人影があった。影はふわりと浮き上がると、止める間もなく二人の目の前に着地する。ほっそりとした足からは想像もできない高さからの、それも無傷での着地。口元は微笑んでいるが、こちらを見る目には好意のようなものは読み取れなかった。
「こほん……【四之坂】のお嬢さんは初めまして……【一之宮】のお姉さまはお久しぶりですね? 僕のこと、覚えてますか?」
人影——いや、少年はわざとらしく咳払いをしてからそう言う。らあらは琴子のほうに視線を向け、そして一度固まった。琴子は苦虫を噛み潰したような顔をしてその少年を見ている。
「【九之山】……」
ぼそりと吐き出すような琴子の言葉と対照的に、少年はにっこりと微笑んだ。慇懃無礼な言葉と共に。
日傘の中でそう呟く。照りつける太陽のもと、鮮やかな色の花々が電柱に飾られていた。もうとっくにぬるくなってしまっているであろうジュースの缶の隣に小さな花束を置いて琴子は手を合わせる。
「はじめまして、雛岸さん。このたびはご愁傷さまでした。あなたの担任の先生からご依頼を受けて、事件の解決に当たらせていただくことになったRの霊山寺です」
事件の直近の被害者である雛岸湊の遺体発見現場は思った以上に閑散としている。すでに調査が終わった後ということもあるのだろうが、野次馬の姿もなく非常に静かだ。自分より年下の少女の墓標となった電柱を見つめる。酷い出血があったと聞いたが、もう電柱にもアスファルトにも血の跡はなかった。
「どうですの、進捗は」
「ん~、良くはないね。直近とはいえ警察も正規の退魔士も動いた後だから遺留品なんて残ってるわけないし。妖気を辿ろうと思ったけどそっちもだめっぽい」
全く感知できないよ、とらあらは肩をすくめた。
Rは普段一軒家等を現場とする依頼に対応していることもあり、市内全域をあたるのは少々骨が折れる。やみくもに動いても仕方がないと思って一番手がかりが残っていそうな雛岸の遺体発見現場に赴いたものの、そう簡単にいく話ではない。ある程度の規模が確認される妖異であれば、居場所や行動域を予測・察知する能力を持つ退魔士が駆り出されるというのも納得の重労働だ。妖魔との戦闘に特化した琴子はもちろんのことだが、全般的なサポートに特化したらあらが呪文を複数重ねがけしても気配ひとつ追いきれない。
「能力でどうしようもないなら、足で稼ぐしかないですわね。警察組織からの助力も期待できませんから」
「大きいとこだとそっちからも情報入るんだっけ。自分は見たことないけど」
「わたしは小さいころに。父に依頼をしに来る警察の方にお会いしたこともあったので、余計に印象強いのかもしれませんね」
国家退魔士という最高位の退魔士だった父の元には多くの警察関係者が依頼を持って、または依頼の情報を持って訪れていた。その誰もが父を尊敬のまなざしで見つめ、その娘である自分にも柔らかな笑みを向けてくれたものだった。「いずれ一之宮を継ぐために」と父がヒアリングに同席させてくれたとき、能力なしで分かるような、事件にかかわるありとあらゆる情報を提示する警察官はずいぶんと頼もしく見えたものだった。無論、あの時のように情報を与えてもらえる権利は今の琴子にはないわけだが。
「しかし情報源がないっていうのは困ったものだよねえ。足で稼ぐって言ったってコネも何もないんだよ」
珍しく弱気なことを言うらあらに琴子は意外そうな目を向ける。小規模な妖魔であれば依頼主が全貌を知っているから情報収集にコネもへったくれもないのだが、市内全域を捜査全域とするならまず“誰に”“どのように”話を聞くのかという問題が生じる。余程初対面の人間との交渉に慣れていなければそれなりに苦手意識がある者もいるだろう。らあらなどは特に、大人に対していい感情を持っていないからなおさらだ。
「あら、コネなんてなくても聞ける相手がいるじゃないですの」
「ええ……?」
「いつもとやることは何も変わりませんわ」
琴子は数十メートル先を指さす。たくさんの家が立ち並ぶなか、ひときわひっそりとたたずむ家。
「事件のことを聞くなら近しい人間から……大和さんにお話を伺ったのであれば、次にお話を聞くならここではなくて?」
立ち上がり歩を進める。その家の表札には“雛岸”と記されていた。インターフォンを押し用向きを伝えれば、少々怪訝そうな様子ではあるが家の中に招き入れられる。見知らぬ退魔士の、それも少女が二人連れで来ても追い返されないだけ、この家は事件の傷が癒えていないと見えた。
家の中はエアコンがよく効いていて、家具と相まって非常に小綺麗な印象を受けた。かろん、とアイスティーの中の氷が揺れて音を立てる。
「それで……ええと、黒本退魔依頼所の、Rさん……?」
「ええ。依頼を受けて参りましたの」
琴子は余所行きの笑みを浮かべる。それに対して女性——雛岸夫人は困惑した様子で眉根を寄せた。既に警察関係者や大手の退魔士からのヒアリングを相当数終えた後なのだろう、退魔士に対して嫌そうな顔はしなかったが色濃い疲れは見えた。
「市からの依頼はもう、きちんとした退魔士の方が動いていらっしゃると聞いていますが……」
「いえ、我々は個人から依頼を受けてきたのですわ。お嬢様の担任の、大和様から」
「大和……大和先生から……?」
雛岸夫人は琴子の言葉を聞き、一瞬ぽかんとした顔になった。しかしその後みるみるうちに瞳に水の膜が張り、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。琴子とらあらは逆にぎょっとしてしまう。
「あの……?」
「あ、いえ、すみません……。本当に大和先生が……?」
「ええ、大和さつき様から依頼を受けていますが」
そうですか、と雛岸夫人は言葉をこぼすと懐からハンカチを取り出して目元を押さえた。大丈夫かと気遣う言葉に軽くうなずいた雛岸夫人は口を開く。
「湊ちゃんが事件に巻き込まれた日……私、大和先生に失礼なことを言ったんです。あの子が先生の話を聞かずに帰ったから、こちらから指導ができなかった分、家についたらきちんと話を聞いてやってほしいと言われて……でもその時私は仕事中で、癪に触って……」
「話を聞かずに?」
その話はさつきから出なかった。湊が死ぬ前に目撃されたのは喫茶店だと聞いていたし、学校を出る直前のことまで気が回っていなかったことに小さく舌打ちをする。こと琴子についてはこれまでの人生で教員からの指導というものを受けたことがないため余計に想像ができなかった。
雛岸湊という少女についての情報はほとんどなかったものの、その限られた情報からでもこの少女がそれなりに扱いにくい子供であるということは推察できた。事前にヒアリングをした透曰く、「人を見下すことで自己を保つ少女」。特にクラスメイトからの評価は何とも言えないものだったという。さつきは口にしなかったが、湊の教員に対しての態度の悪さのは有名だったらしい。雛岸夫人は言いにくそうに口を二、三度もごもごとさせたあとに再び話し始めた。
「お二人もご存じかと思いますけど、今佐々熊市内の学校は相当事件を警戒して、複数人での下校や送迎を推奨しているんです。大和先生は特に担任ということもあって、クラスの女の子たちを相当心配していたみたいで……あの日も、娘に声をかけたそうなんです」
「うちもそうだよ。でも、声かけを聞かないくらいよくあるんじゃないの? 自分も教員の話が長いときなんかは聞き流すこともあるけど」
じろりとした琴子の視線に気づいたのか、らあらはわざとらしく「失礼」と咳払いをした。雛岸夫人は少々面食らったようだったが、言葉遣いを咎めることはこの場で優先するべきではないと思ったらしい。小さく首を横に振る。
「もちろん、娘も感情がありますし、中学生ですから。反抗期と相まって連日続く注意喚起に嫌気がさしていたのはあったと思います。ただその時、大和先生はクラス全体に声をかけた後にわざわざ個別にあの子に声をかけたそうで……」
雛岸夫人の言葉にらあらがあからさまに嫌そうな顔をする。大人を嫌う彼女にとっては想像するだけで不快なことだったのだろう。琴子にはあまりぴんとこない感情だが、少なくとも人によっては教員に個別で声をかけられるというシチュエーション自体を嫌うようだ。
「お嬢様が、個別に注意喚起をされるようなことをその時なさっていたということですか?」
琴子の直球の質問に雛岸夫人は僅かに眉根を寄せたが、しばしの沈黙ののち頷いた。
「湊ちゃんが、その話を聞いた後に赤い髪飾りをつけて帰ろうとしたそうなんです」
「え……」
思わず声が漏れる。琴子の隣でらあらも呆気に取られていた。妖魔の関係する事件だということも知っていて、退魔士が動いていることも知っていて、その妖魔がどのような人間を対象にしているかも知っていたはずだ。年齢と性別は変えられずとも、それ以外の要素をなるべく排除することはできた。にもかかわらず、わざわざ対象に近づくような行動をするのは、単なる自殺行為だ。自分から妖魔に「狙ってくれ」とアピールしているようなものなのだから。さすがに雛岸夫人も気まずかったのだろう、沈黙が居間に満ちる。
「大和先生は状況を考えれば危険だからやめたほうがいいと娘に声をかけたそうなんですが、娘はそれを聞き入れないまま学校を出てしまったと……。娘が学校を出てすぐに私の携帯に大和先生から電話があって、そう聞きました」
さつきの行動は状況が状況なら彼女を救っただろうということは、琴子やらあらにも容易に想像できた。湊が寄り道をせず暗くなってから帰宅しなければ、電話を受けた段階で雛岸夫人が湊に連絡をしていれば、あるいは彼女は被害者にならずに済んだかもしれない。もちろん助かったかもしれないというのは希望的観測でしかないが、あまりにも悪条件が重なりすぎてしまった。
「けれど私は仕事中ということもあって、大和先生からの電話を過剰な心配だと……状況を考えれば、先生が娘を心配してくれたものだと分かったはずなのに。『湊ちゃんがあなたの言うことを聞かないのはあなたの指導力がないからだ』なんて失礼なことを言ってしまって」
「……」
「なのに先生はわざわざ個人で退魔士さんに依頼まで……私、もう、申し訳ないやら恥ずかしいやらで……」
雛岸夫人の嗚咽だけが部屋に響く。学生の二人から彼女にかけられる言葉はない。心中でそっとさつきに同情はすれど、目の前の女性を責め立てても得られるものもない。
「いい先生なんですね」
やっとのことで琴子はそれだけ言った。雛岸夫人はしきりに目元を押さえながら、「それが分かってれば、湊ちゃんは……」と繰り返す。結局十数分、気まずい時間が続いたのちに二人は雛岸家を出ることになった。
「酷い目に遭った」
げんなりとした様子でらあらが言ったが、琴子もそれには反論しなかった。反論する元気がなかったとも言える。
「ただ不謹慎ではありますが、あの一件については被害者の自業自得だと思いますわ。ご婦人はご自身の不甲斐なさを嘆いていらしたけれど、妖魔が出ると勧告されている場所で大人に止められてもやめないというのは、第三者からの止めようがありませんもの」
「まあ……うーん」
歯切れの悪いらあらに琴子は視線をやる。しかし、考え込むような仕草をしていたらあらは首を振ると琴子にあいまいな笑顔を向けた。
「んや、だいじょーぶ。確定してないことを話すの、好きじゃないのココも知ってるでしょ」
「まあ、そうですけど……」
「それは困りますね。現状どんなわずかな情報でも必要なもので……僕たちにはお話ししていただけますよね?」
突如降り注いだ声に二人は頭上を見上げる。電柱の上、逆光になったそこに小さな人影があった。影はふわりと浮き上がると、止める間もなく二人の目の前に着地する。ほっそりとした足からは想像もできない高さからの、それも無傷での着地。口元は微笑んでいるが、こちらを見る目には好意のようなものは読み取れなかった。
「こほん……【四之坂】のお嬢さんは初めまして……【一之宮】のお姉さまはお久しぶりですね? 僕のこと、覚えてますか?」
人影——いや、少年はわざとらしく咳払いをしてからそう言う。らあらは琴子のほうに視線を向け、そして一度固まった。琴子は苦虫を噛み潰したような顔をしてその少年を見ている。
「【九之山】……」
ぼそりと吐き出すような琴子の言葉と対照的に、少年はにっこりと微笑んだ。慇懃無礼な言葉と共に。
