タキ書♀短編(全年齢)


「募る、溺れる、その先に」


 私の初めては、いつだってタキ先輩が攫っていく。好きという言葉も、柔らかく触れたくちびるも、甘やかに拓かれていった身体もぜんぶ、ぜんぶ。
 真っ白な雪原に真っさらの足跡を残していくように私のすべてを奪って、そして代わりに、甘く疼くような恋心と、息苦しいほどの胸の痛みを与えてくれた人。
 痛みさえもあなたから与えられたものならば喜びに変わるでしょう、なんて。いつか読んだ恋愛小説の一節が、頭を過ぎる。
 初めてその一節を目にしたとき、その言葉が織り成す意味は何となく理解ができても、まるで違う国の言葉を聞いているような心地がしたのを覚えている。いつか実感を伴って、この言葉を本当の意味で理解できる日が自分にも来るだろうかと、おぼろげな期待と不安を感じたことも。
 結果として、私はミーティアへやって来て書記生としての役割を全うする中で、タキ・ルーカス・スタンリーに恋をした。そしてその恋は、私にいろんな感情を教えてくれた。
 うっとりするほど綺麗でしあわせなだけじゃない、どろりと濁った暗い感情も、際限なく求めてしまう欲深さも、タキ先輩に出会って初めて知ったものだった。
 ベッドに横たわり、乱れたシーツにまだこもったままの二人分の熱を感じながら、そっと耳たぶに触れてみる。
 左右両方の耳たぶに、ひとつずつ開いた小さな穴には、タキ先輩の髪色のような赤い石が埋まっている。先輩に贈られたそのピアスは、俺のものだと言わんばかりに両耳で主張していて、それが嬉しくていつの間にか髪を耳にかける癖がついてしまった。
 そして知ってか知らずか、先輩は二人で過ごす夜には必ず耳たぶにキスをしてくる。
 最初は掠める吐息がただくすぐったいだけだったのに、いつからか鼓膜を震わせるように普段よりも低い声で名前を呼ばれると、私はぐずぐずになった頭でただ先輩を求めることしかできなくなってしまう。
 こうやってまたひとつタキ先輩に教えられ、私自身が作り替えられていく。
 それが嬉しくて、でもそれ以上に、こわい。
 だってそれは、タキ先輩が好きになってくれたはずの自分から、どんどんかけ離れていってるってことなんじゃないかって、そう思うから。
 そんな臆病風に吹かれながら、ベッドサイドに腰掛けて水を飲む背中をじっと見つめていると、ふいに視線がぶつかった。
「……どうした? 変な顔して」
 サイドテーブルのランプに照らされた大きな瞳が、きょとんと丸くなる。どことなく少年ぽさを残したその表情は、さっきまで私を組み敷いていた男の人と同一人物というには、あまりに大きくかけ離れている。
 目を細め、歯を食いしばりながら熱っぽくこちらを見下ろしてきたあの姿は、もしかするとぜんぶ私の夢だったのかもしれない。
「へんな……かお」
 あの自由と冒険を何よりも愛するタキ先輩の素肌とその熱に触れられる距離を許されていること自体、ぜんぶお前の妄想だと言われてしまえば、確かにと納得してしまうくらいには実感がなかった。
 何で自分だったんだろう。タキ先輩にとって、自分じゃなきゃダメな理由って何だろう。自分が安心するための都合のいい理由を、この人の視線や言葉、態度からつい探そうとしてしまう。
 そんな自信のない自分が嫌だ。タキ先輩の隣に立っていたいのに、こんな自分じゃ相応しくない気がして。いつか先輩の心が離れてしまう日が来るのなら、今のうちにこの温もりを手放す予行演習をしておかなくちゃ、なんて。予防線を張って自分を守ることばかり考えている。
「それは……まぁ、そりゃタキ先輩に比べたら、へんてこな顔だとは思います」
「ははっ。わりぃ、拗ねんなって。言い方間違えた」
「いや別に、拗ねてるとかじゃないんですけど……ちょっと、あの、手離してもらっていいですか」
 まっすぐ見つめてくる強いまなざしは、私の弱い心を暴いてすべて丸裸にしてしまいそうで。その視線から逃げるようにブランケットを引っ張り上げて顔を隠そうとするが、伸びてきた大きな手のひらにあっさりと阻まれてしまった。
「やだ」
「ほんと、あの……今は、っ」
「お前、また変なこと考えてるだろ」
「なんで……」
「分かるんですかって?」
 私の手首を片手で難なくまとめ上げ、シーツに縫いつけて。もう片方の手で、また耳たぶに触れてくる。そこに埋まった赤を確かめるように動く指先が、耳介をなぞって耳裏をひと撫ですると、ぴくんっとわずかに肩が跳ねた。
 弧を描いたくちびるがゆっくりと近づいてきて、耳穴を塞ぐようにそっと囁く。
「お前のことなら、分かるよ」
 深い井戸に向かって秘密を吐露するように、静かに響いてこの胸を波打たせるその言葉は、私にとって劇薬だ。
 ああいっそ、与えられる温もりに溺れてすべて委ねてしまえば、楽になれるのかもしれないけれど。
「ほら、また。俺のこと好きでたまらないくせに、最後の一歩そっち側で踏ん張ってるときの顔だ」
 私と目を合わせたタキ先輩が、ふっと息を吐く。それは、呆れだとか諦めからくるため息じゃなくて、立ち尽くす私にこっちへおいでと手を差し伸べるような、そんな微笑みからこぼれ落ちた吐息。
「……なんですか、それ……」
「知らなかったか? お前、顔に出やすいんだよ」
 そんなの、知らない。先輩の前で自分がどんな顔をしているのかも、そんな風に先輩が慈しむようなまなざしで私を見てくることも、知っているようで全然知らなかった。
 何だか顔が、目の奥が、熱い。夜明けを待つ薄暗い部屋の中で、見下ろす赤い瞳に映るのは情けない顔をした私だけだった。
「……なぁ、どうやったらお前は、俺に全部くれるんだ?」
「ぜん、ぶ……?」
 もうとっくにこの身も心もすべてタキ先輩に差し出しているつもりだったから、先輩の言葉の意味がよく分からなくておうむ返しをしてしまう。
 タキ先輩の大きな手が伸びてきて、頬を包み込む。両手でむにむにと私のほっぺたを捏ねながら、ほんの少し眉尻を下げて先輩が笑った。
「俺が欲張りなのは、知ってるだろ? 一緒に出かけて、手繋いで、キスとかそれ以上のこともしてきたけどさ、まだ足りないんだ。お前が大事に抱えてるその、俺を好きな気持ちも全部手に入れたくて仕方ねぇんだよ」
 いつも自信満々に前だけを向いて力強く笑っているようなこの人の、ほんの一瞬揺らめいた表情にはっと息を呑む。 腕の拘束は解かれたはずなのに、頬を包む手のひらと胸を焦がすその視線だけで、タキ先輩はいとも簡単に私の身動きを封じてしまった。
「俺の知らないところで、勝手に手放したりできないようにしちまいたい。なぁ、言ってる意味分かるか?」
「タキ、せんぱ……っ」
 頬を包み込む手はそのままに、先輩のくちびるがおでこに触れる。ちゅっと音を立ててすぐに離れていった柔らかな感触を名残惜しむ前に、まっすぐ見下ろしてくる力強い瞳に捕らわれた。
 その願いはなんて傲慢で、欲深いんだろう。だって自分を想う相手の気持ちすら、自分が握って離さないと、そう言っているのだから。
「お前は、いつになったらこっち側に来てくれるんだ?」
 ああもう、ずるい。そんな風に言われたら、勘違いでもいいから、その胸に飛び込んでしまいたくなる。きっと最初から私に、抗う術なんて残されていなかった。
「……なんで、そんなこと言うんですか……ほんと、先輩はずるいです」
「狡くねぇーよ。ただ、欲しいもんは諦めたくないだけ」
 にっと、いつもの勝気な笑みを浮かべるタキ先輩の瞳の赤が、濃く深い色に染まる。それは、圧倒的捕捉者の目。ああそうだ、そうだった。私が心を奪われたタキ先輩は、こういう人だった。
 欲しいものや見たい景色、自分が望むものにはどこまでも貪欲で、手に入れるための努力は惜しまないし手に入れるまでの苦労も含め、その過程すら楽しめる人。
 けれど、ひとところに留まることなく興味の赴くまま自由に世界を広げていく人だからこそ、何かに執着する姿は見たことがない。苦労して手に入れた宝石すら、あっさりと手放してしまう。
「……タキ、先輩は……」
 私のぜんぶを手に入れてもなお、私を求めてくれますか。言葉にならない問いは飲み込んで、自由になった腕を先輩の背にそっと回す。
 私の手には余ってしまう、あまりに大きな背中だった。
 きっと、欲しがってもらえるうちが華なんだろう。すべて手に入ってしまったら、未知が既知になってしまったら。いつかこの心を明け渡した先で、私のもとを旅立っていく先輩の背中を見送る日が来るのかもしれない。
 そのとき私は、涙を見せることなく手を振ってタキ先輩を送り出せるだろうか。その覚悟が、自分にはあるだろうか。情けなく追い縋って、好奇心に輝く瞳を曇らせるようなことはしたくなかった。
「ん?」
 飲み込んだ言葉の先を促すように、タキ先輩がじっと見つめてくる。
 この人の好奇心を満たし続ける存在を私は知らないし、そもそも自分がそれになれるだなんて一ミリも思わない。
 その胸に飛び込む覚悟は、あまりに重たい。いっそ目隠しをして、このまま足を踏み外してしまおうか。そうすれば、その重い引力でもって、タキ先輩にくっついていられないかな。なんて、困らせるだけのこと、言えるわけなかった。
「ううん……何でもないです」
「おい、嘘つくなよ。何でもないって顔じゃないんだけど?」
「……嘘、とかじゃない、ですよ?」
 そう、嘘なんかじゃない。タキ先輩に聞かせるようなことは、何もないんだから。先輩の背中に残る古い傷痕、その引き攣った肌を指先でなぞりながら、私は口を噤む。
「とぼけんなって」
「とぼけてないです」
「お前、こういうときはほんっと強情だよな」
「タキ先輩こそ、なんでそんなに粘るんですか。なんかいつもと違いません?」
「違うって何がだよ、お前は俺を何だと思ってんだ?」
 むっと、口をへの字にした先輩が、よく伸びる私のほっぺたを引っ張る。もちろん手加減されているから、痛くはない。ただ、ずっと触れたままの肌と、真意を探るような瞳に落ち着かないだけ。
「だってタキ先輩は、あれじゃないですか、何かに執着するタイプじゃないって言うか……」
「はあ? それ、本気で言ってんのか?」
「はい……? だって、実際そうじゃないですか? 手に入れたお宝にも執着しませんし」
 だから話を逸らしたくて、つい余計なことまで口にしてしまったらしい。タキ先輩は凛々しく持ち上がった形の良い眉をわずかに顰め、その下にある赤い瞳をすっと眇めた。
「いや、そりゃ物への執着はないほうだと思うけどさ。でも、お前は物じゃねーだろ」
「えっと……?」
「うわ、まじかよ。あー……くそっ。まあ、普段から誤解されるような言動してる俺が悪いのは百も承知なんだけどさ。どれだけ俺がお前のこと欲しくてたまらないか、これっぽっちも伝わってなかったのは……さすがにおもしろくねーよな」
 ぴりっと張り詰めた空気に戸惑いながら口ごもる私に、上体を起こしたタキ先輩はがりがりと頭を掻いて大きく息を吐く。離れた熱に安堵するよりも先に淋しさを感じてしまう辺り、自分でももう手に負えない自覚はあった。
「俺、しつこいよ。お前が思ってるよりもずっと、お前に執着してんだけど」
「や……でも、それは……」
「手に入れたら満足して終わり、とでも思ってんのか?」
 ひんやりとした硬い声色に、ずきんと胸が痛む。タキ先輩自身の言葉で、口にされてしまった『恐れ』は、ぐさりと突き刺さって私の呼吸を奪っていった。
 何も言葉を紡げずにいる私の頬を、大きな手のひらがするりと撫でていく。
「図星、だな。言っとくけど、そんな簡単なもんじゃねーよ。好きな女にこうやって触れて、過ごす時間に、一秒でも同じ瞬間なんてあるわけないんだからさ」
 知らぬ間に噛み締めていたくちびるを窘めるように、タキ先輩の親指がそっと添えられる。
 そして、まるで紅でも拭うみたいな仕草でゆっくりなぞっていったかと思うと、眉根を寄せて顔をくしゃりと歪ませた。
「はっ……一生満足できる気、しないな」
「……っ、ん……っ」
 どこか自嘲めいた苦しげな表情を見て思わず固まっていると、閉ざしていたくちびるをこじ開けるように、タキ先輩の人さし指が口内へと差し込まれた。あ、と声にならない声が、喉奥から漏れ出る。
 自然と招き入れる形になった指がぬるりと舌の上を滑っていって、今さら引っ込めることも押し返すことも叶わず、愛撫するように前後に動く指をただ受け入れることしかできない。
「ふっ……ん、ぁっ……ふ、ぅ」
「はは……っ、いい声」
 節くれ立った男らしい太い指が、ざらりとした舌の表面を往復するたび、奥からどんどん唾液が溢れてくる。気がついたら自分から先輩の指を欲しがるように、舌を絡めていた。
 第二関節のぽっこりと浮き出た骨を甘噛みしながら指の先っぽにぢゅうっと吸いつけば、四角くて大きな爪とペンだこの形、硬い皮膚の感触が舌先に感じられる。ああ、見なくても分かる、大好きなタキ先輩の指だ。
「んぅ……っひゃ、ひ、へん、ぱぃっ」
 先輩の指を味わうように夢中でしゃぶりついていると、溢れ出した唾液が口端からこぼれて顎を伝っていく。きっとどうしようもなくだらしない顔をしてしまっている。タキ先輩の目には一体どんな風に映っているんだろう。想像しただけで恥ずかしくてそっと目を伏せると、こっちを見ろとでも言うように、ごつごつした硬い指が上顎を擦り上げた。
「なぁ、かわいい顔、もっと見せてくれよ」
「あっ……ん、ふぅっ……」
 ぞくぞくと尾てい骨から這い上がってくる痺れるような快感に身を震わせる私の口内から、先輩の指がずるりと引き抜かれる。追いかけるように空気に触れた舌先から細い銀糸が伸びて、かあっと頬が熱くなるのが分かった。 
「今度はこっち、な?」
 顔を寄せたタキ先輩の舌が、物欲しげに突き出したままの私の舌先をちょんと突く。応えるように先端を舐めると、先輩はよくできましたと言わんばかりに満足そうに目を細めた。じゃれ合うように舌と舌を擦りつけ合い、戯れに付け根や裏筋をくすぐられると、頭がぼんやりとしてくる。
「んっ……ん、ぅ……はっ……ぁ」
 その先を期待して、赤い瞳をじっと見つめる。燃えるような赤に溶け出す水色の虹彩にきらめく星が瞬いて、まるで朝焼けの空みたいだ。目に映るすべてが、タキ先輩の色に染まっていく。
 見惚れる私に覆い被さりながら、先輩が深く口づけてくる。呼吸を奪い吐息さえ貪るようなキスは、わずかな息継ぎの瞬間すら許してはくれなかった。肉厚な舌が私の舌を絡め取り、狭い口内へ押し戻すような力強さでくちびるを塞がれてしまえば、もはや逃げ場はないのだと悟る。
「はぁっ……ん、っ……なぁ、もっと……ッ」
「あ、ンぅ……っ、ふぅ……ぅ、んっ……」
 一体どれくらいの時間、くちびるを重ね合わせていたんだろう。酸欠状態のぼやけた頭では何も考えられなくて、ただ目の前にあるタキ先輩の身体に縋りつくことしかできなかった。新鮮な空気を求めて顔をずらそうにも、頭に添えられた大きな手が正面を向くようにがっちりと固定してくるから叶わない。
 もっともっとと、際限なく求められるたび息苦しさよりも安堵が胸に広がる。求められている実感だけが、この胸を巣食う不安や憂いを埋めてくれるから。
「はっ……ん、ちゅ……んっ……好きだ、レイ」
「……んぅっ、ぁ……っ、タキ、せんぱ……っ」 
 シーツに散らばる髪をぐしゃぐしゃに掻き乱しながら、心ゆくまで口内を貪り尽くしたタキ先輩は、最後に一際強く吸いつくと私の舌を解放した。そのまま鼻先が触れ合う距離で好きだと囁かれ、名前を呼ばれて、お腹の奥が疼く。まだ物足りないとでも言うように、タキ先輩が欲しいと身体中が叫んでいた。
「……なぁ、まだいけるよな?」
 何が、なんて聞くまでもない。見つめ合う瞳の奥、二人揃って燻る同じ色の熱が答えだ。
 ねだるように肩に腕を回せば、引き締まった筋肉が呼吸に合わせてゆっくりと動く。先輩は肌をさする私の手を捕まえると、絡めた指を握り込むようにぎゅっと力を入れた。顔の横で、運命線を合わせるようにぴったりと重なった分厚い手のひら。その押さえ込む力強ささえ、今は心地いい。
「ちゃんと伝わるように、お前が分かるまで愛してやるから。振り落とされずに、ついてこいよ?」
 生まれたままの姿でシーツの海を揺蕩いながら見上げたタキ先輩は、私に跨ってにやりと笑う。
 部屋の明かりに照らされた、左耳のピアスが揺れてきらりと反射した。その眩しさに私はいつだって目を奪われ、心を鷲掴みにされる。
 たくさんこの身に刻みつけて、教えてほしい。私が誰のものなのか疑いようもないくらいに分からせて、不安に揺らぐことがないほどにどうか、どうか溺れさせてください。
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