わくらば
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立派に育つ樹木へ寄りかかり月夜を見上げる横顔。
その横顔から表情は勿論心情といった一切の感情を垣間見ることすら出来ないものの、細く綺麗な指先に添えられている煙管や派手な柄が印象的な着物が男の纏う雰囲気と相まってよく映えていた。
この季節でしか生きられないいくつもの命が生を謳歌している響きと共に流れ込んでくる生暖かなそよ風は、白く綺麗な輪郭を覆う細い髪をゆるりと揺らし、ちらちらと男の顔を露わにしてはすぐにまた隠してしまう。
「いつもここでそうしてんのか」
けして顔をこちらへ向けるわけでもなく、姿勢を崩すわけでもなく、淡々と落ち着いた低い声をあげた男は確かに他の誰でもない私へとその言葉を投げかけた。
「はい、といっても雨や雪が降る日は別の場所ですけど」
形式的な言葉だと思いながらも、手元を止めず淡々と言葉を返す私もまた形式的な返答をただ返してるだけなのかもしれないと思った。
少し前。
雲に覆われることなく綺麗な光で自然を照らしている月や、その月明かりに照らされた若い穂や前日の豪雨が残した水の溜まりを描こうといつもの場所で画材を広げていた私の前に現れた一人の男。
他所よりも眺めがよく滅多に人が通ることのない場所だからこそ普段からここへ通っていた私からすれば人が通ること自体とても珍しく感じていた。
男はそのまま道なりに過ぎていくかと思っていたが、私の前を通り過ぎることなく道から逸れると目の前にそびえる樹木へ近付き、そっと背を合わせた。
「⋯⋯」
画材を持つ手を止め、目の前に佇む男をじっと見つめた。
一人一人歩んできた道は違う。
男でも女でも、子供でも大人でも。
小さな仕草や咄嗟の言葉使いからその歩みを垣間見る事ができると何かの本で読んでからか絵を生業とする性分もあり、男が道から逸れる直前かすかに鼻を抜けた匂いがそうさせたのか、それとも男性としては珍しい柄の着物を身に着けていた姿がそうさせたのか、男の素性が妙に気になった。
一方で男もまた画材を広げたまま私に見られていることに気付いたのか、片手で笠を外すと静かに地面へと落としその伏せていた顔をこちらへ向けた。
端正な顔立ちの、私と同じか多少上をいくにしてもまだ若いだろう顔つきの男。
細められたひとつの目元から覗く瞳がまっすぐに私を捉えていた。
顔の半分を覆う髪は他者を引き付けないような暗い雰囲気を醸し出している様に感じ、例えるならまるで、経験したことのない金縛りにあったようだった。
そんな私は目を逸らすどころか指先一つ動かせず、ただじっと向けられている瞳を見つめ返すことしかできずにいた。
「描かねえのか」
いくら時間が過ぎたかすらわからない中で男が口にした言葉。
想像してすらいなかった男の声は良い意味で酷く深みのある声をしていた。
「⋯⋯よろしいのですか?」
何故そう返したのか自分でもわからなかった、ただなんとなく絵に遺してはいけないような気がした。
男だけ描き込まずに風景のみ描くことだって出来た。
元からそこに男などいなかったように。
私と彼は出会ってすらいなかったように。
それでも是非を問うたのは何か私の中で理由があったのかもしれない。
私の問いに男は口元を緩く吊り上げ笑みを浮かべるとすぐ顔を逸らし遠い月夜を見上げた。
それからは特に何かがあったわけでもなく、男とキャンバスとを交互に見ては筆を動かし続ける私と、何か面白いものがあるわけでもない夜空を見つめ続けている男。
何を見て何を思っているのか気になった私は名前も知らない男の視線の先を眺めてみた。
大きいようで随分と遠い場所からこちらを見下ろす月と、空一面に散らばる大小様々ないくつもの星々。
こうして私たちの目に光が届くまでには途方もない年月を重ねなければいけないというのを考えると今こうして光を見られているのも奇跡に近いのかもしれない。
「綺麗⋯」
普段筆を動かすことに神経を集中させているせいか、まじまじと景色を眺めたことがなかったように思った。
その瞬間を収める絵と、二度と同じ瞬間は訪れないだろう自然の景色。
雨が降った後というのもあって随分と空が澄んでいるようにも感じる。
普段こんなにも輝く星々に意識を向けたことがあっただろうか。
季節によって変わる空を見上げながら手を止めていると、一つ、他の星とは輝く色が違う星が気になった。
その星は、他の星のように青っぽい光を主張しているのではなく、赤を少し薄めたような橙色を纏っていた。
「紅一点」
咄嗟に聞こえてきた男の声。
「え?」
思わず聞き返した私は星から目を外し男の方へと目線を向けた。
男は当然のように空を見上げたまま暫く沈黙した後、ゆっくりと唇を動かした。
「森ん中で目立つ花を見て誰かが詠んだ詩が由来した、なんて言葉を聞いたことがある」
深みがあって心地良い低い声が耳の奥に流れ込んでくる。
男から視線を外し改めて空を見上げた私は気になっていた星へ再び視線を向けた。
紅一点、この言葉通り他の星とは色が異なるあの星は、いわばキャンバスのような空の上で一際目立っていた。
「じゃあ、お返しに」
視線は男とキャンバスとを行き来したまま、ふと思い出した言葉を伝えようと口を開いた。
「深紫色ってご存じですか?」
ちらりと男を見ると、おおよそ聞き慣れた単語じゃないだろう言葉に僅かに顎を下げこちらへ目線を向けた男は言葉の続きを促すよう口を閉ざしたまま目を細めた。
「黒味がかった深い紫色のことをいいます。
昔から、上に立つ人を象徴する色としては常に選ばれてたほど、重宝され尊ばれていたのが紫なんですが、中でもこの深紫色というのは⋯」
向き合っていたキャンバスから一度顔を上げるとじっとこちらを見つめる男と視線がぶつかり、先程と同じような感覚が体中を覆い一瞬言葉が詰まった。
「⋯⋯こ、深紫色というのは、それだけ素晴らしい色なんです。
それこそ、花や糸であっても紫であるなら素晴らしい、みたいな意味合いで詠まれてる言葉もあったり⋯」
そこから先の言葉は続けることができなかった。
幸い男と私との間には視線を遮れるほどのキャンバスがある。
きっと不自然に思われたかもしれないけれど、不器用に顔を隠した私は僅かに震える筆先を落ち着かせるよう先端を静かにキャンバスへ置いた。
「そうか」
たった一言、短い言葉を発した男を覗き見るようキャンバス越しにちらりと眺めると、地面へ置いていた笠を拾いあげていた。
はじめ見かけた姿へ戻った男はゆっくりと静かにこちらへ向かい歩いてくると、そのまま来た道を辿るように少しずつ離れていく。
「また来る」
去り際に聞こえた淡泊な声。
頭上から落とされた言葉につい顔を上げた私は男と一瞬目が合ったような気がしたけれど、男は気にもせずそのまま背を向けた。
ほんの一瞬の間に見えた男の顔はとても綺麗で、どこか危うい印象だった。
「⋯」
男の言う、また、とはいつなのかわからない。
そもそも次があるなんて信じる方がどうかしてるかもしれないが、なんとなくそう遠くない日にまた会えるような気がした。
最初は描くことさえ躊躇っていたはずなのに、キャンバスの上には綺麗な深紫色をした髪を揺らし空を見上げる男がいて、私は小さく息を吐いた。
23.7.31
深紫(こきむらさき)と読みます。
個人的にも好きな色で、日本には様々な由来を持つ色彩が存在しているので気になる方はぜひ調べていただいて、あわよくば興味を深めていただけると嬉しく思います。
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