新生編
「お前は、ここ、出たほうがいい」
久方ぶりに聞いた幼馴染、バヤルの低い声にニーナはぎょっとした。理由は単純明快で、彼らは“沈黙の民”、ケスティルの者だからである。言葉こそが嘘の源であるとするこの部族では言語の使用は好まれない。事実、ニーナ自身も幼少期は声という概念を知らず、再会の市への出入りが許可されるようになり他部族のアウラたちと接するようになってからようやく言葉を学んだほどである。それほど言語から切り離された生活をしていたのに、唐突に言葉をかけられれば驚くなというほうが無理な話だ。
「どういうこと」
低く小さく、周りの人々には聞こえないくらいの声で問う。バヤルはそれには答えず、静かにニーナの左手を取った。ニーナは針仕事をする手を止めて彼のほうに近づく。言葉はなくともこれくらいすぐに分かる。聞かれると——否、察されるとまずいから場所を変えようという提案だ。
草原を少し進み、小高い丘に向かう。道行きですれ違う他部族の民たちが人のよさそうな笑みで挨拶をしてくれるから、ニーナも嬉しくなってそれに倣った。その様子をじっとバヤルが見ていることに気づいていたが、その目から感情が読み取れない。その様子に少々不安を感じながら、しかしバヤルに限ってこちらの不利益になることはしないだろうと考えなおしてそのままついていく。
丘の上には誰もいない。バヤルは注意深くあたりを見回し、危険がないことを確認してから腰を下ろす。彼に手を引かれているニーナも同じように座った。少し離れたところに再会の市が見える。活気ある様子にニーナが顔をほころばせていると、バヤルが真剣な顔でこちらを見ていることに気づいた。
何、と目で問う。バヤルは繋いでいた手を離すとニーナの頭を軽く撫でた。怖い話ではないぞと伝えるそれにニーナは少し肩の力を抜く。しかし、お説教の類でないならなんだというのか。目で疑問を唱えると、バヤルは息を吐くように笑った。
「俺、は。ニーナは、きっと、たくさんの人と、交流するが、いいと思う。そのため、に、ここを出て、広い、世界、知るのがいい」
行動ではなかなか伝わらないようなその考えを、ニーナはじっと聞いていた。バヤルが何故今、こんなに言葉を尽くしているのかが理解できない。よもや、自分を嫌いになったあまり常ならぬ理由をつけて遠ざけたいのだろうかという思いすら浮かんでくる。
怪訝な顔をしていたのだろう、ニーナの眉間にバヤルが人差し指を当てて何度か擦った。鱗のあたりをやわやわと押されて少しばかり顔のこわばりが取れたような気がする。
どうして、と問うた。どうして急にそんなことを言うの、と。
ニーナはつい先日十七になったところだ。ケスティルの女性としてはまだ完全に独り立ちをするような歳でもないし、そもそもまだ成人の儀も終わっていない。針仕事と料理を覚えている最中で、一人で生きる術さえ身についていないというのに、草原を出ろとは何事か。ましてや交流のために世界を知れ、と?
そう伝えればバヤルはまたくしゃりと笑う。困ったような笑いだった。
「朝の瞳、夕の瞳」
バヤルがそう言ってニーナの右目と左目を指す。
ニーナの瞳は部族の中でも珍しく左右で色が異なっており、それが朝の空と夕の空に似た色だったのでそう呼ばれているのだった。ニーナの両親は彼女の瞳を美しいと称してくれたが……周囲の人すべてがそれを容認しているわけではないことをニーナ自身がよく知っている。
バヤルは他と異なるものを排しようとする同年代の子供たちの中でも稀有な、ニーナの理解者だった。少し年上で体が大きくなるのも早かった彼は、幼馴染でありながら実の兄のような近さでニーナを見守ってくれた。間違いなく、ニーナが今こうして何事もなく部族の中で生活できている要因の一つである。
お前は美しい、とバヤルが伝えてきた。きょとんとするニーナの方に向き直る。
ニーナ、お前は美しい。朝の瞳と夕の瞳も、立ち居振る舞いも、声も美しい。苦手な料理と裁縫に挑む姿勢も美しいし、外の商人が持ち込んだ書物を嬉しそうに見る様も美しい。
バヤルは続ける。
しかし、美しいことは他と異なるということだ。お前の美しさを美しいと称さず、忌避する者も少なからずいるだろう。その時、お前は、お前自身の力で自分を守らなければならないのだ。
ニーナはその言葉にそっと鳩尾のあたりを押さえた。自分の力で自分を守る、というのはケスティルに限らず、多くのゼラの部族に言えることである。戦いが生活と密接に関係しているゼラの部族において、守る力がないというのは致命的だ。
そういう点で、ニーナは“致命的な”ゼラの子であった。顔立ちや髪の色は親に似たものの、瞳の色は他と大きく異なり、また体も同年代の子供と比べて小さい。気質も穏やかで、どちらかと言えば人見知りをするほどだ。自身を排そうとする相手と到底渡り合うことなどできず、いつも周りの大人やバヤルを頼って問題を解決してきた。自分の力で誰かと戦うことなどそもそも考えにないような性格が悪いのだと、仲の良くない相手はしきりに伝えてきたものだが……。
どうして急にそんなことを言うの。
ニーナはそれでも、ほんの少し甘えた気持ちで問う。そりゃあ確かに、ニーナは一人前には程遠い。でも徐々に周りの人たちはニーナの性質を理解し始めてくれたし、外の人と交流するだけなら再会の市に出入りしていればいい。何より両親やバヤルがいる、このなじみ深い場所を出ていく心づもりなどどこにもなかった。
ただ、その問いにバヤルは首を横に振った。先ほどまでより幾分険しい表情でバヤルは口を開く。
「結婚する。俺は、部族を、離れるんだ」
がんと頭を殴られたような衝撃。連動して口がぽかりと開く。
誰が? 誰と? 何をするって?
呆けたニーナに苦笑し、バヤルはもう一度ゆっくり同じ言葉を繰り返した。
曰く、再会の市で出会った相手なのだという。“鳥の民”と名高いカッリ族の女性だそうだ。美しい声の彼女と恋に落ちたバヤルは、“言葉は噓の温床である”という一族の信念と、言葉を愛する彼女との未来を天秤にかけ、後者を選んだ。そうなった以上、もうケスティル族にはいられないから、彼女の部族であるカッリ族へ移動するらしい。
おめでとう、と伝えるよりも混乱が勝ってしまう。おろおろとするニーナの頭をもう一度バヤルの手が撫でた。
「物理的に、お前の、隣にいてやるのが、難しくなる。でも、そうなったとき、俺が、お前のために何ができるか、考えたんだ」
カッリの人と一緒にいたからだろうか、少しばかり饒舌なバヤルが言う。今まで行動を通じて伝えられてきた彼の思いやりが、音になってニーナの角に響いていく。
「俺にできる、のは、周りの人が、お前に伝えなかったことを、伝えることと、お前の背を、押してやることだ」
バヤルがじっとニーナを見る。
ニーナは——驚愕していた。“言葉は嘘の温床”であるはずなのに、バヤルの言葉は真摯だったし、角に響く音の一つ一つがニーナを案じている。部族の信条をひっくり返すような、嘘偽りのない言葉が目の前にあった。
「ニーナ。行動だけ、が、真実を伝える、方法じゃない、かもしれない。少なくとも、俺は、言葉でも、俺の思いが、お前に、伝えられている、と思っている」
一年が半分進み、その言葉がニーナの中に深く染みついたころ、バヤルは何事もなかったかのようにケスティルの村からいなくなった。結婚のために村を出たということを知っているのはニーナとバヤルの両親だけのようで、村の中は一時的に混乱したものの、すぐにそれもなくなっていく。声がなければ噂もないから、バヤルの話をする者もいない。彼がいたという痕跡が丸ごと消えうせたようなそれに、ニーナは確かに寂しさを感じた。
こういうとき、誰かと語り合えたら寂しさはまぎれるのかしら。
ニーナはため息をつく。言葉のない村に何とも言えぬ感情を抱いたのは初めてだった。
「あれ、お姉さん」
ふいにかけられた声にニーナは振り向く。そこにいたのは再会の市に出入りしている他種族の——ミコッテという種族の——青年だった。確かモベットという名前だったか。年に何度かこの市を訪れる彼とは数度言葉を交わしていた。「お姉さん、この市の人だけど親切に話してくれてうれしいよ」と言われたのがなんだか嬉しくて、見かけるたびに彼に寄って行っていたのだが、今日は向こうの方が見つけるのが早かったらしい。
軽く手を上げて挨拶すれば軽快な動きで駆け寄ってくる。同族の男よりははるかに小柄な、けれどニーナよりは幾分か背の高い彼はニーナの前に立つと、おや、と首を傾げた。
「なんだか……元気がないね。何かあったのかい?」
言い当てられてドキリとする。行動ですべてを伝えて生きてきた分、他の部族と比べてもケスティルの意思は外に伝わりやすい。それでも外では隠せていると思っていたのだが。
もじもじと口ごもったニーナを不思議そうに見たモベットは一度きょろりと視線を泳がせると、「荷物もあるから、あっちで何があったかゆっくり話してもらえないかな」といつかニーナがバヤルと会話した丘の方を指した。少しためらった後ニーナは頷き、あの時とは違う二人で丘に向かう。
丘についてからもモベットは特に何も言わなかった。急かすでもなく飽きるでもなく、ごく自然な様子でいる。おいしかったからおすそ分けだ、と木の実のジュースをニーナに持たせてじっと言葉を待っていた。
「幼馴染が、結婚して村を出て……」
語りだす。バヤルのこと、バヤルに言われたこと、彼がいなくなってから感じたこと。すべてを言葉にのせて伝える。ケスティルの村にいれば互いに通じ合うそれも、外から来た商人の彼には一つずつ言葉にしないと伝わらない。時折細かな部分への質問はあったものの、モベットはニーナの言葉を反論することなく聞き続けた。語り終えて、ニーナが口を閉じてからたっぷり十数秒。モベットがようやく自発的に口を開く。
「それで……お姉さんは、これからどうしたいのかな」
「どう、って……」
「バヤルさんは、自分がいなくなってもお姉さんが自分を守れるようになってほしいってそう言ったんでしょう。お姉さんはそれを聞いて、どうしたいって思ったの」
モベットの言葉にニーナはきゅっと下唇を噛む。どうしたい、に対する答えは少し前からニーナの中にあった。けれど、それを表に出す機会もなければ勇気もない。口に出したが最後になるのではないかという予感があった。
それでもモベットはニーナをじっと見据える。言葉にしろと、自分に対して表明しろとその目が訴えているのがわかる。
「わたし、は……」
両親の顔が浮かぶ。ケスティルの村のみんなの顔が浮かぶ。このままここで過ごしたときに訪れるであろういつかの自分の顔が浮かぶ。針仕事と料理がそれなりにできる、それなりの母親になるだろう自分のことは十分に想像ができた。
お前の背を、押してやることだ。
バヤルの声が脳裏に響く。村に残る妹分に向けて彼が心を砕いてくれたのを、無駄にしていいのかという思いがニーナの唇を震わせる。
「私は……私も、自分の足で立てるようになりたい。でも、ここにいたら、きっと言い訳をして、甘えて、やらない理由をつける」
だから、と一度息を吸う。この先を言葉にしたら、ニーナの心の中だけの話ではなくなってしまう。外に意思を示すことへの恐怖感はあるが、それでも言わなければ。
「だから、私、ここを出てみたい。市に来てた人が言ってたの、もっと西の……エオルゼアってところは冒険者って職業があるんだって」
私、それになってみたい。
ニーナの告白をモベットは静かに聞いていた。小さな声で、「それはもう家族には?」と問われる。
「ううん。言ったら、止められるだろうし……」
「もし本気で冒険者になろうと思ってるなら、言っておいた方がいい。止められても、泣かれても、それでも行こうって覚悟がないと冒険者は務まらないよ」
いつになく強い語調にニーナは驚いてモベットを見やる。モベットは自分の声を恥じ入るように笑って、「僕もそうだから」と付け加えた。
「モベットさんは、商人なんじゃ……」
「元々は冒険者をしていてね。引退して商人の真似事をしてるんだ」
そう言ってモベットはいつも身に着けているかばんから一冊の本を取り出した。分厚く、独特な色のインクで記されたそれが魔導書と呼ばれるものだということはニーナも知っている。魔導書とモベットを交互に見ていると、モベットが再び口を開く。
「僕はエオルゼアにある都市のひとつ、海都リムサ・ロミンサからきた。もし、君が本心から覚悟を決めて冒険者になりたいと思っているなら……かつての同輩たちに君へ手ほどきをしてもらうよう頼むこともできる」
「え……」
「お姉さんは、本が好きそうだったから。冒険者の適性の一つに、巴術士といって魔導書と呪文詠唱を用いるものがあるんだ。お姉さんはケスティルの人だけど、市にいたからかな、発声も発音も一般的な人と変わりないし、きちんと勉強さえすればできると思うけど」
打消しの後の言葉をモベットは続けなかった。それでも彼の言いたいことは十二分に分かる。ニーナは緊張のあまり引きつる喉元に手をやり、必死の思いで声を発した。
「私は————……」
後に“救世の英雄”と呼ばれることになる冒険者、ニーナ・ケスティルが故郷のアジムステップより遥か西方に位置するエオルゼアが一都市、リムサ・ロミンサに降り立つのはこれからひと月ほど後のことである。
久方ぶりに聞いた幼馴染、バヤルの低い声にニーナはぎょっとした。理由は単純明快で、彼らは“沈黙の民”、ケスティルの者だからである。言葉こそが嘘の源であるとするこの部族では言語の使用は好まれない。事実、ニーナ自身も幼少期は声という概念を知らず、再会の市への出入りが許可されるようになり他部族のアウラたちと接するようになってからようやく言葉を学んだほどである。それほど言語から切り離された生活をしていたのに、唐突に言葉をかけられれば驚くなというほうが無理な話だ。
「どういうこと」
低く小さく、周りの人々には聞こえないくらいの声で問う。バヤルはそれには答えず、静かにニーナの左手を取った。ニーナは針仕事をする手を止めて彼のほうに近づく。言葉はなくともこれくらいすぐに分かる。聞かれると——否、察されるとまずいから場所を変えようという提案だ。
草原を少し進み、小高い丘に向かう。道行きですれ違う他部族の民たちが人のよさそうな笑みで挨拶をしてくれるから、ニーナも嬉しくなってそれに倣った。その様子をじっとバヤルが見ていることに気づいていたが、その目から感情が読み取れない。その様子に少々不安を感じながら、しかしバヤルに限ってこちらの不利益になることはしないだろうと考えなおしてそのままついていく。
丘の上には誰もいない。バヤルは注意深くあたりを見回し、危険がないことを確認してから腰を下ろす。彼に手を引かれているニーナも同じように座った。少し離れたところに再会の市が見える。活気ある様子にニーナが顔をほころばせていると、バヤルが真剣な顔でこちらを見ていることに気づいた。
何、と目で問う。バヤルは繋いでいた手を離すとニーナの頭を軽く撫でた。怖い話ではないぞと伝えるそれにニーナは少し肩の力を抜く。しかし、お説教の類でないならなんだというのか。目で疑問を唱えると、バヤルは息を吐くように笑った。
「俺、は。ニーナは、きっと、たくさんの人と、交流するが、いいと思う。そのため、に、ここを出て、広い、世界、知るのがいい」
行動ではなかなか伝わらないようなその考えを、ニーナはじっと聞いていた。バヤルが何故今、こんなに言葉を尽くしているのかが理解できない。よもや、自分を嫌いになったあまり常ならぬ理由をつけて遠ざけたいのだろうかという思いすら浮かんでくる。
怪訝な顔をしていたのだろう、ニーナの眉間にバヤルが人差し指を当てて何度か擦った。鱗のあたりをやわやわと押されて少しばかり顔のこわばりが取れたような気がする。
どうして、と問うた。どうして急にそんなことを言うの、と。
ニーナはつい先日十七になったところだ。ケスティルの女性としてはまだ完全に独り立ちをするような歳でもないし、そもそもまだ成人の儀も終わっていない。針仕事と料理を覚えている最中で、一人で生きる術さえ身についていないというのに、草原を出ろとは何事か。ましてや交流のために世界を知れ、と?
そう伝えればバヤルはまたくしゃりと笑う。困ったような笑いだった。
「朝の瞳、夕の瞳」
バヤルがそう言ってニーナの右目と左目を指す。
ニーナの瞳は部族の中でも珍しく左右で色が異なっており、それが朝の空と夕の空に似た色だったのでそう呼ばれているのだった。ニーナの両親は彼女の瞳を美しいと称してくれたが……周囲の人すべてがそれを容認しているわけではないことをニーナ自身がよく知っている。
バヤルは他と異なるものを排しようとする同年代の子供たちの中でも稀有な、ニーナの理解者だった。少し年上で体が大きくなるのも早かった彼は、幼馴染でありながら実の兄のような近さでニーナを見守ってくれた。間違いなく、ニーナが今こうして何事もなく部族の中で生活できている要因の一つである。
お前は美しい、とバヤルが伝えてきた。きょとんとするニーナの方に向き直る。
ニーナ、お前は美しい。朝の瞳と夕の瞳も、立ち居振る舞いも、声も美しい。苦手な料理と裁縫に挑む姿勢も美しいし、外の商人が持ち込んだ書物を嬉しそうに見る様も美しい。
バヤルは続ける。
しかし、美しいことは他と異なるということだ。お前の美しさを美しいと称さず、忌避する者も少なからずいるだろう。その時、お前は、お前自身の力で自分を守らなければならないのだ。
ニーナはその言葉にそっと鳩尾のあたりを押さえた。自分の力で自分を守る、というのはケスティルに限らず、多くのゼラの部族に言えることである。戦いが生活と密接に関係しているゼラの部族において、守る力がないというのは致命的だ。
そういう点で、ニーナは“致命的な”ゼラの子であった。顔立ちや髪の色は親に似たものの、瞳の色は他と大きく異なり、また体も同年代の子供と比べて小さい。気質も穏やかで、どちらかと言えば人見知りをするほどだ。自身を排そうとする相手と到底渡り合うことなどできず、いつも周りの大人やバヤルを頼って問題を解決してきた。自分の力で誰かと戦うことなどそもそも考えにないような性格が悪いのだと、仲の良くない相手はしきりに伝えてきたものだが……。
どうして急にそんなことを言うの。
ニーナはそれでも、ほんの少し甘えた気持ちで問う。そりゃあ確かに、ニーナは一人前には程遠い。でも徐々に周りの人たちはニーナの性質を理解し始めてくれたし、外の人と交流するだけなら再会の市に出入りしていればいい。何より両親やバヤルがいる、このなじみ深い場所を出ていく心づもりなどどこにもなかった。
ただ、その問いにバヤルは首を横に振った。先ほどまでより幾分険しい表情でバヤルは口を開く。
「結婚する。俺は、部族を、離れるんだ」
がんと頭を殴られたような衝撃。連動して口がぽかりと開く。
誰が? 誰と? 何をするって?
呆けたニーナに苦笑し、バヤルはもう一度ゆっくり同じ言葉を繰り返した。
曰く、再会の市で出会った相手なのだという。“鳥の民”と名高いカッリ族の女性だそうだ。美しい声の彼女と恋に落ちたバヤルは、“言葉は噓の温床である”という一族の信念と、言葉を愛する彼女との未来を天秤にかけ、後者を選んだ。そうなった以上、もうケスティル族にはいられないから、彼女の部族であるカッリ族へ移動するらしい。
おめでとう、と伝えるよりも混乱が勝ってしまう。おろおろとするニーナの頭をもう一度バヤルの手が撫でた。
「物理的に、お前の、隣にいてやるのが、難しくなる。でも、そうなったとき、俺が、お前のために何ができるか、考えたんだ」
カッリの人と一緒にいたからだろうか、少しばかり饒舌なバヤルが言う。今まで行動を通じて伝えられてきた彼の思いやりが、音になってニーナの角に響いていく。
「俺にできる、のは、周りの人が、お前に伝えなかったことを、伝えることと、お前の背を、押してやることだ」
バヤルがじっとニーナを見る。
ニーナは——驚愕していた。“言葉は嘘の温床”であるはずなのに、バヤルの言葉は真摯だったし、角に響く音の一つ一つがニーナを案じている。部族の信条をひっくり返すような、嘘偽りのない言葉が目の前にあった。
「ニーナ。行動だけ、が、真実を伝える、方法じゃない、かもしれない。少なくとも、俺は、言葉でも、俺の思いが、お前に、伝えられている、と思っている」
一年が半分進み、その言葉がニーナの中に深く染みついたころ、バヤルは何事もなかったかのようにケスティルの村からいなくなった。結婚のために村を出たということを知っているのはニーナとバヤルの両親だけのようで、村の中は一時的に混乱したものの、すぐにそれもなくなっていく。声がなければ噂もないから、バヤルの話をする者もいない。彼がいたという痕跡が丸ごと消えうせたようなそれに、ニーナは確かに寂しさを感じた。
こういうとき、誰かと語り合えたら寂しさはまぎれるのかしら。
ニーナはため息をつく。言葉のない村に何とも言えぬ感情を抱いたのは初めてだった。
「あれ、お姉さん」
ふいにかけられた声にニーナは振り向く。そこにいたのは再会の市に出入りしている他種族の——ミコッテという種族の——青年だった。確かモベットという名前だったか。年に何度かこの市を訪れる彼とは数度言葉を交わしていた。「お姉さん、この市の人だけど親切に話してくれてうれしいよ」と言われたのがなんだか嬉しくて、見かけるたびに彼に寄って行っていたのだが、今日は向こうの方が見つけるのが早かったらしい。
軽く手を上げて挨拶すれば軽快な動きで駆け寄ってくる。同族の男よりははるかに小柄な、けれどニーナよりは幾分か背の高い彼はニーナの前に立つと、おや、と首を傾げた。
「なんだか……元気がないね。何かあったのかい?」
言い当てられてドキリとする。行動ですべてを伝えて生きてきた分、他の部族と比べてもケスティルの意思は外に伝わりやすい。それでも外では隠せていると思っていたのだが。
もじもじと口ごもったニーナを不思議そうに見たモベットは一度きょろりと視線を泳がせると、「荷物もあるから、あっちで何があったかゆっくり話してもらえないかな」といつかニーナがバヤルと会話した丘の方を指した。少しためらった後ニーナは頷き、あの時とは違う二人で丘に向かう。
丘についてからもモベットは特に何も言わなかった。急かすでもなく飽きるでもなく、ごく自然な様子でいる。おいしかったからおすそ分けだ、と木の実のジュースをニーナに持たせてじっと言葉を待っていた。
「幼馴染が、結婚して村を出て……」
語りだす。バヤルのこと、バヤルに言われたこと、彼がいなくなってから感じたこと。すべてを言葉にのせて伝える。ケスティルの村にいれば互いに通じ合うそれも、外から来た商人の彼には一つずつ言葉にしないと伝わらない。時折細かな部分への質問はあったものの、モベットはニーナの言葉を反論することなく聞き続けた。語り終えて、ニーナが口を閉じてからたっぷり十数秒。モベットがようやく自発的に口を開く。
「それで……お姉さんは、これからどうしたいのかな」
「どう、って……」
「バヤルさんは、自分がいなくなってもお姉さんが自分を守れるようになってほしいってそう言ったんでしょう。お姉さんはそれを聞いて、どうしたいって思ったの」
モベットの言葉にニーナはきゅっと下唇を噛む。どうしたい、に対する答えは少し前からニーナの中にあった。けれど、それを表に出す機会もなければ勇気もない。口に出したが最後になるのではないかという予感があった。
それでもモベットはニーナをじっと見据える。言葉にしろと、自分に対して表明しろとその目が訴えているのがわかる。
「わたし、は……」
両親の顔が浮かぶ。ケスティルの村のみんなの顔が浮かぶ。このままここで過ごしたときに訪れるであろういつかの自分の顔が浮かぶ。針仕事と料理がそれなりにできる、それなりの母親になるだろう自分のことは十分に想像ができた。
お前の背を、押してやることだ。
バヤルの声が脳裏に響く。村に残る妹分に向けて彼が心を砕いてくれたのを、無駄にしていいのかという思いがニーナの唇を震わせる。
「私は……私も、自分の足で立てるようになりたい。でも、ここにいたら、きっと言い訳をして、甘えて、やらない理由をつける」
だから、と一度息を吸う。この先を言葉にしたら、ニーナの心の中だけの話ではなくなってしまう。外に意思を示すことへの恐怖感はあるが、それでも言わなければ。
「だから、私、ここを出てみたい。市に来てた人が言ってたの、もっと西の……エオルゼアってところは冒険者って職業があるんだって」
私、それになってみたい。
ニーナの告白をモベットは静かに聞いていた。小さな声で、「それはもう家族には?」と問われる。
「ううん。言ったら、止められるだろうし……」
「もし本気で冒険者になろうと思ってるなら、言っておいた方がいい。止められても、泣かれても、それでも行こうって覚悟がないと冒険者は務まらないよ」
いつになく強い語調にニーナは驚いてモベットを見やる。モベットは自分の声を恥じ入るように笑って、「僕もそうだから」と付け加えた。
「モベットさんは、商人なんじゃ……」
「元々は冒険者をしていてね。引退して商人の真似事をしてるんだ」
そう言ってモベットはいつも身に着けているかばんから一冊の本を取り出した。分厚く、独特な色のインクで記されたそれが魔導書と呼ばれるものだということはニーナも知っている。魔導書とモベットを交互に見ていると、モベットが再び口を開く。
「僕はエオルゼアにある都市のひとつ、海都リムサ・ロミンサからきた。もし、君が本心から覚悟を決めて冒険者になりたいと思っているなら……かつての同輩たちに君へ手ほどきをしてもらうよう頼むこともできる」
「え……」
「お姉さんは、本が好きそうだったから。冒険者の適性の一つに、巴術士といって魔導書と呪文詠唱を用いるものがあるんだ。お姉さんはケスティルの人だけど、市にいたからかな、発声も発音も一般的な人と変わりないし、きちんと勉強さえすればできると思うけど」
打消しの後の言葉をモベットは続けなかった。それでも彼の言いたいことは十二分に分かる。ニーナは緊張のあまり引きつる喉元に手をやり、必死の思いで声を発した。
「私は————……」
後に“救世の英雄”と呼ばれることになる冒険者、ニーナ・ケスティルが故郷のアジムステップより遥か西方に位置するエオルゼアが一都市、リムサ・ロミンサに降り立つのはこれからひと月ほど後のことである。
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