相模県箱根町 湯本温泉

  • 十三宮 巫部 仁

    「…ねえねえ、まだ起きないの?

    あの…疲れていたら、無理に起きなくても良いけど、早く起きてくれないと、頬っぺたスリスリしちゃうよ^^」

  •  ここは…?

  • ああ、思い出した。

  • 往路の交通で無意識に疲労が蓄積したらしく、旅館の客室に着くや否や、布団に倒れたまま寝ていたようだ。

  • すぐ隣には、幼馴染みの十三宮とさみやめぐみが居て、の顔を楽しそうに見詰めている。

  • 同じ和室には、姉の十三宮聖が正座で茶菓子と対峙し、洋室の椅子ではもう一人の姉、十三宮勇が涼んでいる。

  • は暫く、仁さんの笑顔と無言で見詰め合っていたが、人の心を読める事に定評のある聖姉さんは、の目覚めもすぐに察したようだ。

  • 十三宮 伊豆守 聖

    「お疲れは取れましたか?

    夕食まで時間が御座いますので、お禊ぎに参りたいと思います」

  • 十三宮 巫部 仁

    「皆で一緒にお禊ぎする!」

  •  はもう慣れたが、「国語」あるいは「言霊」とでも言うべき概念に価値を見出す彼女ら…特に聖姉さんは、しばしば回りくどい言葉遣いを決行する。

  • 「入浴」を「禊ぎ」に自動変換するのも、その一例である。

  • 十三宮 勇

    「温泉なんて久々ね。

    着替えの下着はどこに入れたっけ?」

  •  その点で勇姉さんは、良くも悪くも分かり易い言動が平常である。

  • 早川
  • 十三宮 巫部 仁

    「ねえねえ、次はこっちに入ろうよ!

    お湯が湧き出て来て、体に当たるのが気持ち良いんだよ!

    あ、お外にも行こうね!

    それから、温室!」

  •  温室?

  • ああ、サウナか。

  • 仁さんは(睡魔に憑依されていない時に限り)常に好奇心を働かせており、1回の旅行、一度の温泉だけでも、興味関心の対象を次々と発見しては、眼を輝かせている。

  • 気分次第で庖丁やなた、神社では仕込み杖(刀が入っている)を標準装備している恐ろしさを無視するならば、彼女は可憐の顕現であり、純粋に微笑ましい。

  • ところで、サウナの熱源ってどうなっているのだろう?

  • 十三宮 勇

    「あれはラドンRnの同位体、トロンTn元素よ。

    51.5秒ごとにトリウムThに壊変するんだけど、その時に放射線が発生する。

    どうでも良いけど、サウナってフィンランド語らしいわよ」

  •  宗教学を探究し続け、自らも若くして十三宮教会の神官を務める聖姉さんに対して、勇姉さんは政治・軍事及び理系に強い傾向がある。

  • 十三宮 巫部 仁

    「夏なのに東京は毎日雨だったけど、相模も曇っているね。

    天空が真っ白だよ」

  •  湯本温泉は、早川の谷地形に立地している。

  • 達の眼前には、緑豊かな斜面が迫っていて、夏らしく虫の鳴き声が聴こえる。

  • その先は箱根山に連なり、上のほうには霧が掛かり、やがて白く曇った一面の空模様へと至る。

  • 思えば、あまり積極的に意識した事が無かったかも知れないが…。

  • 十三宮 伊豆守 聖

    「例え観光といえども、自然の中に身を置くと申しますか、そのような経験から、私達が感じ取るべき事は多いですね」

  •  思った事を先に言われた。

  • また、思考を読み取られたようだ。

  • 聖姉さんの近くでは、如何なる悪巧みであれ、それを考える行為は避けたほうが良い。

  • 十三宮 伊豆守 聖

    「何か悪戯でも謀っているのですか?」

  •  この通り、すぐ露見する。

  • 十三宮 巫部 仁

    「…あれ?

    今、お空が急に光らなかった?」

  •  の隣に居る仁さんが、にわかに声を大きくした。

  • 十三宮 勇

    「この時刻、天候…流星群は見えないはずよ。

    あるいは…」

  • 夕食の刻限
  •  その後、夕食の刻限。

  • 須崎グラティア優和

    「選ばれし使徒様方、お待ちしておりました。

    今夜のお食事は、こちらです。

    お飲み物は一覧に御座いますが、お買い得なのはやはり、相模湾の海洋深層水かと…」

  •  この女性は、須崎すざきグラティアGratia優和ゆうな

  • 説明すると長くなるが、取り敢えず現段階では、姉さん達の盟友であり、「本業」は相模湾教会の司祭である事を述べておく。

  • 彼女が用意した色紙に、既に決まった献立が書かれている…のだが、勇姉さんはそれが気に入らないらしい。

  • 十三宮 勇

    「なんなのよ、このメニューは?

    お椀と称する液状の何か、お造りと称する鮮魚の遺体…日本語って複雑怪奇ね。

    はあ…気に喰わない。

    自分が食べる物くらい、自分で決める!

    私の運命は、私自身で切り開くのよ!」

  •  勇姉さんが中二病から脱却できない間、聖姉さんは献立の料理内容に見入っている。

  • 十三宮 伊豆守 聖

    「そういった比喩表現をも含めて、言の葉なのですよ。

    言霊には力があるゆえ、婉曲するという技法が意味を持ち得たのかも知れませんね。

    この料理は…あ、これはお姉ちゃんにも作れそうですね。

    お二人は、飲み物どれになさいますか?」

  •  ああ、そうだった。

  • 飲料を選択しなければ。

  • は…そうだな、これにしよう。

  • 「仁さんは、どれにする?」と言いながら隣を向いたら…。

  • 十三宮 巫部 仁

    「…めぐちゃんは…おねんねする…」

  •  相変わらずの隣に居る仁さんは、まだ若い体をこの世に残したまま、意識だけ夏影の彼方に旅立っていた…仁さんは(睡魔に憑依されている時以外は)礼儀正しい少女である。

  • 十三宮 勇

    「須崎さん、海洋深層水とやらも良いですけど…正直飽きて来たんで、そろそろ何か、新しい商品を開発しませんか?」

  • 須崎グラティア優和

    「そうですね…いかんせん私は、専門が海洋学なので…あ、勇様は航空工学でしたっけ?

    それでしたら…シャトルか宇宙エレベーターに積んだ水を回収して『星空焼酎』なんてのも良いかも知れませんね!」

  •  そんな話をしながらも、取り敢えず飲食しようと思って、隣の仁さんを起こそうとしたら…。

  • 十三宮 巫部 仁

    「これが桔梗ヶ原ききょうがはらで、こっちが磐梯…」

  •  の隣に常駐する仁さんは、いつの間にか起きていたが、食卓に届いた信濃の葡萄ジュースと、会津の清酒を融合し、ワインのような何かを創造していた。

  • 案外美味しそうな香りがしない事も無いが、毒味見どくみは成人後にして頂きたい。

  • 反射レーザー砲
  •  客室からは、早川の流下が聴こえる。

  • 河床に複数の段差が設けられているため、元来の河川よりも騒がしいのだが、この場所においてはさほど不快でもない。

  • 十三宮 巫部 仁

    みやこに住んでいると、あんまり気付かないけれど、虫さんの鳴き声って、時と共に変わるんだね!

    同じ町でも、朝と夕方と夜と、別の事を言っているのが聴こえる…」

  •  地獄の果てまでの隣に居る仁さんが、お茶を飲みながら景観を見聞している。

  • 多くの戦災に明け暮れる歳月を過ごして来た達にとって、こうして心身に余裕を感ずる時間を持つ事は、掛け替え無き機会なのだろう。

  • 特に人間は、心の拠り所、あるいは逃げ場と言うか、精神的価値を探し求める存在だと聖姉さんは言っていたが、確かにそうなのかも知れない。

  • 十三宮 伊豆守 聖

    「あら、覚えていてくれたのですね^^」

  •  姉さんの反応に微笑みながら、なおも曇り続ける天空を仁さんと共に見上げると…。

  • 十三宮 巫部 仁

    「…あ!

    また空が光ったよ!

    厳霊いかずちかな?」

  •  今度はの眼にも、明白に見えた。

  • だが、落雷にしては随分と静謐だ。

  • 答えは勇姉さんが導いた。

  • 十三宮 勇

    「あれは伊豆の反射炉よ。

    いや、今はもう『反射砲』とでも呼ぶべきかもね。

    伊豆には昔から、鉄鉱石を放射熱で大砲に溶錬する遺跡があるけど、世の中には変な事を思い付く人が居てね、その技術を一体化させたのよ」

  •  「反射炉」と「大砲」を、一体化?

  • それって、まさか…。

  • 十三宮 勇

    「そうよ。

    反射炉の熱で大砲を造るんじゃなくて、熱自体を大砲にするの。

    増幅させたエネルギーを、電磁波光線として放出する…まあ、レーザー兵器みたいな物ね。

    主導しているのは多分、堀越ほりごえさん達でしょう」

  •  堀越 あおい、称号は国司「駿河守するがのかみ」。

  • 駿河県令と駿河旅団長を兼任する、静岡の軍閥である。

  • 十三宮家の古くからの守護者であり、人民共和国時代には、独裁政権の宗教迫害に抵抗し、幼き姉さん達を守り抜いた。

  • 現在は、日本帝国東京政府に忠誠の態度を取り、彼らの信任を得る事で、かつて「静岡県」と呼ばれていた伊豆・駿河・遠江とおとうみの自治を担っているが、十三宮教会の意向に沿った言動も多く、実態は聖姉さんの傀儡である…などと説明したら、姉さんに怒られそうな気がしない事も無い。

  • 十三宮 伊豆守 聖

    「…怒りませんよ?」

  •  それは良かった。

  • だが、堀越駿河が「反射砲」などと言う新兵器に手を出した理由は?

  • 十三宮 勇

    「軌道上にはまだ、あの小惑星の破片が残っているわ。

    それが稀に、隕石として地球に落下する事があるの。

    それの迎撃よ。

    見た感じ、さっきのも多分そうね。

    『対小惑星隕石砲』が国連に禁止されたから、その代替よ」

  • 十三宮 幸
  •  「Anti小惑星Asteroid隕石MeteoriteCannon」とは、その名の通り、地球に飛来する小惑星や、その破片である隕石を迎え撃つために開発された機構であり、ロケット弾道ミサイル及び電流加速レールガンの技術を集大成したような代物であった。

  • しかし、当時から実用性に疑問が向けられていた上に、水素爆弾などを搭載する事で、極めて非人道的な原子核兵器への軍事転用が可能であるため、国際連盟によって縮小・廃絶の方針が決議されている。

  • なお、往時の日本人民共和国も、対小惑星隕石砲を開発していた国の一つであり、そこにはまた、アメリカ本土を核攻撃するという意図もあったようである。

  • 十三宮 勇

    「…まあそんな感じで、次世代兵器はレーザーみたいな傾向なのよ。

    それに堀越さんは、ゼロ戦を発明するような親戚の親戚らしいから、反射砲で隕石を撃墜するイデアideaを国民軍に売り込んで、それを地元に誘致するくらい、不思議じゃないわ。

    でも、ほかにも目的はあるでしょう…ねえ、聖?」

  •  平和主義者(広義)である聖姉さんは、戦争とか軍事の話に不快感を示す事が多い。

  • 当然ながら、そういう方向に話題を誘導したがる勇姉さんに対しては、尚更である。

  • 十三宮 伊豆守 聖

    「勇…私が碧様に『あれ』の裁可を授けたのは、あれが平和利用だと私に約したからです。

    剣を抜くとは、一言も伺っておりません!

    碧様は、私の前で己を偽る事など御座いませんし、魔の邪気も感じませんよ?」

  • 十三宮 勇

    「それは飽くまで、現段階の話。

    でも、将来的には?

    伊豆は聖と須崎さんの、静岡は堀越さんの、事実上の領土でしょ?

    沼津は微妙だけど、どうせ仁に分家でもさせるんじゃない?

    尾張の津島つしま長政ながまさは少し怪しいけど、まあ今は同盟国ね」

  •  聖姉さんの側近である津島長政、称号は国司「三河守みかわのかみ」。

  • 堀越駿河と同じく、十三宮家とは昔からの縁だが、十三宮の威を借り、その力を我欲に悪用せんとしたため、堀越・須崎らと対立し、堀越碧に暗殺され掛けたが、当時の聖姉さんに生命を救われ、以後は十三宮教会に協力的である。

  • 現在は、旧体制時代の「愛知県」に当たる尾張・三河を支配する軍閥だが、相変わらず堀越駿河とはあまり仲が良くないらしい。

  • 稀代のオカルティストでもあり、某所にて「呪術博物館」を運営し、その手の情報に詳しく、人脈も豊富だと言われる。

  • 全身火傷を包帯で覆い、漆黒のベールから独眼だけを現し、皇帝に対してさえ敬語を使わぬ「黒魔術師」だが、その割に言動は冷静的確で、達を助けて下さる一面も有する。

  • 十三宮 勇

    「駿河旅団は、アメリカの州兵みたいな『地方公務員』で、堀越さんの指揮で動かせる。

    その堀越さんは、聖の傀儡よ。

    そして、伊豆反射砲とか言う新兵器を掌握した今、ここ箱根は無論、小田原もすぐに陥落させられる。

    ついでに、大森や浦和にも飛び地があるしね。

    聖、私達はもう既に、東海道の地政学を左右できる勢力なのよ。

    あとは東京に入城して…」

  • 十三宮 巫部 仁

    「それってつまり、姉様が天下を…」

  • 十三宮 伊豆守 聖

    「いえいえ、お姉ちゃんに権力者なんて向いていませんよ…万一それが可能だとしても、私達が覇道に走るべき理由は?

    法王様を戴く東京国府は、天主Deusの義を体現しておられます。

    この上、無益な戦乱を引き起こしてはなりません」

  • 十三宮 勇

    「だから、将来の話だって言ってるじゃない。今は良いの。
    でもいつか、動くべき時が来るかも知れない。例えば…東京がクーデターで『誰か』に乗っ取られたりとか?
    それにね、聖。十三宮の実力に勘付いているのは、何も私だけじゃないのよ。
    確か生月島いきつきしま?平戸の辺りだったかしら…どっかの武装修道会が、私達と接触する機会を窺っているらしいわよ。
    敵か味方かの識別を含めて、ね」

  • 十三宮 伊豆守 聖

    「はあ…なぜ修道会が武装しているのですか?

    ヨハネ騎士団ならば分かりますが…」

  • 十三宮 巫部 仁

    「肥前って事は、隠れキリシタンかな?

    じゃあ、姉様と同じような受難を耐え忍んで来たのかも?」

  • 十三宮 勇

    「そうね。

    須崎さんなら知っているんじゃない?

    ま、一寸先は闇だし、色々と想定しておくべきよ。

    平和を望むならば、戦争に備えるのが歴史の教訓。

    それに、仁が生まれて母さんが死んだ時、そしてこの子と出逢った時、誓ったでしょう?

    私達は百年後、千年後の未来を見据えて、必要ならば残酷な運命にも立ち向かうって。

    聖…あなたの眼に、百年後の日本は、世界は見えているの?」

  • 十三宮 伊豆守 聖

    「あの日の祈りを忘れた事などありません。

    信じた未来は、必ず守り抜きます。

    ですが一握の不安もあります。

    果たして私達は、本当に平和を築く事ができるのか?

    そして、私達が生きたこの時代を、後世の方々はどう評価なさるのか?

    その全てを見通す事は…」

  •  せっかくの旅行が、あの反射砲とやらと、更に勇姉さんの邪推で、やや深刻な雰囲気になってしまった…と思った時、最後の審判までの隣に居る仁さんが、パンドラの箱に希望を見出したような顔で立ち上がった。

  • そして再び、を見詰めて微笑んだ。

  • 十三宮 巫部 仁

    「大丈夫だよ!

    だって私達は、ずっと一緒だもん!

    聖姉様と勇姉様、あなたと私…皆が清き明き心を胸に抱く限り、神様も私達と共に居て下さる!

    もし間違ったり、壊れてしまった時は、何度でも建て直せば良い…私はそう信じるよ!

    ね?」

  •  あの年の夏を思い出すたびに、は推し量る。

  • 彼女達の眼には、百年後の世界が映っていたのではないか…と。

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