彼は誰時の菫空
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「しかしまさか店を開いていたとはな」
「最近始めたの」
食べ終わり一息ついていると話し始めた小太郎に、銀時へ伝えた内容と同様の話をした。
料理するの好きだから、と言えば「昔から料理が上手かったからな」と目を伏せる小太郎。
「俺としてはうめぇ飯タダで食えっから最高だわ」
「払わないだけでしょ!いい大人なんだからいつかちゃんと払ってね」
頬杖をつきいつもの調子で言う銀時へ視線を向け咎めても、当の本人はこちらを気にすることなくお茶を飲んでる。
それから少し話をしていると、では俺はそろそろ帰らせてもらう、と笠に手を伸ばしながら小太郎は立ち上がって入口へ足を運んだ。
「またな二人共。なに、近いうちにまた会えるだろう」
「俺ァ当分ごめんだわ」
そう照れるな銀時、と言葉をかけるとこちらを向き「いくらだ?」と尋ねてくる小太郎。
答える代わりに小走りで小太郎の元へと歩み寄った。
「お金はいいから⋯⋯あのね小太郎、町でよく紙が貼られてるの見かけるんだけど、大丈夫⋯?」
そっと背中に手を添えると、小太郎はゆっくり振り返って優しい顔で私を見下ろした。
「私にはよくわからないけど、体は大事にしてね。今度来てくれる時のためにお蕎麦おいておくから」
だから気をつけてね。必ずまた来てね。と、そう伝えた。
私を見てた小太郎は柔らかく目を細めると私の頭へ手を乗せて、昔のように優しく数度撫でてくれた。
「あぁ、必ずまた来ると約束しよう。体もだ、そうでなければ蕎麦が食えんからな」
また会えてよかった、と言いながら私の頭から手を離した小太郎はそのまま笠を深く被り、ゆっくりとした足取りでお店を出ると静かに扉を閉めた。
少し寂しく思いながら後ろを振り返ると、さっきと何も変わらずにお茶を飲んでいる銀時。あえて人が少ない時間帯や曜日を選んで来てくれたんだと少し前に気付いてて、隣の席に座ってお礼を伝えた。
「ありがと」
「なんもしてねーよ」
何もしてないなんてことはないのに、素直じゃない銀時は顔を逸らしてしまった。
それから特になにか話すわけでもなく、私は夜に出す料理の仕込みをしていたり、銀時はすぐ横にある壁にもたれかかる姿勢になり目を伏せていたり。
長い間、私の手元から聞こえる音以外が響くことの無い空間に二人きりでいても気まずさを感じることは一度も無かった。
***
天気も良く心地いい風が吹いていたある日。
お店は久しぶりに休みにして、窓を開け日頃あまり手の届かない場所の掃除や洗濯を済ませていると見慣れない影を中庭に見つけた。
未だに一度も使われたことのない座敷には縁側があって、小さいけど緑や池のある中庭に面していた。
またお店と普段生活している建物はひとつになっててお店側からは直接視界に入らないような設計になっているものの、普段過ごしている部屋の窓からは同じ中庭が眺められるようになっていた。
たった今その窓から見えたのは、縁側の下にあった小さな黒い影のようなもの。
洗濯を終えてどうにも気になってしまい座敷側から下を覗いてみると、小さな猫が体を丸めて寛いでいた。
「迷子?」
言葉など返ってこないとわかっていてもつい話しかけてしまう。
先が尖った三角の耳はピンと張り、比較的短い毛並みは深みのある綺麗な紺色をしている。
私の住む建物はお店側以外の面は周りから見えないよう塀で囲まれているのに、猫の脚力があれば越えることなど難しくもないのか現に今こうして目の前に見知らぬ猫がいた。
中庭へ足を下ろしてすぐ近くにしゃがみながら背を撫でると、小さく喉を鳴らす猫。
首輪はついてないけど、背中を撫でても嫌がったり逃げたりする素振りのない様子から随分と人馴れしているように思えた。
そのまま撫でているとさすがに鬱陶しさを感じたのか、目蓋をゆるりと持ち上げ淡い緑色をした目でこちらをじっと見上げている。
「ちょっと待っててね」
お腹空いていないかな、とその場を離れて台所へ向かいお昼に食べようと思っていた焼き魚をほぐして小皿に盛り、水と一緒に持ちながら縁側へ戻ると「みゃう」と鳴きながらこちらへ近付いてくる先程の猫。
夫妻のお店裏に猫が住み着いた時もこっそりご飯をあげるくらい動物が好きだった。
目の前でほぐし身を食べる猫をしばらく眺めていると、食べ終わった猫はその場でまた体を丸めて目を伏せてしまった。
「飽きるまで居ていいからね」
その自由な姿につい頬がだらしなく緩みながら、声をかけて静かにその場を離れた。
次の日もその次の日も、猫は家を離れることなく縁側の下か上で寛いで時間を過ごしてた。
私も無理に追い出したりはしないし、毎日猫が食べれるようにと熱を通した魚のほぐし身をあげてその代わりにと背中を撫でたり膝に乗せたり、自由に接していた。
猫は嫌がることもなく、気付くと私と当たり前のように生活を共にするようになっていた。
それでも、その猫に名前をつけなかった。
いつかふらりといなくなってしまったら悲しいし、名前をつけて呼び始めたら私に縛らせてしまうんじゃないかと思って。
猫は自由で気ままなところが好きだった。
名前をつけなくても、私が「おいで」と声をかけるとそれを理解しているみたいに近付いてきて目を細めながら気持ちよさそうに撫でられてた。