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月姫と花騎士


 かしゃん、と思っていたよりも軽い音がして最後の錠前が外れた。
 ルーシェリアは取り落としそうになったナイフと錠前を慌てて握り直すと、そっと床に置いた。こんなところで大きな音を鳴らしてしまおうものなら、なんのためにこっそり錠前を外したのか分からなくなってしまう。錠前のついていた手首や足首は若干錆がついているものの、行動不能な怪我をしているわけでもないため状況としては上々だといえるだろう。
(ガルディはどうなっただろうか)
 ルーシェリアの頭に情けない顔をしたもう一人の護衛騎士の顔が浮かぶ。鉄面皮のくせに最後の最後で甘さが覗いていたから、もしかしたら今頃自分を探しに来たオリヴィアに殺されているかもしれない。
(いや、それはないな)
 頭を一度振って浮かんだ考えを消す。オリヴィアに限ってガルディを積極的に殺しはしないだろう。そもそも彼女は見た目や語調、そしてその強さのわりに穏やかな女なのだ。穏やかな性格でなければ、今頃ルーシェリアの発言一つ一つに腹を立てて護衛騎士をやめていても何ら不思議ではあるまい。もちろん、その穏やかさは惚れた弱みも含むのだろうけれど。
 そして惚れた腫れたという話ではなかろうが、彼女がガルディを実父以上に慕っていることをルーシェリアはよく知っていた。人前では自分と同じくらい表情を変えないオリヴィアがガルディにだけは甘えたような表情を浮かべているのだから、恋人としては妬いてしまう。けれどその表情が親元を離れ、オフスダール王国の近衛兵長として立つ彼女の年相応の笑みだと知っていたものだから、今まで何も言うことなく済ませてきたのだ。これが精神的な依存や癒着であればルーシェリアは他の何をおいてもガルディを追い出しただろうが。
(うまく立ち回りはするだろうけど、あの子も手負いだからな。苦戦はするかもしれない)
 オリヴィアが負けることは一切考えていないが、如何せんあれだけの出血量と傷を負っていては治りも遅かろう。王城の治癒術士は優秀だが、それ以上にガルディのあの踏み込みは効果的な一撃だった。オリヴィアがどれほど強いと言っても万全の状態のガルディ相手に楽に勝てるとは思っていない。ガルディが何を思って自分の逃亡を手助けするような真似をしたのかは分からないが、もしかしたら自分が逃げようとしているという情報を彼女に与えることで動揺を誘うつもりなのかもしれない。そうなれば迎えが遅くなることも十分に考えられる。
 となれば、ルーシェリアの取るべき手は一刻も早くここから脱出し、周りの目をくらませることだ。自分を探すのに人員が割かれれば、それだけオリヴィアが侵入したときにそちらにかける手の数が少なくて済む。
 オリヴィアはきっとガルディを殺さない。しかし彼ほどの手練れを殺さずに無力化するのは相当の技術や根気、運が必要だろう。彼を突破する頃にはオリヴィアは満身創痍の体だろうし、精神的にも疲弊しているであろうことは容易に想像できた。その状態でトラディトールの近衛兵たちを一斉に相手にするのはいくらなんでも無茶だ。ルーシェリアが人質に取られている状態では満足に攻撃すらできないだろう。
(さて、と)
 ぱんぱんと軽く膝や足についたゴミを払い落とし、ルーシェリアは再び先の鋭く尖った短剣を握りしめる。先が僅かに刃こぼれしているものの、長時間錠前をいじった割にはきれいな状態のままだ。もう一度鍵を開けるくらいは保ってくれるだろう。そう思い腕を牢の隙間から出し、静かに錠前に剣先を突き入れた。
 かしょん。
 切っ先を突き入れただけであっけなく錠前はその口を開いた。ルーシェリアは一瞬呆け、そして慌てて錠前をつかむ。間一髪、音が鳴ることはなく重い錠前は大人しくルーシェリアの手に収まった。ずしんと手のひらに感じる重みに、ふーっと長い息が漏れる。
 確かにガルディは鍵をかけていたはずだ。ルーシェリアはその音を聞いていたし、何回か聞いた音と相違なかったように思う。しかし、短剣をばれないように持ってくるような男なのだから鍵に細工をしていたとしても今更驚くことではないだろう。むしろ幸運だったと思うべきかもしれない。この先に衛兵が待ち構えていたとしてもあの場で待ち続けるよりは余程有益だろう。
 そっと扉を押せば思い鉄製の扉は音を立てることもなく開いた。そろりそろりとできる限り足音を殺して牢から脱出する。きょろりとあたりを見渡しても人の姿や気配はない。見つからないに越したことはないが、今がいつなのかやオリヴィアがどうなったのかの情報くらいは欲しいものである。そっと牢の先に続く階段を見上げて腹のあたりに力を入れる。気休めにしかならないが、髪を軽く結わえて動きやすいようにスカートのすそを掴む。そうして階段を一段一段、音を殺して上がっていく。
 下から見上げた時に感じたより階段は短かったらしい。すんなり牢と外とを隔てる扉の前まで来ることができた。扉に耳をつけてみても外から音は聞こえない。扉が分厚いのか外に人がいないのかの判別すらできないことにルーシェリアは小さく舌打ちをした。オリヴィアがいれば彼女はなんなく状況を把握しただろう。力のない自分が腹立たしくもあり、こういうときにそばにいない恋人に恨み言の一つでもぶつけられればいいのにと思ってしまう。
(仕方がない、行くしかない)
 扉に手をかけ、半歩分踏み込んで扉を開ける。何の影も見えない廊下が眼前に広がっている。そっと扉から体を滑り出し、後ろ手に扉を閉めた。
「どこへ行くんだ、ルーシェリア・オフスダール」
 不意に。何もなかったはずの目の前の空間から聞き慣れた声がした。ぎょっと目を見開きながら、しかしあくまでも冷静な声色を装いつつその場で一礼する。
「これはこれは……このようなところで如何なさったのですか? フィリップ殿下」
 ぬう、と。
 目の前の闇がとろけるようにゆがんでその中央から一人の男が姿を現した。長身ではあるが細身で、どこか頼りなげな印象を与える。しかし端整な顔立ちの魅力はその身体的な欠点を補って余りあった。プラチナブロンドの髪を神経質そうに掻き上げたフィリップ・トラディトール第二王子は小さく舌打ちをする。
「こちらの質問に答えろ。どこへ行くんだ、と、この私が聞いているのだぞ」
「それは大変失礼いたしました。しかし恐れながら殿下、わたくしも事情が分からぬままここに幽閉されておりましたので、どこへ、という当てがあるわけではございませんの。質問の答えになっていますかしら?」
 ルーシェリアが前後左右の空間に目を配ってみれば、何もないと思っていた暗闇がかすかに揺らめいている。空間転移の魔術か、あるいは姿を隠す魔術だろう。牢にここしか出口がないため闇に乗じて見張っていたか、扉が開いたら知らされるようにしていたか。そのどちらでもかまわないが、少なくともここにフィリップ以外の増員が相当数あることだけは確実だ。
 下手を踏んで殺されるわけにはいかない。ルーシェリアはその月の美貌に似つかわしくないほどの人懐こい笑みを浮かべる。
「けれど殿下、いつの間に魔術を習得なさいましたの? わたくしちっとも存じ上げませんでしたわ。婚約者なのですから、教えてくださればよかったのに」
 無邪気な子供の声に聞こえるように意識して声を出す。並大抵の人間であればこれで少なからず動揺してくれるのだが、目の前にいるフィリップは不快そうに眉根を寄せたのみだった。そして小さく口を開き、低い声で呟く。
「婚約者」
 その声を聞いた瞬間、ルーシェリアは自らの言葉選びにミスがあったことを悟った。明らかに先ほどまであったいらだち以外にも殺意のようなものが加わっている。何故だか「神経質そうな男だわ」とオリヴィアが嫌そうな顔をしていたことを思い出した。
「ああ、いえ。気を悪くしないでくださいませ。婚約者とは言っても国の結びつきを強化するためのもの、他に奥方にしたい方がいらっしゃるのであれば形式上だけの結婚でも構わないのですよ」
 先ほどの声よりも僅かにトーンを下げて落ち着いて聞こえるように話す。十七歳のフィリップにとって将来的にとはいえ他国に婿入りするというのはつらいことであろう。年ごろでもあるから恋人の一人や二人いないとも限らない。だから、自国から側室を連れて行きたいと申し出るのであればそれを止めるつもりなど毛頭なかった。興味がないからできることかもしれないが、少なくともルーシェリアはそういう感情をフィリップに抱いたことはない。
「馬鹿を言うな。私がなぜ側室なぞ作らねばならない」
「あら……では、ご無礼をお許しくださいませ、殿下。殿下が斯様に一途な方だとはわたくしついぞ存じ上げませんでしたので」
「一途? 私が、お前にか?」
「違うのですか?」
 小首をかしげてフィリップを見上げる。目の前の男が自分に好意を持っているとは露ほども思っていないが、万が一婚約者を監禁しておきたいという特殊な性癖の持ち主であれば今後の付き合い方も考えなくてはならない。万に一つもない可能性だろうが。
「思い上がるのも大概にしろ。私はお前なんぞと結婚するつもりは全くない!」
 思考を打ち切るようにフィリップの大声が割り込んでくる。品のない男だな、とは思った。王族に限らず貴族階級の人間は相手の言葉に感情的に言葉を返すことをマナーのよい行為としていない。ましてやフィリップはルーシェリアと婚約状態にあり、今後のこと、すなわちオフスダールに婿入りしてくることを考えれば暗黙の了解としてルーシェリアの方が目上となる。目上の人間にそこまでの無礼を働いておきながら周りの人間が誰一人止めに来ないというのもルーシェリアからすれば末期の症状だ。
「それは、失礼を。して殿下はわたくしとの成婚なしでどう生活していかれるおつもりですの? ケイト・トラディトール第一王子殿下はご病気というわけでもございませんし、宰相は現職の方が非常に有能な方だと伺っておりますからそうそう空きは出なさそうですが」
「お前の脳は随分と平和にできているんだな」
 ふん、と馬鹿にしたように鼻を鳴らすフィリップにすんでのところで掴みかかりそうになる。昔からこういういけ好かないところがちらほらとある男ではあったが、ここまで酷くはなかった。こんな状態になるまで放っておいた家庭教師や護衛の連中はなにをしているんだ! と叫びだしそうになったルーシェリアは、次のフィリップの言葉で完全に閉口した。
「決まっているだろう。お前と成婚などしなくても、私が王位を継げば何の問題もないのだ」
 全く悪びれることなく発されたその言葉にルーシェリアの思考が一瞬完全に止まる。
 フィリップの行った言葉の意味は額面的に捉えてもまずいが、真意を捉えてもなおまずい。口にすることはおろか考えることすら普通の神経の持ち主であればしないだろう。
「まさか……まさかとは思いますがフィリップ殿下。あなた、王位の簒奪を考えておられるのですか……?」
 これが第一王子の病気療養中などの発言だとしたら、多少不謹慎だとは思うが当然の思考だと思っただろう。しかしルーシェリアの知っている限りでも第一王子であるケイト・トラディトールは健康そのものであり、つい先だっても他国に現王とともに赴いて外交活動をしていたと聞き及んでいる。
 その状態の第一王子がいながら王位を継ぐと発言することはつまり、“王位の簒奪”を試みていると言うことで。有り体に言えば“第一王子を殺す”ことを宣言したようなものなのだ。王族だろうが血縁だろうが関係なく、不敬罪どころか国家反逆罪である。まさかそんな馬鹿げたことを本気で考えているはずはないだろう、と半ば祈るような気持ちでフィリップを見つめた。
 しかし祈りは届かなかったようだ。むしろ得意げに見えそうな顔でフィリップは大きくうなずく。ルーシェリアは体中から力が抜けそうになるのを感じた。
「……大逆罪ですわ」
「愚かなのは父と兄だ。私の方が昔から兄よりもよくできた。つまらない年功序列だの生まれだのを気にしているからあんな兄が王位継承者などと言われているが……私が王になった方が国はよくなると、皆がそう言っている」
「皆?」と聞けばどこか上機嫌に「ああ、皆だ」と返される。キッとフィリップの後ろの暗闇をにらみつければ微妙に影が揺らめいたのが分かった。なるほど、ああして賛同者を自分の配下に加えているのか、とどこか冷静な頭で考える。
「そのためにはお前も邪魔なんだよ、ルーシェリア。お前が私を婿にとるなどと言うから、私はオフスダールに追い出されることになってしまった。王位奪還がかなわなくともお前がいなくなりさえすれば、少なくともすぐに別の縁談が続くと言うことはないだろう」
「そのためにわたくしは殿下に殺されますの?」
「そうだ、お前は私の目的を遂行する上で邪魔な存在でしかない」
 はあ、と間の抜けた声が漏れる。それに気づいているのかいないのか、フィリップはパチンと指を鳴らした。嫌みなほど様になっているその動作の後、再び暗闇が歪んだかと思うと多数の人影がにじみ出してくる。広い廊下が軽く埋まるほど呼び出されたその人影はどれも兵士の姿をしていた。近衛兵か、とどこか冷静な頭で考える。
「……一つ教えてくださる? フィリップ殿下。あなたはわたくしを殺してまで王位継承者になりたいのでしょう? なにが殿下をそこまで駆り立てるのです?」
 つとめて冷静に問う。黙って殺されるつもりはないしおそらくオリヴィアがもうじきやってくるだろうが、それでもこの男が生き残って今後のことを考えねばならなくなったとき、この男の真意がどこにあるのかを確認しておかなくては後が困る。どうしても国を持ちたいという野心があるのであればオフスダール王国の一部の統治をさせてもよいだろう。トラディトールにも管轄できる土地はあるだろうが、こちらに婿入りをするとなれば取り上げられてしまう土地だ。それならばオフスダールで直轄地でも持たせておけば長い間管理もできるしちょうどよいだろう。ままごとのようだが、案外貴族の中には自分だけの土地を得ることで落ち着く輩が多いことをルーシェリアは知っていた。
 だからこそフィリップの真意は測らなければならない。貴族の若い男にありがちなのぼせ上がり程度であれば手段一つでいくらでも正していけるのだから。
 黙って次の言葉を待つ。
「決まっているだろう。“皆”が私を王にと望むからだ」
 フィリップはそう言うと自身を取り囲む近衛兵たちを見回す。その自信に溢れた所作は確かに王族らしいといえるし、ある一定以上の人望はもちろんあるのだろう。“皆”の為に生きるのはある種王族の義務でもあるのだから彼の提示した理由はあながち間違いというわけでもない。
 しかしながらそれはルーシェリアが納得する理由ではなかった。目の前の男と同様に一国を背負おうとしている彼女にとってその理由には致命的な穴があった。
「では、殿下の言う“皆”とは誰のことなのです? 国民がそれを望んでいるのですか?」
「無論だ。兄上よりも私の方が王にふさわしいと“皆”が言っていると聞いている」
「では殿下は“そうであれと望まれるから”王になるのですか?」
「生まれつきそうだと定められているお前には理解しえない理由だろうがな」
 馬鹿にしたように笑うフィリップを見てルーシェリアは一度目を閉じた。数秒深呼吸をした後、長いまつげに縁取られた海色の瞳が再び開かれ、ルーシェリアは口を開く。
「君は馬鹿なのか? フィリップ・トラディトール」
 あたりにいた誰もが一瞬息をのんだ。目の前の姫から放たれた言葉が脳内で処理しきれなかったからだ。別段難しい言葉を使っているわけでもなく、理解に苦しむ内容だったわけでもない。ただ単純に、ルーシェリア・オフスダールが発することはないだろうと思うような言葉の並びと声の調子だったことに驚いただけで。
「な、な・・・・・・」
「理解できなかったか? 君は馬鹿なのか、と聞いたんだ」
 いつもよりも余程低い声でルーシェリアは言う。無礼な、と口を開きかけた近衛兵たちですらその口をつぐんだ。禁じられているわけではないはずなのに誰も発言ができない。ルーシェリアの前では発言が許されないかのように誰もが息をのんでいる。
「ぶっ……無礼だぞ!」
「無礼? このわたしを誘拐しておいて、まだそんな口をきくのか、フィリップ・トラディトール。馬鹿というより愚かだな、君は」
 ふん、と鼻で笑うルーシェリアに誰も彼も二の句が継げない。目の前の小柄な少女から発されるとは思えないような覇気があたりを包み込んでいる。近づいてはいけない、怒らせてはいけないものに触れてしまったのだと本能が叫んでいる。
「王がどのようにして王たるか知っているか。国を豊かにし、国民のために在りたいと思える人間が王になる。そうあれと望まれるのはその後だ。結果を出せば国民などいくらでもついてくるのだから」
 滔滔と話すルーシェリアは見下したような目をフィリップに向ける。それは言外に「私はそうしてきたぞ」という非難の意味合いを多分に含む目線だった。それにはフィリップも気づいたらしい。カッと頬に朱が差した。
「どうした? 祭り上げられていい気になって王になるなどとぬかすような輩には、王族の流儀を理解するのは難しかったか? 敵と味方の区別もつかなさそうだからな」
 フィリップが言葉を挟む余地を与えないほどルーシェリアは淡々と言葉を紡ぎ続ける。ここにオリヴィアがいれば「早めに謝っておいた方がいいわよ」と助言しただろうが、あいにく彼女は今ここにいない。上がっていくルーシェリアの怒りのボルテージに気づくことができる人間はここにいない。
「偉そうに……」
「なにを当然のことを。事実偉いからな、わたしは。君のように周りに流される自分の姿を認識できていない愚か者とは違う」
「違う! 私は望まれている! 兄上よりも、あんな男よりも私の方が優れている!」
 年端のいかない子供のように叫ぶフィリップにルーシェリアはにんまりと口角を上げた。そしてまた声色を変え、ねっとりと纏わり付くような口調で告げる。
「かわいそうにな、フィリップ・トラディトール。君は今自国の情勢がどうなっているのかすら知らずにいるんだろう? 自分が駒として使われているとも知らず、随分健気だね?」
 うるさい、と小さな声でフィリップが呟く。彼の後ろに控えた近衛兵たちはやっと正気を取り戻したのか「騙されてはいけません」だの「我々はフィリップ殿下こそが王にふさわしいと存じ上げております」だのと言葉を発し始めた。ルーシェリアはその様を見やると大げさに肩をすくめる。殺気だった近衛兵たちに目線を向け「どうした、やらないのか?」と煽る。
「……フィリップ殿下、やはり彼女はフィリップ殿下の覇道にふさわしくありません。さあ、ご命令を、殿下!」
 近衛兵の一人がフィリップにそう声をかける。弾かれたように顔を上げたフィリップは虚ろな表情の中に殺意だけを浮かべてルーシェリアを指さした。
「近衛、あの女を、ころ――」
 そう言いかけたときだった。
 ガシャァァァン!
 派手にガラスの割れる音がした。遠方から悲鳴が聞こえてくる。動揺する近衛兵たちとフィリップの姿を見てルーシェリアはいっそ凶悪なまでに口角を吊り上げた。丁度いいタイミングだったな、とこの場にいない忠実な部下をねぎらう。
「なんだ……なんだよ!」
 あからさまに狼狽えた声のフィリップにルーシェリアは口を開く。心底楽しそうに、歌うような口調で闖入者の正体を語る。
「おや、わからないのか? わたしがいなくなったらすっ飛んできそうなやつを君も知っているだろうに」
「嘘だ……嘘だ! だってあいつはガルディが……! 二度も戦ったんだぞ!」
「……君ねえ。傭兵を使うならその素性くらい洗っておくんだね。彼はうちの護衛騎士の剣の師匠だよ。どんな太刀筋かなんてよく知っているさ。負けることを念頭に置かない作戦を強行するから一度破綻したら止まらなくなるんだ」
「だまれ……黙れ、黙れ黙れ! 私を愚弄するな無礼者! くそ、お前さえいなければ、私はここで王に――!」
 フィリップはそういうが早いか腰の剣を抜く。飾りかと思っていたが一応本物のようだ。ぎらぎらと下品に光るそれをルーシェリアは無感動に見つめる。そして馬鹿にしたようにため息を一つ。
「あまりよく研がれていないな、その剣は。それじゃあ切っても刺しても痛いだけだ」
「黙れ、黙れ黙れ黙れ! 馬鹿にしやがって! こ、殺す……! 近衛なんぞ使うものか、お前は私が殺してやるからな!」
 フィリップは正面に剣を構え、そのままルーシェリアに向かって走り出す。そのまま上段に構えて力任せに振り下ろそうとした。剣術の基礎すらあやふやな振るい方。ルーシェリアは静かに目を閉じるともう一度大きくため息をついた。
「傷をつけては嫌だよ」

「――ほんっとに無茶を言うのね、あんたは!」

 黒い影の中から大華のように髪が空中を泳いだ。
ぱきん、と音がして振るわれた刃が後方にはじけ飛ぶ。斬撃を放った勢いをそのままにその影はルーシェリアの目前に着地した。自身より少しばかり高い背、すらりと伸びた手足。先ほど振るわれた細身のロングソードは曇り一つなく静かに対面する相手を映し出している。
「遅かったね、オリヴィア」
「どの口が言ってんのよ。助けに来てやったわよ!」
 護衛騎士、オリヴィアはそう言いながらぐいとルーシェリアを抱き寄せる。突然のことに思わず目を見開くルーシェリアの耳元で「心配した」と小さく声を落とし、何事もなかったかのように剣先を正面に据えた。
 オリヴィアは好戦的な笑みを浮かべる。奇しくもその表情は先ほどまでルーシェリアが浮かべていたものとよく似ていた。そうして長く息を吐くと、次の瞬間目を見開いて前方を見据えた。
 一瞬であたりの空気が冷えきった。何人かの近衛兵はそれが錯覚だったと気づいた後に体が震えていることに気づく。ある程度の戦場を潜ってきた者でさえ息が詰まるような感覚を覚えた。たった一人の純粋な殺気だけで数十人単位の集団がじりじりと後ずさる。
 その光景を面白そうに見ていたオリヴィアは「さてと」と明るい調子で言うとその切っ先をフィリップに向けた。
「丸腰相手にこんな数でやってくるなんて、騎士道に反するわね。トラディトールの近衛連中はいつからそんな恥知らずになったのかしら? 仕方がないから性根を入れ替えるためにも、ここからはあたしが相手をしてあげる」
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