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Rの証明

「さつきさん」
 静かに声をかける。ゆらゆらと前後に揺れながら、しかし薄気味悪い笑みを絶やさずそこに立ち続けるさつきはどう見ても正気ではなかった。彼女の家で対峙した時のように僅かでも彼女の意識が戻ればと思ったが、あまり期待はできなさそうだ。さつきは上がり切った口角のまま三人を見つめ、そして口を開く。
「あな た も 持って いる  のね」
 さつきの声だ。そう認識しているにもかかわらず、琴子とらあらは強烈な生理的嫌悪感を抱く。それも当然だろう。震えるようにも歌っているようにも聞こえるその声の主は、さつきの声帯を使っているだけの妖魔なのだ。
 琴子は両手にダガーを出現させる。先ほど室内で戦った時よりも幾分か大ぶりのそれは捕獲よりも殺傷に適した大きさだ。
「ララ、それから、綾也さん。あの状態から引きはがそうと思うとなかなか骨が折れる仕事ですわ。わたしはここから接近戦を仕掛けます。サポートと、フォローをお願いできますか」
 腰を落とし、目の高さでそれを構えながら問う琴子にらあらは頷いた。綾也も少し遅れて頷く。それを確認して琴子は正面で刃物を握って嬉しそうに微笑む妖魔に視線を戻す。
「さあ、あなたには二つ道がありますわ。一つは大人しくその人から離れてわたしたちと戦うこと。もう一つは……」
 瞳がらんらんと輝き、普段上品に笑んでいるだけの口角が凶悪なまでに吊り上がる。ぎゅりぎゅりと音がなるほどローファーでアスファルトを踏みしめて琴子は叫んだ。
「大人しく逃げたほうがよかったと自身の選択を後悔するほど……強制的に引きはがされたうえでボコボコにされることですわ!」
 疾風のように飛び出した琴子のダガーと妖魔のナイフが触れて甲高い音が鳴り響く。開戦の合図には、それで十分だった。
 自由奔放ならあらと比べて琴子は真面目だと、彼女たちに関わった誰もが言う。父の失態で落ちぶれた【一之宮】ではあるが、琴子がいればあるいは十家に返り咲くこともできるのではないか、と。らあらも概ねその意見には同意しているが、ただ一つ、彼女の持つ原因がある限りそれが叶わないだろうなというのも察していた。
「小さな依頼だと使う機会もないからいつもあの子が交渉役に回って、自分が実働みたいになってるけどさ。本当は逆なんだよね」
 火花を散らしながら刃物をぶつけ合う両者が家屋や人を傷つけないように防御の呪文をかけてらあらは言う。彼女の背に手を当て、自身の能力の一つである“増強”を用いて呪文を使う際の能力を向上させていた綾也はそれを聞いて、ふと思い出した。幼少期、自分がまだ幼く、【一之宮】が健在だったころ。同じく今よりも随分幼かった琴子は事も無げに言ったのだ。
——わたし、自分よりも強い妖魔がいるとね、怖いとも思いますけれど、それよりもわくわくしますの。
 驚いて固まった自分に「お父様には内緒にしてくださいね」と笑った琴子は、確かに再会した時よりもやんちゃな印象だったはずだ。
「あの子、自分なんか足元にも及ばないくらい戦闘狂だし。ああなると手が付けられないからさ、今のうちに自分たちはちょっと離れたところからサポートに徹しよう。防御壁張り終わったしね」
 びりびりと地面を伝ってくる震えの元凶が、細身の女性二人が戦っていることだと誰が信じられるだろう。目の前で実際に見ている綾也でさえにわかには信じがたい。
 しかし今すべきは目の前の戦いに見入ることではなく、彼女たちが先刻言ったようにさつきから妖魔を引きはがし、そのうえで妖魔を倒す事である。琴子の戦闘力は目を見張るものがあるが、あくまでも人間としては、というレベルであり妖魔を圧倒するほどではない。加えてさつきに極力傷をつけたくないという制約付きだ。到底彼女一人で達成できる目標とは言えなかった。
「となれば、サポートとは言いながらこちらが実質実働部隊ではないですか」
「はは、まあそうなるよね。自分は呪文重ねてみようと思うけど、【九之山】のはどうする?」
 らあらの問いかけに綾也は少し考え、すぐさま顔を上げた。推理においては先ほどこの二人に後れを取ったが、広い場所で行われる戦闘であれば綾也にも少しばかり心得がある。
「【四之坂】のお嬢さん、あなたの能力は琴子お姉さまのような一点特化型ではなく、広範囲の呪文を少しずつ使用するような型ですか?」
「長いでしょ、阿良々木でいい。それに隠しても仕方ないか……そうだよ。九十番台くらいまでなら使える。もっとも、探知のあたりで察しがついてると思うけど効力はそこまで高くない」
 らあらの返答に頷くと、綾也は彼女の手を取る。ぎょっとしたらあらに笑みを向けると、彼はそのまま自分より身長が高いらあらをひょいと抱き上げて電柱の上まで跳ね上がった。驚きながらも、肉体強化の【九之山】と謳われるだけのことはあるな、とらあらは冷静に分析する。電柱の上、ある程度足場が確保できるところで彼女を下ろすと綾也は口を開いた。
「では、阿良々木さん。九十番台まで使えるなら問題ありません。琴子お姉さまが戦ってくれている間に、僕らは“ここ”から……あれの動きを止める方策を模索するとしましょう」
 同時刻、地上。
右、右左、フェイントが入って右。執拗なまでに腹部を狙うそれは単調な攻撃であるが故に受け流すことも躱すことも容易い。しかし、連続して繰り出されれば休憩すらできない。じわじわと体力が奪われていく感覚。本来であれば焦りが見え始めるその状況下であっても、琴子は自分の口角が上がったままなのに気づいていた。
 防御壁が展開されているのを確認したうえで妖魔に左手のダガーを投げる。妖魔が躱したのを確認して右手のダガーで追撃。すぐに妖魔が左のナイフでそれを受け止め、反撃のために右のナイフを振り下ろしてくる。すぐさまバックステップで距離を取り、もう一度左手にダガーを生成して構えなおす。
 単調な相手の攻撃に合わせるようにこちらも単調な攻撃を繰り返す。先ほどまで視界の端にちらちらと見えていたらあらと綾也の姿が消えたことから、彼らが何らかの方策を思いついたことには気づいていた。であれば、現状自分にできることはできる限り相手をひきつけ、あわよくばさつきの意識を呼び覚ますことだけだ。
「さつきさん、聞こえていますか、さつきさん!」
「……」
 返事はいまだにない。戦闘の最中に何度か斬りつけた腕や足が痛むはずだが、流れる血もそのままに妖魔は笑みを浮かべている。どうやら取り憑いている肉体の痛みは感じないらしい。痛みを感じるようなものなら最終的にさつきの体にダメージを与えることで追い出しも可能だろうが、それも難しいというのはなかなか厳しい条件だ。
「あなた も 持って る  の それわ ち ほしか た  のに ど  して」
 とぎれとぎれに聞こえてくる声から、自分たちの推理が大きく外れていなかったことを悟る。トリガーになったのは間違いなくさつきが義母との間に抱えていた事情や鬼灯の鉢植えだろうが、取り憑いている妖魔が元々そういう事情に引き寄せられやすい質のものだったらしい。
「お生憎、わたしのこれは生まれつきここに納まっていますし、あなたが手に入れたところであなたのものにはなりませんわよ!」
 大声で返しながら再び二度三度とダガーを横に凪ぐ。元が突き刺して使用することに特化した武器であるため、致命傷は与えられない。違う形状の武器で戦おうかとも考えたがこの段階で武器を変えるだけの余裕もないだろう。らあらが隣にいれば一瞬五十番台の呪文で目くらましをかけてもらうこともできるだろうが、現状それは期待できない。
 らあらと綾也がここを離れてからどれくらい時間が経ったのだろう。綾也についている退魔士たちが手を出してこないところを見ると、まだそこまで劣勢には見られていないのだろうか。極端な長期戦になっているわけではないらしい。
「ず るい ずるい わた もほ しい ちゃん つかえるそ  れ たくさ ん あ た のに どう  て」
「どうして? 分かりきったことを聞かないでくださいます!? 他人の腹を裂いて子宮を手に入れたって、あなたの死んだ子どものために死体に石を積んだって、誰も救われないからですわ!」
「すく う そ  わたし あかちゃん ため に どうし  て ど うして」
 嫌々と子供のように頭を振った妖魔はそのままの勢いでナイフを構えて突っ込んでくる。再び接触、火花が散る。今までと比べ物にならない強さで振られたナイフはダガーで受け止めきれず、僅かに軌道をそらして琴子の頬を薄く切った。ちりちりとした痛みの後にぬるりと液体が染み出すような感覚がする。
「……あか」
 その瞬間、ぞっとするような声が響いた。妖魔の目はただ一点、琴子の頬から流れる血に注がれている。
 まずい、と琴子が感じるまでに一秒もかからなかっただろう。人間離れした直感と運動神経を以てして、琴子は腹の前で二本の腕を交差させ、振り下ろされる刃を防ごうとした。
「………あ………?」
 視界に奇妙な方向に折れ曲がった腕が見える。次いで体中の血液が一気に沸き立つような痛みが走り、目の前の景色が白黒にスパークした。嚙み殺しきれなかった悲鳴が口の端から漏れ、興奮のあまり泡が噴き出る。遠くのほうで誰かが叫んだような気がしたが、あまりにも遠すぎてうまく聞き取れない。
 振り下ろされた刃は防ぎきれたこと。しかし、たがの外れた妖魔の攻撃の衝撃までは殺しきれなかったこと。その結果、交差した時上に構えていた左腕が圧力に耐え兼ねてへし折れたこと。琴子が痛みの中で認識できたのはそこまでだった。何とか冷静さを取り戻して悲鳴を止めたものの、身体的な反応は理性でどうにかなるようなものでもない。ふーっふーっと獣のように息を吐きながら琴子は飛びずさる。
「ココ!」
 ようやく耳が音を拾う。自分の頭上に一瞬視線をやれば、らあらと彼女の背に手を当てる綾也の姿が見えた。らあらが何かを叫ぶと、先ほどまで遠かった彼女の声が随分クリアに聞こえた。呪文を使ったらしい。
『ああまったく、なんてザマだい、ココ! 君がこんなにやられるなんて聞いてないよ!』
「咄嗟のことだったんです、腕一本で済んでよかったと笑ってくれていいんですよ」
 片手で応戦しながら、珍しく怒ったようならあらの声に苦笑する。確かに、暴れてこいと言われ、サポートを頼むと言ったにもかかわらずここまでやられていれば世話ないだろう。
「それで? 呪文を使って通信してきたということは、何かしらの方策が立ったということでよろしいんですわね?」
『ご明察です、琴子お姉さま。僕も行ったことがない退魔の方法になるので少々賭けにはなりますが……』
「この状況ならあなたのアイディアに乗るのが一番現実的ですわよ。それで、手順は?」
『まずは自分とココで妖魔の動きを止める。止めたら【九之山】の能力を使って“増強”をかけて、依頼人の精神を表に引きずり出す』
 事も無げに言い放たれた、作戦と呼ぶには確かに駆けの要素が強すぎる内容。
「あら……随分わたし好みの力押しですこと!」
『もー、言うと思った!』
 しかしそれはどうにも、琴子好みの作戦である。察しがついていたらしいらあらの笑い声も聞こえた。呆れたように息を吐いた綾也も小さく笑う。
『阿良々木さんの能力は一時的に僕の肉体強化で増強がかかっています。通常の二倍とはいきませんが、それなりに戦えると思いますよ』
 左腕をかばいながら戦っている今、らあらの呪文が強化されているのはありがたい。琴子が戦闘に特化しすぎており、なおかつ日頃の任務が小規模なためあまり使用することはないが、らあらの呪文は戦闘にも使用ができる。
 琴子は右手のダガーを握りしめ、振り下ろされるナイフをすんでのところで躱しながら状況を確認する。らあらの援護があったとして、自分が武器を握って攻撃に使用できるのは右手のみ。左腕の痛みはいまだに強く、理性とアドレナリンで抑え込んでいるものの激しい動きを伴う戦闘は難しい。
 で、あればだ。
「ララ……“あれ”、試してみませんか?」
 試してみたい作戦が一つある。それは近接創造に特化した琴子と呪文に特化したらあらが自分たちの苦手分野を埋めるために立てていた作戦の一つで、実行の機会に恵まれていなかったものだ。察しがついたのか、らあらの爆発するような笑う声が聞こえてくる。
『はは! この局面でそれを言えるんだから、まったくココは肝が据わってるよね!』
『僕にはまったく文脈が読めませんが、お姉さま方にはきちんと作戦があるんですよね?』
「ええ、先ほどあなたが提案してくれたものに似つかわしい、力押しのものが一つね」
 相も変わらず馬鹿みたいな力で振われるナイフをなんとか受け止める。使い物にならなくなった左手を添えて両手で握ってもダガーはぶるぶると震えてしまい、単純な力であれば数秒と保たなくなってしまいそうだった。
 しかしそれが狙い目。琴子は半歩体を引いて腕から力を抜く。力の抜けた手で渾身の力で振り下ろされ続けるナイフなど留め置けるはずもない。琴子の腹部めがけて振り下ろされたナイフは、しかし身を引いていたことによりアスファルトに叩きつけられる。ガキョッという嫌な音がしてアスファルトが僅かにひび割れた。
「ま てに  げ な」
 その隙を逃さず丸腰になった琴子は再び後退する。妖魔が接近するには少しばかり大きめの距離。もちろん妖魔はダガーを手放した琴子を逃すはずもなく、そのまま突っ込んでくる。
「わたしの能力、たった二つの武器を握って直接戦うだけのものだと思ってるんじゃないですよね? まさか……わたし、これでも【一之宮】の直系なんですのよ」
 ゴォォッ……と地鳴りのような音が聞こえる。琴子の長い髪が風圧で舞い上がり、その合間からぎらりと光が奔った。
 十、二十、三十……先ほどまで出現させていたのとは比べ物にならない数のダガーは琴子の背後から、頭上から、指先から次々と生み出されて空中に浮遊する。
『そんで、一応自分も【四之坂】の生まれなもので。強化してもらうと景気良くていいねえ』
 らあらの楽しげな声が聞こえる。距離を詰めようとした妖魔はその異常な空気に当てられたのか一瞬動きを止めた。しかし人間離れしたスピードから急に静止したことで足が僅かにもつれ、バランスを崩す。
 その隙は、二人が計画し、待ち望んだものだ。
「ここまでして外すんじゃないですわよ、ララ!」
『オーケイ! そっちこそ、ダガーしっかり量産しなよ、ココ! ……ナンバーナインティナインス!』
 無数にも見えるダガーが、妖魔めがけて戦艦よろしく一斉射される。並の妖魔であれば一刃のもとに消滅させる琴子のダガーと、強化されたらあらの射撃攻撃のコンビネーション。予想外だったのだろう、妖魔は飛びずさろうとしてその肩を強かに何かにぶつける。
『ああ、君はココにご執心だったから気づいてなかったのかな。悪いけどここら一帯は、自分の防御壁の内部だよ。背中が壁になっていなかったことに気づかなかったのが、君の落ち度だね』
「お あぁぁぁぁ あ おああ あ  あああ ぉお  あ ああああ」
「そういうことですから、残念ですけれど。先ほどのご提案としては後者のアイディアを採用いたしますわね。ここからは、退魔のお時間ですわ」
 咆哮を上げて逃げようとした妖魔を、しかし逃がすような隙間はどこにもない。全方位死角なく迫ったダガーは、寸分違わず狙い通りに打ち込まれた。

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