彼は誰時の菫空
名前設定
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暫くすると女性は小さな器を持ち部屋へ戻ってきて、その器を机に置いた。
「無理に食べなくてもいいけど、もし食べるなら冷めないうちにね」
微笑みながら静かに名前の隣へと腰を下ろした女性を見て名前はただ、ご迷惑をおかけしてごめんなさい、と謝罪の言葉しか言うことが出来なかった。
「いいのよ」
また優しく頭へ手を添えた女性は、そのまま言葉を続けた。
「私達小さなご飯屋をしててね、昨日お店を閉めて裏にゴミをまとめて置いておこうと思って外に出たら、細道にあなたがいてびっくりしたのよ?あんな細いところ猫しか通らないと思ってたわ」
くすくすと小さく笑う女性は名前を見つめながら、名前が言葉を挟むことは無いとわかっているのか自分の間合いで言葉を続けた。
「すごい苦しそうな顔しててね。旦那と二人で部屋に入れてすぐ先生をね、ほらさっきまでいた眼鏡のおじさんを呼んで診てもらったのよ」
「そしたら肩からお腹まで切れてて熱もあるって言うじゃない?もう心配で心配で」
「それでね?私達子供がいないから寂しくて、よかったら治るまでここにいてくれないかしら」
「ダメよ?そのまま居なくなられたら私達心配でお迎え来ちゃうかもしれないわよ?」
終始微笑みながら名前を見て言葉を続けた女性。
こんなに優しさのある人達に助けられたのかと、目頭が熱くなった。
自分達に得する事など一つもないだろうに。まして傷を負った若い女である自分を見て見ぬふりだって出来たはずだと。
それなのに助けてくれて手当まで、更には傷が治るまでここにいてもいいと言う。
「⋯⋯本当に、ありがとうございます」
「私は菊で旦那は忠だから、何かあれば遠慮なく言ってね」
涙が溢れぬよう我慢しながら心からの感謝を口にすると、女性は先程から幾度も名前へ向けているその柔らかい笑顔でそう言うと、夜の仕込みをするといい部屋を出ていった。
天井を仰ぎ目の潤いをなんとか留めて、ゆっくりと体を起こして傍にある机へ近寄ると食べやすい熱さになったお粥があり、残さず綺麗に食べた。
***
「これならもう大丈夫じゃろ、運動や力仕事はまだ控えるようにの」
あれから一ヶ月の間、定期的に見てくれた眼鏡の男性は傷を見てそう答えた。
「よかったわね名前ちゃん!」
「長かったのぉ、これで一安心じゃわい」
名前の少し後ろで、まるで自分達の事のように喜ぶ夫妻。
知り合ったあの日、悩んだ末に名前だけはやはり伝えておくべきだと思った名前は夫妻へ名前を伝えていた。
「先生もお菊さんに忠さんも、本当にご迷惑ばかりおかけして⋯ありがとうございました」
名前は頭を下げると、何若いもんが気ィ使っておる、とにかにかと笑う眼鏡の男性。
「まぁ気をつけての、今度は診察じゃなく名前ちゃんの顔でも見に店に寄るでの」
そう言うといつもの調子でゆっくりと部屋を出る男性を見送るために忠を後を追い部屋を去った。
「お菊さん、本当にお世話になりました」
改めて菊へ体を向けると頭を下げた名前。
ここ一ヶ月本当にお世話になった。ここ最近は体調も良くなりお店の手伝いや家事などを手伝っていたが、自身が受けた恩に比べればまだまだ何も返せていないなと思っていた。
「いいのよ名前ちゃん、私達がしたくてした事だもの」
名前の手を優しく包みそう返す菊は、やはり柔らかい笑顔を纏っていた。
「⋯⋯あのこれ、多くはないんですけど⋯」
名前は傍に置いていた自分の鞄を手に取ると、中から布に包まれたものを取り出し菊へ差し出した。それはあの日名前が持ち出したお金だった。手当ての際に懐に仕舞っていたのを見つけていたが一度も布の中を見ることも無く鞄と共に置いておいてくれていたと後で知らされ胸が温かくなったのを名前は昨日の事のように覚えていた。
菊はそれを受け取り布の中身を確認すると驚き名前へと返した。
お金が欲しくてした訳じゃないの、と。それでもと名前は渡そうとするがやはり菊は受け取ろうとはしなかった。