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先程、恋人から連絡が来た。「今日一緒に退勤して、私の部屋に来たい」というものだった。しばらく悩んだ末に、了解の返信を送った。
お昼休みを終え、仕事場に戻るため廊下を歩いていると、ふと曲がり角から聞き覚えのある声が聞こえてきた。
その声に、足が自然と止まる。盗み聞きなんてするつもりなんてなかった。ただ、廊下を通りかかっただけだった。
声は女性職員と恋人ーー南雲さんのもの。
「、順調ですか南雲さん」
「うーん、まぁまぁかな」
何の話だろう…。
でもこんなところで立ち聞きしているのは良くない。仕事の進捗の話かもしれないし。それは聞くべきてはない。
そう思い、その場を去ろうとした。
「へぇ。南雲さんでも手こずることあるんですね。夢主さんを堕とせそうですか?」
え…、今私の名前……?
自分の名前を呼ばれ、足が止まった。
なに、私を堕とす…?何の話……?
聞いてはいけないと頭の中で警鐘がけたたましく鳴り響く。聞いてはいけない、聞くべきではない。
そう思っていても耳は完全に二人の会話に吸い寄せられていた。
「頑張ってくださいよ。私はあと二日ぐらいで堕ちるって賭けてるんですから」
酷く楽しそうな女性の声が、鈍器で頭を殴りつけられたように響いた。
「あはは、あと二日はないんじゃない?」
南雲さんの楽しそうな声に目の前が歪んで、次々聞こえてくる会話から二人は私を堕とすゲームをしているのだと分かる。その話を聞いていけばいくほど、血が凍りついていく気分だった。
南雲さんと付き合い始めたのは南雲さんから告白をされたから。「私では不釣り合いだ」とか、「役不足だ」と散々伝えたけれど、聞き入れてもらえず。「取り敢えず試しに」と押し切られ付き合い始めたのだ。女性幾人と付き合って来た南雲さんはお付き合いもスマートだった。私はいつフラレても良いようにと一線を引きながら付き合っていた、のに…。
頬を温かい何かが伝っていくのを感じて、ちゃんと一線引ききれていなかったのだと痛感した。
そうか、私、賭け事の対象で弄ばれていたんだ…。
「もし、夢主さんが堕ちたら今までの子や私みたいに、捨てるんですよね……?」
あぁ、しかもこの女性は南雲さんに弄ばれてもまだ好意を抱いているんだ。私を、捨てる…。南雲さんは堕とすまでの過程を楽しんでいて。この女性はそんな南雲さんを分かっていて……。
じゃあ、南雲さんは、もう私を捨てるのだろう。
その事を南雲さんの口から聞きたくなくて、私は逃げるように足早にその場をあとにした。
午後の仕事に戻ったけど、あまりに酷い顔で仕事をしていたのだろう。同僚や上司から帰れと言われ、早退せざるを得なかった。
本当は仕事に没頭して、あの時のことを考えないようにしていたかったのに。着替えて、出入り口に向かうと綺麗な金髪とすれ違った。
「あれ、南雲の……」
そんな声をかけられた。
振り返ればORDERの神々廻さんと大佛さんがこちらを見ていたけど、神々廻さんは私の顔を見るとギョッとした。
「うっわ、自分顔色悪いで…?大丈夫か……?」
大佛さんも「顔色悪い…」と言って近付いてくると私の両頬をむにゅむにゅと揉んでくる。その力は結構強くて少し痛い。
「お、大佛さん…、力強いです…」
「なんや早退か?具合悪いんか?」
心配してくれたのか声をかけてくれる神々廻さんの優しい声が傷ついた心に染みる。涙腺が緩みそうになるのを頬の内側を噛んで堪えた。
「ちょっと……、ご心配をお掛けして、すいません…」
「そか。お大事にな。大佛、行くで」
そう言って神々廻さんは大佛さんに声をかけて、歩き出すように促すけど、大佛さんは私の両頬を包んだまま目を逸らさないし、動かない。相変わらず、読めない目。深いアメジストのようなキレイな目だけど、その目には怒りがあるように見えた。
大佛さん、怒ってる…?
「何か、あった……?」
何かを見抜いたように大佛さんはそう言った。
その優しい声に、堪えていた涙腺が緩む。我慢していたものが溢れ出した。ボロボロと涙が零れ落ちた。
私の涙を見て、二人は驚いたような様子だった。
「ッ……実は………」
話し出そうとすると、大佛さんと神々廻さんは私を引き連れて外に出ると、半個室のある喫茶店に連れてきた。そこで私は、先程聞いたことを涙ながらに説明した。
お忙しい二人に時間を割いてもらって申し訳ない気持ちと、あの話を聞いて誰かに誰かに相談したくてたまらない気持ちと、自分は弄ばれていたのだという悲しみで、私の心はぐちゃぐちゃだ。すべてを話し終えると、神々廻さんはうーん、と唸りながら口を開いた。
「ほんで、お前はどうしたいん?」
「大丈夫、あの人が嫌なら殺してあげる…」
「大佛、落ち着きなさい」
涙を流して、二人に相談したのが良かったのか少し落ち着いてきた。
「分不相応だったんですよ」
そう。
私では、南雲さんには相応しくない。
「私、綺麗でも可愛いでもない。特筆した所もないし。まさにモブや脇役なんですよ。そんな脇役が、」
「あなたは可愛いよ……?」
「大佛、ちょい黙ってなさい」
「ORDERの一人で、そんな凄い人である南雲さんと本当に付き合えるわけなかったんですよ」
そう、きっとあの時話をしていた女性のように自分に自信を持っているような人間なら、南雲さんの隣に立つことが出来たのかも知れないけど。私には出来ない。
そう言うと、神々廻さんは溜息を吐いた。
「答えになっとらんで」
「え、」
「お前の言葉を借りるならな、綺麗でも可愛いでもない特筆した所もない脇役のお前が、どうしたいか、や」
私が、どうしたいか…?
その思考にはそういえば至ってなかった…。
南雲さんは私と遊びで付き合ってるからフラれるって思ってたけど、でも今私は南雲さんが遊びだって知ってる。何だか少し視野が広くなった気がした。私は少し間を開けて、考えをまとめると口を開いた。
「……、もう、傷付きたくないです」
それが、私の出した答えだった。
******
早めの夕食を終え、南雲さんが来るのに心を落ち着かせる。時計を何度も見ていると、鍵を閉めておいたはずの玄関が開く音がした。そして、扉が閉まって鍵が掛かる音がしたかと思うとバタバタと靴を脱ぎ捨てて、慌てた様子の南雲さんが部屋に飛び込んできた。
「夢主ちゃん大丈夫?!早退したって聞いたよ!?」
あぁ、そういえば今日一緒に退勤するって約束してたっけ…。
ぼんやりとそんな事を考えていると、南雲さんは私の前にしゃがみ込んで、壊れ物に触れるような手つきで私の頬に触れる。
もし、あの時の会話を聞いていなければきっとこの手にまだ騙されていたのだろう。嘘だと分かった今はなんて白々しいと胸の中で吐き捨てた。
「大丈夫です、ちょっと同僚や上司が大袈裟なだけですよ」
「いや、今からでも病院に…、」
「それより、南雲さん。話を聞いてほしいんです」
私では分不相応な大きくて、強くて、いつの間にか大好きになっていた手にそっと触れた。南雲さんはいつもの私とは違う様子に何か感じ取ったのか「うん」と言ってくれた。
「私、見ての通りなんです。特別綺麗でも可愛いでもない。南雲さんの隣に立てるような殺しの技術特出しているわけでも、他の能力が秀でてるわけでもない。モブや脇役なんです
でもね、南雲さん。
モブや脇役でも、感情がないわけじゃないんです。嬉しいことがあったら嬉しいし、悲しいことがあれば涙を流すんです」
「…………?」
「だから、ごめんなさい。南雲さん。私、あなたのおもちゃにはなれません」
堕とすためのゲームにかけられている時点で私は南雲さんの手で踊る操り人形だったのかも知れないけど。でも、最後ぐらい私は私の意思でその糸を切らせて欲しい。
あなたに切られるくらいなら。
私が、切ってしまおう。
「南雲さん、私と別れて下さい」
そう、これが私の出した答え。
「…………ぇ、」
南雲さんは私の言葉に酷く狼狽えている様子だった。
「すいません」
そう言って私は南雲さんの手から手を離すと、その手を強く握られた。痛くて、そこまでするほど南雲さんは怒ったのかと思った。
「ぇ、や、やだ、嫌だ…!僕、何がした…?君を怒らせるような、嫌われるようなことしたかな…?」
嘘つき。
嘘つき。
そんな必死な声を出さないで。
私を好きみたいな声を出さないで。
揺れ動きたくない。
自分がフりたいからってそんな必死にならないで。
「嫌だよ、別れたくない…!なんで、どうして…?!他に好きな男が出来たとか…?」
「いいえ」
「だったらなんで、」
必死で、悲しみに満ちた声が、私の怒りを逆撫でする。なんであなたがそんな悲しそうな声を出すの?
泣きたいのは私なのに。
騙されて、弄ばれていた私なのに!!
「そんなに自分から私をフりたいんですか…?」
「…ぇ、フる………僕が…?」
あぁ、なんて白々しい!!
そう思うと私の中で何かが爆発してしまった。
「随分楽しい賭け事をなされているんですね。私を堕とすゲームでしたか?」
そこまで言うと、南雲さんは息を詰めた。
あぁ、やっぱりと思った。
「私を怒らせるような、嫌われるような事?騙していたのに、よくそんなことが言えましたね。さっきも言いましたよね?私、あなたのおもちゃにはなれませんって」
「僕は君を、」
「堕ちたら捨てるんですよね?そりゃそうですよね!そんな特段綺麗でも可愛いわけでもない脇役女で、南雲さんはいつまでも遊ぶん、」
言葉は、大きな手によって遮られた。南雲さんの大きな手が私の口元を覆ったのだ。優しく、拒んだのだ。
「やめてよ…」
南雲さんの声は震えていた。
お願い南雲さん、これ以上私に嘘つかないで。
あなたとの思い出は綺麗なままで終わらせたいの。これ以上苦しみたくないの。傷付きたくないの。
「僕の愛する人を貶すようなことを、君の口からでも聞きたくないよ」
そこで初めて私は、しっかりと南雲さんを見た。
苦しそうで、悲しそうで、今にも泣き出すんじゃないかと思った。
「…、昼間の話を、聞いたのかな」
私は何も言わず、視線を逸らした。それを肯定ととった南雲さんは言葉を続けた。
「僕は君を、おもちゃとでも賭け事の対象としても見たことないよ」
止めて。止めて。
お願い。
変に希望を持たせないで。
傷付きたくないの。
苦しみたくないの。
悲しみたくないの。
「僕はずっと君だけは、愛する人としてしか見てないよ」
嘘つき。
「それに、君は捨てない」
嘘つき。
「だからお願い。この手を放さないで。僕は絶対に手放さないから、僕の全てをあげるから、君の全部を僕に頂戴」
嘘つき。
両頬を包み込みながら、南雲さんは私の額に額を合わせる。
祈るような、乞い願う声だった。
「好きじゃないくせに」
「好きだよ」
「遊びのくせに」
「君だけなんだ」
「私のことなんて、」
「貶さないで」
僕の愛する君を。
分かってる。嘘だって。
嘘だって分かってるのに、涙がボロボロと溢れる。
信じて、傷付けられたくない。
もう、悲しい思いなんてしたくない。
必死に自分に言い聞かせていると、それを感じ取ったのか南雲さんは服が汚れるのも気にせず抱き締めてきた。
「お願い、僕を一人にしないで」
ポソリと囁かれた言葉を、私はどうしたら良いのか分からなくて、ただただ涙を流していた。
南雲は彼女に今日一緒に退勤して彼女の部屋に行きたいと連絡する。しばらくしてから了解の連絡が来て心躍らせた。この間任務で他県に行った際に見つけた花の髪留め。衝動買いなんてするつもりはなかったが、これは絶対に彼女に渡したくて買ってしまった。照れながらも付けてくれるだろうか?きっと可愛いに違いない。あぁ!早く退勤時間になれ!!
「あれ、南雲さん」
声がした。
振り返ると、以前遊びで付き合った女がそこにいた。女はいわゆる「堕とすゲーム」をしていた頃に堕とした女だ。
「やぁ、久しぶり」
女もそのゲームを理解していながらこうやって絡んでくるのだ。他愛ない話をしていると「そういえば」と女が話の話題を切った。
「堕とすゲーム、まだされてるんですか?」
「どうだと思う?」
「その調子だとまだされてそうですね!」
よく喋る子だなぁ、なんて思いながら南雲は適当に相槌を打つ。
「今は夢主ちゃんとお付き合いしてるよ」
あわよくばこの子がスピーカーになって、みんなに広めて外堀を埋められないかなぁ。神々廻や大佛やORDERの皆には言ってるけど、みんな広めてくれないんだもんなぁ、なんて下心を抱きながら南雲は言った。だが、女は「知ってますよ」と言葉を返してきた。
「、順調ですか、南雲さん」
「うーん、まぁまぁかな」
「へぇ。南雲さんでも手こずることあるんですね。夢主さんを堕とせそうですか?」
夢主ちゃんを堕とす、かぁ。
「どうかなぁ」
そんなつもりで見てないからなぁ。
むしろ僕が堕ちてるから。
「えー、みんなで賭けてるんてすから頑張ってくださいよ」
うわ、みんなで賭けてるって僕達の仲結構知れ渡ってるんだ。良かった。これで彼女に近づく悪い虫も減ってくれるといいんだけど。
「私はあと二日ぐらいで堕ちるって賭けてるんですから」
「あはは、あと二日はないんじゃない?」
あぁ、夢主ちゃんに会いたいな。
最初から逃がすつもりはなかったけど、彼女の中での己の評価はあまりに過小評価すぎる。こんな子よりも仕事は出来るし、殺し屋に向いてないんじゃないかというほど優しい。お試しで付き合い始めた事を絶好のチャンスと思って今必死に頑張っている。
「えー、じゃあ一週間とかですか?」
「どうかな、それは分からないからなぁ」
「…、へぇ。南雲さんでも読めないんですね」
「そうだね。あの夢主ちゃんのことに関してはね」
「ふーん……」
あ、この子。
僕のことまだ諦めてないんだ。
あれほど手酷く振ったのに。ドM精神には恐れ入るよ。僕だったらさっさと良い人探しちゃうけどね。
夢主ちゃんみたいな!
「もし、夢主さんが堕ちたら今までの子や私みたいに、捨てるんですよね……?」
「えー、なんでー?」
「なんでっ、て……」
女が動揺する。
「僕、まだ堕とすゲームしてるって言った?」
「え、」
「今は本気で夢主ちゃんとお付き合いしてるんだよ。どうして夢主ちゃんを捨てなきゃいけないの?」
「ッあんな子のどこが良いんですか!!私の方が南雲さんの事を理解して、」
女は気付くのが遅れた。
南雲の目からハイライトが消えた事に。
そして、その手にはいつの間にはナイフが握られ、首元に刃が押し付けられていたことに。
「僕の事知ったつもりだったんだ。だったら分かるよね?僕が愛する人を蔑まれたらどうするか…」
女の口からは引き攣った悲鳴しか出なかった。
「もう僕に付きまとうのやめてね。じゃないと次は本当に首刎ねるから」
あーあ、時間を無駄にした。
早く、退勤時間にならないかなぁ。
なんて思いながら南雲はその場に崩れ落ちる女を無視して招集場所に向かった。
