勿忘草
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翌日、楓が部活に向かうと既に澪の姿があった。
「あ…澪先輩。」
「楓ちゃん…。」
なんとなく気まずい雰囲気が流れた。
すると、先に口を開いたのは意外にも澪だった。
「楓ちゃん、昨日はなんだかごめんね。」
「え、いや、全然…それより澪先輩、大丈夫ですか?」
「うん、でもね…」
そこまで言うと後に続く言葉を飲み込むように、黙ってしまった澪。
そんな彼女に疑問を抱きつつも、楓は着替えの為にロッカーに荷物を置き、支度をはじめる。
そして澪は一足先に支度を終え、ドリンク作ってくるね、と部屋を後にした。
「準備が終わったら私もドリンク行きます。」
そう告げる楓に背を向けたまま、澪は小さく微笑んだ。
「先輩、お待たせしました。」
「じゃあ澪ちゃんはそっち半分お願いね。」
「はい、わかりました。」
隣で作業する、いつもと変わらぬ彼女の様子に安堵し、ドリンクを作りはじめたのも束の間。
よく見れば昨日と同様に影を落とした虚な瞳。
また澪は何か、そう楓が身構えた瞬間。
「楓ちゃん、ごめんね。」
楓は理解できなかった。
澪はまた、作り途中のドリンクたちを大きな音を立てて床へ広げていく。
そして、挙句の果てに自分でドリンクを頭から被りはじめた。
足の裏を床と縫われたのかと思うくらい、この場から一歩たりとも動けない。
そして状況が理解しきれず、何も出来ない。
とどめと言わんばかりに、手に持っていたドリンクのボトルを勢いよく扉に投げつけると、先程から続く大きな物音に反応したであろう数人のレギュラーが顔を出した。
「なっ…」
「どないしたんや、澪!」
向日は戸惑い、忍足は澪へ駆け寄った。
宍戸も澪へと駆け寄ると、向日にタオルを寄越すように要求した。
「なんの騒ぎだ。」
そこへ、運が良いのか悪いのか。
跡部が騒ぎを聞きつけ現れた。
そして悲惨な状況をみた彼は、あからさまに楓に対して鋭い視線を向けた。
敵意が籠っているかのような、その氷柱のような視線に楓は更に身体が強張り、硬直した。
なに、この状況。
まるで私が──
ドリンク作りをしていたが故に、自分の右手にはまだ空のボトル。
それがまるで自分がこの異様な光景の犯人であるかのように思わせる。
「おい澪、何があった。」
「なんでも…なんでもないのよ、景吾…。」
「この状況で何もない訳ねぇだろ。」
彼女の頬を伝うのは、ドリンクなのか、涙なのか。
それは楓にはわからなかったが、跡部が冷静さを失うには十分過ぎたらしい。
彼女の肩を掴み、原因を問う。
「跡部、俺たちが気付いた時には既にこの状況やったで。」
「楓と2人でドリンク作ってたみたいだけどよ…」
その場に居合わせた、忍足、宍戸から視線を向けられた。
彼らの視線は決して鋭いものではなく、戸惑いを瞳に映していた。
しかし、今の楓は、その視線すら恐怖に感じた。
疑われている。
その事実が、辛く、恐怖心へ変わった。
「私は…」
「楓ちゃんは関係ないの。何も、何もしてないから。」
発言を遮るように、澪はそう告げた。
澪の言う通り、本当に何もしていない。
ね?と澪に悲しそうな微笑みを向けられるが、この状況、逆に変に庇われているようにしか見えなかった。
「楓、お前今日は正レギュラーのマネージャーはしなくていい、澪に近づくな。」
澪の肩を抱く跡部にそう告げられた。
即日クビだなんて言われていないだけ、彼は自分で冷静さを失っていることに気づいているのか。
しかしそれを知る術など、楓は持ち合わせてはいない。
「早く行け。片付けはこっちでやる。」
「は、はい…」
これまで先輩達の信頼を得られるように
澪先輩に少しでも近づけるように
大好きなテニス部のみんなが、全力でテニスができるように
自分なりに、精一杯頑張ったのに──
何かが、音を立てて崩れたような気がした。
楓は振り返ることも出来ず、小さく失礼しますと呟いて、正レギュラーの部室を後にした。
重い足取りはどこに向かうでもなく、部室から少し離れたところで動きを止めてしまった。
「澪先輩…なんであんなこと…。」
自らドリンクを浴びた彼女の姿が脳裏から離れなかった。
いつも優しい先輩たちからの視線があんなに厳しいものになるなんて、とても恐ろしかった。
楓は心が重力に対抗できずに沈んでいくことを止められなかった。
「楓ちゃん?」
「どうしたの?こんなところで…。」
変な場所で立ち止まっていたので目立ったのであろう。
滝と鳳に声をかけられた。
その瞬間、先程の跡部の氷の視線が頭を過った。
そして、楓は準レギュラーの部室へと走り去った。
「うわっ!」
部室の扉を開こうとした瞬間、中からタイミングよく日吉が現れて後ろへ倒れかかった。
彼が上手い事背中を支えてくれて事なきを得たが、そのせいで楓は表情を見られてしまった。
「何があった。」
「あはは、澪先輩と部長を怒らせちゃったかも…」
そういえば日吉は眉間に深く皺を寄せた。
「だから言っただろ、面倒事に巻き込まれるって。」
詳細は話していないけれど、彼は察したのか、部活が終わったら話を聞いてやる、と言い残してその場を後にした。
そんな彼なりの優しさが楓の身に沁みた。
そうだよ、今は部活中だし、私は本当に何もしていない訳だし。
切り替えてマネージャーしなくちゃ!
慣れた手つきで準レギュラー用のドリンクを用意していれば、先程の出来事が嘘のように其れだけに集中できた。
私はやっぱりこの仕事が、マネージャーが好きなんだなと実感もした。
澪先輩のように、もっと出来るようになれば…
きっと澪先輩もあんな事、もうしないよね?
先輩たちも、今までと同じような視線を向けてくれるよね…?
そんな淡い期待を込めながら、ドリンクとタオルを籠に詰めて準レギュラーの元へ駆け出した。
一方、楓が後にした正レギュラーの部室には異様な雰囲気が漂っていた。
沈黙の続く部室。
外から聞こえる打球音がやたら大きく響いている。
ずぶ濡れの澪に、珍しく感情を表に出している跡部。
戸惑いを隠せない向日に、まだ少し混乱している宍戸。
この中では比較的冷静な忍足が、苛立ちを隠しきれていない跡部に声をかけた。
「跡部、とりあえず澪が風邪ひいてしもうたら大変や、着替えて帰してやりや。」
「…澪、俺様の家まで車を回す。ミカエルに準備させておくから入浴と着替えを済ませておけ。」
「うん…ありがとう。」
澪は更衣室へ向かい、部屋には再び沈黙が続いた。
「跡部、楓ちゃん…どないするん。」
忍足は楓が犯人だとは思っていなかった。
ただ、だからと言って、犯人がいなければこの状況は生まれない事も理解していた。
「澪の話を聞いてから考える。」
「…楓は、他の奴とは違うと思ってたのによ…これじゃあ、寧ろ他の奴よりタチが悪いじゃねぇか…。」
ようやく口を開いたダブルスパートナーは、分かりやすく落ち込んでいた。
彼は彼なりに楓を信頼していて、可愛い後輩だと可愛がっていた事を隣にいた忍足は良く知っていた。
「岳人、決めつけはアカンよ。」
「じゃあ!…じゃあどうして澪がこんなことに…こないだからおかしいじゃんか!」
感情を昂らせる向日に、上手く言葉をかける事ができなかった。
確かにおかしい。
澪のうっかり、では今日の一件は片付けられない。
だからと言って、先日の出来事を安直に今日の一件に結びつけて良いものか。
しかしながらどれも楓が彼女と共に過ごしている時に起きている事実。
それでも忍足は、楓の日頃の様子から、彼女を犯人と決め付けるのは早計過ぎる、そんな予感がしていた。
「…らしくねぇミスが続いてるとは思ってたけどよ。」
宍戸が沈黙を破る。
「そう言う事だったんじゃねぇのか…こないだからよ。」
全てを諦めたように言い捨てる宍戸。
「澪を心底慕っているように見えてたけどよ…あれも演技だったんじゃねぇの。」
「まさか、そないな事…」
「だって見ろよさっきの澪。庇ってるようにしか見えなかったじゃねえか…」
「…お前ら、俺は今夜澪の話を聞いてから判断する。ただ、澪に敵意を向けるなら容赦はしない。」
「跡部…」
「忍足。澪と楓、どちらかを取れと言われたらお前はどちらを選ぶ。」
…入学当初は皆、澪に一目惚れに近い状態だった。
過ごすうちにその愛おしい想いは膨らむばかりで。
ただ、跡部の許嫁だから誰も手を出せないだけで、この想いは3年全員共通だという認識だ。
その酷な2択に正解を見出すならば、我々の答えは全員同じだろう
──澪だ。
「それは…澪に決まっとるやん。」
「だろうな。なら、澪を傷付けるような事は絶対に許すな。」
「それも、わかっとるつもりやで。」
澪と過ごした時間と楓と過ごした時間では大差がある。
それに信頼の度合いも比例している。
だからといって、忍足は楓が澪に危害を加えるような子だとは、まだ思えなかった。
澪のいた場所にあるドリンクの水溜りをみても、そこに答えは映っていなかった。