Rの証明
よく晴れているわ、と琴子は喫茶「糸」のテラス席から空を見上げる。突き抜けるような夏色の空は数週間のうちにミルクがかったような秋の空に変わっていた。九月の中旬、事件から一月ほど経とうかという時期である。
「大和さん。やっぱり罪にはならなかったわねえ」
「マスター」
透は暖かいミルクティーを差し出して琴子の正面に腰を下ろす。客は琴子の他にいない。自分もゆっくりとコーヒーを啜りながら透はパラパラと事件用のファイルをめくった。
妖魔を退けてから数時間後に意識を取り戻した大和さつきは、やはりひどく錯乱したらしい。いくら妖魔に憑かれている時の犯罪行為は当人の罪になりにくいと説明しても自分が殺したのだと言ってきかず、被害者に償わなくては気が済まないと言い張って大変だったらしい。担当についた綾也から「依頼解決の名誉だけでは足りないほど厄介でしたよ」というメッセージが依頼所宛に届いたほどである。琴子は彼女の正義感の強さを考えればもっともだと思ったが、一緒にその報告を聞いたらあらは「罰したら許さなきゃいけないじゃん。そういうところ、本当にいい子ちゃんぶっててやだなあ」と不快そうだった。
「憎むべきは妖魔か人か、なんて妖魔の存在が明らかになった頃は言われたらしいけど。被害者からすれば妖魔だって人だって憎いものね~」
「いっそ人間がただの凶器として扱われていれば話は別なのでしょうけれど、今回のさつきさんのように本人にも犯行の元になるような感情がある場合は……なんとも言い難いですわね」
妖魔が憑かずともさつきは大和葉奈子をいつか殺していたかもしれない。しかしそれを立証できるようなものはもう残っていないし、その逆も然りだ。
琴子はミルクティーを一口飲む。いつもの彼女よりは幾分覇気のないその様に透は口をひらく。
「なにか、気になることがあるの?」
僅かに動きを止めた後、琴子は小さく頷いた。透はじっと琴子を見つめて続きを促す。話さないほうがいいだろうか、と今さら考えても仕方のないことが浮かぶ。しかし気になるままにして忘れるまで放置するというのはどうも琴子の苦手とする分野だった。
「確かに彼女は妖魔に憑かれるべくして憑かれた人だったのだと思います。ただ……マスターから見て、さつきさんの感情は……あんなにもたくさんの人を殺すようなものでしたか?」
琴子の言葉に透は考えるようなそぶりを見せる。そしてたっぷりの沈黙ののち、首を横に振る。否定されると思っていた言葉に同意されたことで一瞬思考が止まったが、話を聞いてくれるのであればラッキーだ。言葉を続ける。
「たしかにさつきさんは旦那さんとの間にお子さんがいなくて……彼女の言葉を信じるのであればその前のお子さんは、旦那さんに伝える前に大和葉奈子さんの影響で亡くなっています。それそのものは結婚したことも子どもができたこともないわたしでは想像がつかないほど凄惨な出来事ですし、殺意に反応して妖魔が取り憑いても不思議ではないと思います」
ただ、と琴子は一呼吸置く。
あれからどうにも落ち着かず、自分で調べたり綾也に聞いたりして、さつきと他の被害者たちとの接点を調べた。一つの市内とはいえ、佐々熊市はそこまで大きな土地ではない。どこかですれ違うことくらいあるかと思ったが、最初の大和葉奈子と最後になった雛岸湊以外でさつきと接したことのある人間は不自然なほどいなかった。鬼灯に似た赤くて丸いものを身に着けている女性を無差別に襲ったと考えれば筋は通るのだが、そこに何か言いようのない違和感がある気がしたのだ。
それこそ、無関係の人を襲うことでさつきが自分で行動を起こすのを待っていたかのような。うまくいかなかったから知り合いを襲うように仕向けたかのような。
「霊山寺」
静かな、しかし明確に咎める意思を持った声にはっと意識を引き戻された。めったに呼ばれることのない呼び方に心臓がばくばくと派手に動く。透の声色は琴子が予想していた以上に硬質なものだ。
「滅多なことを考えるものではないわ。誰かが妖魔を操っているとでも?」
「か……可能性の一つですわ。もし操っている存在があの妖魔より格上なのだとしたら、それこそ現役の十家くらいしか相手ができないのではなくて?」
「あなたたちは確かに十家に連なる退魔士ではあるけれど、実力はそれに遠く及ばないわ。確かに今回の妖魔はあなたたちから見て強大な存在だったし、初めての広域を捜査対象とした依頼だった。実戦経験が薄ければ自分の知らないパターンはすべて異質に映る。今回のあなたの違和感は、そういうものでしょう」
さつきに憑いた妖魔を感じた時のような言葉にしづらい気持ち悪さが、ねっとりと琴子の首元にまとわりついている。生唾を飲みこみ、いつもと異なる様子で滔々と話し続ける透を見た。にこやかな印象を与える目元にも口元にも一切の感情はなく、機械のような無機質さだけが残るその顔は黒本退魔依頼所の所長の顔ではない。
「あれ? 今日はトールちゃんじゃなくて……大先輩の気分?」
停滞していた空気が一気に流れるような感覚に琴子は詰めていた息を吐く。いつの間にか店内に入ってきたらあらはその様子を見てからからと笑った。
「阿良々木」
「うわー、こわっ。先輩あんまりうちの相方いじめないでくださいよ。ココ何言ったのさ」
透の低い声にも怯むことなくらあらは琴子の隣に座る。乱暴にすら見える無遠慮さで琴子の前に置きっぱなしにされていたカップを手に取り、ミルクティーを飲み干した。けふぅっと品のないげっぷをしたらあらを見て琴子の肩から力が抜ける。らあらの手の甲を少しつねると彼女は大げさに痛がって見せた。
「……そうね、少し大人気なかったわね〜」
緩んだ空気につられたのか、透の声が柔らかくなる。ほっと息をつこうとする琴子の隣でらあらはケケッと笑ってみせた。
「あの凄腕国家退魔士”モイラ”さん怒らせたなんてなったら、一介の学生退魔士には太刀打ちできないんだからさ~」
「……その名前は、元よ~」
再度咎めるような声になったが、らあらはそれを気にも留めない。それどころか琴子から奪い取ったティーカップをテーブルに置くと、琴子の手を取って立ち上がる。困惑する琴子をよそに「今日は依頼もないし、どっか寄って帰ろうよ」と無邪気に声をかけたらあらは、無理やり琴子の背を押して『糸』をあとにしようとする。透もそれをあえて止めようとはしていないらしい。
しかし扉から琴子を出したそのあとで、らあらは透を振り返ってぼそりと。
「自分はトールちゃんのこと好きだからいうけどさ。モイラ先輩、自分にとって都合が悪いことを相手が口にしたとき、圧で押しに来るのやめてね。今日はココ相手だったから仲裁したけどさ、自分相手だったら一切ひかないから水掛け論になるよ」
存外冷ややかな口調でそう言った。そのまますたすたと歩き出したらあらを、しかし透は呼び止めなかった。
「ララ……あの言い方は」
「ココは真面目すぎるんだよなあ。自分ら預かってくれてる依頼所のトールちゃんとしてはともかく、妖魔を操る存在がいるかも! なんて話したら、元モイラさんの立場としては咎めざるを得ないじゃん」
「あなたに大人との付き合いを語られるとは、わたしもよっぽど急いていましたね」
「ちがいない」
けろりと笑ったらあらだったが、対照的に琴子の顔は晴れない。そんな相方の肩をたたいてらあらは晴れた空を背景に琴子の前に躍り出る。
「ま、ココの気持ちもわかるよ。もし自分らの予想が的中した場合、十家でも対抗できない勢力が妖魔に出来かねない。そう思えば一刻も早く強力な協力者が必要だもの」
透にはああ言ったが、実際のところ妖魔を意のままに操るような妖魔が存在するのであれば、既存の戦力では応戦不可能になるだろう。並の妖魔でさえ退魔士を簡単に殺すのだ。それ以上がいるならば、一刻も早い対応が必要になる。
「とはいえ、現状では直属の上司であるマスターにも断られてしまっておりますのよ。あの人並みに強力な協力者なんて……」
言いかけた琴子の唇にそっとらあらの人差し指が添えられる。きょとんとする琴子のほほをそのまま両手でつかみ、左右から圧をかけた。ぶに、とつぶれる琴子の顔に笑いながららあらは言葉を続ける。
「お堅いねえ。仮にあの予想が事実だったら、それこそ上が黙ってない。自分らこれでも個人依頼所所属で市単位の退魔を成した、上からみりゃ優良物件候補だよ? ここから着実に依頼をこなしていけば、馬鹿じゃない上層部だって出てくるさ」
楽観的な言葉だと思いながらも、しかし今はそれを信じるしかない。琴子は根負けしてうなずいた。十家のシステムにも見られるように、実力があるものが上位に立つのが退魔士だ。
「それに……」
「それに?」
言いかけてやめたらあらを琴子は見つめる。らあらは「ココって日頃平気でクサいこと言うのに、こういうときは察しが悪いよね」と嫌味っぽい口調で返す。それをじろりと見返して続きを待てば、大きなため息とともにらあらは口を開いた。
「正直、実力だって人脈だって有り余ってるわけじゃないけどさ。でも今回の件通して改めて、ココと組んでりゃ何かしらうまくいくんじゃないかと思ったよ、自分は」
口調こそ憎まれ口に近いがそれが彼女の最大級の賛辞であり、俗にいう“デレ”だということは琴子にはよくわかった。意識せずとも口角が上がる。それを見たらあらが面倒くさそうに眉根を寄せたのが見えたが、些事だと気にしないことにした。先ほどとは逆に目の前にいるらあらの手をとる。
「ちょっ……ココ! いやなんだその顔めんどくさいことこの上ないんだけど!」
「もうっ、そんなつれないこと付け足されても痛くもかゆくもありませんわよ! 気が変わりました、ララが言っていたようにどこかに寄ることにします! 佐々熊の駅前に新しくパフェが売りのカフェができたと聞きましたから、事後観察もかねてそこへ――」
俄然年頃の少女らしい話題を展開しながら、二人は道を行く。
この二人が近い将来、「退魔にRあり」として広く知られるようになることを、この時点ではまだ誰も予想だにしていなかったのである。
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