月姫と花騎士
誰も言葉を発さない。発することができない。
かつん、ヒールが廊下を叩いてオリヴィアの体が前に出る。じりじり、近衛兵の一団が後退する。かつん、かつん、かつん。息づかいすらまばらな空間にオリヴィアが廊下を歩く音が反響している。
「な……何をしている、衛兵、前に出ろ!」
フィリップが声を上げるが半分からぽっきりと折れた剣を持っているその様はどう見ても指導者のそれではない。何人かが彼を守るように前に出たものの、剣を構えた姿勢のまま固まってしまっている。怠慢で動かないのではない。目の前の少女から放たれる殺気に当てられて動くことができないのだ。
これがオフスダール王国近衛兵長かつルーシェリア・オフスダール直々の護衛騎士。剣を抜き構えるだけで並大抵の人間は本能的に察知するのだ。こいつには絶対に勝てない、死にたくない、戦いたくない……。そのような本能の働きは足の動きを止め腕の力をなくす。結果、ただ立っているだけの人の壁にしかならず、オリヴィアは拍子抜けしたように後ろにいるルーシェリアを振り返った。
「ねえ、ちょっと。あんたほんとにこんなのに捕まってたの?」
「あいにくだけど、わたしは君みたいに戦いに明け暮れてないもので。これだけの人数相手にして平然としてるオリヴィアの方がわたしから見れば信じられないよ」
「ふうん」
つまらなさそうに鼻を鳴らしたオリヴィアはついっと視線を動かしては知り合いの近衛兵を見つけ、「手合わせしない?」と声をかけるもののすべて断られていた。この空間で彼女と戦うことのリスクを分かっているから断られているだけなのだが、オリヴィア本人は大層残念そうである。骨のある人間はいないのね、と吐き捨てるように言うともう一度視線をフィリップに戻した。
「で?」
彼の前までつかつかと歩み寄ると、片手を腰に当てた崩れた仁王立ちになる。無礼どころか相手に対して一切の礼儀を欠いた言動だがこの場にいる人間に彼女を止めることなどできはしない。彼女の剣はすでに抜かれている。例えば今不意打ちを仕掛けたところでフィリップが害されてしまっては元も子もない。彼女の間合いまでの接近を許した以上、周りの近衛兵たちにとれる手段はほとんど残されていなかった。
「ぶっ、無礼だぞ! 私を誰だと思っている! 騎士風情が、頭が高いぞ!」
オリヴィアはわめくフィリップを無感動に見つめる。そうして美しい所作でフィリップの首筋に剣の狙いを定めた。
「無礼?」
くすくす、オリヴィアは花のかんばせを綻ばせて笑う。彼女が剣を握っていなければどこの淑女と見紛うたであろう、見事なまでの笑みだった。しかし今の状態を加味すればそれは恐ろしさしか感じさせない表情である。
「誰です、身の程も弁えずにキャンキャン吠えている真の無礼者は」
微笑みを浮かべたままだがまなざしは冷たい。フィリップは僅かに身じろぎをして彼女から目線をそらした。しかしオリヴィアの剣はそれを許さない。刺さらず切れもしない絶妙な力加減でフィリップの首に刃を沿わせると「人と話すときは目を見るものだとトラディトールでは習わないんですか? 習いますよね?」と圧をかけた。
「一度ご自身の格好を確認された方がよろしいですね、フィリップ第二王子殿下?」
にぃっと歯茎が見えそうなほどに口角が上がりきる。凶悪さをはらんだその笑みはあまりに恐ろしく、同時に美しい。
「大逆人であるあんたの首程度、今すぐ落としてしまってもいいのよ?」
フィリップは口を堅く引き結び、何も言葉を返さない。オリヴィアはその姿勢のまま彼の後ろにいる近衛兵たちに笑みを向ける。
「災難だったわね。“我が儘な上のせいで貴方たちまで大逆罪にかけられる”ところだったわよ」
空気が止まる。フィリップが僅かに口を開き何か言おうとしたが、オリヴィアはそちらをぎろりと睨んで黙らせた。
「よかったわね、それでもあんたたちは運がいいわ。うちの王女殿下は寛大なの。上からの権力で無理矢理従わせられていた立場の弱い人間を、リザードマンの尻尾切りみたいに切り捨てたりはしないわ。大丈夫、“やりたくなかった”ってちゃんと知ってるわ」
穏やかな花のような笑みを浮かべるオリヴィアにルーシェリアは胡散臭いものを見る目を向ける。彼女の意図が分からぬほどルーシェリアは鈍感ではなかったが、「なにもそこまでしてやる義理はないだろう」とは思った。ぱちり、オリヴィアと目が合えば彼女は若干照れたように笑う。あの笑みだってルーシェリアが自分のやりたいことを把握した上で見逃してくれていることへの恥じらいだろう。本当に、どこまで純粋なのやら。
「う……嘘ですよ……だって、ルーシェリア王女殿下はオフスダールの王位継承者ですよ……? そんな方に剣を向けておいて……そんな虫のいい話が……」
近衛兵の一人が震える声でそう呟く。当然だ、普通に考えれば処刑で済めば御の字、庶民階級からのたたき上げなら郷里の町をすべて焼き払われても文句は言えまい。これはただの国際問題ではないのだ。同盟国の王女の誘拐、並びにその殺害未遂。国一つ滅ぼされて当然の所業である。
しかしルーシェリアは艶然と微笑んだ。月を思わせる、ぞっとするほど美しい笑みにこんな状況でなければうっとりと見とれたことだろう。しかし沙汰を待つ近衛兵たちは怯えたような目を向けるのみだ。
「あるぞ、そんな虫のいい話が」
不意に。
ルーシェリアの後ろからぬっと黒い影が現れる。それは長身の男の影だった。ルーシェリアは驚くこともなくくるりとその人物の方を振り返り、そして右手の甲を差し出した。
「遅かったな――ガルディ」
ガルディは苦笑しながらルーシェリアの差し出された右手の甲に額をつける。それは騎士が自信の主君に対して行うオフスダールの正礼だった。正礼を終えたガルディはそのままルーシェリアの前に跪く。
「愚かなわたくしめが行ってしまったルーシェリア王女殿下への度重なる不敬に対する寛大なご処置、誠にありがとうございます。不肖ガルディ、これより先身命を賭してルーシェリア王女殿下の騎士が一となりましょう」
「堅苦しいね、そういう所はオリヴィアにそっくりだ」
「馬鹿言わないで、私がお師匠様に似てるのよ」
「どっちだっていいじゃないか、そんなの」
打ち解けた様子で話すガルディとルーシェリアに近衛兵たちの視線が集まる。ガルディはルーシェリアの誘拐実行犯である。問われる罪としてはもちろん主犯であるフィリップに次いで二番目に重いものとなるだろう。
そんな男が当の本人のルーシェリアとあんなにも打ち解けている。仕えることすら許可されている。それは大多数の近衛兵の張り詰めた緊張の糸を切るには十分すぎる光景だった。
誰かが剣を鞘ごと投げ捨てる。誰かが鎧を外す。がしゃんがしゃんと金属の擦れぶつかる音が王城の廊下に響き渡る。
「ま……まて……お前たち、なにを、している……」
オリヴィアの剣によって振り向くことを禁じられているフィリップは震える声で呟く。後ろで起こっていることを認めたくないのだろうが、言葉よりも雄弁に金属音が状況を伝えてくる。
「なにをしている、と、聞いているんだ! この私が! フィリップ・トラディトールが! 答えろ、答えろぉ!」
「……本当にぎゃあぎゃあと喧しいな君は。いちいち言われないと納得ができないのか?」
ルーシェリアは、はぁ、とため息をついた。まるで子供なのだ、この男は。自分よりも五つ年上だが中身に関しては五つ年下で通るのではないだろうか。下手をすればそれ以上年下なのかもしれない。すべての物事が言葉通りにならないと、言葉で説明されないと分からない人間というものは一定数存在するが、この男はその最たるものだろう。間違っても王族向きではない。
言葉がいつでも音通りの意味を持つだなんて、そんなの子供の世界でも通用しない。ましてや自分の言葉一つが絶大な意味を持つ王族であるならなおさらのことだ。そしていつでも誰かが明確化した言葉で物事を説明してくれるなんてこともない。様々な経験を重ねて自分なりの受け取りかたを確立していくしかないのだ。何が嘘で何が本当か、いつだって見抜くのは自分なのだから。
「ルーシェリア・オフスダール王女殿下。恐れながら申し上げます。御慈悲を……」
後ろに控えていた近衛兵のうち、比較的身分が高いのであろう男が地面に這うような姿勢で礼をしながらそう言う。見てみればその後ろ、数十人の兵士たちが同じように頭を下げて控えている。剣も鎧も身につけたまま、呆然としたように立ちすくんでいるのは二、三人だろうか。自分たち以外の兵士たちの姿を見てじわじわとその顔に後悔と絶望が浮かび上がってくる。自分たちがオフスダールの慈悲を乞うつもりはないと示すような構図になったことに気づいたらしい。膝を折ることもできず、ただ立っている。
ルーシェリアはちらりとオリヴィアに目配せする。オリヴィアは心得たといった様子でフィリップに「ほら、後ろ向いてご覧なさいよ」と告げると切っ先をほんの少し首から離す。そうして半ば無理矢理彼の肩を掴むとぐるりと体を反転させた。
「……あ」
フィリップの目が大きく見開かれる。彼の目に映るのはあれほど多かったはずの自分の近衛兵たちがたった二、三人を残してルーシェリアに投降の意を示している姿だった。
その姿は彼に王たれと望んでいたはずの“皆”がいないことを如実に表していた。
がたがたとフィリップの体が震え始める。見開かれた瞳に溜まる涙は乾燥によるものではあるまい。乾き、半開きになった唇からはひゅうひゅうと隙間風のような呼吸が漏れるのみである。その顔を見れば誰もが“絶望”の二文字を思い浮かべるだろう。彼が深い絶望の底にいることは明白だった。
「目を閉じてはだめよ。きちんと見なさい、フィリップ・トラディトール。あんたが本当に見なければいけないものは、あんたの目の前にしかないのよ」
オリヴィアはフィリップの首を前面に固定するように彼を抱きすくめる。いやだ、と小さな声でフィリップが呟いた。
「やめろ、もういい、わかった、私は望まれていない、わかったから……もういい……」
いやだ、みたくない、いやだ、やめてくれ。その声にオリヴィアは息を吸うと、大声で言い返す。
「いいからきちんと見なさいこのボンクラ王子! あんた、“何”を見てんのよ!」
勢いよく頭を揺さぶられてフィリップは目を開く。目の前に広がるのは相も変わらずルーシェリアに下った大量の近衛兵たちと、それから。
「や、やめろ! 頼む、フィリップ様を離してくれ! はっ……離さないなら、こっちにも考えがある!」
震える声で叫びながら、遠目に見ても分かるほどガタガタと体中で震えながらオリヴィアに向かって剣を構える、ごく僅かな近衛兵の姿。フィリップが名前も知らない数人の近衛兵は圧倒的な戦力差のあるオリヴィアに剣先を向け、何度もフィリップ様を離せと叫ぶ。勇ましいなどと口が裂けても言うことはできない。震えるたびにガチガチと歯が鳴り、踏ん張って立っているつもりだろうが足は徐々に内股になっている。逃げ出したいと顔面中が告げているような顔色をしていた。
けれど近衛兵たちは吠え続ける。主君に害をなす存在に対峙する忠犬のように。
「……馬鹿じゃない? こいつはうちの王女を攫ったのよ。無事で済むと本気で思っているの?」
オリヴィアは固い声でそう返す。言外に脅しているのだと誰でも理解できただろう。お前らも同じように罰されたいのかと、フィリップですら無事で済まないのだからお前たちには勝ち目などないぞとそう告げているのだ。
しかし近衛兵たちは引かない。充血しきった目を向けて、血の気を失って真っ白になった顔と真っ青になった唇で、それでも、と叫ぶ。
「フィリップ様は俺たちの主君だ! 俺たちはフィリップ様に仕えてるんだ!」
「そ……そうだ……! 俺たちは、フィリップ様をお止めできなかった……それだけでもわ、悪いのに! 主君が傷つけられてるときに、こっ、近衛の俺たちが怖じ気づいてられるか!」
「え……」
フィリップの唇から困惑したような音がポロリとこぼれ落ちる。オリヴィアが目線を向けたことにも気づいていないらしい。近衛兵たちはへっぴり腰のまま、切っ先を震わせたままによたよたと人の波を割ってオリヴィアへ駆け寄ってくる。オリヴィアはそんな男たちに一瞥をくれると振り下ろされた刀を軽い力で弾くようにして薙いだ。一瞬の間ののち、男たちは数歩よろめいて尻餅をつく。
「そんな剣術でよく主君を守ろうと言いながら向かってこられるわね」
剣を一度軽く振ったオリヴィアは今度こそへたり込んだ近衛兵たちを見やる。いつの間にか降伏した他の兵たちは廊下のずっと奥の方に逃げていて、オリヴィアと近衛兵を遮るものは何もない。
「それに。主君が傷つけられているときに怖じ気づいていられないのはあたしだって同じよ。あんたの主君が余計なことをしてくれたおかげでこっちは大変だったんだから」
「あ……」
「じゃ、そういうことだから」
オリヴィアは座り込んだ男たちの首の高さに剣を構える。横に一気に薙ぎ払えば男たちの首は綺麗に胴から離れることだろう。目を見開き、恐怖の余り言葉が出ない男たちに向かってオリヴィアは剣を振るう。
「ま、待ってくれ!」
その軌道に何かが滑り込んでくる。オリヴィアの剣はその闖入者に当たる直前でぴたり、と止まった。
「いまさら――どうしたのよ、第二王子」
オリヴィアと近衛兵の間に滑り込み両手を広げて立ち尽くすフィリップにオリヴィアは低く唸るように言った。その後ろでルーシェリアは面白そうに目を細めている。ルーシェリアの隣に立つガルディは間違っても周りが彼女に危害を加えないようにと隙のない様子で立ちながら弟子とフィリップを見守っていた。
フィリップは一度くるりと近衛兵たちのほうを見やった。そしてもう一度オリヴィアに向き直るとそのまま、静かに膝をつき首を垂れる。手を床につき、床に額が触れそうなほど頭を下げる。
「ふぃ……フィリップ、さま……?」
ひきつったような声で言ったのは誰だったか。少なくともオリヴィア、ルーシェリア、ガルディではなかっただろう。呆然とした声色で紡がれる自身の名を聞くフィリップの表情はわからない。ただ静かに、ひたすらに頭を下げ続けている。
「どうするの?」
オリヴィアは振り向き、ルーシェリアに問う。じっとその瞳を見つめていたルーシェリアは「ガルディ、警戒は任せたわよ」と言うと一歩ずつ頭を下げるフィリップとその前に立つオリヴィアに近づいていく。
「……面を上げろ、フィリップ・トラディトール。何の真似だ」
その声にフィリップは顔を上げる。ルーシェリアは静かに彼を見つめ返した。
誰も何も話さない。ただ静かな呼吸の音と、遠くのほうからばたばたと駆けてくる音が聞こえる。今この場で口を開くことを許されているのはフィリップただ一人なのだから。
「この件に関しての全ての責は私にある。王子たる私の発言一つで物事がどのように変化するのかを一切考慮していなかった、私の浅慮が招いた事態だ。オフスダール王国王女ルーシェリア殿下、エドワード国王陛下をはじめとした、オフスダールの様々な人々に迷惑をかけた。如何なる責をも負い、如何なる罰でも受けよう。ただ……」
「……」
「この場にいる近衛兵たちは、哀れにも私の凶行に付き合わされただけの、被害者に過ぎない。どうかルーシェリア殿下、恩赦を賜れないだろうか」
フィリップの視線とルーシェリアの視線がぶつかる。近衛兵が恩赦を受けたところで、フィリップの処罰が重いことは想像に難くない。
ただの国際問題ではないのだ。自国での内戦誘発に加え、同盟国の姫の誘拐、および殺害未遂。今回はオリヴィアが間に合ったために大きな怪我もなく済んでいるからこのような場が設けられているが、ルーシェリアが殺されでもしていれば間違いなく戦争になっていただろう。そしてルーシェリアが殺害されているならば第一王子派に対して反旗を翻し、内戦になっていたはずだ。そんな状態のトラディトールであればオフスダールに攻め滅ぼされていただろう。フィリップのやったことは王になるための行動どころか、他国に喧嘩を売り、自国を滅ぼしかねない行動だったのだ。
軽く済んで病死扱い。順当にいけば国内外に彼のしでかしたことを周知したうえでの処刑。
彼に待つのは遅いか早いかの違いしかないような死の運命。それすら分からぬほど愚かな男ではなかったらしい、彼は一切の血の気が失せた顔をしている。しかしフィリップの目はルーシェリアに向けられたままぶれることがなかった。
「どういう風の吹きまわしかな。先ほどまでの言動を鑑みると理解しがたいね」
「ルーシェリア殿下のおっしゃることは尤もだ。何もこれくらいで罪滅ぼしになるとは思っていない」
ただな、とフィリップは呟くように言い、そしてふと微笑んだ。今にも泣きだしそうな顔で笑うフィリップはちらりと後ろに目線をやる。
「恥知らずの私でも、こんな私を主君と呼んでくれた忠臣を、これ以上の浅慮で失いたくはないのだ」
ルーシェリアは何も言葉を返さない。
都合の良すぎる発言だ。自分は死んでもいいから誰かを助けてくれだなんて、そんな軽い言葉で済むような案件ではない。この状況でその発言を許すような人間がいたら、ルーシェリアは殴ってでも止めるだろう。一国の主たろうとする人間ならだれも許可するまい。
しかし。
きゅっ、と。暖かな手に指先を掴まれる。
視線を向ければオリヴィアが自分を見つめていた。金の瞳が物を言いたげに揺れている。掴まれた手の熱さとその瞳で彼女が何を言いたいかなどすぐにわかってしまう。
(甘い)
そう思う。「許してやってくれ」というためだけに憎まれ役を買って出てまでこんな場を設えたのだから、本当にオリヴィアは甘い女だと呆れかえる。ただ、オリヴィアは王ではないのだからこれくらいお人好しでいいのだろう。まあ、一つ誤算があったとすれば、自分がその甘い女に対してはとことん甘くなってしまうほど惚れこんでいるということぐらいだろうか。
「……その要望を通したら」
ため息をついてからルーシェリアはそう話し始める。フィリップはルーシェリアから一切目をそらさない。
「あとの処理はすべてわたしの采配に従ってもらえるんだろうね?」
「約束する。私にできることがあれば、死ぬ前の最後の罪滅ぼしになんでも手伝わせてもらおう」
その言葉を聞いてルーシェリアはもう一度ため息をつく。そうして目の前で座り込んだままのフィリップのほうに一歩踏み込むと、思い切り勢いをつけてその頬をはたいた。ぱぁん、寒く乾いた空気の中に破裂音にも似た音が反響する。
それとほぼ同時に廊下の向こうから青い顔をした初老の男性とその男性によく似た若い男性が大勢の兵を連れて駆けてきた。武装を解いた近衛兵たちは慌てて廊下の端に小さくなると頭を下げる。この二人がトラディトールの現王と第一王子であるということはオリヴィアも知っていた。顔色と慌てようを見る限り、ようやく先ほどオフスダールから話が回ったのだろう。愚かな第二王子を止めるために慌ててやってきたのだ。しかしそんな彼らでさえ、突然目の前でフィリップがルーシェリアにビンタを食らったのには面食らったらしい。
呆気にとられる周囲を見回したルーシェリアは大きく息を吸った。
「……もう、フィリップ殿下! 聞いていた作戦と違うではありませんか! 大事にならないようにとあれほど打ち合わせをしましたのに!」
可愛らしく見えるように頬を膨らませて拗ねたように見える顔を作る。視界の端でオリヴィアがほっとしたように表情を崩したのが見えた。無茶を言って、と思う反面いつも無茶を通させているのだからこれくらいはするべきかとも思う。
「え、あ……?」
「だからわたくしは申し上げたではないですか! 軍事演習はせめて陛下の許可を取ってからにしましょうって!」
理解が追い付いていない様子のフィリップの耳元に言葉を落とす。
「わたしの判断ではないぞ? まったく、うちの騎士に感謝するんだな」
「それは……」
「……お互い、部下に恵まれている限りは上に立つ努力を切らしてもらっては困るな」
最後にほんの僅か、自身の本心を滲ませた言葉を告げる。さてと、と呟いてルーシェリアはトラディトール国王と第一王子に向き直る。ここからは自分の説明次第でうまく丸め込む番だ。
オリヴィアを見やる。満足気に笑む彼女にねぎらいの言葉の一つでもかけてやりたいが、まあそれは後でもいいだろう。まずはこの大掛かりな一件を大掛かりな茶番に作り替えてやってからだ。
かつん、ヒールが廊下を叩いてオリヴィアの体が前に出る。じりじり、近衛兵の一団が後退する。かつん、かつん、かつん。息づかいすらまばらな空間にオリヴィアが廊下を歩く音が反響している。
「な……何をしている、衛兵、前に出ろ!」
フィリップが声を上げるが半分からぽっきりと折れた剣を持っているその様はどう見ても指導者のそれではない。何人かが彼を守るように前に出たものの、剣を構えた姿勢のまま固まってしまっている。怠慢で動かないのではない。目の前の少女から放たれる殺気に当てられて動くことができないのだ。
これがオフスダール王国近衛兵長かつルーシェリア・オフスダール直々の護衛騎士。剣を抜き構えるだけで並大抵の人間は本能的に察知するのだ。こいつには絶対に勝てない、死にたくない、戦いたくない……。そのような本能の働きは足の動きを止め腕の力をなくす。結果、ただ立っているだけの人の壁にしかならず、オリヴィアは拍子抜けしたように後ろにいるルーシェリアを振り返った。
「ねえ、ちょっと。あんたほんとにこんなのに捕まってたの?」
「あいにくだけど、わたしは君みたいに戦いに明け暮れてないもので。これだけの人数相手にして平然としてるオリヴィアの方がわたしから見れば信じられないよ」
「ふうん」
つまらなさそうに鼻を鳴らしたオリヴィアはついっと視線を動かしては知り合いの近衛兵を見つけ、「手合わせしない?」と声をかけるもののすべて断られていた。この空間で彼女と戦うことのリスクを分かっているから断られているだけなのだが、オリヴィア本人は大層残念そうである。骨のある人間はいないのね、と吐き捨てるように言うともう一度視線をフィリップに戻した。
「で?」
彼の前までつかつかと歩み寄ると、片手を腰に当てた崩れた仁王立ちになる。無礼どころか相手に対して一切の礼儀を欠いた言動だがこの場にいる人間に彼女を止めることなどできはしない。彼女の剣はすでに抜かれている。例えば今不意打ちを仕掛けたところでフィリップが害されてしまっては元も子もない。彼女の間合いまでの接近を許した以上、周りの近衛兵たちにとれる手段はほとんど残されていなかった。
「ぶっ、無礼だぞ! 私を誰だと思っている! 騎士風情が、頭が高いぞ!」
オリヴィアはわめくフィリップを無感動に見つめる。そうして美しい所作でフィリップの首筋に剣の狙いを定めた。
「無礼?」
くすくす、オリヴィアは花のかんばせを綻ばせて笑う。彼女が剣を握っていなければどこの淑女と見紛うたであろう、見事なまでの笑みだった。しかし今の状態を加味すればそれは恐ろしさしか感じさせない表情である。
「誰です、身の程も弁えずにキャンキャン吠えている真の無礼者は」
微笑みを浮かべたままだがまなざしは冷たい。フィリップは僅かに身じろぎをして彼女から目線をそらした。しかしオリヴィアの剣はそれを許さない。刺さらず切れもしない絶妙な力加減でフィリップの首に刃を沿わせると「人と話すときは目を見るものだとトラディトールでは習わないんですか? 習いますよね?」と圧をかけた。
「一度ご自身の格好を確認された方がよろしいですね、フィリップ第二王子殿下?」
にぃっと歯茎が見えそうなほどに口角が上がりきる。凶悪さをはらんだその笑みはあまりに恐ろしく、同時に美しい。
「大逆人であるあんたの首程度、今すぐ落としてしまってもいいのよ?」
フィリップは口を堅く引き結び、何も言葉を返さない。オリヴィアはその姿勢のまま彼の後ろにいる近衛兵たちに笑みを向ける。
「災難だったわね。“我が儘な上のせいで貴方たちまで大逆罪にかけられる”ところだったわよ」
空気が止まる。フィリップが僅かに口を開き何か言おうとしたが、オリヴィアはそちらをぎろりと睨んで黙らせた。
「よかったわね、それでもあんたたちは運がいいわ。うちの王女殿下は寛大なの。上からの権力で無理矢理従わせられていた立場の弱い人間を、リザードマンの尻尾切りみたいに切り捨てたりはしないわ。大丈夫、“やりたくなかった”ってちゃんと知ってるわ」
穏やかな花のような笑みを浮かべるオリヴィアにルーシェリアは胡散臭いものを見る目を向ける。彼女の意図が分からぬほどルーシェリアは鈍感ではなかったが、「なにもそこまでしてやる義理はないだろう」とは思った。ぱちり、オリヴィアと目が合えば彼女は若干照れたように笑う。あの笑みだってルーシェリアが自分のやりたいことを把握した上で見逃してくれていることへの恥じらいだろう。本当に、どこまで純粋なのやら。
「う……嘘ですよ……だって、ルーシェリア王女殿下はオフスダールの王位継承者ですよ……? そんな方に剣を向けておいて……そんな虫のいい話が……」
近衛兵の一人が震える声でそう呟く。当然だ、普通に考えれば処刑で済めば御の字、庶民階級からのたたき上げなら郷里の町をすべて焼き払われても文句は言えまい。これはただの国際問題ではないのだ。同盟国の王女の誘拐、並びにその殺害未遂。国一つ滅ぼされて当然の所業である。
しかしルーシェリアは艶然と微笑んだ。月を思わせる、ぞっとするほど美しい笑みにこんな状況でなければうっとりと見とれたことだろう。しかし沙汰を待つ近衛兵たちは怯えたような目を向けるのみだ。
「あるぞ、そんな虫のいい話が」
不意に。
ルーシェリアの後ろからぬっと黒い影が現れる。それは長身の男の影だった。ルーシェリアは驚くこともなくくるりとその人物の方を振り返り、そして右手の甲を差し出した。
「遅かったな――ガルディ」
ガルディは苦笑しながらルーシェリアの差し出された右手の甲に額をつける。それは騎士が自信の主君に対して行うオフスダールの正礼だった。正礼を終えたガルディはそのままルーシェリアの前に跪く。
「愚かなわたくしめが行ってしまったルーシェリア王女殿下への度重なる不敬に対する寛大なご処置、誠にありがとうございます。不肖ガルディ、これより先身命を賭してルーシェリア王女殿下の騎士が一となりましょう」
「堅苦しいね、そういう所はオリヴィアにそっくりだ」
「馬鹿言わないで、私がお師匠様に似てるのよ」
「どっちだっていいじゃないか、そんなの」
打ち解けた様子で話すガルディとルーシェリアに近衛兵たちの視線が集まる。ガルディはルーシェリアの誘拐実行犯である。問われる罪としてはもちろん主犯であるフィリップに次いで二番目に重いものとなるだろう。
そんな男が当の本人のルーシェリアとあんなにも打ち解けている。仕えることすら許可されている。それは大多数の近衛兵の張り詰めた緊張の糸を切るには十分すぎる光景だった。
誰かが剣を鞘ごと投げ捨てる。誰かが鎧を外す。がしゃんがしゃんと金属の擦れぶつかる音が王城の廊下に響き渡る。
「ま……まて……お前たち、なにを、している……」
オリヴィアの剣によって振り向くことを禁じられているフィリップは震える声で呟く。後ろで起こっていることを認めたくないのだろうが、言葉よりも雄弁に金属音が状況を伝えてくる。
「なにをしている、と、聞いているんだ! この私が! フィリップ・トラディトールが! 答えろ、答えろぉ!」
「……本当にぎゃあぎゃあと喧しいな君は。いちいち言われないと納得ができないのか?」
ルーシェリアは、はぁ、とため息をついた。まるで子供なのだ、この男は。自分よりも五つ年上だが中身に関しては五つ年下で通るのではないだろうか。下手をすればそれ以上年下なのかもしれない。すべての物事が言葉通りにならないと、言葉で説明されないと分からない人間というものは一定数存在するが、この男はその最たるものだろう。間違っても王族向きではない。
言葉がいつでも音通りの意味を持つだなんて、そんなの子供の世界でも通用しない。ましてや自分の言葉一つが絶大な意味を持つ王族であるならなおさらのことだ。そしていつでも誰かが明確化した言葉で物事を説明してくれるなんてこともない。様々な経験を重ねて自分なりの受け取りかたを確立していくしかないのだ。何が嘘で何が本当か、いつだって見抜くのは自分なのだから。
「ルーシェリア・オフスダール王女殿下。恐れながら申し上げます。御慈悲を……」
後ろに控えていた近衛兵のうち、比較的身分が高いのであろう男が地面に這うような姿勢で礼をしながらそう言う。見てみればその後ろ、数十人の兵士たちが同じように頭を下げて控えている。剣も鎧も身につけたまま、呆然としたように立ちすくんでいるのは二、三人だろうか。自分たち以外の兵士たちの姿を見てじわじわとその顔に後悔と絶望が浮かび上がってくる。自分たちがオフスダールの慈悲を乞うつもりはないと示すような構図になったことに気づいたらしい。膝を折ることもできず、ただ立っている。
ルーシェリアはちらりとオリヴィアに目配せする。オリヴィアは心得たといった様子でフィリップに「ほら、後ろ向いてご覧なさいよ」と告げると切っ先をほんの少し首から離す。そうして半ば無理矢理彼の肩を掴むとぐるりと体を反転させた。
「……あ」
フィリップの目が大きく見開かれる。彼の目に映るのはあれほど多かったはずの自分の近衛兵たちがたった二、三人を残してルーシェリアに投降の意を示している姿だった。
その姿は彼に王たれと望んでいたはずの“皆”がいないことを如実に表していた。
がたがたとフィリップの体が震え始める。見開かれた瞳に溜まる涙は乾燥によるものではあるまい。乾き、半開きになった唇からはひゅうひゅうと隙間風のような呼吸が漏れるのみである。その顔を見れば誰もが“絶望”の二文字を思い浮かべるだろう。彼が深い絶望の底にいることは明白だった。
「目を閉じてはだめよ。きちんと見なさい、フィリップ・トラディトール。あんたが本当に見なければいけないものは、あんたの目の前にしかないのよ」
オリヴィアはフィリップの首を前面に固定するように彼を抱きすくめる。いやだ、と小さな声でフィリップが呟いた。
「やめろ、もういい、わかった、私は望まれていない、わかったから……もういい……」
いやだ、みたくない、いやだ、やめてくれ。その声にオリヴィアは息を吸うと、大声で言い返す。
「いいからきちんと見なさいこのボンクラ王子! あんた、“何”を見てんのよ!」
勢いよく頭を揺さぶられてフィリップは目を開く。目の前に広がるのは相も変わらずルーシェリアに下った大量の近衛兵たちと、それから。
「や、やめろ! 頼む、フィリップ様を離してくれ! はっ……離さないなら、こっちにも考えがある!」
震える声で叫びながら、遠目に見ても分かるほどガタガタと体中で震えながらオリヴィアに向かって剣を構える、ごく僅かな近衛兵の姿。フィリップが名前も知らない数人の近衛兵は圧倒的な戦力差のあるオリヴィアに剣先を向け、何度もフィリップ様を離せと叫ぶ。勇ましいなどと口が裂けても言うことはできない。震えるたびにガチガチと歯が鳴り、踏ん張って立っているつもりだろうが足は徐々に内股になっている。逃げ出したいと顔面中が告げているような顔色をしていた。
けれど近衛兵たちは吠え続ける。主君に害をなす存在に対峙する忠犬のように。
「……馬鹿じゃない? こいつはうちの王女を攫ったのよ。無事で済むと本気で思っているの?」
オリヴィアは固い声でそう返す。言外に脅しているのだと誰でも理解できただろう。お前らも同じように罰されたいのかと、フィリップですら無事で済まないのだからお前たちには勝ち目などないぞとそう告げているのだ。
しかし近衛兵たちは引かない。充血しきった目を向けて、血の気を失って真っ白になった顔と真っ青になった唇で、それでも、と叫ぶ。
「フィリップ様は俺たちの主君だ! 俺たちはフィリップ様に仕えてるんだ!」
「そ……そうだ……! 俺たちは、フィリップ様をお止めできなかった……それだけでもわ、悪いのに! 主君が傷つけられてるときに、こっ、近衛の俺たちが怖じ気づいてられるか!」
「え……」
フィリップの唇から困惑したような音がポロリとこぼれ落ちる。オリヴィアが目線を向けたことにも気づいていないらしい。近衛兵たちはへっぴり腰のまま、切っ先を震わせたままによたよたと人の波を割ってオリヴィアへ駆け寄ってくる。オリヴィアはそんな男たちに一瞥をくれると振り下ろされた刀を軽い力で弾くようにして薙いだ。一瞬の間ののち、男たちは数歩よろめいて尻餅をつく。
「そんな剣術でよく主君を守ろうと言いながら向かってこられるわね」
剣を一度軽く振ったオリヴィアは今度こそへたり込んだ近衛兵たちを見やる。いつの間にか降伏した他の兵たちは廊下のずっと奥の方に逃げていて、オリヴィアと近衛兵を遮るものは何もない。
「それに。主君が傷つけられているときに怖じ気づいていられないのはあたしだって同じよ。あんたの主君が余計なことをしてくれたおかげでこっちは大変だったんだから」
「あ……」
「じゃ、そういうことだから」
オリヴィアは座り込んだ男たちの首の高さに剣を構える。横に一気に薙ぎ払えば男たちの首は綺麗に胴から離れることだろう。目を見開き、恐怖の余り言葉が出ない男たちに向かってオリヴィアは剣を振るう。
「ま、待ってくれ!」
その軌道に何かが滑り込んでくる。オリヴィアの剣はその闖入者に当たる直前でぴたり、と止まった。
「いまさら――どうしたのよ、第二王子」
オリヴィアと近衛兵の間に滑り込み両手を広げて立ち尽くすフィリップにオリヴィアは低く唸るように言った。その後ろでルーシェリアは面白そうに目を細めている。ルーシェリアの隣に立つガルディは間違っても周りが彼女に危害を加えないようにと隙のない様子で立ちながら弟子とフィリップを見守っていた。
フィリップは一度くるりと近衛兵たちのほうを見やった。そしてもう一度オリヴィアに向き直るとそのまま、静かに膝をつき首を垂れる。手を床につき、床に額が触れそうなほど頭を下げる。
「ふぃ……フィリップ、さま……?」
ひきつったような声で言ったのは誰だったか。少なくともオリヴィア、ルーシェリア、ガルディではなかっただろう。呆然とした声色で紡がれる自身の名を聞くフィリップの表情はわからない。ただ静かに、ひたすらに頭を下げ続けている。
「どうするの?」
オリヴィアは振り向き、ルーシェリアに問う。じっとその瞳を見つめていたルーシェリアは「ガルディ、警戒は任せたわよ」と言うと一歩ずつ頭を下げるフィリップとその前に立つオリヴィアに近づいていく。
「……面を上げろ、フィリップ・トラディトール。何の真似だ」
その声にフィリップは顔を上げる。ルーシェリアは静かに彼を見つめ返した。
誰も何も話さない。ただ静かな呼吸の音と、遠くのほうからばたばたと駆けてくる音が聞こえる。今この場で口を開くことを許されているのはフィリップただ一人なのだから。
「この件に関しての全ての責は私にある。王子たる私の発言一つで物事がどのように変化するのかを一切考慮していなかった、私の浅慮が招いた事態だ。オフスダール王国王女ルーシェリア殿下、エドワード国王陛下をはじめとした、オフスダールの様々な人々に迷惑をかけた。如何なる責をも負い、如何なる罰でも受けよう。ただ……」
「……」
「この場にいる近衛兵たちは、哀れにも私の凶行に付き合わされただけの、被害者に過ぎない。どうかルーシェリア殿下、恩赦を賜れないだろうか」
フィリップの視線とルーシェリアの視線がぶつかる。近衛兵が恩赦を受けたところで、フィリップの処罰が重いことは想像に難くない。
ただの国際問題ではないのだ。自国での内戦誘発に加え、同盟国の姫の誘拐、および殺害未遂。今回はオリヴィアが間に合ったために大きな怪我もなく済んでいるからこのような場が設けられているが、ルーシェリアが殺されでもしていれば間違いなく戦争になっていただろう。そしてルーシェリアが殺害されているならば第一王子派に対して反旗を翻し、内戦になっていたはずだ。そんな状態のトラディトールであればオフスダールに攻め滅ぼされていただろう。フィリップのやったことは王になるための行動どころか、他国に喧嘩を売り、自国を滅ぼしかねない行動だったのだ。
軽く済んで病死扱い。順当にいけば国内外に彼のしでかしたことを周知したうえでの処刑。
彼に待つのは遅いか早いかの違いしかないような死の運命。それすら分からぬほど愚かな男ではなかったらしい、彼は一切の血の気が失せた顔をしている。しかしフィリップの目はルーシェリアに向けられたままぶれることがなかった。
「どういう風の吹きまわしかな。先ほどまでの言動を鑑みると理解しがたいね」
「ルーシェリア殿下のおっしゃることは尤もだ。何もこれくらいで罪滅ぼしになるとは思っていない」
ただな、とフィリップは呟くように言い、そしてふと微笑んだ。今にも泣きだしそうな顔で笑うフィリップはちらりと後ろに目線をやる。
「恥知らずの私でも、こんな私を主君と呼んでくれた忠臣を、これ以上の浅慮で失いたくはないのだ」
ルーシェリアは何も言葉を返さない。
都合の良すぎる発言だ。自分は死んでもいいから誰かを助けてくれだなんて、そんな軽い言葉で済むような案件ではない。この状況でその発言を許すような人間がいたら、ルーシェリアは殴ってでも止めるだろう。一国の主たろうとする人間ならだれも許可するまい。
しかし。
きゅっ、と。暖かな手に指先を掴まれる。
視線を向ければオリヴィアが自分を見つめていた。金の瞳が物を言いたげに揺れている。掴まれた手の熱さとその瞳で彼女が何を言いたいかなどすぐにわかってしまう。
(甘い)
そう思う。「許してやってくれ」というためだけに憎まれ役を買って出てまでこんな場を設えたのだから、本当にオリヴィアは甘い女だと呆れかえる。ただ、オリヴィアは王ではないのだからこれくらいお人好しでいいのだろう。まあ、一つ誤算があったとすれば、自分がその甘い女に対してはとことん甘くなってしまうほど惚れこんでいるということぐらいだろうか。
「……その要望を通したら」
ため息をついてからルーシェリアはそう話し始める。フィリップはルーシェリアから一切目をそらさない。
「あとの処理はすべてわたしの采配に従ってもらえるんだろうね?」
「約束する。私にできることがあれば、死ぬ前の最後の罪滅ぼしになんでも手伝わせてもらおう」
その言葉を聞いてルーシェリアはもう一度ため息をつく。そうして目の前で座り込んだままのフィリップのほうに一歩踏み込むと、思い切り勢いをつけてその頬をはたいた。ぱぁん、寒く乾いた空気の中に破裂音にも似た音が反響する。
それとほぼ同時に廊下の向こうから青い顔をした初老の男性とその男性によく似た若い男性が大勢の兵を連れて駆けてきた。武装を解いた近衛兵たちは慌てて廊下の端に小さくなると頭を下げる。この二人がトラディトールの現王と第一王子であるということはオリヴィアも知っていた。顔色と慌てようを見る限り、ようやく先ほどオフスダールから話が回ったのだろう。愚かな第二王子を止めるために慌ててやってきたのだ。しかしそんな彼らでさえ、突然目の前でフィリップがルーシェリアにビンタを食らったのには面食らったらしい。
呆気にとられる周囲を見回したルーシェリアは大きく息を吸った。
「……もう、フィリップ殿下! 聞いていた作戦と違うではありませんか! 大事にならないようにとあれほど打ち合わせをしましたのに!」
可愛らしく見えるように頬を膨らませて拗ねたように見える顔を作る。視界の端でオリヴィアがほっとしたように表情を崩したのが見えた。無茶を言って、と思う反面いつも無茶を通させているのだからこれくらいはするべきかとも思う。
「え、あ……?」
「だからわたくしは申し上げたではないですか! 軍事演習はせめて陛下の許可を取ってからにしましょうって!」
理解が追い付いていない様子のフィリップの耳元に言葉を落とす。
「わたしの判断ではないぞ? まったく、うちの騎士に感謝するんだな」
「それは……」
「……お互い、部下に恵まれている限りは上に立つ努力を切らしてもらっては困るな」
最後にほんの僅か、自身の本心を滲ませた言葉を告げる。さてと、と呟いてルーシェリアはトラディトール国王と第一王子に向き直る。ここからは自分の説明次第でうまく丸め込む番だ。
オリヴィアを見やる。満足気に笑む彼女にねぎらいの言葉の一つでもかけてやりたいが、まあそれは後でもいいだろう。まずはこの大掛かりな一件を大掛かりな茶番に作り替えてやってからだ。
