彼は誰時の菫空
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名前が遊女として売り買いされてから数年。
自由など微塵も与えられなかった中で、ある日外出の機会が巡ってきた。
この生活からどうにかして抜け出す機会を伺っていた名前は、今しかない、と覚悟を決めずっと貯め続けある程度の纏まった額となっていたお金を布で包んで懐に隠し、他の遊女と監視の元、数年ぶりの外へと連れ出された。
いつもは小さな窓から見える空を眺めているだけだったが、いざこうして久しぶりに眺める景色は名前にとって比べ物にならないほど魅力的だった。
夜も更ける頃とはいえまだ賑わいを見せる店や人。
「ごめんなさい、ちょっと御手洗に⋯」
共に行動していた同業の女性へ一言声をかけ、近くの店の厠へと向かった名前。
小窓があることを確認してから内鍵をかけ、その小さな窓から身を乗り出し外へ出ると無我夢中で知らない土地を駆け抜けた。
僅かでも、今いる場所から遠くへ。
そうしてだいぶ走り続け息も限界を迎えた頃、名前が辿り着いたのは静かな民家がいくつも並ぶ場所だった。
息を殺しながらも民家裏の小道に腰を下ろした名前は身を潜め辺りを警戒してみたが、どうやら近くには居酒屋か何かのお店がありそこからの声と光が僅かに漏れているだけで、追手のような騒々しい足音や声などは名前の耳には聞こえてこなかった。
ここ数年、どれだけの事をされたか名前自身は勿論、他の遊女を見て嫌という程知らされてきた。
あの場へは二度と、例え死んでも戻りたくはなかった名前。
万が一、億が一追っ手が現れ捕まるようなことがあれば確実に引き戻され二度と外に出るような機会も与えられないだろうと、理解していた。
絶対に嫌だ。
そう思い手持ちの鞄から櫛を取り出した名前は、道端に落ちている比較的大きめの石を手に取りその櫛を叩き割った。
けして鋭利ではないものの人の皮膚程度の柔らかさであれば何ら問題なく切れるであろうその切り口を見て、自身の着物と襦袢の襟を思い切りずらすと右手に持ったその割れた櫛を左肩へあてがった名前。
傷を負ってしまえば、例え見つかろうともあのような場では使い物にならないだろうし、戻されることもないだろうと思っての行動だった。
左腕の着物を噛み、覚悟を決めて右手に力を込めた名前はしっかりと傷が残るよう自分の体へと傷をつけていく。
切るというよりは裂くという表現が適切とも思われるその行為。
切るのを目的としていない断面は確かに鋭さはあるものの、名前が思っていたほど簡単に身を切れはしなかった。
左肩から焼けるような刺されるような痛みが熱を持って容赦なく襲ってくるが、一度手を止めてしまえば続けられる自信がなかった名前はぎちぎちと着物を噛みちぎるよう必死に力を込め、左肩から胸部を通り右脇腹あたりまで傷跡が残るよう切り裂くと、力なく右手を地面へ放った。
痛みで気が遠くなりそうだった。
それでも自分でつけた傷を見下ろし僅かに安堵の表情を浮かべた名前。
戻りたくない一心でつけた傷はその思いから深いものになってしまったのか、想定していたよりも傷口からの出血は酷くなる一方だった。
これで、もしもの時が来ても戻らなくて済む。
そう安堵しながらも夜の冷え込みのせいか血液を流したせいか、徐々に名前の体は冷え始めていた。
晒されている肌や傷を隠すためにも襟を手繰り寄せ、膝を抱え背を丸めた名前は少しでも寒さから身を守ろうと体を小さくさせた。
そんな時に限って思い出すのは昔の明るい記憶。
銀時と小さなことで言い合って、それを見て呆れる晋助や毎度止めようとする小太郎、どんな時でも明るく笑っていた辰馬さん。
あれから一度も見ていない彼らは今しっかりと生きているだろうか。彼らのことだ、死ぬことは無いとわかっていながらも最後に見た光景を思えばどうしても不安を拭いきることはできなかった名前。
随分と昔、名前は松陽に自分はどうしてここにいるのかを聞いたことがあった。母親らしい人の傍で泣いていたが場所も危ういため連れて帰ったと。
母についての唯一の記憶は手を繋がれどこかへ向かうその後ろ姿のみだった。父親は知らない、いたのかさえわからない。
だから家族とはどういうものなのか想像はできてもいまいち実感というか理解というか、名前にとってはよくわからなかった。
でもきっと、彼らの存在や彼らに対して思う気持ちはそういう物に近いのだと、成長するにつれ感じることは多くなっていた名前。
だからこそ、無事でいて欲しいと強く思っていた。
もうきっとあの人達の元へは戻れないだろうとどこかで思っていた名前にとって、今は明日のことでさえわからなかった。
ゆっくりと、確実に冷えていく体を今一度小さく丸めると、痛みや思い出で溢れた涙は徐々に膝を湿らせ、そこに吹き付ける夜風で一層冷たさを帯びていった。
疲労からゆっくり閉じかける目蓋に抗うことなく目を閉じた名前、あまり時間を待つことなく意識が遠のいていった。