月姫と花騎士
その姫君は大陸の北部に位置する、オフスダール王国のたった一人の王位継承者である。
雪のように透き通る白い肌、凪いだ海を思わせる青い瞳に、限りなく黒に近い濃紺の髪。手折ることができそうなほど細く小柄な体躯ながら、父王を助け国務にあたる姫君は市政へ目をかけることも欠かさない。孤児院、貧民街、工業地帯と、高位の人間であればまず近寄らないような場所にも積極的に足を運んでは慈しみの言葉をかけていく。無論見学だけ、言葉がけだけで終わるというようなことはなく、問題があると判断すればすぐさま父王の名の下で改革を行う。
国民たちがそのような彼女に対して深い愛情と尊敬の念を抱くのは至極当然のことであった。彼女を建国の祖、賢王アレクサンドル・オフスダールの再来であると評する人物も少なくない。もちろん現王の統治に問題があるというわけではないが、その統治のわずかな穴を的確に埋めていくかの姫君の政治能力は歴代の王と比較しても頭一つ抜けている。「姫君がいらっしゃる限りオフスダールは安泰だ」とはこの国の宰相の言だ。本人もオフスダールを離れるつもりは毛頭なく、しかるべき時が来ればしかるべき相手を婿にとり、女王となる予定である。
姫の名を、ルーシェリア・オフスダール。御年十二歳の姫君の御姿を知らぬ者は国内にはいないだろう。
また、彼女に付き従う護衛騎士の姿も姫君と同様に知らぬ者はほとんどいない。
程よく小麦色に焼けた肌、星を閉じ込めた金の瞳に、南方の果実のような橙の髪。まだ少女と言って差し支えない年齢の彼女はオフスダール王族が所有する近衛兵の長である。片手剣を自得意とする彼女は、大人の男が五人がかりでやっと倒すことができるワイバーンを単身で討伐できるほどの腕前を持つ女騎士。その実力を買われて彼女はオフスダール王国の王位継承者であるルーシェリアの護衛騎士となったのだ。現王からの信頼も厚く、また、ルーシェリア王女と連れ立って視察を行う楚々とした美しさは国民からの人気も高い。
騎士の名を、オリヴィア。オフスダールの守護の要と言っても過言ではない彼女は、ほんの十六歳の少女である。
「いきますよ、オリヴィア」
「はっ」
控えめながらもはっきりとした口調で声をかけられたオリヴィアはすっくと立ちあがると、慣れた手つきでルーシェリアの手を取り馬車のほうへ連れ立って歩いていく。触れることを躊躇うような美しき騎士を従える、壊れそうなほど冴え冴えとした美貌の姫。頭を下げ終わり、走り出した馬車をうっとりと眺めていた露店の店主は耐えかねたといった様子で呟いた。
「月の姫と花の騎士だなァ」
その声にあたりからも呆けたような溜息があがる。ともすれば過剰とも思われるような誉め言葉に対して誰も異論を唱えず、それどころか給仕の女性などは自身の息子に対して「お前はあのお方たちのおかげで元気に生活ができているのだよ」と諭している。
心優しく聡明な月のような美貌の姫と、姫に凛として付き従う花のような騎士。世間一般の彼女たちへの評価は、おおむねこのようなものである。
「本日の視察は特に問題ありませんでした。城に戻り次第、父上に視察内容を報告します」
「かしこまりました」
革のソファに深く座ったルーシェリアは窓の外をぼんやりと見ながらオリヴィアに告げる。馬車の中でルーシェリアの喉を潤すための果実水を用意していたオリヴィアはその手を止め、恭しく礼をした。本来であれば馬車を護衛する際、貴人との同乗は避けて馬で後から付いてくるべきである。しかしオリヴィアをいたく気に入っているルーシェリアは彼女に護衛ともメイドともつかない仕事をさせては近くに置こうとするのだ。オリヴィア自身も拒否をすることはないため、ルーシェリアとオリヴィアに関しては馬車への同乗等の密室での二人きりが黙認されている状態である。
差し出された果実水を優雅な手つきで受け取ったルーシェリアはそのままこくりこくりと飲み下す。北国とはいえ今の季節は夏。照り付けるような日差しがじりじりと地を焼き、反射した熱はか弱い少女の体力を容赦なく奪っていく。コップに注がれた果実水をすべて飲んだ姫君はふうっと長く息を吐いた。ようやくひと心地ついた、と言わんばかりの様子にオリヴィアは思わず「お代わりは必要ですか?」と口にする。
「ええ、お願いするわ」
差し出されたグラスを受け取り、もう一度果実水を注いでいく。揺れる馬車の中で雫を飛ばすことなく水を注ぐ程度の芸当なら、オリヴィアには余裕だった。そこらのやわな執事やメイドとはそもそもの鍛え方が違うのだ。
ルーシェリアはその様子をじっと見つめている。オリヴィアが果実水を注ぎ終わったタイミングで手を差し出せば、その手に寸分の狂いなくグラスが収まった。手に触れることもなく、かといって粗雑な渡し方でもない。お手本のようなグラスの受け渡しである。
「姫、少々御前より失礼致します」
ルーシェリアにグラスを渡すのとほぼ同時にオリヴィアが口を開く。オリヴィアのイヤーカフがその動きに合わせ、しゃらしゃらと揺れて音を立てた。
「あら。どうしたの?」
年相応の無邪気な笑みを浮かべるルーシェリアに対してどこまでも生真面目な表情を崩さぬまま、オリヴィアは馬車の外にある御者台へ続く小さな扉に手をかけた。振り向きざま、不敬と言われても反論の余地がないほどぶっきらぼうに言葉を返す。
「姫の御前でこのようなことを申し上げるのは大変恐縮ですが、魔物の気配がいたしましたので。方角的に帰路にあたりますので、少々露払いを致します」
言葉だけは丁寧に、御者台へブーツを履いた華奢な足を出す。その様子を見たルーシェリアはたった一言「そう」とだけ呟くと、うすら寒さすら感じるほど美しく微笑んだ。ぞっとするほど甘く優しげな声色でルーシェリアは告げる。
「傷をつけては嫌よ」
「はっ」
短く返答を返したオリヴィアはするりと御者台へ体を滑らせる。姫直々に六頭立ての馬車を任されている御者はオリヴィアが現れたのを見るとやはりか、と言いたげに短くため息をついた。無論ルーシェリアの直属の御者なので、オリヴィアとも顔見知りである。四十手前の人の良い顔に渋い表情を浮かべた彼に対してぺこりと頭を下げた。
「面目ないですが、魔物払いに足がいるので一頭お借りしますよ」
「相変わらず無茶するよなあ、オリヴィア? お前さんは平気かもしれないが、こいつらにはあんまり無茶させないでやってくれよ」
「……善処します」
「俺の生まれ故郷じゃな、その返事は後ろ向きな意味になるんだぜ」
軽口を叩きながらも御者は手早く六頭のうちの一頭、黒鹿毛の馬の手綱をほどいてオリヴィアに手渡す。素早く視線を向ければ、以前魔物討伐の際に借りた若い雄だと分かった。魔物の気配を察知してどことなく落ち着かない他の五頭に比べて、明らかに威勢が良い。手綱を引けば待ってましたとばかりにオリヴィアのほうを見つめてくる。
「なるほど、確かに露払いの足にはもってこいの肝の太さですね」
軽く自身の側に手綱を引けば、心得たという調子で黒鹿毛は馬車の隣、ちょうどオリヴィアが飛び乗れる程度の距離につけた。とんっと御者台を蹴って馬の背に飛び乗る。勢いよく飛び乗ったものの、オリヴィアのような少女が全体重をかけたところで馬はびくともしなかった。それどころか機嫌よく低い音で「グルグル」と唸ると十時の方角に首を向ける。そちらはまさしくオリヴィアが魔物の気配ありと判断した方角であった。聡い馬だと感心し、首元をなでてやる。
まさしく城へ帰る方角であり、数キロ進むと城の手前にちょっとした村がある場所だ。そんなところに魔物をのさばらせていては、オリヴィアの近衛長としての名が廃る。そもそもその道を安全に通れるようにしなければ、オリヴィアがルーシェリアの護衛を任されている意味自体がないのだ。
「“傷をつけるな”ですか。難解な指示をお出しになる」
すらり、腰のホルダーから愛用の片手剣を引き抜く。柄に髪と同色の橙色をした宝玉を埋め込んであるその剣は、太陽の光を反射して煌めいている。
「では御者殿、先に行って参りますので」
「おー、気をつけてな、オリヴィア嬢」
「では。……さ、しっかりと頼みますよ!」
わき腹をブーツで叩けば黒鹿毛は景気よく走り出した。硬い蹄が地面を叩くたびに少し湿った土が後ろに舞う。
ちらりと馬車のほうを見やったオリヴィアは馬車の小窓が小さく開いていることに気づいた。目を凝らすまでもない、その小さな窓からは美しい海の瞳がこちらを見ているに決まっているのだから。手腕を見せろと言いたげに目を細めるルーシェリアの姿が瞼の裏にありありと浮かんでくる。オリヴィアは誰にも見られていないのをいいことに唇をゆがめるようにして笑った。
「黒いの、存分に駆けてちょうだいね」
幾分砕けた口調で馬に語りかける。返事はないが、彼の縦長の耳はきちんとオリヴィアのほうに反応を示した。その証拠にぐんぐんと黒鹿毛は馬車との距離を引き離し、単身で道を駆けていく。整備された道を少し外れて最短距離で目的の場所へ向かう。
果たして、それはそこにいた。
漆黒の巨大な体躯。クマやゾウといった動物の比ではない大きさのそれは、駆けてくる黒鹿毛の足音に反応したのか上空で旋回してこちらを見据えた。興奮した様子でそれが吼える。その動きに合わせて、ぬらぬらと粘液をまとったような薄気味悪い光沢をもつ鱗に太陽の光が反射した。通常であればありえないほど巨大に育ったその生き物の姿に思わず言葉がこぼれる。
「ブラックワイバーン……?」
片手剣を正位置で構えながら、オリヴィアはわずかに小首をかしげる。本来この地域において、そもそも種族数が少ないブラックワイバーンはおろか、ワイバーン種事態が出現することはまれだ。理由は単純で、彼らの主だった餌である豚の類が大陸の北方にあるオフスダールには少ないからである。餌がない地域に野生のワイバーンが出現するのは群れを追われたはぐれものが人里に紛れ込んだ場合か。
(あるいは、人為的に放たれたか)
頭の中で浮かんだ考えを助長させるようにブラックワイバーンの首元で何かが光る。黒い鱗に紛れて分かりづらいが、おそらく石……それも魔石だろう。その術式なら魔術方面に明るくないオリヴィアでも知っている。首元に黒の魔石を埋め込めば、その相手を意のままに懐柔することができるのだ。人だろうとワイバーンのような魔物だろうと関係ない。
そのことを踏まえれば、目の前の巨大なブラックワイバーンがこんなところに現れた意味も明白になる。誰かが、あるいはどこかの国が、オフスダールを危険にさらすために放ったのだ。こんなことをしそうな人も国も、思い当たる節ならいくらでもある。だが、それを考えるよりも先にオリヴィアの右手は柄を力強く握りしめていた。
「つまりは、あれを壊せば問題はないんでしょ」
誰に聞こえるわけでもないがそう呟き、唇がめくれ上がるほど笑う。笑みは、先ほどまでルーシェリアの前にいた時の楚々とした印象を吹き飛ばすほどに凶悪そうであった。
「黒いの、正面から行くわよ!」
黒鹿毛の蹄が声にこたえるように一層強く地面を蹴る。その反動で勢いよく放り出されたオリヴィアの小さな体にブラックワイバーンは容赦なくかぎづめを振り下ろそうとした。
キン、と上空で金属音が弾ける。ブラックワイバーンの爪を片手で受け流したオリヴィアは、その力を利用して再度標的に迫った。目前に現れた人間に驚いたワイバーンは体勢を立て直そうと必死に翼をはばたかせる。
「遅い」
だがそれをオリヴィアは許さない。
陽光を受けた彼女の髪が風にあおられて舞った。右手に握られた剣が光を乱反射しながら振り上げられる。オリヴィアの視界には、どこかほっとしたような瞳のブラックワイバーンだけが映っていた。
◆ ◆ ◆
「あんなにあっさり勝たれちゃつまんないよ」
ぶうっと頬を膨らませてルーシェリアはそう言った。相当砕けた口調だが、彼女の目の前にいる武装を解いたオリヴィアはそちらをちらりと見やるだけだ。馬車の前で見せたような恭しさも丁重さもそこにはない。ただの年下の少女に向ける、面倒くささから関わり合いになりたくなさそうな表情だけが彼女の顔に浮かんでいる。ねえねえ、とルーシェリアがオリヴィアの服の裾を引く。そうしてようやくオリヴィアは彼女にきちんと向き直った。
「ルーチェはそうだろうけど、御者殿が気の毒よ。巻き込まれないように速度を調整しながら、あんたに見えるように走らなきゃいけないんだから」
「それがあの人の仕事だろう? わたしは何も言っていないよ」
「そう思ってるならもう少し装備を整えさせてやりなさいよ。あんな普通の服装でブラックワイバーンに襲われないように逃げろだなんて、狂人の指示だわ」
主君でありオフスダールの唯一無二の姫君を相手にしていながらオリヴィアの口調は非常にぞんざいだった。敬語の類は消え失せ、発言に棘すら含まれる。そのうえルーシェリアを「ルーチェ」と愛称で呼ぶ。一般の護衛騎士であればこのどちらかをするだけで、あるいはそれを匂わせるだけで物理的に首が飛んだことだろう。しかし、オリヴィアはそんなものを気にも留めない。
「“傷をつけるな”って指示をしたの。あんた、あそこにアレがいるのを知ってたんでしょ?」
ルーシェリアは答えない。その代わりに月のかんばせに深い笑みを浮かべた。その表情が答えである。オリヴィアは預かり知らぬところだが、彼女は犯人に確証を持っているのだろう。もしかしたらもう処罰まで済ませているのかもしれない。
はじめ、“傷をつけるな”という指示は“ルーシェリア及び馬車に傷をつけるな”という内容かと思っていた。だが、そもそも彼女の仕事は姫君の護衛である。そんな指示を出されずとも彼女の無傷は最優先事項として挙げられる。擦り傷一つつけようものなら容赦なく首を言い渡されることだろう。それならば何故そんな言い回しをしたのか。ルーシェリアが事前に“術式を施された魔物がいる”という情報を握っていたのなら、オリヴィアがそのことに気づくかどうかを試して見学していたのだろう。そう思えばやたらと楽しそうにふるまっていたのにも合点がいく。
「……性格が悪いわ」
「わたしの騎士がどれほど使えるか、見ておきたいだろ」
少年のような口調でルーシェリアは言い、子供のように笑んだ。普段は冷徹に見えるほど美しく笑う彼女の素の笑い方がこれだと知ったら、国民はもちろんのことながら城内でもちょっとしたパニックが起こるだろう。少女というよりも少年というほうがしっくりくる性格。月の姫の異名が泣くな、とオリヴィアはぼんやり思った。
「外ではあんなにお優しい姫君で通ってるのに、こうやって部下を試して遊ぶような性悪なところがあるなんてね。国民が知ったら泣いて嫌がるわ」
「おや、そんなことで泣くような弱い人間はオフスダールにいらないよ。それでもわたしについてきたいと思うやつだけがわたしの統治についてきたらいいのさ」
「ハァ……本当に性悪だわ」
額に手をつき、やれやれと首を振る。この二重人格かと疑うほどオンとオフの激しい姫君に仕えて早幾年。オリヴィアは未だに彼女の切り替えの早さについていきづらい時がある。もちろんオリヴィアとて外にいるときはルーシェリアに対して最大限に配慮して敬意を払うようにしていても、他者のいない場所ではこういった反応をしているため、人のことをとやかく言うことはできないのだが。
そのオリヴィアの手をルーシェリアはそっと掴む。白魚のようなひやりとした手の感覚に一瞬眉根を寄せたが、すぐさま平静を装った。
「なに?」
「わたしの可愛い騎士がご機嫌を損ねているようだから、少しばかり褒美でもあげようかと思って」
そう言いながらルーシェリアは掴んだオリヴィアの手を自身の頬に寄せた。手が軽く頬に触れる。上質のシルクにも似たさらりとした肌触りはとうにオリヴィアの手から失われた美しさであった。甘えるように数度、ルーシェリアは彼女の手に触れる。
「ルーチェ、これがご褒美のつもり?」
「おや、これじゃ足りないかな」
長い睫毛に縁どられた海色が、じっとオリヴィアを見上げる。ただ見上げられただけだというのにオリヴィアの頬にカッと血が上った。その様を見たルーシェリアは満足そうに目を細める。
「ご満足いただけたようで、何よりだね?」
勢いよく顔をそらしたオリヴィアにけらけらと笑いながらルーシェリアはそう言葉をかけた。先ほどまでの余裕はどこへやら、顔を真っ赤にしたオリヴィアは諸悪の根源をジトリとした目で見る。
いったいこの国の誰が、ルーシェリアがこんな悪戯をすると知っているだろうか。おそらく父母である現王や妃も知らないことだろう。国民に至ってはこんな姿を見た瞬間に舌を噛んで死ぬ奴が出るかもしれない。
浮世離れした美しさをたたえ建国の祖の再来と謳われるほど聡明な月の姫、ルーシェリア・オフスダール。
「リヴィ、そんなに睨まないでよ。可愛い恋人のお茶目だろう?」
「ルーチェがやると可愛げよりも別のものが際立つのよ!」
彼女の恋人が花の騎士と称される年上の護衛騎士であるということは、未だ世界でたった二人しか知らない秘密である。
雪のように透き通る白い肌、凪いだ海を思わせる青い瞳に、限りなく黒に近い濃紺の髪。手折ることができそうなほど細く小柄な体躯ながら、父王を助け国務にあたる姫君は市政へ目をかけることも欠かさない。孤児院、貧民街、工業地帯と、高位の人間であればまず近寄らないような場所にも積極的に足を運んでは慈しみの言葉をかけていく。無論見学だけ、言葉がけだけで終わるというようなことはなく、問題があると判断すればすぐさま父王の名の下で改革を行う。
国民たちがそのような彼女に対して深い愛情と尊敬の念を抱くのは至極当然のことであった。彼女を建国の祖、賢王アレクサンドル・オフスダールの再来であると評する人物も少なくない。もちろん現王の統治に問題があるというわけではないが、その統治のわずかな穴を的確に埋めていくかの姫君の政治能力は歴代の王と比較しても頭一つ抜けている。「姫君がいらっしゃる限りオフスダールは安泰だ」とはこの国の宰相の言だ。本人もオフスダールを離れるつもりは毛頭なく、しかるべき時が来ればしかるべき相手を婿にとり、女王となる予定である。
姫の名を、ルーシェリア・オフスダール。御年十二歳の姫君の御姿を知らぬ者は国内にはいないだろう。
また、彼女に付き従う護衛騎士の姿も姫君と同様に知らぬ者はほとんどいない。
程よく小麦色に焼けた肌、星を閉じ込めた金の瞳に、南方の果実のような橙の髪。まだ少女と言って差し支えない年齢の彼女はオフスダール王族が所有する近衛兵の長である。片手剣を自得意とする彼女は、大人の男が五人がかりでやっと倒すことができるワイバーンを単身で討伐できるほどの腕前を持つ女騎士。その実力を買われて彼女はオフスダール王国の王位継承者であるルーシェリアの護衛騎士となったのだ。現王からの信頼も厚く、また、ルーシェリア王女と連れ立って視察を行う楚々とした美しさは国民からの人気も高い。
騎士の名を、オリヴィア。オフスダールの守護の要と言っても過言ではない彼女は、ほんの十六歳の少女である。
「いきますよ、オリヴィア」
「はっ」
控えめながらもはっきりとした口調で声をかけられたオリヴィアはすっくと立ちあがると、慣れた手つきでルーシェリアの手を取り馬車のほうへ連れ立って歩いていく。触れることを躊躇うような美しき騎士を従える、壊れそうなほど冴え冴えとした美貌の姫。頭を下げ終わり、走り出した馬車をうっとりと眺めていた露店の店主は耐えかねたといった様子で呟いた。
「月の姫と花の騎士だなァ」
その声にあたりからも呆けたような溜息があがる。ともすれば過剰とも思われるような誉め言葉に対して誰も異論を唱えず、それどころか給仕の女性などは自身の息子に対して「お前はあのお方たちのおかげで元気に生活ができているのだよ」と諭している。
心優しく聡明な月のような美貌の姫と、姫に凛として付き従う花のような騎士。世間一般の彼女たちへの評価は、おおむねこのようなものである。
「本日の視察は特に問題ありませんでした。城に戻り次第、父上に視察内容を報告します」
「かしこまりました」
革のソファに深く座ったルーシェリアは窓の外をぼんやりと見ながらオリヴィアに告げる。馬車の中でルーシェリアの喉を潤すための果実水を用意していたオリヴィアはその手を止め、恭しく礼をした。本来であれば馬車を護衛する際、貴人との同乗は避けて馬で後から付いてくるべきである。しかしオリヴィアをいたく気に入っているルーシェリアは彼女に護衛ともメイドともつかない仕事をさせては近くに置こうとするのだ。オリヴィア自身も拒否をすることはないため、ルーシェリアとオリヴィアに関しては馬車への同乗等の密室での二人きりが黙認されている状態である。
差し出された果実水を優雅な手つきで受け取ったルーシェリアはそのままこくりこくりと飲み下す。北国とはいえ今の季節は夏。照り付けるような日差しがじりじりと地を焼き、反射した熱はか弱い少女の体力を容赦なく奪っていく。コップに注がれた果実水をすべて飲んだ姫君はふうっと長く息を吐いた。ようやくひと心地ついた、と言わんばかりの様子にオリヴィアは思わず「お代わりは必要ですか?」と口にする。
「ええ、お願いするわ」
差し出されたグラスを受け取り、もう一度果実水を注いでいく。揺れる馬車の中で雫を飛ばすことなく水を注ぐ程度の芸当なら、オリヴィアには余裕だった。そこらのやわな執事やメイドとはそもそもの鍛え方が違うのだ。
ルーシェリアはその様子をじっと見つめている。オリヴィアが果実水を注ぎ終わったタイミングで手を差し出せば、その手に寸分の狂いなくグラスが収まった。手に触れることもなく、かといって粗雑な渡し方でもない。お手本のようなグラスの受け渡しである。
「姫、少々御前より失礼致します」
ルーシェリアにグラスを渡すのとほぼ同時にオリヴィアが口を開く。オリヴィアのイヤーカフがその動きに合わせ、しゃらしゃらと揺れて音を立てた。
「あら。どうしたの?」
年相応の無邪気な笑みを浮かべるルーシェリアに対してどこまでも生真面目な表情を崩さぬまま、オリヴィアは馬車の外にある御者台へ続く小さな扉に手をかけた。振り向きざま、不敬と言われても反論の余地がないほどぶっきらぼうに言葉を返す。
「姫の御前でこのようなことを申し上げるのは大変恐縮ですが、魔物の気配がいたしましたので。方角的に帰路にあたりますので、少々露払いを致します」
言葉だけは丁寧に、御者台へブーツを履いた華奢な足を出す。その様子を見たルーシェリアはたった一言「そう」とだけ呟くと、うすら寒さすら感じるほど美しく微笑んだ。ぞっとするほど甘く優しげな声色でルーシェリアは告げる。
「傷をつけては嫌よ」
「はっ」
短く返答を返したオリヴィアはするりと御者台へ体を滑らせる。姫直々に六頭立ての馬車を任されている御者はオリヴィアが現れたのを見るとやはりか、と言いたげに短くため息をついた。無論ルーシェリアの直属の御者なので、オリヴィアとも顔見知りである。四十手前の人の良い顔に渋い表情を浮かべた彼に対してぺこりと頭を下げた。
「面目ないですが、魔物払いに足がいるので一頭お借りしますよ」
「相変わらず無茶するよなあ、オリヴィア? お前さんは平気かもしれないが、こいつらにはあんまり無茶させないでやってくれよ」
「……善処します」
「俺の生まれ故郷じゃな、その返事は後ろ向きな意味になるんだぜ」
軽口を叩きながらも御者は手早く六頭のうちの一頭、黒鹿毛の馬の手綱をほどいてオリヴィアに手渡す。素早く視線を向ければ、以前魔物討伐の際に借りた若い雄だと分かった。魔物の気配を察知してどことなく落ち着かない他の五頭に比べて、明らかに威勢が良い。手綱を引けば待ってましたとばかりにオリヴィアのほうを見つめてくる。
「なるほど、確かに露払いの足にはもってこいの肝の太さですね」
軽く自身の側に手綱を引けば、心得たという調子で黒鹿毛は馬車の隣、ちょうどオリヴィアが飛び乗れる程度の距離につけた。とんっと御者台を蹴って馬の背に飛び乗る。勢いよく飛び乗ったものの、オリヴィアのような少女が全体重をかけたところで馬はびくともしなかった。それどころか機嫌よく低い音で「グルグル」と唸ると十時の方角に首を向ける。そちらはまさしくオリヴィアが魔物の気配ありと判断した方角であった。聡い馬だと感心し、首元をなでてやる。
まさしく城へ帰る方角であり、数キロ進むと城の手前にちょっとした村がある場所だ。そんなところに魔物をのさばらせていては、オリヴィアの近衛長としての名が廃る。そもそもその道を安全に通れるようにしなければ、オリヴィアがルーシェリアの護衛を任されている意味自体がないのだ。
「“傷をつけるな”ですか。難解な指示をお出しになる」
すらり、腰のホルダーから愛用の片手剣を引き抜く。柄に髪と同色の橙色をした宝玉を埋め込んであるその剣は、太陽の光を反射して煌めいている。
「では御者殿、先に行って参りますので」
「おー、気をつけてな、オリヴィア嬢」
「では。……さ、しっかりと頼みますよ!」
わき腹をブーツで叩けば黒鹿毛は景気よく走り出した。硬い蹄が地面を叩くたびに少し湿った土が後ろに舞う。
ちらりと馬車のほうを見やったオリヴィアは馬車の小窓が小さく開いていることに気づいた。目を凝らすまでもない、その小さな窓からは美しい海の瞳がこちらを見ているに決まっているのだから。手腕を見せろと言いたげに目を細めるルーシェリアの姿が瞼の裏にありありと浮かんでくる。オリヴィアは誰にも見られていないのをいいことに唇をゆがめるようにして笑った。
「黒いの、存分に駆けてちょうだいね」
幾分砕けた口調で馬に語りかける。返事はないが、彼の縦長の耳はきちんとオリヴィアのほうに反応を示した。その証拠にぐんぐんと黒鹿毛は馬車との距離を引き離し、単身で道を駆けていく。整備された道を少し外れて最短距離で目的の場所へ向かう。
果たして、それはそこにいた。
漆黒の巨大な体躯。クマやゾウといった動物の比ではない大きさのそれは、駆けてくる黒鹿毛の足音に反応したのか上空で旋回してこちらを見据えた。興奮した様子でそれが吼える。その動きに合わせて、ぬらぬらと粘液をまとったような薄気味悪い光沢をもつ鱗に太陽の光が反射した。通常であればありえないほど巨大に育ったその生き物の姿に思わず言葉がこぼれる。
「ブラックワイバーン……?」
片手剣を正位置で構えながら、オリヴィアはわずかに小首をかしげる。本来この地域において、そもそも種族数が少ないブラックワイバーンはおろか、ワイバーン種事態が出現することはまれだ。理由は単純で、彼らの主だった餌である豚の類が大陸の北方にあるオフスダールには少ないからである。餌がない地域に野生のワイバーンが出現するのは群れを追われたはぐれものが人里に紛れ込んだ場合か。
(あるいは、人為的に放たれたか)
頭の中で浮かんだ考えを助長させるようにブラックワイバーンの首元で何かが光る。黒い鱗に紛れて分かりづらいが、おそらく石……それも魔石だろう。その術式なら魔術方面に明るくないオリヴィアでも知っている。首元に黒の魔石を埋め込めば、その相手を意のままに懐柔することができるのだ。人だろうとワイバーンのような魔物だろうと関係ない。
そのことを踏まえれば、目の前の巨大なブラックワイバーンがこんなところに現れた意味も明白になる。誰かが、あるいはどこかの国が、オフスダールを危険にさらすために放ったのだ。こんなことをしそうな人も国も、思い当たる節ならいくらでもある。だが、それを考えるよりも先にオリヴィアの右手は柄を力強く握りしめていた。
「つまりは、あれを壊せば問題はないんでしょ」
誰に聞こえるわけでもないがそう呟き、唇がめくれ上がるほど笑う。笑みは、先ほどまでルーシェリアの前にいた時の楚々とした印象を吹き飛ばすほどに凶悪そうであった。
「黒いの、正面から行くわよ!」
黒鹿毛の蹄が声にこたえるように一層強く地面を蹴る。その反動で勢いよく放り出されたオリヴィアの小さな体にブラックワイバーンは容赦なくかぎづめを振り下ろそうとした。
キン、と上空で金属音が弾ける。ブラックワイバーンの爪を片手で受け流したオリヴィアは、その力を利用して再度標的に迫った。目前に現れた人間に驚いたワイバーンは体勢を立て直そうと必死に翼をはばたかせる。
「遅い」
だがそれをオリヴィアは許さない。
陽光を受けた彼女の髪が風にあおられて舞った。右手に握られた剣が光を乱反射しながら振り上げられる。オリヴィアの視界には、どこかほっとしたような瞳のブラックワイバーンだけが映っていた。
◆ ◆ ◆
「あんなにあっさり勝たれちゃつまんないよ」
ぶうっと頬を膨らませてルーシェリアはそう言った。相当砕けた口調だが、彼女の目の前にいる武装を解いたオリヴィアはそちらをちらりと見やるだけだ。馬車の前で見せたような恭しさも丁重さもそこにはない。ただの年下の少女に向ける、面倒くささから関わり合いになりたくなさそうな表情だけが彼女の顔に浮かんでいる。ねえねえ、とルーシェリアがオリヴィアの服の裾を引く。そうしてようやくオリヴィアは彼女にきちんと向き直った。
「ルーチェはそうだろうけど、御者殿が気の毒よ。巻き込まれないように速度を調整しながら、あんたに見えるように走らなきゃいけないんだから」
「それがあの人の仕事だろう? わたしは何も言っていないよ」
「そう思ってるならもう少し装備を整えさせてやりなさいよ。あんな普通の服装でブラックワイバーンに襲われないように逃げろだなんて、狂人の指示だわ」
主君でありオフスダールの唯一無二の姫君を相手にしていながらオリヴィアの口調は非常にぞんざいだった。敬語の類は消え失せ、発言に棘すら含まれる。そのうえルーシェリアを「ルーチェ」と愛称で呼ぶ。一般の護衛騎士であればこのどちらかをするだけで、あるいはそれを匂わせるだけで物理的に首が飛んだことだろう。しかし、オリヴィアはそんなものを気にも留めない。
「“傷をつけるな”って指示をしたの。あんた、あそこにアレがいるのを知ってたんでしょ?」
ルーシェリアは答えない。その代わりに月のかんばせに深い笑みを浮かべた。その表情が答えである。オリヴィアは預かり知らぬところだが、彼女は犯人に確証を持っているのだろう。もしかしたらもう処罰まで済ませているのかもしれない。
はじめ、“傷をつけるな”という指示は“ルーシェリア及び馬車に傷をつけるな”という内容かと思っていた。だが、そもそも彼女の仕事は姫君の護衛である。そんな指示を出されずとも彼女の無傷は最優先事項として挙げられる。擦り傷一つつけようものなら容赦なく首を言い渡されることだろう。それならば何故そんな言い回しをしたのか。ルーシェリアが事前に“術式を施された魔物がいる”という情報を握っていたのなら、オリヴィアがそのことに気づくかどうかを試して見学していたのだろう。そう思えばやたらと楽しそうにふるまっていたのにも合点がいく。
「……性格が悪いわ」
「わたしの騎士がどれほど使えるか、見ておきたいだろ」
少年のような口調でルーシェリアは言い、子供のように笑んだ。普段は冷徹に見えるほど美しく笑う彼女の素の笑い方がこれだと知ったら、国民はもちろんのことながら城内でもちょっとしたパニックが起こるだろう。少女というよりも少年というほうがしっくりくる性格。月の姫の異名が泣くな、とオリヴィアはぼんやり思った。
「外ではあんなにお優しい姫君で通ってるのに、こうやって部下を試して遊ぶような性悪なところがあるなんてね。国民が知ったら泣いて嫌がるわ」
「おや、そんなことで泣くような弱い人間はオフスダールにいらないよ。それでもわたしについてきたいと思うやつだけがわたしの統治についてきたらいいのさ」
「ハァ……本当に性悪だわ」
額に手をつき、やれやれと首を振る。この二重人格かと疑うほどオンとオフの激しい姫君に仕えて早幾年。オリヴィアは未だに彼女の切り替えの早さについていきづらい時がある。もちろんオリヴィアとて外にいるときはルーシェリアに対して最大限に配慮して敬意を払うようにしていても、他者のいない場所ではこういった反応をしているため、人のことをとやかく言うことはできないのだが。
そのオリヴィアの手をルーシェリアはそっと掴む。白魚のようなひやりとした手の感覚に一瞬眉根を寄せたが、すぐさま平静を装った。
「なに?」
「わたしの可愛い騎士がご機嫌を損ねているようだから、少しばかり褒美でもあげようかと思って」
そう言いながらルーシェリアは掴んだオリヴィアの手を自身の頬に寄せた。手が軽く頬に触れる。上質のシルクにも似たさらりとした肌触りはとうにオリヴィアの手から失われた美しさであった。甘えるように数度、ルーシェリアは彼女の手に触れる。
「ルーチェ、これがご褒美のつもり?」
「おや、これじゃ足りないかな」
長い睫毛に縁どられた海色が、じっとオリヴィアを見上げる。ただ見上げられただけだというのにオリヴィアの頬にカッと血が上った。その様を見たルーシェリアは満足そうに目を細める。
「ご満足いただけたようで、何よりだね?」
勢いよく顔をそらしたオリヴィアにけらけらと笑いながらルーシェリアはそう言葉をかけた。先ほどまでの余裕はどこへやら、顔を真っ赤にしたオリヴィアは諸悪の根源をジトリとした目で見る。
いったいこの国の誰が、ルーシェリアがこんな悪戯をすると知っているだろうか。おそらく父母である現王や妃も知らないことだろう。国民に至ってはこんな姿を見た瞬間に舌を噛んで死ぬ奴が出るかもしれない。
浮世離れした美しさをたたえ建国の祖の再来と謳われるほど聡明な月の姫、ルーシェリア・オフスダール。
「リヴィ、そんなに睨まないでよ。可愛い恋人のお茶目だろう?」
「ルーチェがやると可愛げよりも別のものが際立つのよ!」
彼女の恋人が花の騎士と称される年上の護衛騎士であるということは、未だ世界でたった二人しか知らない秘密である。
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