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月姫と花騎士


 一面の雪の中をすさまじい勢いで何かが通り過ぎていく。雪を、小石を、塵を、木の葉を、いとも簡単に吹き飛ばしながら嵐のような速さでそれは移動していた。
 闇のような色合いのそれは地面すれすれの高さを滑るように飛んでいる。大きく翼を動かし、その勢いのまま数十メートル一気に進んでいく。その生き物は時折「ヴァア」と低い音で鳴いてはしきりに後方を気にするような素振りを見せた。その黒い塊の背からむくりと何かが起き上がる。同じような黒いフードを被ったその影は「こちらは気にしなくていい」とその塊に小さく声をかけた。
 飛翔する黒い塊――ブラックワイバーンはその声に一度だけ「ヴァ」と鳴き、再びぐんと速度を上げた。
「……世話をかけるわね」
 ブラックワイバーンに騎乗するオリヴィアは自身の下で絶え間なく飛び続ける生き物に小さな声でそう告げる。ぴくりと耳がこちらに動いたが先ほどのように鳴くことはなかった。こちらの言っていることが伝わっているらしい。聡いやつだとオリヴィアは内心感心していた。本来オフスダール王国近辺に生息しないはずのこの個体がここにいるのは、以前何者かの策略によってオフスダール国内に放たれたからであった。魔石を用いた魔術で使役されていたこのブラックワイバーンはオリヴィアとの戦闘でその魔石を外され、そのままオフスダールで保護されることとなったのである。そのことを分かっているのか、このブラックワイバーンはエドワード王の指示でオリヴィアの前に連れてこられたときに一も二もなく彼女の元へ走り寄り、そのままぴたりと横についたまま離れなかった。
――オリヴィア。そのワイバーンは通常の個体よりも巨大で飛ぶ力も強い。山を越えるのに半日もかからないだろう。
 頭の中でエドワード王の言葉が蘇る。険しい顔でブラックワイバーンに鞍をつけるように指示したのち、オリヴィアに手ずから黒いフードの付いたポンチョ状の防寒着を着せていた。
――ウェントの森はおそらく封鎖されているだろう。何事もなくトラディトールに入るのであれば、きっと山を越えるのがいい。接敵の回数は少ないだろう。その分体力は消耗するが……。
――構いません。手負いですから。
 はっきりと言い切ったオリヴィアに対してエドワード王はどこか泣きそうな顔で笑った。何かを言いたそうに口を開き、そうして閉じる。
――武運を。
 再度口を開いたエドワード王はそれだけを告げた。小さく言い切られた言葉とほとんど同時にブラックワイバーンがオリヴィアを呼ぶように爪を鳴らす。そちらに視線を向け、オリヴィアは一度だけエドワード王に頭を下げた。
――お任せください、必ずや王女殿下を連れ戻します。
 そう言葉を返し、そうしてオリヴィアはブラックワイバーンの背に据え付けられた鞍に跨る。ワイバーンは身じろぎ一つせず、オリヴィアの指示に従って城壁の外へ歩み出た。
 雪の降る中、こうして黒い翼竜と花騎士は飛び出していった。
 さらわれた姫君――ルーシェリア・オフスダールの奪還のためである。
 オリヴィアがブラックワイバーンに騎乗して移動している頃、件のルーシェリア・オフスダールは心底つまらなさそうな顔で目の前の壁を見ていた。細い手足には武骨な鉄の錠がかけられており、少し身じろぎするだけでじゃりじゃりと嫌な音を立てる。ルーシェリアはその音が嫌いだったため、できる限り動かないように壁に背をつけてもたれかかった後はぼんやりと壁を眺めるにとどめていた。
「……王女殿下、食事だ」
 ギィィ、軋んだ音を立てて扉が開く。目線は向けなかったが、声だけで入ってきたのがガルディだということはわかった。
 ガルディ。オリヴィアの都合がつかない時の代理としてルーシェリアの父であるエドワード王の推薦でやってきた騎士だった。オリヴィアの剣の師であり、父の旧知の仲だったという。交わした会話が多いわけではないが、ルーシェリア自身もガルディのことは気に入っていた。あまり感情を表に出さないところとか、剣の腕が一級なところとか、たまにオリヴィアの昔話をしてくれるところだとか。そんな風に自分に接してくれるガルディが嫌いだったわけではなかった。
「食ってないな。シチューは嫌いだったか? 一度オリヴィアがいないときにメシを覗いたが、そこそこ食べていると記憶していたんだがな」
 困ったような口調でガルディが話しかけてくるが、ルーシェリアはそちらへ意識を向けない。がしがしと頭をかいている気配がする。
 別に誘拐されたことに怒っているわけではない。苛立たないといえば嘘になるが、それはガルディに対しての怒りというよりはその可能性を考慮していなかった自分の浅はかさに対してだ。父を信用していないわけではないが、自身の近くに就ける人間なのだから自分の目でどのような経歴かを確かめるべきだったのだ。そこを怠ったのはルーシェリアの落ち度である。
(リヴィが嬉しそうで絆されちゃったっていうのが一番まずいんだよね)
 溜息をつきたくなるのをぐっとこらえる。人のせいにするのは最も愚かな行為だと思っているが、オリヴィアがあまりにも嬉しそうにガルディのことを慕い、ガルディが無表情でもわかるほどオリヴィアをかわいがるものだから、大丈夫だろうと思ってしまったのも事実なのだ。自身の目で確認するまではどんなことも真実ではない。そう思っているルーシェリアにすればとんでもない失態である。
(今はいつなんだろうか。リヴィは怪我をしていたけれど、そろそろ伝達も済んでるかな)
 ゴリッという重い音と同時に噴き上げた血しぶきは夜闇に馴染んだ目に眩しいほど赤かった。ガルディに担ぎ上げられて意識を失う直前、ルーシェリアはオリヴィアが自身の師に切りつけられる様を目撃している。あのオリヴィアが傷を負わされることがあるのかと驚愕したものの、すぐさま意識は闇に落ちてしまったのだ。ぼんやり覚醒した意識の中でウェントの抜け道を通っていることを認識し、完全に目を覚ました時には既にこの牢の中に拘束されていた。手掛かり一つ残すこともできなかったが、おそらくオリヴィアであればうまくやるだろう。
「王女殿下、食わないと体が保たない。死んでしまうぞ」
「死んでしまう、ですって?」
 ガルディのため息交じりの言葉に嘲りを含んで返す。喋らずにいれば体力を使うこともないと黙り込んでいたが、笑わずにはいられなかったのだ。
「あなた、一国の姫を誘拐したんでしょう? 人質にするつもりがあるならもう少し丁重に扱うことをお勧めするわ」
 ガルディは何ごとかを口の中で呟く。ルーシェリアの耳には何と言ったのかは聞こえなかった。眉根を寄せていると「誘拐された先で飯が出るだけ、丁重だと思ってくれ」と言い返される。
「そう。石牢の主寝室だなんて、随分トラディトールは変わった趣味をしているのね。夏場は涼しくていいのかもしれないけれど、今の時期は寒くていけないわ」
 ガルディは答えない。ルーシェリアも無駄口をたたきすぎた、と思って口をつぐんだ。あまりいたずらに体力を使うわけにはいかない。ここからルーシェリアが自分の力だけで脱出することはほぼ不可能だ。救援が来るまでまともに生き延びようと思えば、何が入っているかわからない食料に手を付けるよりも体力を温存しておくほうが得策だろう。たとえ即効性の毒が入っていなくても、下剤を軽く入れられるだけで小柄なルーシェリアの体力はいとも簡単に尽きてしまう。それは騎士団に所属し、戦う中で捕虜となった人々を見てきたオリヴィアからの忠告だった。
「……王女殿下」
 ガルディが呻くようにルーシェリアを呼ぶ。目線をそちらに向けることなくルーシェリアは「まだ何か?」と口を開いた。
「あいつは必ず来る」
「……」
「それから―――」
 ルーシェリアにしか聞こえないような小さな声で一言だけ言葉を残し、ガルディは食事の乗ったトレイを石台の上に置く。かつん、とトレイにしてはずいぶん高い音が鳴った。
彼は牢を出て、がしゃんと重い音を立てて鍵をかけた。かつんかつんとブーツの音が遠ざかっていく。階段を登り切り、音が完全に消えたあたりでルーシェリアは無意識のうちに詰めていた息を吐きだした。
「なんだよ、それ」
 鎖が音を立てるのも気にせず、ルーシェリアは自身の頭を抱える。耳の奥にガルディの声がこびりついていた。
「“これが今生の別れだ”って、そんな覚悟決めたみたいな物言いをするくらいならやるなよ……」
 頭の中にここ数年のガルディとの思い出がフラッシュバックする。オリヴィアがいなくて拗ねる自分をぶっきら棒に慰めてくれたこと、オリヴィアとの思い出が多いことがズルいと責めた自分に語ってくれた昔ばなし、エドには秘密だと笑ってこっそり短剣の稽古をつけてくれたこと――。
「……短剣?」
 は、と確信めいたものがあった。
 ルーシェリアは立ち上がる。思っていた以上に体力は温存できていたらしく、ふらつきは懸念していたほどではなかった。がしゃんがしゃんと音を立てながら足を引きずりつつ、食事のトレイが置かれた石台へ向かう。
 先ほど聞いた音はシチューの入ったトレイが置かれた時よりも高い音だった。それこそ、石と金属が触れたような。
 食事を石台の上に移動させ、そっとトレイを持ち上げる。裏を向ければご丁寧にトレイと同色の板が柵のように四辺に張り付けられていて、その中央に見たことのあるものが鎮座していた。そっと手を伸ばし、それを握る。
 ガルディがたった一度だけ稽古をつけるときに貸してくれた短剣は記憶にあるよりもずっと小ぶりだった。先を細く研がれたそれは短剣というよりもアイスピックのような様相である。
「これは……うまくやれば開錠できるかもしれないな……」
 ガルディが何を思ってこれをルーシェリアに渡したのかはわからない。ばれた時に言い逃れができないようなやり口であることを考えれば、ルーシェリアを外に誘い出すための罠かもしれない。
 ただルーシェリアは目の前に手段を提示されても待ち続けるほどお行儀のよいお姫様というわけでもなかった。
 もともと座っていた位置まで戻り、ドレスが汚れることなど気にせずどっかりと座り込む。そして手始めに足にかけられた錠前にナイフの先を差し入れた。かちゃかちゃと小さな金属音と時折自分の呼吸の音だけが石牢の中に響いている。
「待っていなよ……」
 口の端に笑みが浮かぶ。それは見ようによっては嘲けりや諦めに見えたことだろう。
 ただ、彼女をよく知る人物、例えばオリヴィアなどはこう評するに違いない。「獲物を見つけたハンターの目だわ」、と。
 一方、同刻。
「横穴があって命拾いをしたわね」
 バサバサと黒いポンチョから雪を払い落としたオリヴィアは独り言のようにそう言った。そして洞窟の奥、焚火の近くまで戻ってくる。巨大な洞窟で、高さ自体が数メートルあるだろうか。洞窟の最奥までの単純距離なら数十メートルはあるだろう。そこまで行けば風や雪が吹き込んでくることはない。あまりの猛吹雪にオリヴィアは一時的にここに避難していた。
「そら、薬湯が沸いたわ。あんた、熱いものは飲める?」
 焚火にかけていた携帯薬缶からどぽどぽと琥珀色の液体を平皿に注ぐ。オリヴィアの声とその音に反応したのだろう、ブラックワイバーンはのろのろと目を開けた。その頭に手を置けばまだ冷え切っているらしく、ブラックワイバーンは「キュウ」と情けない声を上げた。
「まあ、飲めないって言ってもある程度冷めたら飲ませるわよ。あんたの種族的に、そもそもこの山越えがきついのは分かっていたしね。補強できるところは補強しておかないと」
「ヴァア……」
「異論は認めないわ。ほら、飲めるならちょっとずつでいいから口に入れなさい。体の機能を止める気?」
 オリヴィアに一括され、ブラックワイバーンはちろちろと長い舌を平皿に注がれた液体に伸ばす。舌をつけた瞬間に眉根らしき場所を寄せてオリヴィアを見たが、彼女はそんな視線などなかったかのように自分の分の薬湯を飲み始めた。
「言っておくけど、味に関しての文句なんて受け付けないわよ。これ、体を温めることだけに特化した薬湯だから」
 言葉を理解した様子のブラックワイバーンは不服そうに二、三度舌を揺らめかせたが諦めたのだろう。観念して平皿に口をつけ、そのまま薬湯を飲み始めた。
 ブラックワイバーンはもともと餌の取れないオフスダール近辺には生息しておらず、故にオフスダール近辺の気候に適応した体をしていない。具体的に言うのであれば寒さへの耐性がないのだ。体の大きいこの個体だからこそ、山頂付近まで体力が続いていた。しかしこのまま下るとなると途中でブラックワイバーンは寒さにやられてしまうだろう。そこでオリヴィアは薬湯を飲ませて休息をとらせることを選んだのだ。夜の間に侵入できればいいのだから、むしろ早く着きすぎるよりは適度に休息をとっておくほうがいい。
(昼でもあんなに吹雪くとは思っていなかったのよね。よく保ったほうだわ)
 あと数時間かければ目標のトラディトール王国に入ることができるだろう。雪が降っていたため正確な時間を図ることはできなかったが、光源から推測する限り正午を回ったあたりだと思われる。少し休んでから山を下れば一気に敵の本拠地だ。
 ブラックワイバーンが薬湯を飲み干したのを確認し、もう一度同じ量を注ぐ。あと三回ほど飲ませれば巨大な体であってもまんべんなく薬湯の効果が出るだろう。飲みすぎてもいけないが、人と同じ量で足りるはずはないのだから。
「さて、と……」
 呟いてばさりとベストやシャツを脱ぎ捨てる。顔や腕よりもわずかに白んだ肌が露になった。女性らしくしっかりと盛り上がった胸部の下にはうっすらと割れた腹筋が続いている。息をのむほど美しい、古代彫刻を思わせるような体つきの中で右腕の付け根にまかれた包帯が痛々しかった。
 そっと包帯をほどいていく。ざっくりとした縫い目によってつながっているが、完治するまでにはずいぶん時間のかかりそうな傷になっていた。これで王宮一治癒魔法の得意な者に治療を施してもらった後だというのだから、ガルディの手腕がいかほどのものであったかは余程の阿呆でもない限り分かるだろう。
「あー、痛い、痛い。遠慮なく踏み込んでいたものね……」
 ぶつぶつと呟きつつ白い魔石を取り出し、傷口に当てる。じんわりとした熱が魔石から広がり、痒みにも似た痛みが右肩を中心に渦巻いた。なんでも治癒魔法の一種で、体が本来持つ治癒能力を高める効果があるらしい。これ以上の治療は困難です、と半分べそをかきながら王宮の治癒術師が告げた後で差し出してきたものだ。曰く、定期的にこれを傷口に当てることで直りを早くすることしかできません、云々。
「……お師匠様と戦うのに、右手が使えないんじゃ勝負にならないもの」
 ガルディの力量はよく知っている。その一太刀を受けた時に、文字通り身に染みて分かった。並みの相手であればオリヴィアとて左手で負けはしないのだが、あの男を相手取るのならそんなことはできない。
 オリヴィアはしばし逡巡し、白い魔石を右肩に当てる。その上からくるくると包帯を巻き、石がずれぬように何度も包帯を縛りなおした。鈍い痛みが右肩に絶えず送られるが、これが治癒のための痛みだというならば特に差し支えない。山を下りきるまでに腕が元通りに振るえるのならそれに代わるものなどなんでも差し出せた。
「さ、飲み終わったわね?」
 服を着終わって振り向けば、ブラックワイバーンはブンと大きく尻尾を振ってみせた。体が楽になったのだろう、目の光も悪くない。オリヴィアに早く乗れとせかすように両足を折り曲げ、鞍を寄せてくる。焚火の周りを片付け、静かに火を消す。そうしてブラックワイバーンの背に跨りなおしたオリヴィアは「あ、そうそう」と何でもないことのように言った。
「あんたのこと、今からメディって呼ぶわね。色から付けるのは難しいから、薬湯を飲んだことにちなんで、お薬ちゃん……どう?」
「ヴァア」
「あんたってば、怒ってんのか喜んでんのか分かんないのよね、その声!」
 そういいながらオリヴィアはブラックワイバーン――メディの背を一度ブーツのかかとで小突く。それを合図にしたようにメディは両翼を広げると横穴を徐々に速度を上げながら走り出し、光の中に飛び出した。轟轟と唸るような吹雪の中を黒い弾丸が山頂めがけて突き進んでいく。
 そして頂を越えた黒い塊は一路、トラディトールへと向かうこととなる。
 そしてまた、そのころ。そういえば、とガルディはふと思った。俺はオリヴィアが怒った姿を見たことがないな、と。
 かつての傭兵仲間だったトマスに娘がいるらしい、と聞いて会いに行ったのは義理でもなんでもなく好奇心だった。
オフスダール王国騎士団長、トマス。平民からの叩き上げの団長だが、幼いころから剣術を仕込まれたお貴族様など目ではないほど卓越した剣技の使い手であった。常にぎらぎらとした目をしていたが、二度目に会った時にはオフスダールの次期国王と名乗る少年を連れて、随分と苦労しているような顔になっていた。老けたのだとその時は思ったが、今になってみれば守るものを見つけて落ち着いたといったほうが正しかったのだろう。それからまた十数年の時が流れて、娘ができたあの男はどんな顔になっているのだろうと楽しみに思ったのだ。
 久方ぶりにあったトマスはまた老けていたが、気は抜けていないらしく低い声で「何しに来た」とだけ聞いた。各国で雇われている傭兵がふらりと立ち寄るというのはよくない噂も立つだろうと説教しているのか気遣っているのかわからないようなことを言いながらガルディを家に招くさまはすっかり大人の姿である。
「おとうさん、このひとだれ?」
 家に突然やってきた見知らぬ男に対して、オリヴィアは初め非常に警戒心が強かった。その顔を見るたびにガルディは昔のトマスの目を思い出したものである。星の瞳の奥で火花が燃えるのだ。ガルディは強く美しい瞳をした人間が好きだった。
「初めまして、ガルディだ。お嬢さんの名前は?」
「……オリヴィア」
 名乗ってしまえばどうということはないらしく、オリヴィアはガルディを平気で呼び捨てにして遊べ遊べと繰り返した。トマスに聞けば近所の年上の悪ガキを喧嘩でボコボコにしてから関係ない子たちまで怖がって遊んでくれなくなったらしい。遊び相手にも力の発散方法にも飢えてるんだ、と困ったようにトマスは言っていた。
「そうだ、ガルディ。お前うちのじゃじゃ馬に剣でも教えてくれよ。なに、戦をしに来たわけじゃないんだろう?」
 それが、ガルディとオリヴィアの師弟関係の始まりだった。こんな幼い子供に何を教えることがあるものかと一時は憤慨したが、やらずに断るのも自分の力量不足だと思われそうで癪である。一度基本的な練習をさせてみて、駄々をこねたら断ろう。
 そう思っていたはずなのに、五年以上稽古をつけたんだものなあ。ガルディは自嘲気味に笑った。三年前にオフスダールに来たのはその稽古が終わってしばらくしたころ、トラディトールの反第一王子派にやとわれたからだった。
「フィリップ第二王子に即位していただきたいが、それにはオフスダールの賢姫殿が邪魔ですな」
「そのようだな。俺は政治に詳しくないから知らんが、随分頭の回る姫だと聞いている。フィリップ第二王子が入り婿の形になるとも」
「ええ、ええ。しかしねガルディさん。悍ましいじゃあないですか」
 反第一王子派の筆頭であるという年老いた大臣は黄金に輝く差し歯を見せて馬鹿にしたように笑う。 
「フィリップ王子がオフスダールで王になるならまだしも、女王の添え物にされるなどあってはならんでしょう。慎ましさや品性というものは、オフスダール王国では重要視されないのですなあ。女に権力など持たせていたら何をしでかすかわかりません」
 その時はなんとも思わず「そういうものですか」とだけ返し、そうして言い渡された依頼を受けた。
 オフスダール王国第一王女、ルーシェリア・オフスダールの殺害。期日はルーシェリアの結婚が可能となり、両国の同盟が再締結される二年後の年末まで。
 楽な依頼だと思った。ルーシェリアはまだ若干十歳の少女であり、法案等を考案するなど大人びてはいるものの体格等の問題を考えれば何の懸念もなく殺害ができる。護衛がついているそうだが、ルーシェリア王女の希望もあって花のような美貌の女騎士をつけるに止めているらしい。自分にまで噂が入ってくるくらいなのでそこそこの腕はあるらしいが、護衛騎士を切り伏せてルーシェリアを殺すことは障害などないも等しかったのだ。
「お師匠様!」
 星の瞳で見つめられ、あの嬉しそうな声を聴くまでは。
 どうしてここに、とか、どうしてお前なんだ、とか。本当に言いたいことは山ほどあったのに、ガルディの口から出たのは「オリヴィア、息災だったか」などというつまらない言葉だけだった。
 恰好を見ればわかった。自分が唯一とった弟子が、自分の殺害の対象であるルーシェリアの護衛騎士であることなど。
 長い間傭兵をしてきた。敵も味方も女も男も老人も赤ん坊も必要とあらば殺してきたのに、心が揺らいだ。“目標のためにはオリヴィアを殺さなければならない”と考えるだけで鳩尾の奥がキリキリと痛む。
 それと同時にどうしようもなく、叫びだしたいほどの喜びが体の中を駆けていた。
「姫の護衛騎士として数多の敵を打ち倒したと聞く。……いい女になったな、オリヴィア」
 笑えばいい。ガルディの中にあったのは親心にも似た安心だったのだ。自分の弟子が、国を飛び回る傭兵の耳に届くような噂の中心にいることが誇らしく、そこまでの実力者に育ったことが嬉しかったのだ。褒められて嬉しそうにはにかむオリヴィアの姿が一瞬水の膜でぶれる。
 その時、ガルディは柄にもなくカミサマに祈りを捧げた。生まれて初めて自分以外のものに全力ですがろうとした。
「なあ、カミサマ。いるのかいないのか知らないが、感謝するぞ」
 意識が過去から引き戻され、ガルディは薄く雪が積もった暗い広場を見る。ズズン……と地響きを立てて巨大なブラックワイバーンが降り立った。その漆黒の翼竜の背からよく見知った姿が下りてくる。程よく小麦色に焼けた肌、南方の果実のような橙の髪、そして星を閉じ込めた金の瞳。
「……よぉ、オリヴィア。いい夜だな」
 鋭く細められた彼女の目は、ガルディの好む鋭さを孕んでいた。
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