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Rの証明


揺蕩っている。微睡んでいるような、熱に浮かされているようなそんな感覚。さつきは何もない空間で目を覚ました。見渡す限り一面の白が広がっており、自分の体を見ようとしても何も見えない。自分という概念だけが漂っているような感覚にさつきは怯え、声を上げようとする。もし、誰かいませんか。声は出ず、音すら聞こえない。不安のあまり何も見えないと分かっていても辺りを見回してしまう。
——あなたたちの子供、次はいつになるの。
 不意に聞こえた声にびくりと体が震える。それは聞きなれた義母の声だった。心配しているようでいてその実嘲るような色味のそれは、あれから嫌というほど夢に見たものだ。
 分かっていた。あの日彼女が大きな荷物を抱えて、いつもと全く違う様子で自分に接した時から何かがおかしいことなど分かっていた。そしてその漠然とした違和感は、赤とも橙ともつかぬまろい形状の美しい実を見た時に現実のものとなった。
——こいつ は  う んだ わた し うめな か たの に
 耳元でそんな声がした。初めて聞くのに聞き馴染みがあるような声はしきりにそのような言葉を繰り返した。その声を聞くうちに、またいつかのことを思い出す。そうだ、あれは婚約のタイミングだった。夫を愛し、夫に愛されているという感覚もあった。軽微な体調不良から偶然それに気づいたとき、この幸せは永遠のものになるのだと信じて疑わなかった。
 なのに、どこで間違えたのだろう。さつきは自問自答する。
 夫に伝えるよりも早く、彼とも彼女ともわからなかったその人はさつきの胎からいなくなってしまった。誰にも話せず一人で抱えていたとき、あの日と同じように家に来た義母が言ったのだ。ぼそりと聞こえないくらいの、しかしさつきが気付くくらいの声量で。
——よく効いて、よかったわあ。
 そうだ、あの時も彼女の腕にちらりと赤い実が見えたのだ。今となっては真偽のほどはわからない。言葉もなにか別のことを差したのかもしれない。けれどその言葉と赤い実がずっと引っかかっていた。それがあの日、子供の話をされて、きっと理性のたがが外れてしまったのだろう。
 気が付けば、目の前で義母が事切れていた。夢を見ているような心地で、不思議と恐怖心も罪悪感もない。その代わりに自身の隣からふわりと黒い靄のようなものがにじみ出てさつきに声をかけたのだ。
——胎 を もらおう とむら おう わたし たちの  子を
 甘やかで愛おしむ声に手が動いた。腹を裂き、中を暴いて、生まれてくることすら叶わなかった子の弔いのために石を詰める。自分の意思はなく、しかし確かに自分の意思に基づいた奇妙な行動に怯えながらもさつきはすべてをやり切った。不思議と義母から出たはずの大量の血液は手をかざすだけで消え落ち、義母を刺したはずの刃物は手の中に染み入るように消えていった。ああ、そうだった。今まで見ていた気色が蜃気楼のように揺らいで消える。後にはただ白い空間と、妖魔と自分に殺された女性たちの死体と、血に染まった自分の姿があった。
「あ……あ………!」
 震える声が漏れた。自身の犯した罪の象徴を目の前にして体の震えが止まらない。四方八方から聞こえてくる怨嗟の声のうちには被害者たちのものも、夫のものも、見知らぬだれかものもあった。そのどれもこれもが自分の弱さを責め苛むものだ。
——どうしてこんなことを やめて いたい いやっ……
——いたい いたい いたい あは あはははははは ひとごろし あはは
 目の前にぼうっと影が浮かび出る。今にも死んでしまいそうな顔で佇むその影は、いつも鏡の中に映る自分の顔をしていた。彼女はさつきを見据えて泣き出しそうな顔で問う。
——解決を待つのではなく……自分で依頼をすれば、その結果妖魔が消えれば。自分のしたことが帳消しになると思った?
 違うとは言いきれなかった。事件が続き、自分の意にそぐわないとはいえ罪を重ねていくなかで誰かに楽にしてほしいと願ったのは事実。けれどそれを自分の口から伝えることもできなければ、市から正式に依頼を受けた退魔士に任せっきりにすることもできなかった。どちらを選ぶことも恐ろしかったのだ。自分の口から自分の罪を告白することも、強制的に自分の罪を暴かれることも。それがたとえ妖魔の手によるものだったとしても、今の法で妖魔に憑かれた人間を裁くことができないのだとしても。それを引き寄せたのは、そしてトリガーを最初に引いたのは間違いなく自分の意思だったのだから。
「たすけて……」
 それでも、誰かに助けてほしかった。義母を手にかけて、見知った人も見知らぬ人も手にかけて、教え子すら手にかけて、許されるとは到底思っていない。贖うべきものが山ほどあると分かっているが、それでも、誰かに救ってほしかった。もはや自分の力では止められなくなってしまった妖魔も、それによって狂ってしまった自分の運命も、跳ね返すだけの力がさつきにはなかったのだ。
 そう、だからあの二人に依頼をした。家に、環境に、能力に、子供の力ではどうにもできないような運命の中でもなお前を向いて立ち続けるあの二人に。自分にはない力を持つ二人に救ってほしかった。それがいかに自分勝手な願いであるかは分かっている。
 それでも。
「たすけて……!」
 二度目はきちんと声になった。泣きそうになるのをこらえて、何もない白い空間でひたすら吠える。目の前に立つ自分の幻影が鬼のような形相で自分の首を絞めにかかるが、それに負けじと声を出す。不思議とよく声が通った。力が湧き上がってくるような気がした。
「……対象、見つけました!」
 少年の声が耳朶を叩く。ああそういえば、あの子はRに依頼を出す前に調査に来た退魔士の子だったっけ。さつきの頭の中に尊大なのに卑屈そうな目をした少年の姿が浮かぶ。幾分か険の取れたように見えるその顔が、自分の首を絞める影の“後ろ”からにゅうっと覗いた。
「なにをぼさっとしてるんですか、大和さつき! お姉さま方の作った隙です! あとはあなたが……しっかり“自分”を持ちなさい!」
 そう叱責され、さつきは目の前の影につかみかかった。ぎょっと怯んだように見えるそれを逆に押し倒し、声を張り上げる。
「帳消しになんて、なるわけない……! わたし、私は……!」
——は な  せ わた し ただ  こども が
「私は! 自分の罪を、自分できちんと見据えるために、ここにきたんです!」
 ばきん、と硬質な音が響いた。白い空間に大きなひびが入る。そのひびから強い光がほとばしり、それに合わせて空間が崩れていく。さつきの下でもがいていた影が苦しそうに身をよじり、口を開いて叫ぶ。
いやだ、やめて、これいじょう、わたしから、うばわないで。
言葉を皮切りに、影が形を変える。初めはさつきに、次にさつきが殺した女性たちに。フラッシュのように瞬く間に姿を変え続けた影は、とうとう小柄な着物姿の女性になった。彼女は駄々をこねる子供のように首を激しく横に振ると、さつきを睨み、およそ人間が出せる範囲を超えた力で彼女を振りほどく。
そしてそのまま、激しい光を放つほうへ走っていこうとして——
「上出来ですわ、さつきさん!」
 その声を最後に、さつきの意識はぷっつりと途絶える。


◇ ◇

「……! 反応ありました! 出ますよ、お姉さま!」
 綾也の声と同時に、大量のダガーで拘束されていたさつきの体がぶるぶると震え始める。その口ががぱりと開き、黒い靄が吐き出された。先刻見かけたときよりも随分小さく薄くなったそれが弱体化していることは一目でわかった。
「……弱った人間につけいるまではよかったんだろうけど。詰めが甘かったね!」
 らあらは声を上げて笑い、そのまま両手を靄に向けて突き出す。
「ナンバーサーティフィフス!」
 戦闘時に周囲に展開していた防御壁を手刀で操り、妖魔を取り囲む壁として再編成する。しかしなお勢いを殺さない妖魔はその手に刃物を出現させると、らあら目掛けて一目散に突進しようとした。
——あ……?
 かろん……という軽やかな音と共に妖魔の持つ刃物が根元から落ちる。根元は一文字に斬り落とされている。それに気づいたらしい妖魔が次の刃物を出現させようと手を背後に回した。
「残念ながら、打つ手はありませんわよ」
 常人ならざる速度で音の発生源から距離を取ろうとした妖魔は、しかしその場に頽れた。刃物を出現させたはずの手が自身の背後にある。人間であれば手首に当たるであろうその部分も、先ほどの刃物と同様に一文字の跡を残して断ち切られていた。じわじわと薄れて消えていくその手を踏みつけた琴子は凄絶なまでの笑みを浮かべてダガーを握りなおす。
「さつきさんに取り憑いたことや、事件の内容……貴女にもそこに至るまでの壮絶な人生があったことは推察します。ですが……わたしたちもこれが仕事ですから」
 じりじり、らあらの操る壁が妖魔を取り囲む。突破口は最早、目の前に迫る琴子を殺すことのほかない。妖魔は靄のような体を一度ぶるりと震わせると、小柄な女性の姿になり、獣のような咆哮を上げながら琴子に飛びかかった。ダガーを見越してか、投擲を許さない左右への小刻みな移動を挟んだ突撃。琴子は数度ダガーを投げたが、それは妖魔に当たらない。リーチが詰まる。次のダガーの装填は間に合わない。
「わたしの専門は、近接創造ですのよ」
 ずる、と。気が付いた時には妖魔は空を仰いでいた。いや、正確には頭部だけが地面に仰向けのような状態で転がされていたのだ。状況を理解できない。離れたところで何か水気の多いものが倒れこむような音がしている。きょどきょどと視線を動かすような妖魔の視界に琴子がうつる。決死の特攻を仕掛けようとしたのか、妖魔の体が大きく膨らんだ。しかしその膨らみもすぐに萎む。切り裂かれたところからじわじわと霧散するように妖魔の体が消えていく。
「ダガーであれば確かに貴女のスピードが勝るのでしょうけど。スピードで勝てないのであれば、リーチの長さを活かすのは当然ではなくて?」
 琴子はダガーの刀身だけを伸ばした細身の刀を振るう。それは寸分違わず妖魔の頭部、その中心に振り下ろされた。あ、ともう、ともつかぬ音を最後にぼろぼろと妖魔の体が崩れていく。
——ど ゔ じ  でど ゔ じ  で ど
 崩れながら疑問詞を繰り返す妖魔を一瞥したのち琴子は刀を消し、らあらの壁の包囲から脱出する。それを合図にらあらは壁を操り、妖魔を圧縮した。ぐしゅっという音と共に壁の内側が一瞬黒く濁り、その後小さな球がころりと転がり出る。
「……圧縮完了。退魔任務も終了」
 その球を拾い上げてらあらがそう呟く。琴子も大きく息を吐いた。
「お疲れ様です、琴子お姉さま、阿良々木さん。僕の隊にも現時刻をもって退魔任務の終了を通達しました」
「綾也さん……」
 綾也は肩をすくめて笑う。綾也の後ろに先ほど彼に寺岡、光永と呼ばれていた二人組の退魔士が音もなく現れ、静かに「よろしいのですか」と問うた。
「問題ありません。僕が今回市から受けた依頼は女性連続殺人事件の解決です。とどめを刺したのが僕たちではないというだけで協力体制もとりましたし、退魔の依頼は達成されています」
「……は」
 頭を下げて口を閉じた二人にも軽く微笑みかけ、綾也は再度琴子とらあらに向き直る。らあらは少し考えたそぶりを見せた後、綾也に「ほい」と軽く声をかけて手の中のものを放った。慌てて一歩踏み出した綾也の手の中に、妖魔を圧縮した小さな球が収まる。
「ちょ、ちょっと! 落としたらどうするんですか!」
「なんかいい話っぽくしてるけど、それ君たちに受け取ってもらわないと困るんだよね。残念なことにうちの依頼人は妖魔云々は抜きにして自分のしたことを償いたい~とか寝ぼけたこと言いだしそうだし、それ持ってても依頼料から何から何まで無駄なわけ」
 わざとらしく言ったらあらに苦笑しつつ、琴子は未だ意識を失ったままのさつきを拘束するダガーを外して「そういうことですわ」と付け足す。さつきが(らあらに言わせれば絶望的に偽善じみた行動を好むという)善人であるということは察しがついている。妖魔に憑かれた状態での犯罪行為が当人の罪になりづらいとはいえ、それを素直に受け入れることはないだろう。彼女なりの贖罪のために行動することは簡単に予想できる。
「それに、わたしもララも、優秀な人間が正当な評価を受けないことを好みませんから。ここはわたしたちの顔を立てると思って、立派に事件解決の御旗を掲げていただきたいのですが」
 琴子の言葉にしばし考え込むような仕草をした後、綾也は深くため息をついた。彼らしからぬ動作でガシガシと頭を何度かかく。
「……全く、こちらが提示した協力条件を勝手に満たされたんじゃたまったものじゃないですよ」
「え?」
「いいえ、なんでも。そういうことでしたら後処理まで【九之山】が引き受けましょう。大和さつきも……悪くはしません。彼女の想定している最悪の罪滅ぼしまでやりすぎないように、こちらで制御しましょう」
 ぎゅっと球を握りこんだ綾也に今度こそ琴子もらあらもほっとした笑みを向ける。嫌な言い方になるが、小さな個人経営の依頼所に所属する退魔士が依頼人を庇うよりも十家に所属する退魔士が行動したほうが影響力はある。さつきの今後を考えるのであればそれが安牌だと言えた。
「では……託された処理もありますから、僕らはこのあたりで。次に会うときはお互いに邪魔をしないで済むことを願っておきます」
「ああ、お互いにね。できれば自分としては二度と一緒に仕事したくないけどね」
「もう、ララ。あなたはいつも憎まれ口ばかり……あなたも楽しそうにしていたじゃないですか、たまには素直にありがとうくらい言ったらどうですの?」
「あーあーあー。ほら、ココも面倒になってくるし依頼人起きても困るし、さっさと行きなよ、瀧本」
 らあらに号ではなく苗字を呼ばれた綾也は一瞬きょとんとして、それから照れたように笑った。しかしそれに特段触れることなく、いたって普通の口調で別れを告げると周りにいた退魔士たちと共に瞬きの間に二人の目の前から消えた。おそらく強化系の能力で周辺にいた呪文系の退魔士の能力を増幅させたのだろう。
 まったくもってとんでもない事件だったね、と二人だけになった道でらあらが呟き、うぅんと伸びをする。そうですわね、と返して琴子も同じように伸びをしようとして、慌てて左手を押さえた。戦闘中のアドレナリンはきれてきたらしい。酷く痛む手をなんとか手持ちのもので手当てしながら会話を続ける。
「で、今回の件はどう思う?」
「……まあ、すっきりはしませんわね。確かに近しい背景を持つ人間と妖魔は惹かれやすいでしょうが……そんなに都合よくさつきさんのところにピンポイントに妖魔が出没するかしら」
 不確定な情報で話すことを好まない透の影響で二人とも口には出さなかったが、もっと大きなものが後ろで糸を引いているような気がした。さつきは決して清いだけの人物ではなかったが、かといってあそこまで大きな事件を起こすような妖魔を呼び寄せるほどの悪人には思えなかった。もちろん長い付き合いがあったわけでも他人の腹の中まで見えるわけでもないので彼女が自分たちに見せていたような人物でない可能性もままあるが。それに、依頼を受けた時は別のことに気取られて聞きそびれたが、そもそも彼女はどこで自分たちが十家に連なる人間だと知ったのだろうか。
「なんにしても、わたしたちに現状できることはありませんわ。マスターを通じて、彼女の今後の動向を確認するくらいしかできませんわね」
 琴子の言葉にらあらも頷く。事件が終わったにもかかわらず、そこはかとない嫌な空気感だけが漂っていた。
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