彼は誰時の菫空
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〝貸切です〟と書いた紙を早朝から入口の扉に貼って、ゆっくりと夜に向けて準備をしていた。
お鍋とかお酒とか、全然特別じゃなくていいとまた子ちゃんに言われてた。どうせならと季節のものや美味しいものを用意しながら着々と準備を進めていくと、座敷から見える中庭は岩や木など一面が雪に覆われて白くなり、一段と寒さを感じてしまう。
外がだいぶ暗くなり雪も降り始めた頃、扉を数度軽く叩きお店へと入ってきたのは前みたいに鼻先や頬を少し赤らめ笠を被ったまた子ちゃんだった。
「いらっしゃいませ」
「名前さん!お邪魔するっス」
笠を外したまた子ちゃんの他にも何人か同じように笠を被っている方達がいた。その人達へも言葉をかけ座敷まで案内すると「晋助様達は後で来るっス」と笑顔で教えてくれるまた子ちゃん。
「纏まってると目立つっスからね」
「⋯確かにそうかもね」
少し眉を下げて微笑むまた子ちゃん。確かに笠を被った人達が同じ店にぞろぞろと出入りするのはちょっとあれかもしれない。
「お品書きに無くても用意出来るかもしれないから、遠慮なく言ってね」
また子ちゃんへそう伝え、あとは極力気を使わせないようにと座敷の扉を閉めてカウンターの方へと戻った。
とりあえずはと今いる方達の分のお茶を運び終えて戻ってくると、控えめに開かれた扉から笠を被った目の大きな男性と燎さんが同じく笠をかぶりながら店内へ入って来ているところだった。
「いらっしゃいませ」
「久しぶり名前ちゃん、もう大丈夫?」
「はい、いろいろと本当にありがとうございました」
また子ちゃん達がお待ちですよ、と二人を座敷へ案内した。
どの方も笠や肩には薄らと雪が付き濡れていたように思う。
こまめに外を見れていないから、雪が積もって足場が悪くなってるんじゃないかと思って外の様子を見ようと扉へ手を伸ばした時、私が触れるより早く音を立てゆっくりと開かれた扉。
顔を上げると、そこには晋助がいた。
「いらっしゃいませ」
どこか安心してしまう晋助の右目と目が合い、そう声をかけると短く息を吐いた晋助は私の頭へ手を置きながら店の中へ足を踏み入れた。
「邪魔するでござる」
続けて入ってきた⋯万斉さん?前に見かけたサングラスの方も一緒にいて、そのまま道なりに座敷の方へ歩いていく晋助の後ろを追うように通路の先へと進んでいってしまった。
扉を占める前に覗いた外は、雪はちらついているけれど降り積もるほどではなく、小さな灯りに照らされながらチラチラと綺麗に輝いているようだった。
もし何か大事な話をしている最中なら⋯と、燎さん達や晋助達へ運ぶ予定だったお茶をおぼんに乗せたまま完全にタイミングを見失って悩んでいると、通路の奥からひょこっと顔を覗かせたまた子ちゃんがいくつかの注文を伝えに来た。
「気遣ってるかと思って、ついでに様子見に来たっス!」
「⋯また子ちゃん⋯⋯!!」
優しい言葉と共に可愛く微笑むまた子ちゃん。
何かあれば持っていくと言ってくれたまた子ちゃんへ、それじゃあとお茶を乗せたおぼんを渡すと嫌な顔をせず受け取ってくれたまた子ちゃんは座敷の方へと戻って行った。
それでも今受けた注文の品も後で届けなければいけないと思えば、やっぱりタイミングっていつなんだろう?と頭を悩ませた。
しばらくは頃合いを見てまた子ちゃんが空のお皿を運んできては料理やお酒を持って行ってくれていたけれど、結構な量を運んでからはある程度の静かな時間が流れていた。
時間に限りを設けている訳でもないし好きなだけいてもいいと予め伝えていたため、次の注文が来るまではと作り置きの料理などのんびり作っていると、また子ちゃんの足音とはまた違う静かな足音が聞こえてきた。
「名前ちゃん」
「⋯燎さん!どうかしました?」
通路の方へ目を向けると燎さんが柔らかな表情でこちらへ歩いてきて、すぐ手前のカウンターへ手をつきながらこちらを眺めている。
「いろいろ話も終わったし、名前ちゃんと話したくて」
それお店で出すの?と私の手元を見ながら尋ねてくる燎さん。
「はい、大根と柚子の酢の物なんですけど」
「美味しそうだね、色味もいいし」
「召し上がりますか?」
「いいの?食べる食べる」
さっきの料理もすごい美味しかったと言ってくれる燎さんにお礼を伝えながら、ちょっと待ってくださいねと小鉢に入れようとすると「そのままでいいよ」と声をかけてくる燎さん。
「えっでも⋯⋯えっ?!」
燎さんの方へ目を向けると、目を伏せながら口を軽く開けている燎さんがいて少しビックリした。そのままってそういうこと?と思ってどうしようかと少し戸惑ってる私に対して、動く気配のない燎さん。
⋯やっぱりそういうこと?と理解して、食べるまで動かなそうな燎さんに根気負けした私は、失礼しますッ、と一言伝えて酢の物を箸で少し摘み、燎さんの口へとゆっくり入れた。
「うま」
赤い目が眼鏡越しに開かれて、随分美味しそうに食べてくれる燎さんに安心して緊張していた頬が少し緩んだ。
それから「最近寒いよね」とか「お酒だと何が好きなの?」とか、気にせず作ってていいよという燎さんの言葉に甘えて手元を動かしながらも、適度に話題を変えては話を続けてくれるのが心地よくて自然と笑いながら時間を過ごしていた。
そういえばお店に来た時に着ていた羽織りを脱いで今は黒いスーツ姿の燎さんを見て、病院から帰ってきて以来クリーニングに出してから箪笥に入れたままの長羽織があるのを思い出した。
「あの!そういえば以前長羽織を借して頂いて⋯!」
「え?あぁそうだったっけ」
「もしお荷物でなければ⋯二度手間になるのもあれですし」
「ありがと、そうしようかな」
手を洗って水気を拭きながら今のうちにお持ちしますねと伝え、カウンターの横を通り過ぎようとした時「名前ちゃん」と名前を呼ばれ軽く手首を掴まれた。
後ろを振り返ると、ゆっくりと立ち上がった燎さんがふわりと微笑んだことで目元が細められ、掴まれている手首がぴくりと震えた。
「名前ちゃんはさ」
妙にさわさわと騒がしくなる鼓動。すぐ目の前にいる燎さんは、そっと指先で私の頬に触れ髪をすくい耳の後ろへ流すと顔を近付けてくる。
触れられた頬は水面に波紋が広がるように、そこからじんわりと火照っていくような感覚があった。動けずにいる私は掴まれている手も解けないままただじっと燎さんを見つめていることしか出来ず、一方の燎さんはふっと目線を横に逸らし私との距離を更に縮めた。
「一目惚れって信じる?」
耳へと寄せられた口元から発せられた言葉がダイレクトに鼓膜に届いた。低く落ち着いた声が、ふわりと耳に触れる吐息が、皮膚をぴりぴりと熱くさせて喉が詰まるような息苦しい感覚に襲われる。
「⋯あっ⋯あの⋯」
「初めて会った時のこと覚えてる?」
けして大きくはない、耳元だからこそ聞こえるような掠れるほど小さな声で一音一音はっきりと囁く声が鼓動を更に加速させていく。
僕は、と言葉を続ける燎さんにどうしていいかわからず戸惑っていると、通路の方から「間宮」と燎さんを呼ぶ声が聞こえてきた。
「二度は言わぬぞ」
少し間を置いてから再びかけられた声。
小さく息を吐いた燎さんは私から離れると後ろを振り向き「僕に何か用?」と声のした方へと言葉を返した。
それに合わせて私も通路の方へと視線を向けると、万斉さんが壁に背を預けながらこちらを見ていた。