彼は誰時の菫空②
名前設定
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「どうしてって、名前さんだから」
男性は私が思っていた答えとは程遠い言葉を口にした。
どういう意味なのか全くわからない言葉を理解しようとする私の前で、男性は
「花見の時僕にお弁当作ってくれたよね、あれすごく美味しかった」
縛られた私の手を掴みながら
「それにこの前、配達日じゃないけど魚を持って行った時は嬉しそうに顔赤くしててさ?
すごく嬉しかったんだ」
と、本当に嬉しそうに笑っている。
花見の時、あれはそもそも頼まれたお客さん達からお金を頂いて作った物。
確かにこの男性からも頼まれたのを覚えてる。
でもそれだけ。
特別この男性に対してだけ個人的に作った訳じゃない。
この前の時だってたまたま銀時がいただけで⋯。
なによりたったそれだけで不本意な好意を抱かれていたことに驚きと怖さを感じてしまった。
「⋯⋯あ、あの⋯っ」
誤解だと説明しようと顔を向け声をかけると、男性は私の手を掴む手に徐々に力を強めていった。
「名前さんが笑うと僕も嬉しいんだ」
「僕はこんなに名前さんを見てるのに」
「不公平だよ、名前さんにも僕だけを見て欲しい」
強まる力のせいで麻縄がギチギチと手首へ食い込み刺すような痛みが広がっていき、自然と伴う涙は目を潤ませた。
「名前さんもそう思うよね」
男性の言っていることが私にはどう頑張っても理解出来なかった。
この男性はまともじゃない、そうわかった瞬間今までにない程の恐怖が全身を伝い背筋がひんやりと冷めていく。
得体の知れない相手への恐怖が強まるほど口の中が乾いていく。
「思うよね」
念を押すように同じ言葉を繰り返した男性は再び立ち上がり私の脚裏と背中へ手を添え持ち上げると体をベッドに寝かせ、私を見下ろすように私の横へ手脚をついた。
「僕だけを見てよ」
「⋯⋯やだっやめて⋯ッ」
言葉と共に伸びてくる手を払い除けようと目をつぶりながら縛られた手を思い切り横へ振ると、鈍い音と共に手の甲へ痛みが走った。
怖いほど静まり返った部屋の中でカチカチと聞こえる時計の針の音だけが確かに時間を刻んでいた。
一切動きのない男性が異様に怖かった。
きつく閉じていた目蓋を薄らと持ち上げ男性を見上げると、鼻に添えられた男性の手の隙間からは血が流れていた。
指の隙間へ流れついた血液は重力に沿って指の付け根を離れると私の頬に落ちてくる。
「⋯⋯⋯ご⋯なさ⋯」
最悪なことをしてしまったと気付いた時にはもう手遅れだった。
謝罪すらまともに口から出ないほど怖さで喉が絞まり、恐怖で涙が溢れてくる。
危険だと脳が訴えるほど全身を流れる脈が大きくなっていく。
言葉にならない謝罪を何度も繰り返し忌諱に触れてしまった事を後悔しても男性が再び笑顔を浮べることはなく、鼻に添えていた手を離した男性はその血が付いている手をゆっくりと私の顔に這わせてから喉元に触れた。
血の気が引いていくのがわかるほど首元に意識が向いてしまう。
けれど男性は私が思っていたような行動をすることはなく、首元から手を退かすと私の手首を掴んだ。
「大丈夫」
でも、その一言で纏う雰囲気が一変した男性は私の手首を勢いよく頭上へ押し付けると段々と体重をかけていき、大人の重みが加えられ徐々にくい込んでくる麻縄の痛みに耐えきれなくなった私の口からは悲鳴にも似た叫びが溢れた。
その声が更に苛立ちを煽ったのかもう片方の手で私の首元を締めると、同時に横についていた片膝を胸の上へ乗せ更に圧をかけてくる。
「⋯っ⋯⋯ぁ⋯⋯」
喉が絞まり肺も押されていて空気が体の中に入って来ない。
息ができず血流の止まる顔には熱が集まり、視界が揺らぎ始め目が溶けそうに熱くなって頭が限界だと知らせてくる。
必死に意識を繋ごうと握りしめていた手からも徐々に力が抜けていって、瞼も次第に閉じていく。
見えない意識が手の中から解けてしまいそうになった。
痛みすらも遠のき始めた時、部屋の外から大きな音が聞こえてきた。
と思った次の瞬間には、目の前にいた男性がいなくなっていた。
「名前!おい名前!」
ぼやけた視界が鮮明になっていくと、そこには酷く焦った顔で私を見下ろす銀時がいた。
「ぎ⋯」
名前を呼ぼうと声を発した瞬間、今まで遮られていた空気から補えなかった酸素を取り込もうと止め処なく咳が溢れてきた。
体を丸め酸素を取り込みながら込み上げてくる咳を繰り返していると、喉が薄く切れたのか鉄の味が喉元から広がってくる。
それでも、酸素を求めて何度も何度も咳を繰り返すうちに熱い目元からはいくらでも涙が溢れてきた。
その間もずっと私の名前を呼び続けている銀時の声が聞こえてくるけれどまだ言葉を返す余裕がなく、痛む喉を通り肺へ空気を入れながらただ涙を流すことしか出来なかった。