彼は誰時の菫空②
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海の中にいるような感覚。
こぽこぽと小さく漏れ始めた空気の泡は次第に大きくなりながら、数を増していく。
やがてボコボコと音を立て全ての空気が漏れてしまいそうになった頃、ぱちっと意識が戻った。
「げほっ」
深く息を吸えば喉を通る空気が気管を冷やし咳き込んでしまい、口元を覆うよう不意に手を動かすと若干の痛みが走った。
何?と思い手首を見ると麻縄のようなもので両手首が縛られている。
何これ⋯そう思い横たわる自分の体を見下ろすと、普段来ている着物の姿ではなく長襦袢姿の体。何があったのか怖くて身を動かそうにも、足首も縛られていて自由に動くことが出来ない。
「⋯⋯誰か⋯」
部屋も薄暗く辺りはどうなっているのかわからない。
乾く喉から必死に声を出してみてもどこかに届くような声は出ず、部屋自体は暖が入れられているのか寒さは感じないけれど全身を覆う恐怖そのものが着々と体の温度を下げていった。
とにかくこの現状を早くどうにかしなきゃと不自由な体を一生懸命動かしていると、背後からさーっと襖が開くような音が聞こえた。
「名前さん」
配達の際に耳にする男性の声が聞こえたそのすぐ後で部屋が急激に明るくなり、ずっと暗い場所にいたせいか僅かなその光にすら耐えられずに瞼を強く閉じた。
目を閉じている間ゆっくりと聞こえてくる床を擦るような足音。
ある程度まで近付いてきた足音が消えると、今度は背後からスプリングの軋む音と共に片脚を乗せたような重さが加えられ若干形を変えるマットレスの凹みが背中側に伝わり、大きく体が震えた。
「ごめんね、折角の着物が痛むと思って」
怖さで開けることの出来ない瞼を必死に強く閉じていれば、顔にかかる前髪をすくうようにおでこに触れる手の感覚でさらに体がびくりと震えた。
怖い。声も出せないくらい、目も開けられないくらい、怖い。
震える指先を隠すため爪が掌へ食い込むほど強く握りながら、これ以上何もしないでと必死に願っても、おでこから離れた手の感覚は頭へ移動し何度も何度も頭を撫で始めた。
気持ち悪さが込み上げてくる。
触れられる度に震える体を必死に抑えて、ただじっと耐え続けていた私へ「名前さん、あれ」と声をかけてくる男性。
「見て欲しいな」
「⋯嫌っ」
再びおでこに触れた指先が嫌で顔を埋めるように反らすと、それが男性の気に障ってしまった。
思いきり髪を引っ張られ、そのあまりの痛さで酷い声が口から溢れた。
「黙って見ろよ!」
まるで人が変わった様に突然大声をあげる男性の声が痛みを走らせる頭へガンガンと響き、あまり逆らってはいけないと直感的に理解した私は薄らと目を開けた。
すると、そこには壁一面に貼られた私の写真。
そのどれもが家に届いていた写真と同じように目線が外れていて、遠いところから隠し撮りされているような写真ばかり。
あの気味の悪い写真の送り主がすぐ隣にいるという恐怖や、普段気付かずに接していた男性だったという恐怖、大人しそうな雰囲気とは真逆の一面が垣間見えた恐怖、その全てに体の震えが治まらない。
「どうかな名前さん」
私が写真を見ていると確認したからか髪から手を離した男性は普段聞きなれた大人しい声音に戻り、僕は特にあれが好きかな、と指を向ける先にはつい先日店の前を通りかかったお客さんが連れていた子犬に触れている私の写真があった。
先週や先月あった事じゃない、たった数日前の出来事。
それなのに現像され部屋に飾られている写真にまた恐怖を抱いていると「どうかな」と僅かに強くなった口調で感想を求めてくる声。
「⋯⋯す、すごく⋯素敵⋯だと思います⋯」
気分を害さないよう、震える喉で必死に紡いだ言葉。
それを聞き「良かった」と嬉しそうに声を漏らした男性は、背後から離れどこかへ行ってしまった。
怖い。
頭を覆う痛みと全身を襲う恐怖で自然と目からは涙があふれ、重力に沿って顔を伝いベッドへと染み込んでいく。
ただ必死に、ここから出ないと、という考えを浮かべ足を抱え込むように折り足首の麻縄へ手を伸ばし解こうとした。
けれど随分とキツく結ばれているそれは足首や指先を擦り、浅い擦り傷を増やしていくだけでピクリともしない。
「あんまりやると傷が出来ちゃうよ」
思っていたよりうんと早く戻ってきた男性の声にまた酷く震える体。
そろそろお昼だしご飯食べない?と声をかけてくる男性を振り返ることなく、お腹空いてなくて、と小さく震える声で伝えるとベッドの周りを歩き私の正面まで来た男性。
目線を合わせるように目の前に屈むと私の体を軽々と起こしベッドの上に座らせ、泣かせてごめんね、と目元に触れ涙をぬぐった。
声をかけられる度に、どこかに触れられる度に、酷く震えてしまう体。
指先から逃げるために顔を背けた私は、どうして私なんですか、と男性へ問いかけた。
特段交流がある訳じゃない。
常連さんというほどご飯を食べに来てくれている訳でもない。
月に何度か、不定期でお父さんの代わりに魚を届けてくれるくらいで、個人的に何か交流があるだとか連絡を取りあっているだとか踏み入ったことは何一つしていない。
私はこの男性の名前すら知らないのにどうして私なのか。